「家訓」の世界へようこそ!

益田孝 三井物産をつくった男

 「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく遠大な希望を抱かれることを望む」

(益田孝名言より)

 

 

益田 孝(ますだ たかし)

生誕:嘉永元年10月17日(1848年11月12日)

死没: 昭和13年(1938年)12月28日

 

草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた実業家。明治維新後世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。男爵。三井合名理事長。

 

佐渡出身。函館、江戸で少年期を送り、ヘボン塾などで英語を学ぶ。幕府の通訳となり、1863年に使節団の一員として渡欧。大蔵省入り造幣権頭となるが、井上馨とともに退官。世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、1876年に29歳で初代社長となった。わずか17人のベンチャー企業としての出発であり三井は資本を出さず、債務保証というスタートだった。中上川彦次郎没後は専務理事として三井の経営路線を商業主義的方向に修正した。1909年には三井合名を設立し理事長として財閥体制を確立した。

  

ミサイルからブラジャーまで?なんでもそろう総合商社

資源の乏しい国、日本。しかし様々なハンデを乗り越えた日本は、世界有数の経済大国としての地位を獲得しました。益田が育った当時の日本は長い鎖国時代をへて、西欧諸国との競争という面では何周も遅れた状況でした。知識も足りないし、なにより金がない。そんなナイナイ尽くしの日本を大きくしていったものは、「貿易」の力でした。

 

ビジネスをシンプルにいえば、安く仕入れて高く売ること、貿易とは、この仕組みを国家間で行うことです。明治初期、日本は鉄道やレンガなど、あらゆる西欧の産物を買いこみました。もちろん購入するためにはお金が必要です。出ていくばかりでどんどん貧乏になっていく日本でしたが、生糸など競争力のある輸出品の目途もたち、徐々に貿易が成立していきます。

 

「貿易」とは、安く買って高く売ることで儲けるビジネスです。そして、ときにお金は社会の血液にたとえられます。益田が起業した三井物産は、総合商社でした。実は、この総合商社のビジネスは日本独特のものと言われています。人々が欲しがるものを欲しがる人へ、ミサイルからブラジャーまで?世界中のあらゆるものを、買って売って売りまくる。わずか18名で出発した会社は、総資産11兆円、売上高6兆円の企業へと成長したのでした。

 

 

「人の三井」をつくった益田孝

 

 

 

三井物産株式会社は、三井グループの大手総合商社。三井不動産、三井銀行(現:三井住友銀行)と並ぶ『三井新御三家』の一つ。鉄鉱石、原油の生産権益量は商社の中でも群を抜いている。通称は物産

 

 

売上高 :6兆8850億33百万円(連結)

     3兆3772億16百万円(単体)

 

総資産   :11兆8062億92百万円

従業員数  :45,624名

 

1874年(明治7年)3月 - 井上馨、益田孝らとともに先収会社を設立。

1876年(明治9年)7月 - 井上馨の政界復帰に伴い先収会社は解散し、三井組は先収会社の人員・事業を引き継いで三井物産会社を設立。初代社長は益田孝で、創立時の社員数は18名(益田を含む)

 

 

日本初の総合商社。歴史上、まだ「商事会社」という日本語すら無かった明治初期に、あらゆる産品の貿易を手掛け、世界に類を見ない民間企業として発展し、後に「総合商社」と称される企業形態の原型を造った。

 

明治時代の日本企業による海外進出は、まず三井物産が進出し、日本郵船が航路を開き、横浜正金銀行(現:三菱UFJ銀行)が支店を出すと言われ、日本の外交官から「公館(大使館・領事館)無けれど物産あり」と言われるほど、官民を問わず、日本の組織としていち早く、世界の辺境地域へ進出していた。

 

戦後の財閥解体により一時解散を余儀なくされるが、1959年(昭和34年)2月に旧三井物産系商社が大合同し、現在の三井物産が発足。大合同により当時最大の総合商社の地位を取り戻すが、三井グループを挙げて投資したイラン・ジャパン石油化学(IJPC)がイラン革命及びイラン・イラク戦争により暗礁に乗り上げ、三菱商事にその座を譲る。

 

日本をけん引する「御三家」

多くの人材を輩出しており、戦前の大日本麦酒(現:アサヒビール、サッポロビール)、大正海上火災保険(現:三井住友海上火災保険)、東レなどの三井グループの中核企業には、旧三井物産出身者の設立した企業が少なくないことから、「組織の三菱」に対し「人の三井」と言われる。

 

トヨタグループの創設者である豊田佐吉の自動織機製造の資金・海外展開面で支援したことから、同グループとの繋がりも深く、現在もカナダや中南米の一部の国におけるトヨタの販売会社(ディーラー)に出資する等の関係を継続している。セブン&アイ・ホールディングスと親密で物流やショッピングセンターの開発などの面で提携している。

 

 

 敗者の品格 負け組の明治維新

 

 

海の向こうを見詰め続けた少年

益田孝が生まれたのは、幕末の1848(嘉永元年)。ペリーの黒船艦隊が浦賀に入港する5年前のことでした。幼名は徳之進。場所は佐渡です。数え年8歳まで佐渡で過ごしました。その後、1855(安政2)年に幕府が函館に奉行所を開くと、父親の鷹之助は幕臣として赴任、家族も移住します。

 

さらにその4年後、鷹之助は、江戸詰の外国奉行支配定役を拝命し、家族と共に江戸に入りました。外国奉行とは今でいう外務省。徳之進は外国語修習見習生となりました。

 

佐渡、函館、そして江戸。親子は、当時の日本で最も外国に近い場所で活動を続けていたことになります。それはおそらく、後の益田孝という人のキャラクターを決める大きな要素となったことでしょう。実際、少年の目はいつも遠く海外に向けられていました。

 

日本の貿易総額の2割を担う

1862年、徳之進は外国語試験に合格し14歳で幕府の通訳官となります。わずか14歳で!その後は、麻布善福寺の米国領事館勤務を命ぜられ、初代公使タウンゼント・ハリスに接しました。また翌年には遣仏使節、池田筑後守の随員として渡欧、ヨーロッパの近代文明に間近に触れるという機会を持ちました。

 

 

この頃、徳之進はさらに英語の学習を進めるために塾に通います。それが1863年に開校した明治学院の前身「ヘボン塾」でした。明治維新後は横浜の貿易商館に勤務、その後、井上馨と知り合い、請われて大蔵省に入省するものの、間もなく井上の下野に従って井上が設立した「先収会社」の副社長に就任します。そしてこの「先収会社」が、5年後の1876年に「三井物産」となり、益田は初代社長に就任しました。まだ29歳の若さです。

 

日本経済新聞の前身である「中外物価新報」を創刊するのもこの頃。国内外の物価の変動を日本内地の商人に知らせることが目的でした。この新聞がやがて「中外商業新報」となり、戦後は「日本経済新聞」と名前を変えて急速に発行部数を伸ばします。

 

さらに益田は、1888年に工部省鉱山寮からの三池炭坑の払い下げの獲得に成功、「三池炭坑社」を設立。やがて「三井鉱山」と名前を変えるこの会社は、産出する石炭を上海や香港、シンガポールなどに運び、三井物産の飛躍的な成長の原動力になっていきます。三井物産は、当時の日本の主要な輸出品である石炭、米、綿花、生糸など300種類の製品を扱い、明治40年代には、日本の貿易総額のほぼ2割を占めるといわれました。益田孝の実業家としての絶頂期です。

 

「永遠の利」を追い続けた人

「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれることを望む」

――益田孝本人の言葉です。

意外に聞こえるかもしれません。益田孝の歩みは、ただ「眼前の利」を追ったようにも見えるからです。しかし、そうではありませんでした。

 

思い出されるのは、益田が一流の経済人であると同時に茶人であり、日本古美術の熱心な蒐集家でもあったということです。それは決して、成功した実業家の晩年の手すさびといったものではなく、経営者として第一線で活躍している時代から愉しまれていたものでした。

 

明治の開国後、西洋文明の導入に熱心だった日本は、反面、伝統的な美術を軽んじました。安易に見捨てられ、海外に流出していこうとする日本の仏教美術などの多くを、私財を投じて購入し、あるいは茶の湯の伝統を愛し、茶室※の建立にも熱心に取り組んだのが益田です。

 

太平洋戦争の末期、日本各地で空襲をほしいままにした米軍が、小田原の早雲台益田邸を決して空襲しなかったのは、そこに集められている美術品の価値を知っていたからだともいわれます。

 

本当のコスモポリタンは、単なる海外崇拝者ではなく、愛国者であるとはよくいわれることですが、益田孝はその言葉の正しい意味で、コスモポリタンでした。ヘボン塾生として早くから英語と欧米の文化に親しんだ益田孝。実業の世界にあって「永遠の利」を求め、また、自国の文化への愛情を豊かに持ち続けることができたのは、少年の頃に出会ったヘボン夫妻の教えが生きていたからではなかったでしょうか。

 

 

1938(昭和13)年に益田は91歳で他界しました。しかしその「永遠の利」「遠大な希望」という言葉は、今も人々に何かを語りかける力を秘めています。

 

 

幕閣たちの敗者の品格 

三井物産が設立されてからは、渋沢栄一と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の矢野二郎(商法講習所所長)を支援するなど、一般でいえば負け組となっていた旧幕閣の多くは、新政府での宮使いをよしとせず、市井でその才能を昇華させました。西郷や大久保などに代表される維新十傑には、こうした市井の経済人は名前を連ねることはありません。しかし、国を豊かにしたのは、官職だけにあらず、真の豊かさをもたらしたものは、経済によって国民の生活を向上させた多くの経済人なのではないでしょうか?

 

渋沢栄一や、益田孝など、旧幕府を支えた才能のある若者たちが、芽生えたばかりの日本の経済を担ったことは日本の幸福でした。知識も教養もある品格ある敗者たちは、貪欲に西欧の文物をまなび、いつしか西欧をこえるビジネス大国日本を育て上げたのでした。 三井物産の設立に関わった益田孝は66歳(大正2年)のとき、『老いの身に余る重荷をおろしては、また、若返る心地こそすれ』と言って退職しました。

 

退職後は、趣味の茶道の道を究め、数寄者としてもその名をとどろかせます。退任後は小田原に隠棲。茶人として鈍翁と号し、茶人、茶器の美術品収集家として名を残しています。90歳という長寿でもありました。「千利休以来の大茶人」といわれるなど数奇者として名高く、見事な人生を歩んだ益田孝。明治維新という革命において、本当に勝ったのは、薩長だったのか、あるいは徳川幕府だったのか? 益田、そして「論語と算盤」で知られる渋沢栄一の見事な半生と比べれば、権力の中枢で政局に明け暮れた薩長の男たちが貧弱に見えてきます。

 

 

 

ピラミッドをみた侍たち

 

 

木内マジックの正体

 

 「勝って不幸になる人間はいないのよ。勝って喜びを知れば、人間は我慢ができるようになる。」

 (木内監督 名言より)

  

 

 

 

  

木内 幸男(きうち ゆきお、1931年7月12日 - 2020年11月24日)は、茨城県土浦市出身の高校野球指導者。茨城県立取手第二高等学校・常総学院高等学校の野球部監督を歴任したことで知られる。

 

母校の茨城・土浦一高監督を1956年まで務めて取手二高へ。84年夏の決勝で桑田真澄、清原和博を擁した大阪・PL学園高に打ち勝ち、茨城県勢初の甲子園大会優勝に導いた。常総学院高に移り、2001年に茨城県勢初の春の優勝。03年夏は決勝でダルビッシュ有の宮城・東北高を破り、同年勇退。07年に監督に復帰し80歳の11年まで務めた。

 

選手一人一人を観察し、大胆な選手起用や戦法で「木内マジック」と呼ばれた。

 

高校野球の取手二や常総学院(ともに茨城)で長く監督を務め、春夏の甲子園で優勝経験のある木内幸男(きうち・ゆきお)さんが令和2年11月24日、死去した。89歳だった

 

木内マジックとは?

茨城県の取手第二高校、そして常総学院高校で、春の選抜大会で1度、夏の選手権大会で2度の全国制覇を成し遂げ、甲子園通算40勝を上げている木内ですが、茨城弁まじりの独特の語り口も人気で、なんと80歳まで監督を続けました。

 

精神論や根性論が多かった高校野球界において、木内は戦術を重視し、手堅い犠牲バントよりも機動力や奇襲策を用いて、桑田真澄と清原和博のKKコンビを擁するPL学園を、夏の選手権大会だけでなく国体でも下すなど、高校野球界に旋風を巻き起こしました。

 

今回は高校野球会の名将である木内幸男監督の凄さが分かる名言や語録を紐解き、木内マジックの伝説エピソードから指導方法にまで迫ります。

 

以前、木内監督はこんなことを言っていました。 

「マジックなんてねぇんだよ。でも、誰よりもグラウンドにいて、誰よりも選手のことを見ている。それだけは言えるね」

実際、木内監督は、選手たちの行動をつぶさに観察し、選手起用に生かしました。観察する対象は選手本人だけでなく、親や兄弟など育った環境にまで及びます。土壇場の場面で力の出せる子なのか?あるいは、選手としてでなく、裏方として力を発揮できる子なのか?駆け引きをしない木内節のなかには、ギョッとするものも多数あります。その1つが「ダメな奴にはダメといってやるのが親切」というものがあります。

 

頑張ればできる!!なんて甘い言葉は木内監督は吐きません。残酷なようでも、ダメな奴はダメ。でも、ダメのなかで光るものを見つけてあげるのも、教育者としての役目です。実際、強豪校の選手であっても、プロにいくもの、あるいは野球で飯が食えるのは数えるほどしかありません。

 

元選手のコメントには、 

 「全体練習が短くて(平日は約3時間)監督のせっかちな性格もある。どうすれば、効率よく練習できるか。特に練習の合間を短くすることは意識させられてきました」

 「例えばノックと打撃練習の合間。ネットを張ったり、球を用意したり、投手の球を受ける捕手の準備をしたり、いろんな仕事がある。すると自然に『どこが足りないか』を自分たちで探して、率先して動くようになるんです」

 

 「仕事は自分で探すもの」。野球を辞めた後でも、今に生きる考え方と述べられています。

 

 自身、監督生活2回目の全国制覇となった2003年の夏の大会の決勝戦の前には、

 「ダルビッシュは絶対に日本一の投手になっからな。お前たち、ダルビッシュを打って勝ったら将来、子供ができたときに自慢できっぞ。お父さんはあのダルビッシュを打ったんだぞってな」

と激励し、緊張でガチガチになっていた子供たちのリラックスをさせ、実際、ダルビッシュを打ち崩し優勝されました。

 

木内マジックには、魔法ではなく、作りこまれた「種」がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ負けたのか?

17歳の桑田は茨城にむかった・・・

 

 

(参照:日刊スポーツ)

https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201801300000555.html

 

 女神は、PL学園にほほえむかに見えた。84年夏の甲子園。取手二との決勝で、敵将・木内幸男の知略がPL学園の夏連覇を阻んだ。9回、先頭の清水哲が同点ソロ。右手中指の痛みに苦しんでいたエース桑田(現スポーツ報知評論家)を救ったかに見えた。そこで木内は先発のエース石田文樹を右翼に下げ、左腕の柏葉勝己をマウンドへ。4番・清原和博を迎えたところで再びエースを登板させる継投で、流れを断った。取手二の主軸で現在は新日鉄住金鹿島監督・中島彰一は、18歳の夏を振り返る。

 

 中島 勝因はやっぱり、9回のワンポイント継投だと思います。一瞬にして流れを止めた。

 

 采配だけではなかった。ベンチに戻ったナインを、木内は「せっかく甲子園で決勝戦ってんだから、1イニングでも長くやっぺよ」と励ました。

 

 中島 何で同点にされるんだと怒られると思っていたら、真逆でした。普段はよく叱られた。でも甲子園に来たら、好きなようにやらせてくれた。監督のそれも人心掌握術でした。

 

 思いもかけない木内の激励で気力を取り戻した取手二が延長10回、桑田をとらえた。160球目を中島が決勝3ランに。4-8でPL学園は敗れた。被安打12、失点8は桑田の甲子園ワースト記録だ。

 

 桑田 練習試合では大差をつけたチームに、なぜ負けたんだろうとずっと考えていました。

 

 2カ月前の練習試合では13-0と圧勝していた。「なぜ」を消化するため、桑田は秋の国体後、取手二に足を運んだ。PL学園は寮生活のため、よほどの理由がない限り外出は認められない。異例の行動だった。

 

 桑田 取手二の野球は、僕がそれまで知っている野球観とは全く違いました。そこで彼らはどういう環境で、どんな練習をしているのか、自分の目で確かめたいと思いました。

 

 全寮制のPL学園とはかけ離れた世界が取手二にはあった。当時の取手二ナインは、男女交際OKで、彼女からもらったお守りを首から下げる選手もいた。監督木内の繰り出すアイデアも規格外だ。甲子園大会中のこと。初戦・箕島戦の前には勝った場合、ご褒美として、海に連れていくことを約束。実際に海水浴場に繰り出したりしていた。

 

 高校日本代表で親交を深めた取手二の選手は、桑田を快く迎え入れる。

 

 中島 普通の県立校だったんで、桑田君はびっくりしていました。

 

 ハード面だけを見れば、野球部専用のグラウンドを持つPL学園を上回るものは見つからなかった。ただ石田や主将・吉田剛らの家も行き来し、対戦だけでは分からなかったものを桑田は見つける。

 

 桑田 目指しているゴールが同じでも、そこに行く方法論はいくつもある。寡黙に、苦痛に耐えて笑顔を見せない。そういう昔ながらの野球観だけじゃないんだ。

 

 取手二の「のびのび野球」からは、失敗を恐れずプレーし、笑顔で野球を楽しむというスポーツの原点を再確認することができた。野球に取り組む際の多様性を肌で感じることができた。桑田は、その後の野球人生でも生きる大きな学びを得た。

 

 

その後の桑田真澄とPL学園

一見、豪快なようでいて、1つ1つのプレーを通じて、王者PL学園を追い詰めた取手二校。それまでの高校野球の常識を覆す快進撃は、のちの野球界を大きく変えることとなります。

 

桑田真澄本人は、当時のことを

「実際に取手二高は『のびのび野球』で優勝しました。これは当時の常識を覆すことでしたから、自分なりに勉強しました」 

と語り、その結果、桑田は1つの考えにたどり着きました。

 

「スポーツは自分で考えて行動することも、監督コーチの指示もある程度必要で、これをうまくミックスしていくというのが大事」 

そこで、PL学園の練習環境を変えていく取り組みを始めます。名監督として有名な中村監督(当時)に直談判し、練習中に音楽を流す、練習時間を短くする、など。ノースロー調整も提案します。「PL学園の伝統」を、監督とコミュニケーションを取りながら改革していきました。

 

 

その後、PL学園は桑田、清原を中心に快進撃をみせ、負けなしで、翌年の夏の甲子園を制覇します。また後輩にあたる立浪や片岡、野村を擁した年にも春夏制覇を達成します。 木内監督がまいたノビノビ野球の種は、多くの野球選手を生んだのでした。

 

 

 

 

「一球入魂」

 

 

 

高校野球で生まれたの名言

元池田高校野球部監督、蔦文也氏の言葉に、「鍛錬千日之行 勝負一瞬之行」というものがあります。 

鍛錬は千日の行。勝負は、一瞬の行。一瞬の勝負のために、球児は親元を離れ、千日の苦しい練習をするのです・・・

  

野球の本場、アメリカでも高校での野球大会は行われていますが、甲子園とは全然違います。

何●年ぶりの出場とか、故郷を背負ってとか、たかが野球で大騒ぎです。

 

たかが野球、されど野球

桑田、清原を擁して全国制覇をしたPL学園の中村監督は、こんなことをいっています。

「野球の試合の中には、人生のすべての要素が詰まっている」

 

「教え」「育む」ものが教育。甲子園をめざす球児たちと、それを見守るすべての人にむけ甲子園をわかした名監督たちの至極のことばを紹介させていただきます

 

■山下監督 (星陵高校)

心が変われば行動が変わる

行動が変われば習慣が変わる

習慣が変われば人格が変わる

人格が変われば運命が変わる

 

■渡邊監督 (横浜高校)

・甲子園には魔物なんて棲んでいない。もしも棲んでいるとしたら、お前たちの心の中にいる

・登った山は必ず降りてこなければならない。そしてまた登りはじめる

 

■上田監督 (慶応義塾)

凡人は習慣で一日を送る。天才はその一日が生涯である。

 

■中村監督 (PL学園)

野球の試合の中には、人生のすべての要素が詰まっている

 

■蔦監督 (池田高校)

鍛錬千日之行。勝負一瞬之行。

 

■山下監督 (星陵高校)

花よりも、花を咲かせる土になれ

 

さいごに、茨城といえば取手二高、常総学院で全国制覇なしとげた木内監督の名言を紹介させていただきます

「人を作ってから勝つよりも、勝ってから人を作る方が簡単なんだ」

 

甲子園は現代の「神事」

  

 

高校野球とは、青春最大の「ハレ」の日 

「ハレ」と「ケ」とは、民俗学者であった柳田国男によって見出された日本人の伝統的な価値観です。「ハレ」とは正月や、お祭りなどの非日常、「ケ」とは普段の日常を現わしています。

 

部活動の花形といえば、野球にサッカー。なかでも「甲子園」で行われる高校野球は、日本独自の文化です。そして、日本人は高校野球が大好きです。家訓二スト調べでは、全国の床屋さんの会話の8割は高校野球の話題で占められています。郷土を背負い甲子園に集う球児は、聖地巡礼に似ています。勝負のために一身に捧げるプレイが感動をよび、子ども達が成長していく姿がまた新たな感動を巻き起こします。高校野球は青春最大の「ハレ」の日です。そして、甲子園は現代の「神事」なのです。

 

甲子園は「神事」

あまり意識されなませんが、国技ともいわれる「相撲」は、神社神道として、その地域の五穀豊穣・無病息災などを祈願祈念した神事です。その歴史は古く、古墳から出土する埴輪には、力士を模したものがあるほどです。

 

神事(しんじ、かみごと)とは、神に関するまつりごと、儀式。神前での祈りや神に伺いを立てる行為のことをさします。神道における神事は「信仰そのもの」であり、行為のすべてが神事であるといっても過言ではありません。古神道における自然物の神体や祠・塚や道祖神・地蔵などに手を合わせたり、感謝したり、お供え物を奉げれば、それら全てが「かんなぎ・神なぎ」であり、そのほかの古神道などが由来の庶民的な行事である祭や禊(みそぎ)・祓い(はらい)なども神事です。また、「詣で」の行い全てが神事であり、禊や祓いであるとされ、その身支度や往来や宿泊もそういった意味では神事になるともいえそうです。

 

日本の神々

街中の赤い鳥居、田んぼの中のこんもりした森、山の頂の小さな社、全国至るところに神社はあります。神社のある風景、それは映画やドラマでもおなじみの、ごく身近な、しかし日本にしか見られない独特の風景です。このような神社を中心とした、日本の神々への信仰が神道です。

 

神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます。遠い昔、私たちの祖先は、稲作をはじめとした農耕や漁撈などを通じて、自然との関わりの中で生活を営んできました。自然の力は、人間に恵みを与える一方、猛威もふるいます。人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知しました。また、自然の中で連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉えたのです。そして、清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとしてまつりました。やがて、まつりの場所には建物が建てられ、神社が誕生しました。

 

神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々、国土開拓の神々などで、その数の多さから八百万の神々といわれます。さらに、国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られました。奈良時代にできた『古事記』『日本書紀』には、多くの神々の系譜や物語が収められています。

 

神道の信仰が形となったものが祭りです。祭りは、稲作を中心に暮らしを営んできた日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出し、たくさんの人で賑わいます。神道の祭りを行うのは、神社だけではありません。皇室では、天皇陛下が国家・国民の安寧と世界の平和を祈るお祭りを行われています。また、家庭では、神棚の前で家の安全、家族の無事を祈ります。これも小さな祭りといえます。

 

神道のもつ理念には、古代から培われてきた日本人の叡智や価値観が生きています。それは、鎮守の森に代表される自然を守り、自然と人間とがともに生きてゆくこと、祭りを通じて地域社会の和を保ち、一体感を高めてゆくこと、子孫の繁栄を願い、家庭から地域、さらには皇室をいただく日本という国の限りない発展を祈ることなどです。このような理念が、神々への信仰と一体となって神道が形づくられています。また、神道には、神々をまつる環境として、清浄を尊ぶという特徴があります。神社は常に清らかさが保たれ、祭りに参加する人たちは必ず心身を清めます。これら神道の理念や特徴は、日本人の生き方に深く影響しているといえるでしょう。

 

神道は、日本の民族宗教といわれ、日本人の暮らしにとけ込んでいます。たとえば、初詣や厄除、初宮参りや七五三、結婚式や地鎮祭など、神道の行事は日常生活のいたるところに見かけることができます。しかし、一般の日本人は、あまりにも身近なせいか、神道について知らないことが多いのも事実でしょう。

(参照:神社本庁HPより)

 

甲子園は「祭り」

祭りとは、信仰が形となったもので、稲作を中心に暮らしを営んできた日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。そして祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出し、たくさんの人で賑わいます。

 

 

日本人が大好きな「夏の甲子園」。スタンドはチームを慕うたくさんの人々が押し寄せ席を埋め尽くします。球道をつかさどる球児たちは、郷土の代表として聖地・甲子園に集い、日々の練習の成果を、「感謝」とともにプレイを通じて神さまに奉納します。「夏の甲子園」は神事であり、そして「祭」です。

  

大地にねざしてきた私たちの暮らし。しかし急速な都市化の結果、大地をはなれ、いわんや故郷さえすてた日常がそこにはあります。「甲子園」で神事をささげる球児たちは、土地に宿る神、そして、故郷をすてた私たちに「祭り」を思いださせてくれます。

  

あなたが住む街でも、バイパス道路を走ると、シマムラ、ユニクロ、セブンイレブン・・・全国どこにでもあるチェーン店が続いていないでしょうか?もはや、郷土や、地域なんて言葉は死語になっていても、甲子園に集う球児はまぎれもなく「郷土」の誉れです。 

 

人をつくる高校野球。

・・・っをゴロゴロしながら見ている家訓二スト(*_*)

日本に高校野球がある限り、未来は明るい! そして、頑張るのは球児じゃなくて、僕の方なのかな(^_^;)

 

 

日本人の原風景「夏の甲子園」

 

 

 

令和2年、世界中で蔓延する新型コロナウィルの影響で、全国高等学校野球選手権大会が中止となりました。

 

夏の甲子園は、100年をこえる歴史があり、日本の夏の風物詩にもなっています。高校球児の紡ぎだす物語は日本人の心を捉えて離しません。球場には数万人の観客が押し寄せ、テレビの全国中継も人気です。母校が出場したとなれば、町をあげての大騒ぎ。

 

夏の甲子園は、ベースボールの枠をこえ、日本を代表する「文化」に成長しました。しかし、近年では、真夏の真っただ中に、連戦に連戦を重ねる過密日程に、球児の選手寿命を心配する声があがり、実際、ひじの靭帯再建手術(通称“トミー・ジョン手術”)を受ける高校生の数も急増しています。

 

選手寿命がつきたとしても、それでも球児は甲子園をめざす。

聖地になった「甲子園」の魅力を改めて検証します。

 

夏の甲子園とは

全国高等学校野球選手権大会は、朝日新聞社と日本高等学校野球連盟(高野連)が兵庫県西宮市・阪神甲子園球場にて毎年8月に主催している日本の高校野球大会。大会旗および優勝旗の色は赤。優勝旗は深紅色のため「深紅の大優勝旗」と呼ばれている 

  

1915年、第1回全国中等学校優勝野球大会が豊中グラウンドで行われた。豊中グラウンドは1913年(大正2年)に現在の阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が建設・設置したものであるが、規模の小ささなどが問題となっていた。

この当時は遠征費用をすべて出場校が負担していたこともあり、会期を短縮して出場校の費用を軽減することが考慮された結果、複数のグラウンドを設置することも求められた。これに鳴尾運動場を所有していた阪神電気鉄道が応え、場内に野球用グラウンドを2面設置することで1917年の第3回大会から会場が移された。

 

しかし、学生野球が人気になるにつれ観客が増加し、1923年の第9回大会では溢れた観客がグラウンドになだれ込む事件が発生する。さらにグラウンドの水はけの悪さもあって、主催者の大阪朝日新聞は、本格的な野球場の建設を提案した。

 

鳴尾球場を所有していた阪神電鉄は、鳴尾村に流れていた申川と枝川(武庫川の支流)を廃川としたあとにできた埋め立て地に大規模な沿線開発を行っており、当時阪神電鉄の専務だった三崎省三の構想もあり、旧枝川・旧申川の分流点あたりに野球場を建設する計画を立てていたことから、利害が一致。ニューヨーク・ジャイアンツのホームグラウンドのポロ・グラウンズを参考に球場を大会に間に合わせるため突貫工事で建設され、1924年8月1日に球場が完成。この年が十干十二支の最初の年である甲子年(きのえねのとし)という60年に1度の縁起のいい年であることから、甲子園大運動場と命名された。

 

同年第10回大会から使用を開始。1946年の第28回大会はGHQに甲子園を接収されていたため、阪急西宮球場で行われた。さらに出場校を大幅に増やした第40回記念大会の1958年と第45回記念大会の1963年も甲子園球場と西宮球場を併用して使用するものの、不公平として評判がよくなかったため(甲子園で試合できず敗退した学校からは苦情があった)、これ以降は一貫して甲子園で行われるようになった。

 

当大会を主目的に建設された甲子園球場は半世紀あまりの大会を優先的に行っているため、当球場は高校野球の聖地として高校球児たちの憧れの舞台となっている。「甲子園」という言葉自体が高校野球全国大会の代名詞となっており、「夏の甲子園」という通称としても扱われているように当大会に大きく貢献していることから、2010年シーズンから大会の特別協力として扱われている。

 

なお、上述のような経緯、そして開設当時は阪神電鉄も電車運賃と沿線開発によって収益を上げられたことにより、高校野球の開催について甲子園球場の使用料を請求しておらず、これは開設から90年以上を経た2015年時点でもそのままとなっている

 

外国との違い 

ここまでは、日米の高校スポーツの組織構造や運営形態といった「目に見える違い」について述べてきましたが、日米のアマチュアスポーツの違いを生み出す「目に見えない違い」についても言及してみようと思います。「スポーツをする目的」の違いについてです。

  

今年1月、カリフォルニア州の高校女子バスケットボールの大会で、1612と大勝しすぎた学校の監督に出場停止処分が課されるという珍しい事件がありました。大差がついても相手チームにプレッシャーをかけるオールコートプレスを使い続けた行為が「スポーツマンらしからぬ行為(Unsportsmanlike conduct)」に当たるとして、2試合の出場停止処分が下されたのです。

  

一方、日本では、「手を抜かずに最後までやるのが礼儀」という価値観がある程度共有されているように感じます。負けていても、途中から二軍相手で適当にあしらわれるよりは、一軍にコテンパンに負ける方が美徳とされるような文化があります。

  

これに対して、米国では、事実上勝負がついたら後は適当に力を抜いて相手の顔を立ててあげるのが良しとされる文化があります。私は今でも日本人でフラッグフットボールのチームを作り、地元リーグに参戦してアメリカ人相手に試合をしているのですが、大勝しすぎると審判から「適当に手を抜いて相手にも楽しませてやれ」と注意されます。

  

この違いは、恐らくスポーツをする目的の違いにあるのではないかと感じます。スポーツが教育の手段として根付いている日本では、「ルールを守ること」が美徳とされ、「最後まで手を抜かずに相手をする」「胸を借りて大敗する」という形式美が重視されているように思います。

 

一方、米国ではスポーツは「競争」と「娯楽」を目的とするため、「競い合って楽しむこと」が大事とされるように感じます。そのため、前述した徹底した「フェアネスの精神」とともに、「楽しめる環境」の整備が重視されています。そのように位置づけの違いを整理すると、トーナメント制を採用しないことや、階層制を導入したり登録選手枠に上限を設ける真意も見えてくるように思うのです。

 

イギリスの記者がみた「KOSHIEN」

記事では、甲子園球場について「誰もが認める日本野球の聖地」と位置づけている。その聖地で開催される夏の甲子園は「国営放送NHKが全イニングを生中継し、優勝チームは翌日の新聞一面を飾ることが確実。試合終了後、少なくとも2時間は、日本全体がこのアマスポーツの話題で持ちきりになる」と、日本の国民的行事であるとした。日本国民にとってどれほど重要な大会かを示す上で、春夏の大会会期中は「甲子園を本拠地とするプロチーム阪神タイガースを追い出すほど」だと伝えている。

 

 世界に誇る王貞治氏やマーリンズのイチロー外野手も甲子園出場経験を持つことにも触れ、「大会が始まった1915年以来、甲子園でユニフォームを着てプレーすることは全高校球児の大志」だと紹介。甲子園の人気を支えるのは伝統と地元愛だという専門家の見解も伝えている。同時に、丸刈りと白を基調としたユニフォーム姿の球児が記者の目には異様に映ったのだろうか、選手たちの姿は「自己犠牲と勤勉、団体行動に見る伝統的な価値を体現した時代を想起させる」とした。

 

「甲子園に出場し、優勝することは、財を成すより重要視されている」

 

 また栄光の影で「コーチや年長者から年少の部員がいじめられたり体罰を受けるニュースは少なくない」と指摘。「甲子園までの長い予選を勝ち抜くために、10代の子供たちに堪えきれない心身の負担を強いる、という批判もある」ことも紹介し、現在の在り方に肯定的な意見だけではない事実にも触れている。

 

 記事内でインタビューに答えているのは、『和をもって日本となす』『イチロー革命』他、日本野球について多数の著作を発表した作家ロバート・ホワイティング氏だ。ホワイティング氏の言葉を借りると、「甲子園に出場し、優勝することは、財を成すより重要視されている。生涯一度のスリルと誇りはかけがえのないもの」「よくなるためには苦労が必要、苦労するほどためになるという哲学がある」「甲子園優勝を重要視するあまり、プロ入りのチャンスをふいにする投手もいる」。まだまだ昔ながらの高校野球のイメージが強いようだ。

 

 今夏の甲子園では継投策が多く見られたり、エースに連投を強いるチームも減った。笑顔でプレーする選手が多く見られるなど、一昔前の高校野球とは少し違った在り方が見えた。だが、まだそういった取り組みの効果は、海外の記者やメディアが長らく持つ「高校野球像」を変える大きさには至っていないようだ。

 

 

 

 

戦陣訓とシベリア抑留

 

「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」

(戦陣訓より)

 

戦陣訓とは?

戦陣での訓戒のこと。日本では室町時代や戦国時代に多く発表され、家訓などともに読まれた

 

また、特に194118日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号)を指す。陸訓一号も軍人としてとるべき行動規範を示した文書で、このなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、玉砕や自決など軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。 

 

議論が続く「戦陣訓」の見解

戦陣訓については、大東亜戦争において、降伏をよしとせず、多くの日本兵を追い詰めた元凶として語られることが多い訓戒です。文字通り読めば、「生きたまま捕虜になって辱めを受け、死んだのちにも罪過の汚名を残すくらいなら捕虜になる前に進んで死ね」という解釈が多いのが現状です。

 

戦陣訓の該当部分の現代口語訳は、

 

第八 名を惜しむ

名を重んじ武人としての恥ずかしい行動をしない者は強い。常に戦陣における自分の行動が、直ちに郷里の人々や、家族親戚たちの名誉に影響することを考え、一層奮い立って、これらの人々の希望に添うように努力せねばならない。

死ぬべき命を生きて、捕虜となるような恥ずかしいことをせず、死んで汚らわしい罪の名を後の世に残すようなことがあってはならない。

 

となっており、「自決しろ」とはどこにも書かれていません。「死ぬべき命」は第七の死生観に書かれてあります。

 

第七 死生観

必死の場合においても、厳として揺るがぬわれわれの行動のもととなるものは、身命をささげて君国は尽くすという気高い軍人精神である。

生死のいかんを顧みず、一心不乱に、自分の任務を完全に成し遂げるために突き進まねばならない。ひとたび死所を得たなれば、ある限りの体力精神力をささげ切って、落ち着いて死を鴻毛の軽きに比し、永遠に忠勇義烈の士として名を残すことのできるのを、武人としての最大の喜びとせねばならない。

 

つまり、「命がけで任務を遂行しなさい」と説いてるわけ。第八の「死ぬべき命」は、戦場で敵と戦って死ぬべき命という意味。だから「自決しろ」と説いてるわけではなく、命がけで任務を遂行するのであれば敵と戦って武人として死になさいという意味になるのではないでしょうか?

  

「生きたまま捕虜になって辱めを受け、死んだのちにも罪過の汚名を残すくらいなら捕虜になる前に進んで死ね」

という解釈には絶対にならないのではないでしょうか?

 

 

 

 

戦後70年以上がたち、戦中戦後を生きた世代が少なくなってきています。肌感覚として、空気と平和はタダという私たち世代にとって、新しい日本の未来を夢見て、託されたたくさんの想いを忘れてはいけません。

 

 

明らかすぎる国際法違反 

シベリア抑留とは

 

 

酷すぎるソ連のふるまい

第二次世界大戦で日本の敗戦が色濃く見えてきた末期の194589日に、ソ連と日本の間で交わされていた「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、ソ連は宣戦布告をしました。

 

ヤルタ会談参加国の内、米英共に日本への戦闘態勢を解除しましたが、ソ連は違いました。92日の降伏文書調印式の後にも、ソ連は北方領土の侵略を続けました。それどころか、北海道もソ連の領地にと要求してきたのです。

この要求はトルーマン大統領によって拒否されました。

 

1週間しか参戦していないソ連でしたが、戦後処理では、日本を東西にわけて統治する案など、無理難題をふっかけますが、いずれもアメリカを中心にした連合軍に却下されます。結局、現在も不法占拠状態が続いている北方4島の獲得と、50万人にもおよぶ日本人捕虜を労働力として活用したのです。

 

ルールがないようでも戦争には一応のルールがあります。それがベルサイユ条約であり、捕虜の取り扱いや、毒ガスの使用の禁止、民間人の殺戮の禁止など定められています。しかし当時のソビエト政府は、国際条約を一方的に無視し、シベリア抑留といわれる惨劇を招いたのでした。

 

戦後も続いた悲劇

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称です。

 

ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した[。このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人。

 

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものでした。ロシアのエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表しています。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしています。

 

第二次世界戦におけるソ連の戦死者数は、 2,660万人と言われています。その多くがドイツとの戦いの惨禍でしたが、その実情は、独裁者となっていたスターリンが、優秀な将軍の大半を粛清したため、敵が待ち伏せているいないにかかわらず部隊を突撃させ、じゃんじゃん消耗していったことに由来します。また、攻撃至上主義のソ連軍には督戦隊という部隊があり、勝手に後退していたり、突撃していない戦闘員を見つけると、彼らを後ろから射殺していました。味方にも厳しいソ連軍。その厳しさは、抑留された日本兵にも容赦なく向けられたのです。

 

 

死者続出のシベリア抑留はなぜ起きた?過酷な労働内容は。

シベリア抑留とは、第二次世界大戦終戦後、武装解除した日本兵が主にシベリアやモンゴルなどに作られた収容所に移送され、強制的に過酷な労働をさせられたことをいいます。なぜ多くの日本人が抑留されることになったのか、その経緯を見ていきましょう。

 

終戦直前の1945年8月9日、ソ連が日本に対して宣戦布告をし、満州や朝鮮半島の日本領へ侵攻を開始しました。その数日後である8月14日に、日本は降伏の意思を示します。

 

しかしその後もソ連の侵攻は止まらず、数日間続きました。脅威は樺太や千島列島にもおよび、これらの地域では日本兵がすでに武装解除しているにもかかわらず、軍人・民間人問わず多くの日本人が捕らえられ、ソ連の収容所に送られたのです。

 

これらの行為は「ポツダム宣言」に反するものでしたが、当時のソ連は主にドイツとの戦いで国全体が疲弊状態にありました。復興のための労働力が大きく欠如していて、敵国だった日本人やドイツ人を数百万人規模で捕縛し、劣悪な環境のなかで鉄道建設や土木作業、炭坑や鉱山での作業、農作業などさまざまな労働に強制的に従事させました。

 

シベリア抑留中の生活や食事は?

満州や朝鮮半島、樺太、千島列島でソ連軍に降伏した日本人の多くは、「ダモイ(帰るぞ)」と言われて貨物車に乗せられました。しかしその行き先は日本ではなく、強制収容所だったのです。

 

マイナス30度にもなる極寒地で、彼らは十分な食事を与えられず栄養失調に陥る者が続出しました。固い黒パンやわずかに塩味のついたお粥、スープなど粗末なもので、過酷な労働を強いられている人にとってはとても足りません。

 

1尾の魚を数人で分けたり、木の皮を煮て食べたり、時には食料の奪いあいも起こるなど、筆舌に尽くしがたい状況を体験した人も少なくなかったのだそうです。

 

栄養状態が悪いことや住空間が不衛生だったことなどから、体にノミやシラミがわき、コレラや赤痢などの伝染病が蔓延したこともありました。また夏場に捕縛されたため、寒さの備えがない人がほとんどだったことも死者の増加に繋がったそうです。

 

抑留された日本人およそ57万5千人のうち、死者の数は5万5千人。およそ1割の人が劣悪な環境下で命を落としました。この人数については、戦後70年以上経っている現在もまだ正確な数字がわかっていません。

 

帰国後の悲劇

そして、悲劇は帰国後も続きます。劣悪な収容所のなかで、ソ連は徹底的な思想教育を施し、ソビエトの推進していた共産主義を教え込んだのです。生きるために、あるいは日本に早く帰るため、多くの転向者が生まれ、帰国後は、ソ連がもくろみどおり、共産主義革命を担う戦士として活動をしていくのでした。しかし、そのことで、50万人にも及ぶ抑留者全体が、洗脳されたとの誤解が蔓延し、帰国後も、就職や結婚などで多くの差別に苦しむこととなったのでした。

 

 

 

 

日本人の誇り

 

 

NHKの人気番組「ファミリーヒストリー」で、お笑い芸人ケンドーコバヤシさんの母方の祖父が遺した形見のスプーンが登場しました。

 

このスプーンは、岡山の小学校で校長まで務めた祖父が、終戦後、ソ連の捕虜になり、壮絶な生活のなか、唯一の楽しみであった食事をせめて優雅に、そしてできるだけ多く食べられてるよう、自作したスプーンでした。そんなケンコバの祖父が、抑留を送った地こそ、中央アジアのタシケント市でした。

 

(参照:まほろぼの心ブログ)

http://mahorobanokokoro.blog.jp/archives/652493.html

  

 大地震にも耐えたナボイ劇場 

1966年4月26日、中央アジアのタシケント市が直下型の大地震に襲われました。 ソーヤは「みんな外に出て!」と子供たちに向かって叫びました。

 

子供らの手を掴んで外に飛び出しながら、「近くのナボイ劇場の建っている公園に行って!噴水の周りに集まりましょう」と言いました。あちこちの家が崩れています。 

 

ソーヤがナボイ公園に逃げることをとっさに思いついたのは、20年前に、まだ少女だった頃、ナボイ劇場建設に従事していた日本人抑留者たちから、「大きな地震が起こったら、家が倒れて逃げられなくなるので、広場などに避難したほうがいい」と教わったことを思い出したからです。 

 

同時に、あの真面目で仕事熱心だった日本人抑留者たちの建てたナボイ劇場も壊れてしまったのだろうかと気になりました。多くの人々が、同様にナボイ公園に向かっていました。

  

しかし、公園に着いた人々は、みんな息を呑むほどに驚きました。ナボイ劇場は、何事もなかったかのように建っていたのです。 

 

中央アジア各国に広まった日本人伝説 

ナボイ劇場は地上3階建て、地下1階、1400席を備えた壮麗なレンガ造りの建物で、旧ソ連時代ではモスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)、キエフのオペラハウスと並び称される四大劇場の一つとされていました。 

大地震で政府系の建物240、工場250、約8万の家が崩壊し、タシケントの街がほぼ全壊した状況の中で、ナボイ劇場だけが無傷でした。

 

タシケント市のシンボルであるナボイ劇場が凜として建ち続けている姿を見て、涙ぐむ人もいました。ソーヤの目からも涙がこぼれ落ちました。ソーヤは子供たちに言いました。

 

「ね、すごいでしょ。あの劇場造りをおかあさんも手伝ったの。でも本当に一所懸命造ってくれたのは、一緒にいた捕虜の日本人だったのよ」

  

大地震にも倒れなかったナボイ劇場の話は、瞬く間にウズベキスタン国内だけでなく、隣接するキルギス、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンなど中央アジア各国に伝わりました。

 

日本人は優秀で真面目な民族だという「日本人伝説」が広まり、1991年のソ連崩壊で各国が独立したあとに、国家目標として日本人を見習おうとする国も出てきました。 

 

ソ連が日本人捕虜に与えた命令 

奉天の第10野戦航空部隊で、航空機の修理を担当していた永田行夫大尉以下250人がタシケント市に到着したのは、1945(昭和20)年10月下旬でした。8月15日の玉音放送を受けて日本軍が降伏すると、19日にはソ連軍の航空機が、次々と奉天の飛行場に着陸しました。

  

ソ連兵は「ダモイ(帰国)、ダモイ」と言いながら、貨車1両あたりに50人もの日本兵を詰めこみました。「帰国」と騙して抵抗を防ぎつつ、貨物列車は西に向かいました。日本の降伏直前に、日ソ中立条約を一方的に破棄して満洲になだれこんだソ連軍は、戦争終了後に捕虜をシベリアや中央アジアでの強制労働で使役する国際法違反を犯したのです。

  

永田大尉の一行は、貨物列車で約4000キロ、1か月半もかけてタシケント市に連れてこられました。ここでソ連は、革命30周年にあたる1947年11月7日までに、壮麗なオペラハウスを建設する計画を立てていました。航空機の修理をしていた永田大尉の部隊に技術者がそろっていることから、この任務につけたようです。他の部隊からも補充を受けて、永田大尉は24歳の若さで、18歳から30歳までの457人を指揮する立場になりました。

 

ノルマを守らない者は食事も少なくなる、しかも目標は2年も先です。「最低2年は、この収容所で暮らすということか」と皆、がっかりしました。

 

永田は、「我々の仕事は劇場を建設することだが、最も重要な使命は、全員が無事に健康な状態で日本へ帰国し、

家族と再会することだ」と皆を励ましました。

  

その後、測量、鉄骨組み立て、レンガ積み、電気工事など、各自の職歴と適性をもとに班分けをして、建設作業が始まりました。

  

収容所所長のアナポリスキーは、「ノルマを守らない者は食事も少なくなる」と、社会主義の基本原則を押しつけました。

 

その食事にしても、黒パンや塩っぱいキャベツの漬け物、羊肉といっても骨ばかりで、1日2000カロリーほどしか

ありませんでした。しかし、仕事が違うのに、公平なノルマなど達成できるはずもありません。

 

床張り、電気工事などは日本で職人をしていた人にとっては簡単なことですが、穴掘りやレンガ積みなど、きつい肉体作業は、ノルマ達成がむずかしいのです。罰として食事を減らされると、体力が落ちてますますむずかしくなります。

数か月もたつと、こうした不公平から不満が高まり、収容所内で喧嘩まで起きそうでした。

 

所長を感心させた永田大尉 

永田は、全員が無事に帰国するためには、皆に公平に食事が渡るようにしなければならないと考えました。問題は、アナポリスキー所長をどう説得するかです。永田は、各自がノルマに応じた食料を受けとったあと、公平に再分配させるようにしたのです。

 

その光景を見ていたソ連兵たちは驚いて、所長に報告しました。所長は食堂にやってきて、「永田隊長はどこにいる」と大声を出しました。 

永田は「ここにおります」とゆっくり立ち上がりました。 

所長が、「これは規則違反だ」と言うと、食堂はシーンとなりました。

 

永田は通訳を通じて、所長の目をしっかり見つめながら、語り始めました。 

 

「ソ連の社会主義政策では、働いたうえで本人に与えられた物は、その本人が自由に処分してもいいんですよね?」と訊くと、所長は「あたりまえだ」と答えました。

 

「それを聞いて安心しました。今日の食事は、ノルマ以上の達成で多くの量を与えられた兵が、自分の裁量で配分が少なかった兵に、自分の分を分け与えたんです。その結果として、全員がほぼ同じ量になったわけです」

  

所長は「してやられた」という顔で、

「今回は君たちのやり方を認めよう」と言い、永田の肩をポンと叩いて出ていきました。 

「度胸があり、兵隊思いのいい男だ」と感心したのです。 

 

食事に関しては、ウズベク人たちの隠れた支援もありました。穴掘りに疲れて立っている青年に老婆が、

「私の息子は独ソ戦でお前と同じ年頃に死んだよ」と言って、手提げ袋から黒パンをひと塊出して、「お腹空いているんだろう。これを食べなさい」と渡してくれました。

  

「両親はどこにいるのか」と訊くので、「東京にいる」と答えたら、「おお、かわいそうに」と肩を抱いてくれたのです。青年は涙がとまりませんでした。

 こうしたかたちで、差し入れをしてくれるウズベク人が後を絶ちませんでした。

  

日本人の誇りと意地にかけて 

1946年になると、工事を加速するためにウズベキスタンの各地から抑留者が次々と送りこまれてきました。その中に、日本大学の建築学科を出た若松律衛少尉がいました。ソ連側は若松の能力を見こんで、工事全般の日本側総監督を命じたのです。困った若松は、永田に相談しました。

 

永田は、「全体を監督できるのは、あなたしかいない。協力し合ってやろう」と若松の手を握り、続けました。

 

「無論、手抜きをしたり、いい加減なやり方で建物を造ることもできるが、私はソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけて最良のものを造りたいと思っている。捕虜としてやるのだから、そこまで力を入れなくてもいいという意見もあるだろう。しかし私の気持ちとしては、後の世に笑われるような建築物にはしたくないと考えている。さすが日本人の建設したものは出来が違うと言われるものにしたいと思っている。捕虜になって多くの兵隊は生きる張りを失い、先も見えず精神的に弱っている者も見かける。そんなときだけに、自分たちがこれまでに培った技術、技能で世界に引けをとらない建築物を造るんだという一点を生きる気力の糧にしてくれたらと願っている」

 

若松は永田の言葉を聞いて、胸が熱くなりました。

 

「この人と協力して、歴史に残るような建築物を造るために全力を尽くそう」と決心したのです。そんな「日本人の誇りと意地」が、劣悪な生活環境で、抑留者たちを支えていました。

  

日本人抑留者が教えた「和」の精神 

日本人の働き方を見て、ロシア人やウズベク人が不思議に思ったことがあります。皆で重い物を持ち上げたりする時に、「セーノ」とか「ヨイショ」と声をかけることです。

 

「なんのおまじないなのだ?」とウズベク人が訊いてきました。1人の日本人が説明しました。

 

「これはね、皆で重い物を持ち上げる時に、『セーノ』と言ったら、一斉に力を出して持ち上げるんだ。日本人はなるべく皆が一緒に力を合わせてやったほうがうまくゆくと教えられてきた。それが日本独特の『和』の精神さ」

  

「『ワ』というのか」と不思議がりましたが、ウズベク人たちも一斉に「ヨイショ」と声を上げて力を合わせると石が持ち上がり、みんな「なるほど」と納得しました。 

 

永田は、そんなエピソードを挙げて、アナポリスキーに「和」を説明しました。

 

「和というのは、皆で一つの大きな仕事を完成させる時に、最も大事な協力の精神のことです。皆が助け合い、足りないところを補い合うから、日本では仕事が早くうまくゆくのです。2、3人の優れた者がいても、オペラハウスの建設のような大きな仕事はできません。日本人はそのことを知っているので、皆が助け合って仕事を進めているんです」 

  

ソ連兵が日本人抑留者に示した感謝 

日本人抑留者たちは、こうして建設に励む一方、休みの日には花札やトランプ、麻雀牌まで手づくりして、

一緒に遊びました。ソ連兵もおもしろがって、「教えろ、教えろ」と麻雀に加わるようになりました。

 

収容所内の雰囲気はぐっと明るくなりました。 

 

ソ連兵が、時々ロシア民謡を合唱しているのを聴いて、1人の日本人がバイオリンを手づくりして、伴奏しました。

 

こうした動きが盛りあがって、ついには日ソ合同の演芸大会まで開催されたのです。近所のウズベク人も大勢、押しかけました。 

 

他の収容所のように、ソ連の共産主義に洗脳された日本兵が、かつての将校を吊し上げるような光景はこの収容所ではついぞ見られませんでした。

  

1947年9月初頭、劇場が完成に近づいたので、永田はソ連側の了承を得て、仮の完成式を行うことにしました。無事に立派な建物を造りあげたことを皆で確認し、喜び合いたいと思ったのです。9月中旬の日曜日、抑留者たちと、一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちが続々と劇場前に集まりました。

 

永田が、「皆の前に建っているナボイ劇場は、私たち日本人を中心に、一緒に働いたロシア人、ウズベク人たちとの汗と涙の結晶だ」とあいさつしました。 

 

ソ連将校やウズベク人が永田に近づいて握手し、何事か囁きました。永田は大きく頷き、皆に告げました。

 

「ロシア人もウズベク人も、日本人は本当によくやってくれた。すばらしい民族だと言っている。私たちが造った舞台でロシア人、ウズベク人がバレエを披露するので観てほしいと言っている。楽しく観させてもらおう」

 

抑留者たちは、できあがった劇場を見学し、後世に残る建物を造りあげたことを誇らしく思いました。永田は見学後に、隊員たちに、もう一度声をかけました。

 

「日本は、アメリカの爆撃でそこら中が廃墟のようになっていると聞いている。ぜひ、諸君らも帰国したら、世界から敬意を表されるような日本を再建してほしい。私たちはここで礎を築いたのだ」

  

永田は胸にこみあげる思いを呑みこんで、一気に話しました。 

思い残すことは、もうありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

残留日本兵(ざんりゅうにっぽんへい)とは、第二次世界大戦の終結に伴う現地除隊ののちも日本へ帰国せずに現地に残留した旧日本軍の将兵を指す。アジアや太平洋の各地に駐留した旧日本軍将兵は1945年8月の終戦により現地で武装解除、除隊処分とされ、日本政府の引き上げ船などで日本へ帰国し復員した。しかし、その一方で様々な事情から連合国軍の占領下におかれた日本に戻らず、現地での残留や戦闘の継続を選んだ将兵も多数存在した。

 

終戦を知らされず、あるいは信じず現地で潜伏し作戦行動を継続したもの。

第二次世界大戦後、欧米諸国の植民地に戻ったアジアの各地で勃興した独立運動に身を投じたもの。

 

インドネシア独立の隠れた主役

第二次世界大戦終結後、スカルノが独立宣言をしたにも拘らず、旧宗主国のオランダが再植民地化を試みイギリスなどの支援を受けてインドネシア独立戦争が勃発したインドネシアでは、日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や作戦指導をするとともに、自ら戦闘に加わるなどした。独立戦争の終結後、インドネシアでは多くの元日本兵が独立戦争への功績を讃えて叙勲されている。インドネシア残留日本兵は記録の上では総勢で903人とされている。

 

インドネシア残留日本兵が作った互助組織「福祉友の会」は、日本に留学する日系インドネシア人学生に奨学金を与えるなど、日本とインドネシアの架け橋としての役割も果たした。

 

フィリピンのジャングルで戦いを続けた小野田さん

フィリピン防衛戦の結果、1945年2月にフィリピンのほぼ全域がアメリカ軍の勢力圏に戻ったが、その後も相当数の日本軍兵士がゲリラ戦及び諜報を目的にフィリピンの各地に残留した。同年8月に日本が無条件降伏したことを知らされなかった兵士の多くが、その後独立したフィリピンの各地で戦いを続けた。しかしその後、終戦を知りフィリピン軍や警察に投降したり、銃撃戦の末に射殺されたりして数が減っていき、1974年3月10日に、最後まで残った小野田寛郎が元上官からの命令を受けてフィリピン軍に投降しその後帰国した。

 

最後の日本兵 横井庄一

1944年8月に行われたグアムの戦いで、グアム島はアメリカの手に戻ったが、その後も生き残った一部の兵士は山中に撤退しアメリカ軍に対してゲリラ戦を行っていた。しかし、1945年8月に日本軍の無条件降伏したことを知らされないまま残留した兵士もいた。その後彼らはジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活したが、病気や現地の警官との銃撃戦などで数が減っていき、最後に残った横井庄一が1972年1月24日に発見され、同年2月2日に満57歳で日本に帰還した。 

ガンダムでよむ近現代史

 

 

「君たちは立派に戦ってきた!だが兵士の定めがどういうものか、良く‥見ておくのだな」

(ジオン軍 ランバ・ラル大尉 辞世の言葉)

 

 

漢のなかの男

ジオン軍の士官で、階級は大尉。ザビ家の政敵であったジオン・ズム・ダイクンの遺臣ジンバ・ラルを父に持つ。一年戦争以前からゲリラ戦を戦い抜いてきた生粋の職業軍人。

 

主人公のアムロ・レイに人間的成長のきっかけを与えた人物であり、パイロットとしての技量ばかりでなく、人間的な器量の大きさからアムロをして「あの人に勝ちたい」と言わしめた。監督である富野由悠季は、ランバ・ラルについて「精神的に父親不在だったアムロに対する、父親役としての存在であった」と後に語っています。

 

ランバ・ラルに漢をみたアムロ

19話「ランバ・ラル特攻!」では、主人公であるアムロと、ランバ・ラルの交流が描かれます。

 

ガンダムのパイロットとして、抜群の成績を収めるアムロ。しかし、規律を重んじる軍隊になじめず、とうとうホワイトベースから脱走します。とはいえ行く当てもないアムロは、砂漠をさまよい一軒のレストランにたどり着きます。

 

粗末な店で、水とパンをほおばるアムロ。そこに、ジオンの軍服をきた一団が現れます。それがランバ・ラルが率いる中隊でした。砂漠のレストランで好きなものを頼めと兵士に振る舞うランバ・ラル居合わせたアムロにハモンは食事を奢ろうとするが、「コジキじゃありませんので」という毅然とした態度に、ラルもアムロを気に入ります。敵だと気付かれないようマントの下に銃を忍ばせるアムロだったが、それを知りつつ「いい目をしているな。それにしても度胸がいい」と見逃してやるランバ・ラルでした。

 

その後、戦闘となり、自分が食事をおごろうとした少年が、宿敵であるガンダムのパイロットであることを知り驚きます。そしてホワイトベース(戦艦内)に侵入すると、艦内には年端もいかない少年少女が占めており、とくにジオン・ズム・ダイクンの遺児セイラ・マス(アルテイシア・ソム・ダイクン)と、再開したことに動揺し、隙をみせてしまったランバ・ラルは、重傷を負います。

 

自分の死を悟った軍人ランバ・ラルは、

「君たちは立派に戦ってきた!だが兵士の定めがどういうものか、良く‥見ておくのだな」 

と、ホワイトベースの少年少女たちに、戦いの定めを語ります。

 

そして、手榴弾を作動させて、抱いたままホワイトベースのデッキから飛び降りて自決しました。

軍人が戦いのなかに見せた最期のメッセージ。それまで戦いを他人事のように捉えていたホワイトベースの少年兵たちは、漢のなかの男、ランバ・ラルの背中を感じ、また1つ大人の階段をのぼったのでした。

 

   

 

 

 

  

ガンダムで学ぶ近現代史

 

 

温故知新。古きを訪ねて新しきを知る

ガンダムを訪ねて、世界を知る・・・全国2000万人のガンダム世代に贈る「ガンダムで考える近現代史」の登場です。 本物の戦争を知らない私たちの世代にとって、フィクションとはいえ、戦争で起こる不条理や悲惨な出来事の多くを学ばせてくれたのは、「ガンダム」でした。

 

ある意味、テレビの中で起こっていた中東やヨーロッパの戦争よりも、リアルに体感していたのかもしれません。

 

機動戦士ガンダムは、国民的な人気を誇るアニメーション作品です。一作目の『機動戦士ガンダム』が放映されたのが40年前、以後、続編やスピンオフ作品が次々に登場し、おっさんのファンから子供たちまで、広く人気を集めています。

 

しかし当初は人気がでず、再放送をきっかけにじわじわ評判をあげ、80年代、ガンプラ(ガンダムのプラモデル)ブームが起こり人気を不動のものにしました。

 

当時、小学生だった家訓ニストにとっては、ガンダムの世界観は大変むずかしいものでした。単純な勧善懲悪ものが占めていた他のアニメとは違い、ヒーローであるはずの地球連邦軍と、敵であるジオン軍のお互いの「正義」が交錯し、誰が敵で、誰が味方なのか?さっぱり分からなかった記憶があります。

 

『機動戦士ガンダム』とは?

富野喜幸を監督に据え、玩具メーカーのクローバーをメインスポンサーとして企画・制作されたアニメーション作品です。ロボットアクション以上に、主人公の社会的成長が物語の主軸に据えられているのが特徴で、戦争を舞台としたリアリティに富んだ人間ドラマと、「モビルスーツ」(MS)と呼ばれる兵器の一種として扱う設定を導入したことで、人気となりました。なお、本作は後にバンダイが関わるかたちで続々と制作されていく『ガンダムシリーズ』と呼ばれる作品群の第1作であることから、初代ガンダム、ファースト(ガンダム)の名で呼ばれることも多いです。

 

物語は、『十五少年漂流記』から着想を得て、宇宙船に乗り込んだ少年少女が宇宙戦争の中で協力しながら生き延び成長するというストーリーが構想されました。主人公のアムロ・レイは、民間人の少年として突然に戦争に巻き込まれ、モビルスーツのパイロットとして戦う使命を負うこととなり、閉鎖的な極限状態に置かれるうち次第に疲弊する中で、上官にプライドを傷つけられて戦場から逃亡するが、そこで出会った敵将に勝ちたいという感情から戦線復帰する…という、それまでのアニメにない重厚でリアルな心理描写が、当時のアニメファンに受け入れられました。

 

主人公はもちろん、彼をサポートする人々や敵対する兵士、全体のプロットには直接触れない人物にいたるまで、その人物像がていねいに描かれた。また、必ずしも主人公サイドの連邦軍が一枚岩でない様子や、シャア・アズナブルの復讐劇の要素も交えて奥行きのあるドラマとなっています。

 

ニュータイプの概念

本作の重要なキーワードの一つが「人類の革新ニュータイプ」です。超能力にも似た特別な感覚を得た人々として設定されたニュータイプは、当初は主人公アムロに超人的活躍をさせるためのアイデアだったが、やがて宿敵シャアもまたニュータイプであることが明かされ、そして同じくニュータイプである少女 ララァ・スンとの出会いと3人の間で起こる悲劇を通じて、「人類の革新」とは何なのかという抽象的なテーマへと昇華されました。

  

ガンダムの世界観

時代は、宇宙世紀79年。増えすぎた人類の一部は地球を離れ、スペースコロニーといわれる宇宙に浮かぶ母船に移住し暮らし始めました。

 

ここで、地球で暮らす人類に対し、宇宙に暮らす移住者が独立をもとめ戦争が始まります。まず独立を訴えたのが、ジオン・ズム・ダイクン。つづいて政権を握ったザビ家が独立戦争をしかけ、このジオン公国と、地球の連邦軍との戦いが、ガンダムの物語の軸となって展開します。

 

子供向けのアニメでありながら、複雑な設定がされており、勧善懲悪のお話ではありません。主人公のアムロが所属する連邦軍の敵は、ライバルであるシャーのいるジオン軍です。しかし、アムロは連邦軍のエースパイロットなのに厄介者扱いをされ、一方、シャーにとっても、ジオン軍を率いるザビ家は、父親の仇であったりします。味方は敵であり、また敵が味方だったりと、当時小学生だった家訓二ストには、さっぱり理解できない物語構成でした。

 

ガンダムは少年を大人にする

連邦軍の正義、そして独立をもとめるジオンの正義。いずれも、「正義」をかけて戦うもの。それが戦争です。本来であれば学校で学ぶべき戦争を含む近現代史ですが、現在の公教育では、時間切れ?を言い訳にして、学ばない現状があります。

 

しかし、学びは教科書だけにあらず。フィクションであっても、ぼくたちにはガンダムがある。アムロやシャーが、戦場のなかで成長していくように、ぼくたちもガンダムを見ながら成長してきました。ガンダムは少年を大人にする最高のテキストです。

 

残虐なテレビゲームをすると、非行が増えると、規制が議論されることがあります。欧米ではアニメの残虐なシーンがカットされるそうです。例えば日本では普通に放映されていた『北斗の拳』も、欧米ではほとんどカット。現在では日本もし自主規制が進み欧米化が進んでいるようです

 

しかし、残虐なゲームと、残虐な事件と因果関係が証明されたわけではありません。欧米に比べ、規制のゆるいはずの日本ですが、治安の面でははるかに安全です。「見せないようにする」ことよりも、善も悪も、多様な価値観を子供たちが学べる環境を作る方が優先されるべきではないでしょうか?

 

本来であれば、学校で学ぶ近現代史をアニメで学んだか家訓二スト。

ある意味、それは幸福な出会いだったのかもしれません。

 

平和を愛する子供を育むために

自国および周辺国に及ぼした近現代史を「知らない、教えない、知ろうとしない」で安穏な日常生活に浸っている現状を憂える必要があります。ほんの数世代前の人たちが、近代国家建設のために大変な苦労をし頑張ってきたことを、我々はあまりにも知らなすぎます。

 

これからの時代を担う若い世代に自国の歴史を知ってもらうことは、子供たちを成長させる一番のテキストです。令和の時代となり、道徳教育の導入など頑なだった公教育も少しづつ改善されつつあります。しかし肝心の道徳のテキストをみると、偉人伝にでてくるのは、スポーツ選手ばかりです。これには理由があり、政治家は、政治色があるのでNG。商人は特定の企業のPRになるのでNG。日本の国を護った軍人さんは、軍国教育につながるのでNG・・・っと、結局、現在の基準では、スポーツ選手ぐらいしか、取り上げられないのです

 

歴史は、過去の出来事などから、なぜそれが起きたか、その理由や関係性を考え、その教訓を現代に活かすためにあるのではないでしょうか。過去の人々の叡智や失敗から学ぶことが何より大事なのです。

 

とくに、昭和10年代におこった国際紛争、そして日中戦争、大東亜戦争と続く時代には、多くの教訓が眠っています。歴史は決して暗記科目ではない。歴史の前後には常に因果関係があり、いくつもの出来事の積み重ねによって形づくられているのです。

 

あらためて、近現代史は現代に生きる私たちにとって必須の教養です。歴史を振り返ってみると、過去に起きた出来事が形を変えて、別の国や地域で繰り返されることがあります。歴史を学ぶことによって今起きていることがこの後どのように進むかを推測できる。そういう力を身につけることが大事なのではないかと家訓二ストは考えます。 

 

戦争は悪なのか善なのか

ガンダムの物語のなかで、難民キャンプで親との再会を果たしたアムロが、母親に罵倒されるシーンが描かれています。

 

キャンプはジオン軍の前線基地の近く。ジオン兵に見つかりそうになったアムロは、母の目の前で発砲してしまう。母は「あの人たちだって子供もあるだろうに、鉄砲を向けて撃つなんて」と咎(とが)めたのです。

 

母に責められたアムロは、震えながら言葉を返す。 

「母さんは僕がやられてもいいっていうのかい。戦争なんだよ」

 

母を、そして自分を守るために戦ったアムロ。一歩間違えば、やられていたのはアムロの方でした。戦争は悪なのか善なのか、視点によってその答えは180度変わるものなのです。

 

第二次世界大戦以降、戦地になっていない日本。護憲派といわれる人々は、戦力の放棄をうたった憲法9条をたてに、「9条さえあれば、外国は日本に攻めてこれない」という主張を繰り返しており、一定の支持を集めています。こうしたロジックが100%間違っているわけではありませんが、実際は世界最強の在日米軍と戦ってまで日本に攻めてこようとする国が世界に存在しないために戦争が発生しなかったともいわれています。

 

俗に「お花畑」といわれるロジックの1つに、「無抵抗主義」があります。「侵略されても、抵抗しなければ殺されることは無いんだ、だから軍備をやめよう」とか、酷い時には「殺すくらいなら殺されよう」とかいう主張さえ漏れ聞こえてきます。しかし、日本が考えているほど世界は優しい世界であふれているわけではないのです。実際、独立国家であったチベットは、ほぼ丸裸で中国の侵攻にあい、わずか7日間で占領されてしまいました。以後、70年にわたって不法占拠は続き、チベット人の人権は抑圧され、様々な不法行為が黙認されています。「無抵抗主義」のしわ寄せはより弱いものに押し付けられます。国家とは、国民の生命と財産を守るために存在しています。

 

GHQによって再軍備が禁止されていた戦後の日本。朝鮮戦争をきっかけに、警察予備隊、ついで自衛隊が組織されます。当時の首相・吉田茂は、防衛大学の1期生に次ぎのような言葉をおくっています。

 

君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、歓迎されたりすることなく自衛隊を終わるかも知れない。非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されチヤホヤされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。 

どうか、耐えてもらいたい。自衛隊の将来は君たちの双肩にかかっている。しっかり頼むよ。

 

戦争が善なのか悪なのか、その答えは人類にとって永遠の課題なのかもしれません。

しかし、私たちの生命と財産を守るため、訓練し常に緊急事態に備えている人々がいることを忘れてはいけないのではないでしょうか?

 

日本は民主国家であり、言論の自由、政治的主張の自由は憲法で保障されています。「自衛隊反対!」と叫んでいる人も、その人もやっぱり日本人です。日本の自衛隊さんは、「反対」という人も、救助し場合によっては命をかけて守ってくれる頼もしい存在です。

 

難民キャンプで銃をつかったアムロ。命をかけて戦っているのに母親からの心ない叱責にひどく落ち込んだことでしょう。

同じように自衛隊の隊員さんも、地域の人、あるいは家族からも白い目でみられているのかもしれません。戦争が起こらないように、がんばるそんな軍人さんを家訓ニストはこれからも全力でリスペクトしていきます。

 

温故知新。古きを訪ね新しきを知る。ガンダムを訪ね未来を知る。

ガンダムを学ぶことで、あなたなりの「正義」と出会うことをお勧めします。

 

 

ガ ダムの生みの親のひとり

安彦良和さんのインタビュー

 

参照:ヤフーニュース 記者:玉本英子)https://news.yahoo.co.jp/byline/tamamotoeiko/20200808-00191502/

 

  『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインと作画監督を担った安彦良和さん。これまで自身の作品のなかで戦争と平和に向き合ってきた。『ガンダム』が問いかけたもの、そして、いま起きている戦争の現実を紹介します

 

◆白黒分けない戦争描いた『ガンダム』 

『機動戦士ガンダム』第13話のシーン。避難民キャンプで母と再会したアムロ。ジオン兵に発砲したことを母に咎(とが)められ、アムロの心は揺れる。アニメ『機動戦士ガンダム』は、人類が宇宙に移民した未来世界を舞台に、地球連邦軍とジオン公国軍の1年にわたる戦争を描いた物語だ。

 

モビルスーツを操る連邦軍の少年兵パイロット、アムロ・レイと、ジオン軍の「赤い彗星」シャア・アズナブルとの駆け引きや、登場人物の人間模様も盛り込まれ大ヒット。続編として様々なガンダムシリーズが作られた。

 

安彦さんは『機動戦士ガンダム』でキャラクターデザインと作画監督を担った。(7月上旬・埼玉・撮影:玉本英子)

富野由悠季総監督のもと、最初の『ガンダム』でキャラクターデザインと作画監督を担ったのが安彦良和さん(72歳)だ。「勧善懲悪の機械モノと呼ばれた当時のアニメの中で、白黒分けない戦争を描いたことは、画期的だった」と話す。

 

◆ジオン兵撃ったアムロを咎(とが)めた母

私が『機動戦士ガンダム』を見たのは、中学生の頃。アムロが母と再会する場面は今も印象に残っている。

 

ISとの戦いの最前線に立ってきたクルド・人民防衛隊の戦闘員ら。シリアでは隣人や同級生どうしが銃を向け、殺しあう現実が続く。かつてアムロが暮らしていた家には、酔っぱらった連邦軍兵士たちが入り込み、隣家の女性にも横柄に振舞う。同じ連邦軍のアムロは憤慨するが、家族を亡くした隣人はつぶやく。

 

「あの兵隊さんは本部から見捨てられ、あんな風になってしまった。やだねぇ戦争って」

  

アムロは避難民キャンプで働く母と再会を果たす。だがそこは、敵ジオン軍の前線基地の近く。ジオン兵に見つかりそうになったアムロは、母の目の前で発砲してしまう。母は「あの人たちだって子供もあるだろうに、鉄砲を向けて撃つなんて」と咎(とが)める。

 

母に責められたアムロは、震えながら言葉を返す。 

「母さんは僕がやられてもいいっていうのかい。戦争なんだよ」

 

「勧善懲悪の機械モノと呼ばれた当時のアニメの中で『ガンダム』が白黒分けない戦争を描いたことは、画期的だった」と安彦さんは話す。

 

◆『ガンダム』に重なる戦火の人びとの姿

富野総監督の構想をベースに、この回の絵作りをした安彦さんにとっても、好きなシーンの一つだという。

 

「アムロが近くから撃つと、ジオン兵の腹に当たる。もうひとりが逃げて、アムロは後ろから何度も撃つけど当たらない。ヒーローなのに。『なんてことするの、お前も荒(すさ)んだね』と母は嘆く。それでも母が発砲を回想する時には、アムロは格好よく撃つ姿になっている」

 

戦争で変わってしまった息子の姿に当惑しながらも、複雑に揺れる母の心の描写は、以前の私には分からなかった。紛争地で取材を続けるうちに、それらのエピソードが改めて思い起されるようになった。内戦下のシリアでは、戦死して遺体となって戻った息子の棺(ひつぎ)に泣き崩れる母親を目の前にして胸が痛んだ。

 

武装組織に拉致され、戦闘員にさせられた17歳の少年、アサド政権の空爆で家を破壊され難民キャンプに身を寄せる一家もいた。戦争に翻弄(ほんろう)され戦火に苦しむ人びとの姿が、『ガンダム』のいくつものシーンに重なった。

 

◆「小さき者の視点」で見つめる

安彦さんは言う。 

「『機動戦士ガンダム』の重要なファクターが『小さき者の視点』なんです。若い主人公たちが、彼らの目線で、なぜなのか分からないまま、戦争という巨大な力に巻き込まれ、戦わざるを得なくなっていく」

 

戦争では、いつも「大義」が掲げられる。自由、革命、領土、宗教、民族解放……。大きな正義のなかで、個々の小さき者が犠牲になる。兵士や母、避難民の子ども、それぞれの「小さき者の視点」で、『ガンダム』は戦争を見つめた。善悪の戦いではなく、あくまで人間どうしの戦いを描いたストーリーだからこそ、実際の戦争を映し出すリアルさを持っていた。

  

1979年、テレビ放映されたアニメ『機動戦士ガンダム』。地球連邦軍とジオン公国軍の戦いを描いた『機動戦士ガンダム』が他の戦闘アニメと違ったのは、敵の兵士たちまで人間的に描いた点である。連邦軍の少年兵で主人公のアムロとジオン兵が出くわし、言葉を交わすシーンがある。

 

アムロは、ある時、中立地帯の食堂で、敵であるジオン軍のランバ・ラル大尉の部隊と遭遇する。銃を服の下に隠し、緊張するアムロ。だが、気さくで部下の兵士思いの大尉の姿を見て、「あの人たちが僕らの戦っている相手なんだろうか」と考え込む。

 

富野由悠季総監督のもと、『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインと作画監督を担ったのは安彦良和さん(72歳)だ。 

「人型の乗り物、モビルスーツを操縦しながら互いに撃ちあうけど、中にどんな奴がいるのか分からない。でもガンダムでは相手の顔が見える形で出てくるリアリティがあった」

 

「『大いなる正義、大いなる悪』とされてきたものには『本当か?』との疑問符を」安彦さんがこれまで描き続けてきた近現代史をテーマにした漫画作品の視座ともなっている。

  

『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』で総監督を務めた安彦さん。「人はなぜ戦争をしてしまうのか」が『THE ORIGIN』で改めて問いかけられる。 

 

◆「相手の顔を見えなくしているもの」

「絶対悪」の敵の前では、兵士やその背後の住民、いくつもの顔が見えなくなる。

 

ISは神の敵を殺せと、自爆攻撃で子どもまで巻き添えにした。米軍は「テロとの戦い」の名のもとIS地域を爆撃し、住民も犠牲となった。互いに「正義」を掲げ、顔の見えない者どうしの殺戮が続いた。

 

イラクの宗派抗争では、地域にともに暮らしてきた人びとが宗派で引き裂かれ、顔を見えなくさせられた。

 

イラク軍同行取材。イラクではフセイン政権崩壊後、反米武装勢力に外国人が入り込み過激化。宗派抗争が先鋭化するなかISが登場。それぞれが「正義」を掲げ、流血が続いた。(2010年・イラク・撮影:ザイード・サーフェ)

安彦さんは、戦争の実相に目を向ける。

 

「相手の顔が見えないことは、人としてのぬくもりが伝わってこないこと。顔が見えれば、そこで殺し合いが成り立たなくなるんじゃないか。相手の顔を見えなくしているのは何なのか、というのが大きなテーマだと思うんです」

 

戦後生まれで全共闘世代の安彦さん。ベトナム戦争に怒り、反戦運動も経験した。当時の活動家にとっては、ベトナムゲリラ勢力が正義で、アメリカ帝国主義が悪だった。だが、カンボジアでポル・ポト政権による大虐殺が起き、「正義なるもの」に懐疑的になったと安彦さんは話す。

 

「大いなる正義、大いなる悪とされてきたものに対して『本当か?』と疑問符をつけていかないといけないと思う」 

それは、安彦さんがのちに描き続けてきた近現代史を舞台にした多数の漫画作品での視座ともなっている。

 

 

◆「人はなぜ戦争をしてしまうのか」

という問いかけったんアニメ界から身を引き、再び復帰した安彦さんは2015年、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の総監督を務めた。そこでは、1979年の最初の『機動戦士ガンダム』の起点が改めて照射されている。

 

「人類の歴史は戦いの歴史である。人はなぜ、この愚かで悲しき争いを繰り返すのか」 

戦後75年。人はなぜ戦争をしてしまうのか、その問いに私たちは答えを見いだせないままだ。

 

 

 

ギレン・ザビの演説から学ぶ

 

 

ガンダム世代にはたまらない

ギレン・ザビの演説を紹介させていただきます。

ヒットラーを彷彿とさせながらも、内容だけでいえば、アメリカの独立宣言のようでもあるギレンの演説。

 

考えるな感じろ!そして共に叫べ 

「ジーク ジオン!」

「ジーク ジオン!」

 

以下。映画版を転載します

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「我々は1人の英雄を失った。しかし、これは敗北を意味するのか? 否! 始まりなのだ!

地球連邦に比べ、我がジオンの国力は30分の1以下である。

にもかかわらず、今日(こんにち)まで戦い抜いて来られたのは何故か。

諸君! 我がジオン公国の戦争目的が正義だからだ。

それは諸君らが一番知っているはずだ。我々は地球を追われ、宇宙移民にさせられた。そうして、一握りのエリートが、宇宙にまで膨れ上がった地球連邦を支配して50余年。宇宙に住む我々が自由を要求して、何度連邦に踏みにじられたか!ジオン公国の掲げる、人類1人1人の自由の為の戦いを、神は見捨てる訳は、ない。

 

私の弟、諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ。 何故だ!?

新しい時代の覇権を、我ら選ばれた国民が得る(うる)は歴史の必然である。ならば、我らは襟を正しこの戦局を打開しなければならん。

 

我々は、過酷な宇宙空間を生活の場としながら、共に苦悩し、錬磨して今日(こんにち)の文化を築き上げてきた。

かつてジオン・ダイクンは、人類の革新は宇宙の民たる、我々から始まると言った。

しかしながら、地球連邦のモグラ共は、自分達が人類の支配権を有すると増長し、

我々に抗戦をする。

諸君の、父も、子も、その連邦の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ。

この悲しみも怒りも、忘れてはならない!

それを… ガルマは死をもって我々に示してくれた!

我々は、今この怒りを結集し、連邦軍に叩き付けて、初めて真の勝利を得る(うる)事ができる!

この勝利こそ、戦死者全てへの最大の慰めとなる!

国民よ!

悲しみを怒りに変えて、立てよ国民よ!

我らジオン国国民こそ、選ばれた民である事を忘れないで欲しいのだ。

優良種たる我らこそ、人類を救い得る(うる)のである!

ジーク、ジオン!!」

 

 

ギレン・ザビの演説から学ぶ YOUTUBE

https://www.youtube.com/watch?v=uqllrf_4GGo

しらす国と水戸学

 

 

 

しらす国

 

 

世界で一番古い国

1000年の都ともいわれる京都。その市街地の真ん中には、歴代の天皇陛下のお住まいである御所が鎮座しています。広大な敷地を誇る御所。しかし周囲には堀もなく、子供だって越えられるほどの塀しかありません。

 

日本の最高権威であり、象徴でもあらせられる天皇様のお住まいがあまりにも無防備だと感じないでしょうか?しかし、この無防備さが日本のお国柄であり、ひいてはご皇室の「徳」の象徴とだと家訓二ストは考えます。

 

日本の皇室の歴史は、はるか神話にさかのぼるものです。西暦でいれば紀元前から、聖徳太子が活躍された時代から数えても1500年以上の歴史を誇ります。日本は世界で一番古い国です。2位のデンマークが1000年。3位のイギリスが800年ですからダントツの古さを誇っています。

 

お隣の国、中国では、有史以来幾多の王朝が誕生し、そして滅ぼされてきました。これを易姓革命呼びます。皇帝が、「徳」を失うと、天が乱れ、代わって次の支配者が現れると考えるものです。しかし、日本のご皇室は、長くその歴史を紡いでいます。これは、「徳」に満たされている証拠なのではないでしょうか?

 

最古の民主国家?

日本の歴史は天皇さまの歴史です。そして、天皇さまは古い時代から、政治の実権を担うことなく、最高の「権威」として、存在されてきました。同じく古い歴史を誇るイギリスでは、約300年ほど前の国王ジョージ1世が、政治の実権を首相に委託し、以来「君臨すれども統治せず」という姿勢を貫いています。日本はイギリス王室の知恵を1000年も前の平安時代から実践してきたのではないでしょうか?

 

明治天皇さまの玄孫でもある竹田恒泰さんの著作によれば、日本人の多くは、民主主義のお手本とされるフランス革命が、大虐殺やカオスを生み出し、世界史的な悲劇をもたらしたことを知らないと指摘し、一方、実は日本こそ、現存する最古の民主国であることを高らかに宣言しました。天皇のもと、各時代の為政者は、民の意見を積極的にすくいあげ、人々の幸せを求めて「徳治政治」を実践してきたことを紹介しています。

 

民を大事にする政治

歴代の天皇さまは、国民のことを「大御宝(おおみたから)」と呼び、喜びを分かち合い、そして困難な時には、国民の側にに寄り添ってまいられました。巨大な古墳を造営されたことでも有名な仁徳天皇さまは、困窮する民を憂い、3年にわたって税を免除されたと記紀には記されています。 三年経つうちに民の暮らしはずいぶん楽になり、竈から煙が上がるようになりましたが「いや、もっと民が豊かにならなければ」と天皇はおっしゃって、さらに三年、税を取りませんでした。御所の建物が傷んできても、そのままにしておられたので、民の方から押しかけて「税を受け取ってください」「御所を修理させてください」と言ったと伝えられています。仁徳天皇陛下の民をおもう気持ちは世界でもなかなかいません。

 

現代になっても、皇居にお住まいになられていた昭和天皇さまは、戦後も、戦時中に建てられた防空壕をお住まいにされていました。地下にあるため陽も当たらないジメジメした建物でしたが、復興にまい進する国民に負担をかけまいと、質素すぎる暮らしを生活を20年以上もつづけられました。また、上皇陛下も、東日本大震災の発災後、御所内の電気をお切りになり輪番停電に協力されました。実は、御所のある千代田区は政府の機関も多く、停電の対象ではなかったものの、苦難を分かち合うため、率先して電力の削減に協力されました。その後の被災地訪問で、被災者の皆様が勇気づけられる姿を記憶している国民も多くいるのではないでしょうか

 

フランス王室では、国民が飢餓に苦しむ報をうけ、王妃マリーアントワネットは、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と、言ったといわれています。夜な夜な開かれる豪勢な晩餐会、結局、国民の怒りは頂点にたっし、フランス革命がおこり、王族は斬首され、フランスは民主国家となりました。

 

古今東西、ほとんど国の王族は、民を支配する対象としか扱わず、搾取してきた歴史があります。一方日本のご皇室は、民を「宝」と呼んで、大事にされてきました。日本の歴史が長く続く理由には、こうした民を尊重する政治、まさに「徳」の政治があったのではないでしょうか?

 

しらす国 

「しらす」とは、古事記の中に出てくる大国主神の国護りの一節に出てくる言葉です。

 

神話の時代、高天が原の支配者である天照大神の命を受けたタケミカヅチノカミ(建御雷神・鹿児島神宮の御祭神)が、出雲を治めていた大国主神に

「この葦原あしはらの中国なかつくには本来、アマテラスオオミカミの御子が『しらす』ところの国であると、国譲りの交渉をする。その中の一節、「大国主神が『うしはける』この地」と、「天照大神の御子が本来ならば『しらす』国である」

という2つの言葉を使い分けています。

 

「治める」という意味で「しらす」という言葉が使われ、大国主神をはじめとする一般の豪族たちのところでは「うしはく」という言葉が同様な意味で厳密に使い分けられています。「うしはく」とは西洋で「支配する」という意味で使われている言葉、すなわち、日本では豪族が私物化した土地を権力をもって支配するような場合に使われています。

 

それに対し「しらす」の意味は、同じ治めるという意味でもまったく違う。「しらす」は「知る」を語源としており、天皇はまず民の心、すなわち国民の喜びや悲しみ、願い、あるいは神々の心を知り、それを鏡に映すように、わが心に写し取って、それを自己を同一化しようとされる意味となります。

 

「しらす」の理念こそが日本国の根本であり、神話の世界から現代までつながるフィロソフィーです。

 

歴史は繰り返す

戦いによって手に入れた天下は、いつかまた戦いによって、奪われることになります。有史以来、世界中の国々で、【ウシハク】の世は続き、幾多の国が歴史の中に消えていきました。中国では、これを【易姓革命】と呼び。天子の徳が弱まると、天が怒り新たな皇帝が誕生させてきました。

 

一方、アマテラスは【シラス国】と言いました。支配するのではない、民の一人ひとりの生活を憂い、価値観を尊重し、「しらす」のだと。実際、神話の中では、地上を支配するオオクニヌシは争うことなく、国譲りをおこない、その功績を認められ天にも届く神殿を与えられます。これが国譲りであり、また出雲大社の創建のお話です。

 

オオクニヌシは天命に気づき、国を譲られました。長い間、神話の世界と思われてきた物語でしたが、平成に入り、出雲地方で大規模な考古学上の発見が相次ぎ、天にものぼる巨大な神殿の柱や、地中に埋められたけた違い多い銅剣や、銅鐸が発掘されました。神話は、実際に起こった史実を現代に伝えていたのです。

 

また明治維新でも同じ国譲りが行われています。260年もの歴史を誇った幕府は、あっさり大政奉還を行い。また戊辰戦争が起こっても、全面戦争することなく、平和裏に政権が移譲されました。これも他国ではありえない一種の「国譲り」と言えるのではないでしょうか。戦って国を奪った天下は、次の争乱を招きます。しかし日本の歴史は違います。争うことなく、お互いを尊重しあってきたのです。いい意味でも悪い意味でも、歴史は繰り返します。日本の平和やお国柄は、まさに天皇さまを中心に繰り返されてきたのです

  

最新の研究でわかった日本のなりたち

京都大学の崎谷満先生が分析したY染色体DNAの亜型分化によれば、人類はアフリカ固有のAB型、そしてアフリカを出た現生人類は大きく分けて3つのグループ(CDEFR)に分けられ、なんとこの3つの系統が同じ地域に分布しているのは、日本列島だけで、世界的にも珍しいケースであることを指摘しています。

 

これは何を意味しているかといえば、日本の地理的条件が、ユーラシア大陸の東の端に位置したことに由来しています。何万年もの時間をかけ、移動し枝分かれしてきた原始人類たちが、大陸の端っこで、再び出会い融合したのです。

 

そして、DNAの情報は、大陸のように大きな戦乱がなく、敗北した側の民族が絶滅に追いやられる事もなかったことを証明しました。東西に長い日本列島は、海の幸、山の幸に恵まれ、島国であったため他国からの脅威も無かったことも幸いしました。この日本は、民族だけではなく、世界の文明・文化の坩堝であるという、世界的にも珍しい国だったのです。

縄文時代の遺跡を調べると、武器らしい武器は出土せず、人骨や集落の跡を調べても人々の間に争いごとがなかったことが分かっています。神話の世界、そして発掘の結果でも、日本列島には平和を愛する民が住んでいたことが分かってきました。

  

しらす国と水戸学

17世紀、戦乱の時代が終わり、江戸時代がはじまると、日本の理(ことわり)を解き明かそうとする研究が進みました。本居宣長をはじめ多くの国学者が登場し日本の研究を深めるなか、徳川御三家の一つ、水戸徳川家では、二代藩主・徳川光圀公が、「古事記」「日本書紀」以降、日本に歴史書がないこと憂い、藩独自で歴史書の編纂を開始します。これが以後、200年以上にわたって書き記されることとなった「大日本史」です。

 

光圀公の呼びかけによって、東西から資料が集められ、多くの学者が集い編纂に従事するなかで、いつしか「水戸学」といわれる学問が誕生しました。水戸学は、日本の歴史が天皇さまの歴史であることに気づき、歴代の天皇さまの実績と、「徳性」に光をあてました。

 

 

 

 

 

  国体を護った水戸学

 

    

その時水戸は政治の中心にあった  

国体論は、幕末に水戸学によって打ち立てられ、明治憲法と教育勅語により定式化されました。「国体」とは、国家の状態、国柄(くにがら)のことをさします。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、万世一系の天皇さまが、君徳によって日本を護られることを指します。 

 

光圀公が編纂を開始した『大日本史』は、全397巻226冊にものぼり、1657年から1906年まで、完成までに250年も有したほどでした。1906年といえば明治39年のこと、この間、歴代の藩主たちは、決して潤沢とはいえない藩の財政の中から、やりくりをし編纂をすすめ、明治になっても、水戸徳川家は私費を割いて、完成にこぎつけました。

 

そして編纂の過程で、全国から学者や歴史にかんする写本が水戸に集まったことで、水戸は江戸時代を通じて、学びの都、学都としての地位をゆるぎないものとします。また斉昭公が創設した藩校・弘道館は、その規模。そして教授陣に日本最高峰の知性が集い日本の国を憂う多くの志士たちのあこがれの地となったのでした。

 

藤田東湖によって記された弘道館記碑には、「尊皇攘夷」や「国体」の在り様を現代に伝えています。

   

弘道館記(藤田東湖作「弘道館記」(訓み下し/現代語 要約)

道を弘めるものは人である。故に人は人としての道を学び、これを弘める使命を持たなければならない。日本の道は神皇の道である。ご歴代の天皇も国民も、この道を一貫して守って来た。わが国の歴史に栄枯盛衰はあっても断絶が無いのは、非常逆境の時に非常の人物が出て、この道を死守して来たからである。だから、国民はこの恩に感謝し、この恩に報いなければならない。

 

この恩に報いるためには、日本の道を実践するとともに、外国の良い教えを取り、忠孝二無く、文武岐(わか)れず、学問事業其の効を殊(こと)にせず、神を敬い儒を崇び一方に偏することなく、衆思を集め、群力を宣(の)べなければならない。それには日夜怠らず努力することが必要である。

 

水戸藩と尊王攘夷 

水戸藩が「水戸学」をもとにした尊王攘夷思想の発信地であることはよく知られています。藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斎ら優れた学者を輩出し、吉田松陰も真木和泉もはるばる水戸を訪れて教えを受けました。西郷隆盛も大きな影響を受けています。

 

「尊王攘夷」というと過激な思想のように思われるかもしれませんが、天皇を尊び、外国の侵略から日本を守るという意味で、アヘン戦争やペリーの砲艦外交の本質を知る当時の知識人には、しごく当然の考え方でした。明治維新の基本精神でもあり、そのフィロソフィーは、明治、大正、昭和と、受け継がれ、天皇さまを象徴と仰ぐ、憲法下の現代にも受け継がれています。

    

吉田松陰と水戸学 

吉田松陰が水戸を訪れたのは、嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日にかけてです。この地にあった永井政介宅に約1カ月余り滞在する間、会沢正志斎・豊田天功等に師事しまた水戸の青年有志と交わり、水戸の学問の真髄を学びました。その精神は、松陰を通じ、松下村塾で伝えられ、やがて長州藩の志士を奮起させ明治維新の原動力となったのです。 

 

西郷隆盛と藤田東湖

西郷が藤田東湖に会ったのは嘉永七年(1854年)、西郷が庭方役に抜擢されて数日後、樺山三円とともに小石川の水戸邸へ行き、藤田東湖と面会しています。このとき西郷は28歳で、東湖は49歳でした。

 

雄偉な体格の東湖は、顔が浅黒く、眼光炯々、一見して豪傑だとおもわせる風格があったといわれています。二人をよく知る者からは、東湖と西郷は一見して豪傑とわかる風貌であり、似ているところがあったと語っています。

それでいてお辞儀などは鄭重な人で、頭を低く下げて挨拶をするし、話をするのでも謙遜な人であった。西郷も藤田は、この点でもよく似て人物でした。

   

西郷は対面を果たした藤田の印象を、叔父へ宛てた手紙ではつぎのように書いています。

 

(東湖のもとを訪れると)清水を浴びたようであり、一点のくもりすらない清澄な心になり、帰路をわすれてしまうほどであります。(中略)自画自賛となりますので人には言えませんが、東湖先生も私のことを嫌っているようすはなく、いつも丈夫と呼ばれ、過分の至りでございます。(中略)もし水戸の老公(徳川斉昭)が鞭を挙げ、先駆けて異国の船と戦うならば、一目散に駆けつけ殉じてしまいたいほど心酔しています。どうぞ笑ってください。(以下略)――椎原与右衛門、同権兵衛宛 安政元年七月二十九日(現代語訳)

  

この手紙によっても西郷がいかに東湖および水戸に心酔していたかが窺える。

 

水戸藩は尊皇思想(水戸学)の本山でした。なかでも藤田東湖は理論においても実践においても水戸学の中心人物物でした。年齢も、生まれも全く違う西郷を、藤田は弟子でなく同志としてみたうえで、こんな言葉を残しています。「天下の事を信任すべきは西郷氏ひとりか」と語り、事実上、自分の後継者として、高く評価をしていました。

 

藤田東湖が安政の大地震で死去したのち、西郷は維新の政局の中心に躍り出て、倒幕と新政府の樹立という偉業を成し遂げました。同じ時代を生きた坂本龍馬は、西郷のことを「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く」と、評していました。豪傑であった東湖が打った西郷のドラの音は、明治という新しい時代の扉をこじ開けました。

 

維新の魁として比類なき活躍をみせた水戸の志士たち。しかし熱すぎる情熱は時に暴走し、結果、明治維新の実りをえることはありませんでした。しかし、藤田東湖の言葉を借りれば、水戸の志士たちの想いは、水戸の地を離れ、西郷さん、そして吉田松陰を通じて長州に引き継がれ、明治という新しい時代をつくったのです。  

 

 

  「徳」とは?

 

 

 タライの水

江戸時代の思想家、二宮尊徳は、「たらいの水」で徳の思想を現わしました。たらいの水を自分の方に引き寄せようとすると、水は向こうに逃げてしまう。相手にあげようと押すと、こちらに帰ってくる。幸福を独り占めしようとすると逃げてしまうが、相手のために尽くしていると幸福は勝手にやってくる、という教えです。つまり喜びの種を蒔こう。相手が喜ぶことをすれば自然と自分にも喜びがかえってくると、人々に説いたのです。実際、二宮尊徳が普及させた尊徳仕法は、荒廃した農村を救い、またその精神は弟子たち通じ全国に伝えられ、トヨタグループの祖、豊田佐吉翁などを誕生させています。

 

親切をすれば親切で返されるという日本の国柄を示す「タライの水」の逸話。それは二宮尊徳が独自に編み出したものではなく、有史以来、歴代の天皇さまが示されてきたお国柄、そして祐徳の思想そのものではないでしょうか?

 

100年の恩返し

日本の歴史を振り返ると国柄が生んだ逸話が多くあります。明治時代、トルコの軍艦エルトゥールル号が座礁し、多くの船員が荒波に投げ出されました。当時、和歌山県串本町の人たちは、自分たちも食糧難の中、食べ 物も衣 類も提供し、必死の救助を行いました。また、日本国政府も全力で支援し、69 名がほどなくして無事にトルコに帰ることができました。トルコはこのことに深く感謝し、教科書でエルトゥールル号のことを子供たちに教えているそうです。

 

時は流れて、100年後。中東のイラクで、フセイン大統領が、48時間後に上空を飛ぶ飛行機をすべて撃ち落とすと宣言します。この宣言の結果、各国のチャーター機が自国民を救出するためテヘランの空港に集まります。しかし日本は、当時の法律の不備もあり、自衛隊機の派遣ができず、多くの日本人が取り残される事態となりました。

 

飛行禁止のタイムリミットが迫るなか、在イラクのトルコの大使は困り果てた日本人大使に対して、「トルコ人なら誰もがエルトゥールル号の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しさせていただきます。」と言い、トルコに連絡をしました。要請を受けたトルコ航空は、自国民救出用の旅客機を2 機に増やして、日本人 215 名が無事に出国することができました。

 

情けは人のためならず・・・100年もの時を隔てて、タライの水のように、日本の寒村の真心が、未来の日本人を救うことなりました。 っていか、トルコすごい!

 

日本人の「心」

2011年 3月11日に東日本大震災が発災しました。震度 7の地震と巨大な津波によって多くの命が奪われた、日本にとっては忘れられない悲しい災害です。こんなに大きな災害のときにも、日本の国柄が見られ、その姿に世界は驚きました。それは何かというと、助け合いの精神でした。自分の家が流され、家族が行方不明だというのに、他の人を心配したり、水や食糧を奪い合うことなく、みんなで分けようとする行動に、世界は感動したのです。実際、ニューヨーク・タイムズでは2011年3月16日に「日本の混乱の中 避難所に秩序と礼節」という記事を掲載しています

 

「徳」とは

辞書によれば、「徳」とは、精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。そして、 めぐみ。恩恵。神仏などの加護などと表現されます。ポイントカードのように善行を積めば手に入るものでなく、そもそも何をもって善とするのか?よく使う言葉ですが、誰もうまく表現できない概念です。

 

 昭和を代表する経営者である松下幸之助さんは、「徳」について、『雨が降ったらパッと傘をさす、そういうもんや』と、独特の表現をつかって説明しています。また次のような言葉も残しました

 

 

『君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。』

 

学が足りない家訓二ストにとっては、「徳」とは結局、何のこっちゃ分からない概念です。

日本は世界で一番古い国であり、また類まれな平和を保ってきた国でもあります。何のこっちゃ分からない「徳」ですが、歴代の天皇さまの御普請の結果、日本が「徳」に満たされた幸せな国になったことはわかります。タライの水は、独り占めしようとすれば、手元から温かみが逃げていきます。天皇様のご慈愛に満たされた幸せな国、日本。今度は日本の幸せを世界に広げる必要があるのはないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

  (参照:一般社団法人 あたらしい道)

http://atarashiimichi.or.jp/booklet/202005/series04/01.html

 

明治時代の日本は外国の学者の眼に

世界に類を見ない素晴らしい国と映っていた。

 

外国の学者の先見性

それまでの鎖国をやめて明治維新を迎えた明治の頃の話です。日本でも西欧先進国の考え方を取入れようと、舶来式が本格化した時代でした。そういう時代に、日本は素晴らしい国と見ていた外国の学者がいました。将来、世界の中でも最も中心的な役割を果す国は、日本しかないと、予測していたのです。

 

この、「世界をまとめる中心は最も尊い国柄の日本」でなければならないという内容を、どこかで聞いたことがないでしょうか。これはアインシュタインの言葉としてよく引用されています。しかし、おそらくそうではなく、元々、ドイツの法学者シュタイン博士が言った言葉だったのです。

 

法学者シュタイン博士

国民文化研究会理事の名越二荒之助(なごしふたらのすけ)氏の著書『新世紀の宝庫・日本』によれば、明治20年、ドイツの法学者ローレンツ・フォン・シュタイン博士(1815 -1890)は、天皇家の徳とその永続性に対して、驚くべきことを述べています。彼は、プロイセン(ドイツ帝国)を建設した時代に活躍した法学者であり、また1882(明治15)年、伊藤博文等が明治憲法をつくるときには、日本に協力してくれた人物として知られています。

 

初代総理大臣である伊藤はドイツのシュタイン博士の自宅で、実際に国家学の講義を受けています。そのときシュタイン博士は、ドイツ体制には批判的でしたが、日本の国情・歴史を分析した上で敢えて彼自身は批判的であったドイツ憲法を勧めています。伊藤は、博士の案を受け入れ、神話の時代から続く、権威の象徴である天皇さまを近代国家の君主として、新たな位置づけをすることに成功しました。なお、弟子のカール・マルクスは、このシュタイン博士から社会主義・共産主義を学んで、のちに『資本論』を発表しています。

 

 そのシュタイン博士は、日本の天皇の制度に対してどのような見解を示したのでしょうか。田中智学著『本化開導法』に、シュタイン博士が語った様子が詳しく描かれています(要約)。

 

明治20年、海江田信義子爵(後に枢密顧問官)がドイツで有名なシュタイン博士に会ったとき、博士の要望で同行の丸山作楽が、日本の歴史を建国の初めから話しました。これを聞いたシュタイン博士は、日本という国はただの国ではないと思っていたが、こういう歴史があったのか、と驚いていたといいます。

 

そして、次のようなことを言いました。将来、世界はどうしても、一つにならなくてはならない。世界の国々がバラバラに存在して、それぞれの国家が勝手に主張を繰り返すのではなく、合理的に一つに統一しなければならないときが来るだろう。そのとき中心となる国は、軍隊の強い国ではなく、金持ちの国でもない。「昔から伝来してきた最も尊い家柄」で「昔から毅然として一つの道義を以って貫いた国」である。

 

そして、そういう国が世界のどこかになければならないと思っていたが、東洋の中でも日本の国だけが相応しいと、今日、日本の国の成り立ちを聞いて、初めて分かったと言ったそうです。さらに、「将来世界統一の大会議が開かれたとき、必ず日本をもって世界の盟主とすることを提案する者が現れ、満場異議なくこれに集るだろう」

 

シュタイン博士はそう言った、と聞いた海江田子爵と丸山氏の二人は非常に喜び、帰国した後、このシュタインの言葉を、船が横浜に着くや否や、当時、明治天皇が葉山においでになるので、すぐ伺侯し、高崎正風男爵を通じてそれをお伝えしたそうです。

 

日本人は、それほど日本の文化が特有のものとは感じていませんが、自国の最初の祖先を神と仰ぎ、代々の天皇がその子孫として続くこと位、権威のあるものは無く、人智を超えたものと言えます。日本人はこの恵まれた国を空気のように当たり前のように感じていますが、ヨーロッパでは、ユダヤ、ギリシャ、ゲルマン、北欧等は、神話から実際の歴史への継続性はなく、また連続しない国家の歴史があるのみです。日本の国は、ヨーロッパ人にとっては夢の国です。

 

シュタイン博士の国ドイツで言えば、「ゲルマン神話に登場する神々の首領であったオーデンの子孫が、ドイツの王として続いている」ようなものだといいます。興亡果てしない歴史を経てきたヨーロッパ人から、日本の万世一系の歴代の天皇の制度を見れば、驚きを持つでしょう。

 

東洋にも古い国はありますが、日本のように直系子孫によって現代まで受け継がれている国はありません。

 

 

国内にいると分からない外国人が感じた本当の日本 

本来の日本に還る胎動は始まっている。ギネスブックに日本が世界最古の国として登録されていると言われています。正確に言うと、これはギネスブックの「世界最古の王家」の項目で登録されていたそうです。今現在、神話の部分を除いたとしても、日本が世界最古の国としてあることに変わりはありません。第2位のデンマークは、10世紀ごろに建国されています。

 

インターネットを使用する若い世代の間では、世界最古の国家として登録されているとの話となって広まり、有名になっているそうです。世間の人々は、本来の日本の素晴らしさをよくわかっています。また、若い人々程、素直に元を感じ取っています。国替えは、すぐそこまで来ているのではないでしょうか。

 

  

国民と書いて「大御宝」(おおみたから)読む

 

本当の豊かさとは

サウジアラビアの国王が1000人もの王族たちをつれて来日した際、サウジアラビアの王族たちの旺盛な消費が話題になりました。この王族の訪問に先だって、サウジアラビア政府は東京都の高級ホテルを中心に1000室以上を予約して、移動のためのハイヤーを約500台を確保したという。

 

2016年の9月、サウジアラビアの皇太子が天皇陛下と面会しています。このとき、陛下が皇太子をむかえた部屋が世界的に大きな話題になりました。中東をはじめ、諸外国での公式訪問の際には、これでもかっと、きらびかな空間で歓待するのが一般的です。一方、日本のご皇室は、これでもかっと、質素すぎる空間で面会にのぞまれている様子がわかります。国の威信をかけた外交の場面において、逆張りとも思える質素で謙虚なご姿勢に、かえがたい歴史の重さと、豊かさを演出しているように思えます。

 

謙虚さは天皇家の家訓?

中国の頤和園(いわえん)は、北京市街の西北約15kmのところにあります。12世紀に造営された皇帝の離宮で、第二次アヘン戦争の時(1860年)に英仏連合軍に焼き払われました。それを、西太后が再建しました(1888年)。ユネスコの世界文化遺産に登録されている庭園公園で、面積が、290平方キロメートル。そのうち75%が水面、つまり湖。庭園内に湖があるのです。

 

290平方キロメートルの頤和園を再建する、莫大な費用を捻出するため、西太后は日本との戦争のために積み立てた軍費をあてたといわれています。当時清朝は、日本との軍事的緊張が高まり、旧式の軍備をリニューアルし増強するための歳出を必要としていたのです。それにもかかわらず、北洋艦隊を整備する海軍予算を頤和園の再建費に流用してしまったのです。  

 

このことが、日清戦争敗北の原因の一つと言われています。反対に、明治天皇さまは、倹約につとめ日本の勝利のために国民一体となることをのぞみ、また実践されています。また、昭和天皇さまは、戦時中、仮につくられた防空壕を戦後もお使いになり、雨漏りのたえない仮舎を昭和40年代までお住まいになられました。 

 

仁徳天皇さまの逸話「かまどの煙」は戦前の教科書に載っていたエピソードです。はるか古代の天皇さまと等しく、君子みずから、雨漏りに耐えてまで、国民の安寧を願う姿勢にこそ、ご皇室が国民から愛され、世界中から尊敬される源になっているのではないでしょうか?

 

天皇さまにとっての宝は国民

古くから御皇室では、国民のことを「大御宝」(おおみたから)といい、つねに国民の豊かさにお心を砕いてこられました。中東の王室が高価な宝石で着飾るのとは対照的に、日本の皇室は、宝は宝石ではなく国民であるとしたのです。

 

湯水のように石油が輩出する国と違い、日本には資源はありません。また、西欧列強のように、植民地をひろげ、その富を奪うこともありませんでした。しかし日本には、天皇さまと、天皇さまを慕う国民がいます。

 

一面焼き野原となり、世界中の誰もが日本の復活を信じなかった大東亜戦争の敗戦。しかし日本は経済大国となり、対外資産は、1000兆円を超え、日本は世界最大の対外純資産国になりました。大御宝は文字通り、本物の宝となったのです。

 

すげーぜ、日本^^

慣が、素晴らしい人生をつくる

家族の無事をねがい、子供の健やかな成長をたくす「育児」。しかし、様々な情報が錯そうし、何が大事か、何を優先すべきか、迷子になっていませんか?

わたしは、そんなお父さん、お母さんの悲鳴をききつけ、解決を図るために、様々な機会に登場し、「家訓づくり」のセミナーを開催してきました。

 

この5年間で、PTAや、各種研修、青年会議所などを中心に、全150回、7000名を超える方々に対し研修をおこなっています

 

「家訓」とは、言い伝えや教訓を子孫に残す文化で、古来より日本に根付いてきました。古臭いもの、あるいは、名家や、老舗にあるもので、自分の家とは関係ないと感じたのではないでしょうか?しかし、「家訓」は特別なものではありません。誰にでもできるシンプルな習慣です。守ってほしい家族のルールや、人生のなかで大事にするべき「伝えたい」言葉、それが家訓です

 

家訓は、おじいちゃん、おばあちゃんの知恵であり、人生で本当に大事にしなければならい金言がそこには溢れています。たとえば、セミナーを受講された狭山市の石川さんは、「靴をそろえる」という家訓をつくりました。たったそれだけのことでも、家族全員が、1つのルールを守る事で、たくさんの素敵な変化が家族のなかに起こったと教えていただきました。家訓づくりでつくる習慣が、ご家族の素晴らしい人生を約束します。学校の勉強も大事ですが、もっと大事なもの、それが正しい習慣です。

 

この度、セルバ出版さまより

世界一簡単な幸せをまねく家訓の作り方

 

が、発刊されます。

これまでのセミナーで学んだこと、体験してきたことを1冊の本にまとめました。これにあわせ、家訓ニスト協会(仮)と、協会の専用のホームページを立ち上げます。

 

この機会に、著作を多くの皆様に手に取っていただき、素晴らしい家訓の世界と、幸せを招くちょっとしたヒントを全国の皆様にお届けできれば幸いです

 

2015年5月

家訓二スト協会(仮) 会長 幡谷哲太郎

 


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・・・工事中

kakun

 訓は、家族を幸せにする魔法の杖

 

家訓と出会って、本当に今の自分が幸せなんだなと感じるようなりました。

(埼玉県 主婦Aさんより)

 

家訓づくりに挑戦した主婦の方から、嬉しいお便りを頂戴したことがあります。子育てのなかでは、忙しい毎日をこなすばかりで、イライラがつのり、主人や子どもにあたり、「私だけ辛い。誰も理解してくれない」と壁を作ってはマイナス思考の日々だったそうです。それでも心のどこかで「このままではいけない」と感じたなかで、出会ったのが、「家訓」によるシンプルな子育てです。

 

 をそろえる

家訓づくりのセミナーでは、シンプルな家訓を選ぶようにおすすめしています。埼玉県狭山市の石川さんは、「靴をそろえる」、そんな家訓を制作されました。

 

最初は、半信半疑で始めた習慣でしたが、家族で決めた、1つのルールをみんなで守るようになると、家の中がピシッとするようになったと石川さんは教えてくれました。

 

下のお姉ちゃんは、幼稚園で、この習慣を守り、他の園児の靴を毎日そろえているそうです。

お母さんも、子供の変化に驚いており、それまで、怒ってもいう事を聞かなかった子供たちが、「靴をそろえる」家訓をきっかけに、自分のことを自分でやるように変わってきたとの嬉しい報告をくださりました。

 

家訓は、家族を救う魔法の杖です。ぜひそんな魔法をあなたの家族にかけてください。

 

 訓づくりはエンターテイメント

 

育児は、育児本でなく、手本。そして輝く父ちゃんと母ちゃんこそが、一番の教科書です。

わたしは、単純に、いい母ちゃん、いい父ちゃんのもとでは、いい子どもが育まれると考えています。

 

家訓づくりのセミナーは、楽しく笑顔がたえない内容です。そして、家訓は家族の歩みに寄り添い、もっとたくさんの笑顔をご家族にもたらします

 

人生をハッピーに過ごしてもらうために!家訓ニスト協会(仮)では家訓づくりを推進していきます

 

 

 

 

 

 

Gallery

セミナーの実施風景①(尾道)


 セミナーの実施風景②(幸手市) 

 

セミナーの実施風景③(安来市)

ガイダンスにしたがって、誰でも楽しく家訓づくりに挑戦できます