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平清盛と武士政権の誕生

 

 

平氏にあらずんば、人にあらず

 

 

 

平 清盛(たいら の きよもり)  

 

生誕:永久6118日 

 

死没:治承5年閏241181

 

 

 

平安時代末期の日本の武将で公卿。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。

 

 

 

平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

 

  

 

平清盛は平安時代後期(約1150年頃)に活躍した武将です。武家として初めて国政の最高責任者である太政大臣となり、平氏政権を築きました。清盛が他界してのち、「源平の争乱」で平氏は滅亡してしまいますが、その後源頼朝が鎌倉幕府を開きます。これは、清盛が公家中心の世であった国のあり方を変え、武士による政治の道を切り開いていたからこそ実現したものでした。

 

 

 

清盛の父親は誰なのか?

 

清盛は、平氏の棟梁であった平忠盛の後を継いだので、忠盛の子というのが通説です。ただ、清盛が武家にもかかわらず当時としては異例の出世を遂げていることから、実父は白河院ではないかという説もあります。

 

清盛の目覚ましい出世の理由としては、清盛の母が、祇園女御という白河院の寵愛を受けた女性、もしくはその妹であったからとも考えられます。

 

実際のところ、清盛の生みの母が誰だったのかはわかりません。しかし、白河院の覚えめでたい祇園女御が後ろ盾となって清盛を支えたのであれば、若くして朝廷に取り立てられたのも不思議ではありません。

 

平忠盛には清盛以外にも家盛、頼盛という息子がいました。彼らの生母は、忠盛の正室である宗子です。当時、正室の子というのは嫡流と考えられ、父親の後を継ぐのが一般的でした。

 

清盛がなぜ忠盛の後継に指名されたのか?そこを解く鍵は、誰が清盛の実の父親だったのか、という点にあるかもしれません。

 

 

 

 1153年に忠盛が死去し、清盛は平家の棟梁となります。1156年に天皇や藤原摂関家のお家騒動である保元の乱が勃発。清盛は後白河天皇につき勝利します。叔父である平忠正は敗者側の崇徳上皇側についており、清盛は自らの手で斬首しています。源氏も親子で後白河天皇派と崇徳上皇派に分かれて戦っており、崇徳上皇側についた源氏を斬首する事で、源氏の力を削ぐ目的があったと言われます。後白河天皇についた源義朝は、自らの手で父親の為義を斬首しています。

 

 

平治の乱では朝廷に力を持っていた信西が自害。クーデターを起こした藤原信頼や源義朝に勝利する事で、清盛は武士の第一人者となり、朝廷の軍事力を掌握します。義朝は敗死し、息子の頼朝は伊豆に流罪となりました。

 

 

太政大臣となる 

 

清盛は譲位した後白河上皇と二条天皇の双方に仕えつつ、摂関家に娘を嫁がせる等、朝廷での足固めを続けます。1167年には武士として初めて太政大臣となりますが、実態は名誉職に過ぎず、3ヶ月で辞任します。後に出家し、表向きは政界から引退しますが、嫡男の重盛に引導を渡しつつ、朝廷に大きな力を持ち続けました。

 

 

その後は福原(現在の神戸)に別荘を作り、厳島神社の整備や日宋貿易の拡大に努めます。清盛は宋と貿易を進め、海洋国家の樹立を考えており、都市整備が進めば福原幕府が出来ていた可能性がありました。

 

 

天皇の外祖父になる 

 

清盛の勢力拡大に対し、後白河法皇は危険を感じ、両者の中は徐々に悪化。1177年に鹿ケ谷の陰謀で平家打開の陰謀が露呈。その後も死去した重盛の土地を没取する等、法皇は対立を深めていきます。1179年に清盛は治承三年の政変にて法皇を幽閉し、多くの政敵を処罰します。翌年には安徳天皇が即位。安徳天皇の母親は清盛の娘の徳子であり、清盛は天皇の外祖父となり、政治の実権を完全に掌握しました。

 

 

平家の陰り

 

平家の繁栄は各地で反平家派を増やし、11806月には法皇の息子以仁王が挙兵。清盛は都を京都から福原に強硬に遷都します。火種は大きく、呼応して8月には源頼朝が挙兵します。清盛は重盛の子の維盛を総大将にして関東に派遣しますが、富士川の戦いで交戦せず撤退。福原の遷都も反対が多く、11月には平安京に戻る等、繁栄にも陰りが見えてきたのです。

 

 

 

平清盛の死因と最期

11812月に清盛は京都で東国の武士達の追討を命じますが、熱病にて倒れます。平家物語では体に水をかけると蒸発したとか、黒煙が部屋中に渦巻いたと書かれています。死期を悟った清盛は法皇に宗盛(清盛の三男)と協力して政務を行うよう上奏しますが返答はなく、天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからずと言い残し、亡くなりました。

 

平家物語では死因はあつち死にぞし給けると書かれています。作中の遺言では頼朝の首を刎ねて、我が墓前に添えよ と言ったそうです。

 

太政大臣とは?

 

大宝律令において司法や行政に携わる人を太政官と呼びました。太政大臣は太政官を束ねる律令政治におけるトップの役職です。元は摂政や関白に並ぶ権力を持ちましたが、藤原家が権力を持つ頃には権力のない名誉職となりました。公家以外で任命されたのは平清盛、足利義満、徳川家康、豊臣秀吉と秀忠のわずか5人です。

 

太政大臣は名誉職なので、政治の場での意義は殆どありませんが、貴族が支配していた朝廷の中で、武士が政治のトップである太政大臣に任命された事は、後に始まる武家政権の足がかりとなりました。

 

 

 

源氏平氏は臣籍降下(姓をもらい皇族でなくなった人)した皇族の子孫です。平清盛や平将門のルーツは桓武天皇の皇子まで遡り、同じ先祖に行き着きます。平将門の鎮圧に功があった平貞盛の四男である平維衡は、伊勢に勢力を拡大し、後に伊勢平氏と呼ばれます。平維衡から数えて4代目であり、清盛の祖父でもある平正盛は、白河天皇に仕えて勢力を更に拡大させます。その息子である平忠盛は伊勢平氏で始めて昇殿(天皇の私的区域に入れる)を許されます。更に日宋貿易で莫大な富を得ます。清盛は後に驚異的な出世を果たしますが、正盛や忠盛の武力や財力を受け継いでいた事も大きいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

800年前のグローバル社会

 

 

 

 

世界遺産にも登録された厳島神社、現代の建築技術でも難しいとされる海の上の神殿をきづいたのは、平清盛です。日宋貿易で財をなし、はては福原(現在の神戸)に遷都を試みた清盛が目指したものは、交易による国の発展だったのかもしれません。

 

参照:ビジネスジャーナル

 

https://biz-journal.jp/2020/02/post_139290.html

 

  

 

 

 

平清盛、自由貿易を確立し国に経済的栄華…800年前の卓越したグローバル感覚

 

 

 

 

 

岡市博多区上川端町の小学校跡地で見つかった石積み遺構が、日宋貿易で使われた港の一部だった可能性が高まっている。小学校跡地は日宋貿易当時、海に面していた。周辺で出土した中国産の白磁器から、平安時代後期の遺構と特定した。火薬の原料として日本から多く輸出していた粒状の硫黄も発見された。

 

 

博多は11世紀後半から国際的な交易拠点として栄えたとされるが、これまで港の位置は不明だった。産経新聞の取材に対し、市埋蔵文化財課の菅波正人課長は「当時国内最大の交易都市だった博多を解明する上で、重要な成果だ」と話している。

 

 

894年、菅原道真の建議で遣唐使が停止されて以来、平安中期から南北朝前期にかけて、日本と中国の間には定期的な国家使節の往来がなくなった。しかし、それによって日中の交流が途絶したわけではない。九州と中国を往来する民間貿易船が交流を担ったのである。

 

 

福岡の小学校跡地から発見された中国産の磁器と硫黄は、日宋貿易の特徴をよく示している。日宋貿易は最初、外交使節・商人の滞在施設である太宰府の鴻臚館(こうろかん)で行われていた。宋の商船の来着があると公卿会議にかけられ、受け入れが決定すると商人を鴻臚館に滞在させ、朝廷が優先的に陶磁器などの唐物(舶来品)を購入した。

 

 

やがて宋の商人と荘園や国府の役人との私的取引が盛んになり、多数の商人が博多を拠点にして活動するようになる。11世紀末、博多に住みつく宋の商人の数が増し、「唐坊」と呼ばれる居留地が成長を遂げた。12世紀後半になると、唐坊は博多の全域に及ぶようになり、宋の商人と日本人の雑居が進んだ。

 

 

日宋貿易の活況に目をつけたのが、武士として台頭してきた平氏である。平忠盛は鳥羽院領の管理者となり、そのうちの肥前国(佐賀・長崎県)神崎荘で、太宰府の干渉を排除。宋の商人と直接貿易を行って蓄財に励み、唐物を院に献上することで宮廷での地位を高め、一族の栄華の基盤を築いた。

 

 

清盛、西国国家樹立の夢

 

忠盛の莫大な財産を棟梁として引き継ぎ、宋の商人との交易を進めたのが、忠盛の長男の平清盛である。清盛は、保元の乱で功績をあげて太宰府大弐(だいに)となったことで九州に勢力を広げ、宋との貿易を促進した。平治の乱の勝者になった後、1167年、武家として初めて太政大臣の位に就く。翌年大病にかかって出家するが、奇跡的に回復。その後は宮廷のさまざまな制約から解き放たれ、自由に自らの道を進んでいく。

 

 

 

盛は妻の弟、平時忠を検非違使(けびいし)別当として京を制圧しつつ、自分は摂津国(大阪府・兵庫県)福原に別荘を構え、大輪田泊(現神戸港の一部)の修築に力を注ぐ。宋の商船を瀬戸内海の奥深く、福原の足下まで迎え入れようとしたのである。福原は九州・瀬戸内航路の起点であり、宋や高麗(朝鮮)に通じる海の道への窓口だった。

 

 

歴史家の網野善彦氏は、清盛の構想について「海を主要な基盤とする西国の独自な政権、西国国家樹立の夢にまでふくらむ可能性を、十分にはらんでいた」(『中世的世界とは何だろうか』)と述べている。

 

 

実際、平氏は西国の海に強固な基盤を築いていた。清盛は肥後守を振り出しに、安芸守、播磨守、さらに前述のように、九州を統括する太宰府の実質上の長官、大弐となり、これらの地域に多くの拠点を築いた。博多湾では埋め立てにより「袖の湊」を建設している。また、安芸守在任中、瀬戸内海航路の要衝・宮島に鎮座する海神として、海賊たちの尊崇厚い厳島神社と強い信仰関係を結んだことは、瀬戸内海の支配の要を抑える意味があった。

 

 

1170年、清盛は福原の別荘に後白河法皇を招き、宋からの商人と引き合わせる。古い観念にとらわれた貴族たちにとっては「天魔」の所行と映る暴挙だったが、清盛には宋の重要な港である明州(寧波)と福原の貿易を定期化しようとの狙いがあった。

 

 

清盛は瀬戸内海への入口、門司を平氏の所領とし、音戸の瀬戸(広島県東部)を船が通れるように開掘するなど、着々と海の道の支配を推進。ついに大輪田泊にまで宋船を迎え入れることに成功する。その結果、陶磁器、絹織物、薬剤、書籍、文具といった唐物が大量に持ち込まれて倍以上の値段で売りさばかれ、清盛は大きな収益を手にした。一方、北方の周辺諸国と対立していた宋は、日本から刀剣や、火薬兵器の原料となる硫黄を輸入した。

 

 

清盛は唐物を利用しておもだった貴族を籠絡し、政治力を磐石のものとする。「平家にあらずんば人にあらず」といわれる平氏の栄華は、自由な貿易がもたらす富と、それにいち早く着目した忠盛・清盛らの慧眼によって築かれたと言っていい。

 

 

自由貿易こそ国を富ませるカギ

 

清盛のグローバルで柔軟な発想は、貨幣制度に関しても発揮された。当時、日本政府はお金を発行していない。流通していたのは宋から輸入された銅銭(宋銭)である。今で言うなら、国内で日本円ではなく人民元が流通していたようなものだ。

 

 

高倉天皇は、右大臣の九条兼実に対し「輸入銭の使用は建前では日本の法に背くので禁じるべきであるが、その使用は現実に広まっている。模造銭以外は通用を許そうと思うがどうか」と諮問した。高倉天皇の皇后は清盛の娘であり、諮問の背後には清盛の意向があった。兼実は反対したが、結局は宋銭の使用が認められた。かつて日本政府は、和同開珎に始まる官製貨幣「皇朝十二銭」を相次いで発行したが、改鋳のたびに品質を落としたため使用されなくなり、経済活動に支障をきたした。清盛が宋銭を選んだのは、この教訓が頭にあったからかもしれない。海外の貨幣であれば、日本政府の改鋳によって品質が悪化する恐れはないからだ。

 

 

1180年、清盛は突然、福原への遷都を発表し、わずか3歳の安徳天皇をはじめ、後白河法皇、高倉上皇をはじめ、多くの貴族たちがこの新都に移った。西国国家樹立の夢へと大きく近づいたのである。

 

 

だが、源頼朝が東国の伊豆で挙兵したことや西国諸国の反乱などを受け、遷都はわずか半年で頓挫した。翌年、清盛は死去する。1183年、平氏は北国で源義仲との戦いに大敗。押し寄せる源氏の大軍を前に京を捨て、九州に下って、一門ゆかりの太宰府を当面の都とする。やがて太宰府を捨て、讃岐国(香川県)屋島に移った後、源義経軍に敗れ、壇ノ浦の海中に没する。海を基盤に国家を築こうとした人々にふさわしい最期だったといえる。

 

 

米国と中国、日本と韓国など、今の国家は政治的な対立から互いに自由な貿易を妨げようとしている。これは自国を経済的に貧しくする自滅行為だ。自由貿易こそ国を富ませるカギだと理解していた平清盛が知ったら、さぞあきれることだろう。

 

(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

ザビエルの観た日本

 

 「日本人にとっては、名誉がすべてである」

(ザビエルの書簡より)

 

フランシスコ・デ・ザビエル

生誕:1506年頃4月7日

死没:1552年12月3日

 

スペインのナバラ王国生まれのカリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。 ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。

 

ザビエルと日本人

日本人の印象について、書簡として遺し、その多くがバチカンに保管されています。当時のヨーロッパ人は、戦国時代の日本人をどうみていたのか?その一部を紹介します。

 

・この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます

 

 ・日本人はたいてい貧乏である。しかし、武士であれ平民であれ、貧乏を恥辱だと思っている者はひとりもいない。……武士がいかに貧困であろうと、平民がいかに富裕であろうと、その貧乏な武士が、富裕な平民から、富豪と同じように尊敬されている。

 

・住民の大部分は読み書きができる。

 

・日本人は妻をひとりしかもっていない。窃盗はきわめて稀である。死刑をもって処罰されるからである。かれらは盗みの悪を非常に憎んでいる。たいへん心の善い国民で、交わり学ぶことを好む。神のことを聞くとき、とくにそれがわかるごとに大いに喜ぶ。

 

 

宣教師たちの裏の顔

 

 

信仰は人生に豊かさをもたらし、人間的な成長を助けてくれるものです。そんな素晴らしい神の存在をより多くの人に知ってもらいたい・・・ 15世紀にはじまった大航海時代の宣教師たちは、危険な航海をいとわず、ヨーロッパからアフリカ、南米、アジアへと布教の旅に出たのでした。そして、ユーラシア大陸の東端の日本にも、ザビエルによって、キリストの教えがたどりつくこととなりました。

 

時には死をも恐れない宣教師たちの一人ひとりの信仰心は、純粋なものであり、その功績は輝かしいものです。しかし世界史をひもとき俯瞰した目で、彼らの行動を分析すると、違った顔がみえてきます。画像は、長崎にたつ26聖人の像です。時の権力者、豊臣秀吉の命によって処刑された信者や宣教師たちの悲しい歴史を今に伝えています。

 

戦国時代の日本で、東洋と西洋の文化が交わった時、いったい何が起こったのか!?家訓ニストなりの考察をしていきます。

 

 

鉄砲の伝来

1543年、種子島に漂着したポルトガルの商船は、2丁の火縄銃を日本に伝えます。領主は早速、国産化に挑戦し1年後にはこれに成功。やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され各地の戦国大名に売り込まれました。

 

それから30年後、1575年に起こった長篠の戦いでは、信長が3000丁もの銃で、武田の騎馬軍団をうちやぶります。鉄砲の伝来は、それまでの弓や槍、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法を、鉄砲による歩兵戦が中心にさせるなどの変化をもたらしました。これは、習熟に長い年月がかかる武芸が、かき集めた傭兵たちの鉄砲の1つで負けた瞬間でした。一所懸命に代表される鎌倉以来の主従関係による戦闘が、金の過多できまる傭兵と鉄砲の量できまる闘いになったのです。銃は、これまでの戦の仕方を180度変えたのです。

 

そして、関ケ原の戦いでは、両軍をあわせ2万5000丁もの銃が登場。この数は世界中の銃の3割とも5割とも言われる膨大な数であり、種子島から始まった日本の銃の歴史は、わずか60年ほどの期間で世界一の銃大国を誕生させました。

 

銃と宣教師とキリシタン大名

銃の国産化に成功した日本でしたが、火薬となる硝石については輸入する必要がありました。銃の可否が明暗を握った戦国時代には、この「硝石」のルートをもつ大名が大きなアドバンテージを握ったのです。そして、硝石の輸入ルートに大きな影響力をもったのが、宣教師たちの裏の顔でした。目先のきく実力者たちは、こぞって宣教師に近づき、己の野心を満たすためキリシタンに改宗していくのでした。

 

キリシタン大名の輸出品は「人間」?

「硝石」の輸入を競い合ったキリシタン大名たち、貿易の基本はトレード(交換)です。この時代、日本は銀の産出量で世界一をほこり、多くの取引で銀が重宝されました。そして数多い輸出品のなかで重要な地位をしめたのが、「人間」です。つまり「日本人奴隷」が商品になっていたのでした。実際、奴隷として海を渡った日本人は、数万人とも、数十万ともいわれており、秀吉によるバテレン追放令を決断させる原因になったともいわれています。奴隷の売買に、宣教師がかかわったのかについては、いまも議論が分かれるところですが、キリスト教の布教には負の一面があった事実は忘れてはいけません。

 

宣教師の陰謀
大航海時代のきっかけはヨーロッパの宗教改革です。従来のカトリックは新興のプロテスタントと衝突し圧迫を受け、巻き返しをはかるためヨーロッパを離れ、イエズス会を設立してアフリカやアジアなどで布教を目指します。そしてイエズス会による布教活動は、スペインやポルトガルによる植民地政策の先鋒隊となっていく表裏一体の展開をみせはじます。

 

1549年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主・島津貴久の許可を得て布教活動を始めています。以後、ザビエルは2年半の間、鹿児島から京都にかけて、山口の大名・大内義隆や豊後府内の大友宗麟らの保護を受けキリスト教の布教活動を続けました。

 

キリストの教えが届かなった極東の地に、信仰をひろめる活動は尊いものです。ザビエル本人の信仰心は純粋なものだったに違いないものの、その一方で、キリシタン大名の拡大は、カトリックに潜む日本侵略の野望は水面下で着実に広げていきました。天下統一をめざす大名たちの戦いの影で、ヨーロッパの大国たちが、日本を植民地にするために虎視眈々と、布石を打っていたのです。


大航海時代のヨーロッパ
戦国時代に当たる15世紀後半から16世紀にかけてのヨーロッパでは、ルネサンスや宗教改革によって近代社会へと移行しつつありました。宗教改革によるカトリックとプロテスタントの激しい争いや、イスラムの世界への対抗もあって、ヨーロッパの諸国はキリスト教、特にカトリックは布教や海外貿易の拡大を目指して世界へと乗り出します。この時代を大航海時代といいます。


 大航海時代の先頭に立ったのは絶対主義の王国を形成していたイベリア半島の王国であるスペイン(イスパニア)とポルトガルでした。両国は産業や貿易を保護して輸出を拡大し、国家財産の増大を目指し植民地の獲得に力を注ぎます。もちろんその目的は、植民地から富を搾取するためです。「大航海時代」という言葉は、大海原に新たな希望を見つけようとしたヨーロッパ人(白人)による歴史観であり、世界中に暮らしていた大多数の有色人種にとっては、多くの住民が虐殺され、奴隷となった暗黒時代がはじまったのです。

 

サン=フェリペ号事件
1596年9月28日、スペインの大型船「サン=フェリペ号」が土佐沖に漂着します。 突然の南蛮船の漂着に、土佐の大名・長宗我部元親は乗組員を土佐の浦戸に収容します。すると乗組員のポルトガル人のひとりが驚くべき証言をはじめたのです。

 

「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次に軍隊を送り、信者に内応させてその地を征服する」と、世界中のスペイン占領地域を誇らしげに示しました。日本征服のためにスペインは宣教師を送り込んだことが、すぐに天下人になっていた秀吉に報告されました。ポルトガル人の証言を聞いた天下人の秀吉は、京都のフランシスコ会宣教師と信徒を捕え、再び禁教令を公布したのです。

  

禁教令と処刑命令
 漂着事件直後に禁教令が公布され、京都では南蛮寺などの布教施設が壊され、京都にいたキリスト教のフランシスコ会の宣教師や信者が逮捕されました。秀吉は処刑を命じ、長崎の地で26人のキリスト教徒への処刑が行われました。

 

秀吉はキリシタン26人を逮捕したとき、キリシタンを続けたいなら外国へ、日本に残りたいなら改宗しろとせまります。しかし彼らは改宗を拒否し、殉教を選びました。日本に伝えられて間もないキリスト教でしたが、殉死をもおそれない信者が育っていたのです。それまでの日本にはない純粋で過激な信仰心は、天下人となっていた秀吉には薄気味悪く思ったのではないでしょうか

 

16世紀の元寇

「元寇」とは鎌倉時代の日本を襲ったモンゴル帝国による侵攻です。そして、大航海時代の16世紀、ヨーロッパ人達は、宗教と商いを巧みに用いて、再び日本の支配をもくろんでいたのです。

 

現在の歴史観では、秀吉による「朝鮮出兵」は、晩年期をむかえていた老害による妄想だったと信じられています。一方、近年、世界的な視点にたち、世界征服をもくろむスペインやポルトガルといった勢力との争いのなかで、起こるべくして起こった自衛の戦争であったとの説も登場しています。

 

鎌倉時代の元寇と等しく、秀吉にとって明がスペインによって征服されるのを黙って見ているわけにはいきませんでした。  秀吉はスペインよりも先に明を征服してしまう以外に、我が国がスペインの植民地から免れる方法はないと覚悟を決めたのではないでしょうか。実際、数十万の兵力や鉄砲による強大な火薬力を投入すれば中国征服も可能だとする研究者もいます。事実、日本をおいかえした明でしたが、数十年後には北方の遊牧民にせめられ滅亡しています。

 
日本滅亡の危機
 秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、スペインは明国を植民地としての支配下に置いていた可能性は非常に高いものです。朝鮮出兵は、秀吉が起こした侵略との解釈は大きな間違いで、半島に出兵した大名たちはそれぞれが真剣に戦ったと家訓ニストは考えます。


秀吉の決断は、結果的に、スペインが英国やオランダに押されて国力を低下させ、アジアに進出できなくしました。スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ「スペインよ、自分に従え」と迫った秀吉の壮大な気概と誇りを見習うべきではないでしょうか

 

秀吉の死去後、天下を握った徳川家康は、巧な外交戦略をみせ、朝鮮とは和睦をむすぶ一方、キリスト教の布教は厳しく弾圧します。そんななか、オランダのみに、海外貿易の独占販売権を与え、長崎の出島に商館をつくらせます。一般に「鎖国」といわれる政策ですが、正確にいえば、幕府による管理貿易といえそうです。また、西欧諸国との付き合い方も、スペイン、ポルトガルといったカソリック諸国には門戸を閉ざす一方、オランダやイギリスといったプロテスタントの国々は寛容な対応をみせています。この時代、家康の家臣団には、外国人も迎えられており、とくにイギリス人の元船乗り、ヤン=ヨーステンは、江戸城ちかくに屋敷をかまえ、いまの東京駅「八重洲」にその名を残しています。

 

 

 

 命は軽く名は重い

 

『多胡家家訓』(たこけかくん)は、戦国時代の尼子氏に仕えた武将・多胡辰敬が書き残した家訓です。 手習学文・弓・算用・乗馬・医師・連歌・包丁・乱舞・蹴鞠・躾・細工・花・兵法・相撲・盤上の遊(囲碁・将棋)・鷹・容儀の諸芸17箇条からなり「命は軽く、名は重い」で知られています。

 

作家の司馬遼太郎氏は、日本人の気性を現す言葉として、「名こそ惜しけれ」という言葉を好んで使っていました。「名こそ惜しけれ」とは、はずかしいことをするな、という坂東武者の精神で、その後の日本人につよい影響をあたえています。

 

ザビエルをはじめとした宣教師たちが出会った日本人は、何よりも名誉を重んじる人たちでした。それは武士だけにかぎらず、老若男女に至るもので、非キリスト教圏における最高の人格であると、本国に伝えています。自分をふくめ、戦国時代から数えて400年後を生きる現代の日本人に、それだけの気概があるか、はなはだ疑問です。

 

宣教師たちが驚嘆した私たちのご先祖さんは、名誉をおもんじ、またお金がなくても、卑屈になることなく、まっすぐに強く生きた人々でした。俗に文化は下から上に流れないといわれます。ザビエルが伝えた華やかな西欧の文化でしたが、表面的な交流をのぞいては、日本人の生き方を変える類には成長しませんでした。これは、精神世界において、日本は西欧から学ぶものがなかった証拠です。一方、現代をくらす我々は、お金におびえ、他人の成功をねたみ、愚痴ばかり言う三等国になりさがっているのではないでしょうか

 

いまこそ、ザビエルを感動させた日本人の矜持を取り戻す必要があります。

 

 

 

  

ザビエルも苦戦した日本での布教

 

 

 

仏教とキリスト教

仏教は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ))を開祖とする宗教です。 世界的にもキリスト教・イスラム教に次いで幅広い国々へ広がっており、世界宗教の一つとみなされています。特に東アジアで広まっており、日本でも多くの信徒がおり、出版物も多い その教義は、苦(ドゥッカ)の輪廻から解脱することを目指すものです。

 

紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、現代では初期仏教として分類されています。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、多くの形態を今に伝えています。なお、『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)です。

 

キリスト教は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教です。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる教えです。世界における信者数は22億人を超えており、すべての宗教の中で最も多いのが特徴です。そして、キリスト生誕をゼロ年とする西洋の暦で、1500年後、極東の日本にその教えが到達したのでした。

 

日本は世界一キリスト教徒が少ない国

主要7か国が集うG7。先進主要国が集うなかで日本は、唯一の非キリスト教国であり、また唯一の多神教の国でもあります。アジアの諸国のなかで、韓国には3割ほどのキリスト教徒がおり、中国国内にも非合法ながら多数の信者がいるとされます。一方、日本は、なぜかキリスト教の信者が少なく、カソリック、プロテスタント等、諸宗派をたしても、総人口の1%前後ではないかといわれています。鎖国時代の禁教時代からはや150年。一向に増えない信者の数には、布教が始まった戦国時代の宣教師も悩ましました。当時のエピソードとしてこんな話が伝わっています。

 

日本の各地でザビエルをはじめ、多くの宣教師が布教するなかで、出会った日本人が彼らに決まって尋ねた事があります。それは、

「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。

そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということでした。

 

つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけたのです。元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、ザビエルもそう答えました。すると日本人が追求するわけです。

 

「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」

 

ザビエルは困ってしまい、本国への手紙に次のように書きました。

   「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。当時の中国にも、韓国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。

 

 

一神教の強さと弱さ

ユダヤ教やキリスト教、そしてイスラム教は、一神教と言われます。絶えず異民族との戦いにまきこまれきた人々は、強い団結をすることが求められました。これらの民族は、強い神を求め、そして現れた神(預言者)の素に団結した人々は、敵の侵入にたえ、ときには異教徒を打倒し、民族の歴史をつむいできました。

 

しかし、一神教の神様は、人々を団結させる強みがある一方、おもわぬ暴走をみせる一面も持ち合わせもちます。ユダヤ人の歴史を記した「旧約聖書」には、神の命令で、ジェリコの街を、女、子ども、老人、はては家畜までもことごとく虐殺した様子が描かれています。多くの人が眉をひそめる残虐な行為であっても、神の命令に従う人々にとっては、圧倒的な正義でした。

 

自分たちにとっての正義でも、他人にとってはただの迷惑なことは多々あります。こうして、中世にはキリスト教社会にとっての正義、十字軍が組織され、イスラム社会との軋轢をうみ、また現代においても、いまだ宗教的対立は、地球規模で続いているのです。

 

お互いがお互いの正義をかざして戦う時、ひくにひけない凄惨な戦いがはじまってしまうもの、一方、日本の特徴である多神教には、ギリギリのところでお互いに妥協できるある種のいい加減さ、あるいは包容力があったのです。一致団結にはむかない多神教の神さまには、他の神様や、異なった価値観を受け入れる寛容さというメリットがあったのです。

 

東洋と西洋がであった時

有史以来、日本は、仏教や儒教、そしてキリスト教と、様々な宗教や価値観が受け入れてきました。一神教を信じる人々にとっては、多くの神様を矛盾なく受け入れる姿に違和感を感じるそうです。たとえば、年末を迎えたとき、日本の多くの人は、クリスマスを祝ったあと、除夜の鐘をきき、神社で初もうでに出かけます。わずか1週間ほどの時間で、3つの宗教をチャンプルー(まぜこぜ)にする民族は日本だけかもしれません。

 

ある意味、寛容で、ある意味、いい加減な、私たち日本人の宗教観。多様性が豊かさをもたらすグローバルな社会にあって、これだけ豊かな国民はいないはずです。日本人はヨーロッパ人にはなれません。同じようにヨーロッパ人も日本人にはなれないのです。お互いの違いを認め、尊重する姿勢は、ザビエルの訪れた当時の日本と等しく、現代の日本人にもできる特性です。改めて、遠い国から自らの信じる神様を紹介するために海を渡ったザビエルほか、宣教師たちの苦難に敬意を払うとともに、お互いの宗教、お互い正義、お互いの歴史に賛美を送りたいと思います。

 

 

 

豊後王・大友家 家訓

大友家家訓

酒はのんでも飲まれるな

(※家訓ニスト意訳)

 

大友 義統(おおとも よしむね)

生誕:永禄元年(1558年)

死没:慶長15年7月19日(1610年9月2日)

 

戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。

 

足利幕府との決裂・織田との同盟

永禄元年(1558年)、第21代当主・大友義鎮(のちの宗麟)の長男として生まれる。将軍・足利義昭の偏諱を受け、義統と名乗った。天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期、父の隠居により、家督を継いで第22代当主となる。家督相続はなされたものの、天正5年頃までは宗麟・義統との共同統治が行われていた。

 

毛利家を支持する将軍義昭により「九州六ヶ国の兇徒」と貶められると、新政権織田信長に近づき信長より毛利領の内で長門・周防を与えるという朱印状を得る。さらに天正7年(1579年)11月27日、織田信長の推挙によって天皇から従五位下・左兵衛督に叙位・任官された

 

島津氏との戦い

ただし、大友家の実権は依然として父の宗麟が掌握していた。天正6年(1578年)、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。また、父との二頭政治にも弊害が現れて父と対立し、かえって大友家の内紛を加熱させることとなった。

 

天正8年(1580年)には有力庶家である田原親貫や田北紹鉄が反乱を起こし、秋月種実と内通したので、その鎮圧のために一時府内を本拠に戻さざるを得なかった。

重臣・立花道雪が病没、さらに肥後方面を押さえていた志賀氏とも疎遠となる。かつては大友氏の版図であった肥後・筑後・筑前は次第に肥前国の龍造寺氏や薩摩国の島津氏に侵食されていった。

天正14年(1586年)、豊後武宮親実の臼杵城、大津留氏の松ヶ尾城(城将橋爪某)などを従え豊前龍王城を拠点としていたところ、島津義久による豊後侵攻(豊薩合戦、天正の役)が始まる。宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反し、また高橋紹運が岩屋城で戦死するなど(岩屋城の戦い)、大友氏は滅亡の危機に立たされる。

 

豊臣家の家臣として

父で隠居の大友入道こと宗麟は豊臣秀吉に嘆願し豊臣軍の九州下向を請うた(これにより豊臣傘下の大名となる)。援軍として派遣された長宗我部元親や仙石秀久らは共に島津軍と戦うが、戸次川の戦いで大敗し、家臣の利光宗魚、戸次統常を失う。義統は宗麟や家臣の柴田礼能、臼杵鎮尚、志賀親次、佐伯惟定、朝倉一玄、阿南惟秀、木付鎮直、狹間鎮秀、帆足鑑直、朽網鑑康、森鎮生、田北統員、清田正成、吉岡妙林尼、吉岡統増、若林鎮興、若林統昌らがそれぞれの居城において奮戦するのをよそに、府内を退去し、島津軍が豊後を席捲するのを許してしまう。

 

しかし、天正15年(1587年)秀長軍は先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら山陽山陰の軍勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(宮崎県延岡市)を経て3月29日には日向松尾城(延岡市松山)を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る高城(木城町)を包囲した。秀長は城を十重、二十重に囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰の援軍が出てくることを予想して根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞を築いた。

高城が孤立する形勢となったことに対し、4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の大軍を率いて救援に向かった。豊臣軍は根白坂の陣城の総大将宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。このとき、藤堂高虎、小早川隆景、黒田孝高が後詰として加勢し、後世「根白坂の戦い」と称される激しい戦闘となった。その結果、島津方は根白坂を突破できなかったのみならず、島津忠隣が戦死、義久・義弘は都於郡城に退却。後に秀吉から豊後一国と豊前宇佐郡半郡併せて37万石を安堵された。 同年4月に、義統は隣国の豊臣大名・黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した。

 

豊臣にくだり「家訓」をのこす

天正16年(1588年)2月に秀吉に謁見するため、上洛。秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴(後に豊臣)の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱(「吉」の一字)を与えられて義統から吉統へと改名した[10]。また従四位下、侍従に叙され、後の文禄の役の年の正月には参議ともなった。

天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の一員として参戦している。

天正20年(1592年)、文禄の役に黒田長政勢5,000と共に第三軍として兵6,000を率いて参戦。長政に同行して金海城の戦いなどで活躍した。同年2月には嫡子・大友義乗に家督を譲り、自身は酒好きであったが、下戸に徹するようになど、公私にわたった21ヶ条の家訓を伝えている。

 

豊後府内改易

文禄2年(1593年)、平壌城の戦いで明の大軍に包囲されていた小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという家臣からの誤報を信じて撤退し、鳳山城も放棄した。ところが行長は自力で脱出したことから、吉統は結果的に窮地の味方を見捨てた格好になった。これが秀吉の逆鱗に触れ、軍目付の熊谷直盛、福原直高が派遣されて詰問されて名護屋城に召還を命じられる。

吉統は剃髪して宗厳を号し、大友家は源頼朝以来の由緒ある家であるとして死一等は減じられたものの、石田三成らの意見を聞いた秀吉から5月1日に改易を言い渡された。大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の蔵入地(直割地)となり、のちに豊臣家の奉行等の領地としても細かく分割された。

 

改易の後

吉統は、江戸(徳川氏)、水戸(佐竹氏)、山口(毛利氏)などに次々に身柄を預けられ幽閉状態が続いた。旧大友家有力家臣らは大友家再興を願いつつ、他の大名の客将となるなどして、世をしのいだ。慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死により、慶長4年(1599年)に豊臣秀頼より特赦され、幽閉状態から脱した。大坂城下に屋敷を構え、豊臣家に再び仕える。

 

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康から嫡子義乗が徳川家預かりの身で嫡男徳川秀忠の近侍を許されていたことから絶対に東軍に味方すべきだと言う忠臣吉弘統幸の諫止を退けた。それは大坂城下に側室と庶子の松野正照が西軍によって軟禁されていたためだとされている。西軍の総大将毛利輝元の支援を受けて西軍に味方をすることに決め、広島城から西軍の将として出陣して、元の領国であった豊後国に侵攻した。

戦勝のあかつきには「豊後一国の恩賞」が約束されていたという。田原氏・吉弘氏・宗像氏などの小大名級の旧大友家臣が諸国よりぞくぞくと合流し、大友軍は短期的に再興した。

 

豊後に上陸して国東半島の諸城を下す。9月の石垣原の戦いでも、緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と細川忠興(実際は豊後杵築城の細川家の重臣松井康之)らの連合軍に敗れてしまい、剃髪したのち妹婿であった黒田家の重臣・母里友信の陣へ出頭して降伏。今度は徳川家から幽閉される身となった。

 

晩年

関ヶ原の後、東軍配下の細川家領の豊後杵築城を攻めたという咎で、吉統は出羽の秋田実季預かりとなり、実季転封にともない常陸国宍戸に流罪に処された。流刑地では再びキリシタンとなったという話も伝わるが、同時代史料が無く未詳である。この流刑地で大友氏に伝わる文書を『大友家文書録』にまとめたが、このおかげで大友氏は零落した守護大名家としては珍しくその詳細を知ることができ、大変貴重な史料となっている。吉統は慶長15年(1610年)に死去する。享年53。戒名は中庵宗厳。大友家は義乗が旗本として徳川家に召抱えられ、鎌倉以来の名家として高家として続いた。

 

 

トホホな生涯で打線を組んでみた

 (出典:2ch)

 

1中 実弟が島津に内通する

2二 キリシタンとしてノリノリで神社仏閣を破壊するが禁教令が出るとあっさり棄教

3遊 棄教後宣教師に「元々優柔不断だから」という理由になってない釈明をする

4一 朝鮮で小西を見捨てて撤退する(なお小西は自力で帰還)

5左 府内から龍王城までついてきた貴重な家臣に妾を救出しに行かせる

6三 そいつに恩賞を与えようとしたら拒否され説教された上出奔される

7捕 息子に「(自分は酒で失敗したから)お前は呑むな」という情けない家訓を残す

8右 戸次川の後寵臣の生還を喜ぶあまり討死した奴は惜しくないと発言

9投 関ケ原で西軍に賭け無事敗北

 

 豊後王 大友宗麟

 

大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。

大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏・島津氏と共に幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。

父は20代当主・大友義鑑。

 

中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交]により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。

当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。

 

天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。

 

ザビエルとの交流

 

 

大友宗麟は、約450年前、現在の大分県、豊後国(ぶんごのくに)を治めていた戦国大名で、南蛮貿易を始め、日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルを迎え、その後の九州、日本に影響を与えた大分市の誇る偉人です。有力な大名が天下統一をめざしていた時、宗麟はアジア、そしてヨーロッパとの交流を目指していました。そして府内(大分)は、西洋の医学、音楽、演劇などの発祥の地となったのです。

 

ザビエル、Funaiへ

 宗麟21才の頃、豊後の国づくりのためにもっと世界の情報を手に入れようと、山口にいたザビエルを府内(現在の大分市)に招きました。宗麟はザビエルを歓迎し、さまざまなことを聞き、府内でキリスト教を広めることを許可しました。ザビエルは2ヶ月間府内で布教し、インドに旅立ちました。その時、宗麟はポルトガル国王あての親書を持たせたと伝えられています。

 

キリスト教の保護

 宗麟は、ザビエルの計らいで府内に来た宣教師に土地を与えました。彼らは宗麟の援助のもと、そこに教会や病院を建て、積極的に布教しました。コレジオ(宣教師を育てるための学校)もつくり、外国人や日本人に外国語や理科、音楽の授業を行いました。宗麟自身も48才のときに信者の一人となり、フランシスコという名前をもらっています。

 

Funaiからヨーロッパへ

 府内で活動していた宣教師は、そんな宗麟の姿を「Bungo(豊後)王」としてヨーロッパに伝えました。このころ、宗麟らがヨーロッパに派遣した「天正遣欧少年使節」が、各地で大歓迎を受けたことから、ますます宗麟の名は知られるようになります。そして九州の「豊後」もその王が治める特別な地として紹介されたのです。

 

その姿は、ルイス・フロイスが臼杵(うすき-大分県)からポルトガルのイエズス会に送った同年9月16日付け書簡に読むことができます。

 

「豊後の王は今四八、九歳なるが、日本に在る王侯中最も思慮あり、聡明叡智の人として知られたり。始め一、二箇国(豊後・豊前)※を有するに過ぎざりしが、今五、六箇国(豊前・豊後・肥後・筑前・筑後・日向)※を領し、その保有に心を尽し、ほとんど戦うことなくしてこれを領有し、また統治せり。彼は、日本において我等に好意を示したる最初の王にして、当地方のコンパニヤ(イエズス会会員)の父のごとし。しかしてパードレ(伴天連、神父)およびイルマン(伊留満、修道士)等がその領内に居ること二十七年なるが、たえず領内において我等を庇護せるのみならず、不幸に遭遇せる際我等を保護し、パードレ等の求に応じて免許状を交付し、またパードレ等がデウスの教を弘布せんと欲する都、その他異教徒の諸国の王侯大身等に書翰を贈り、教化の事業を援助せんことを請い、また好意を得んため進物を贈れり」(村上直次郎訳注『耶蘇

 

 

 

津軽家 家訓

 

津軽 信英(つがる のぶふさ)

生誕:元和6年10月5日(1620年10月30日)

死没:寛文2年9月22日(1662年11月2日)

 

江戸時代前期の旗本。陸奥国黒石領5000石の初代当主。

 

青年期から黒石支藩成立まで

元和6年(1620年)、陸奥弘前藩2代藩主・津軽信枚の次男として、江戸神田の津軽藩藩邸にて誕生。母は松平康元の娘で徳川家康の養女・満天姫。

 

寛永8年(1631年)、異母兄・信義と共に3代将軍・徳川家光に拝謁。寛永19年(1642年)、幕府小姓組として出仕、旗本となる。その際に兄から1000石を与えられた。外様大名出身の信英が小姓組や後述の書院番などにたやすくなれたのは、「家康の義理の孫」という部分が大きかったと推測される。正保2年(1645年)には幕府より蔵米300俵を支給され、西の丸書院番に任じられた。また駿府出張を命じられるなど、着実に経歴を重ねていった。

 

津軽家の相続問題

正保4年(1647年)、"じょっぱり殿様"と呼ばれ領内でも評判の悪かった当主・信義と、その子(のちの信政)に対し、一門(主に信義の異母弟ら)や家臣ら多数による信英擁立の動きが起こる(正保の騒動)。この動きに対して藩内に多数の処罰者を出したが、信英には一切の咎はなかった(幕府旗本でもあるので手が出せない、という事情もあった)。

 

明暦元年(1655年)、津軽本家の3代藩主・信義が死去したが、幕府はその子・信政は若輩であることを理由に、弘前藩襲封に対して「信政は当面、信英の補佐を受けること」「信英に対し、5000石を分知すること」の2つの条件を付けた。こうして翌年明暦2年(1656年)2月に信政の相続が許されると、信英に津軽黒石周辺で2000石、平内周辺に1000石、津軽家の上野国飛び地領2000石、合計5000石が与えられ、交代寄合格の大身旗本となり(この際、元の1000石は津軽本家へ、蔵米300俵は幕府へそれぞれ返納)、これがのちの津軽黒石藩の基となる。なお、これは信英の母が家康の養女であるのに対し、本家は信義の母・辰姫が石田三成の娘という家系であることとも影響があると見られる。

 

弘前藩後見人として、黒石の領主として

明暦2年(1656年)春、津軽に入った信英は津軽藩政を見る傍ら、本藩の重臣(実弟・信隆など)らと自領5000石の用地選定を行う。

黒石に入ったのちは、家臣団を雇用するのと同時に、黒石にもとあった集落を改編し、黒石陣屋(黒石城)を再構築した。町並みにこみせ(小見世)と呼ばれるアーケードを作り(弘前に倣ったとも伝えられる)、店舗の外面に規制を布いたり、業種別の町割り、商人を呼び込むなど、街造りや殖産振興に努めた。なお、この黒石藩は、江戸時代末期(幕末)に加増されて1万石を超えて以降、正式に大名となったが、信英の時代に既に実高において1万石を超えていたともいわれている。

 

寛文元年には16歳となった藩主・信政が初めて国許入りした。その際に、信英・信政2人の師にあたる儒学者・山鹿素行を1万石(弘前藩は合計4万数千石)で家臣として招こうとしたが断られている(素行の子息2人(津軽政実など)が登用された)。

寛文2年(1662年)2月、国許に帰り、黒石を巡察中に病に倒れ、弘前城へ移されたが快方へは向かわず、9月22日死去した。享年43。葬儀は儒教式で執り行われ、僧侶は入れなかったと伝えられている。遺骸は陣屋の一角に霊屋を建てて祀られた。現在の黒石神社である。

  

 

津軽家家訓 

明暦3年(1657年)に弘前藩の頭役以上へ「津軽家家訓」を配布し、寛文元年(1661年)には諸家臣・領民に対し「諸法度」を制定した。これらは領民の自治(五人組)のことや、学問・武芸・質素倹約の奨励、訴訟の手続き、さらには親孝行な子供の顕彰など、いわゆる法律というより生活規範とマニュアルが一緒になったような「道徳的」「儒教的」内容であった。

 

また、寛文元年6月3日には、弘前藩は信英の発案といわれる日記『弘前藩庁日記』をつけ始めた。以降、幕末まで毎日欠かさず記録されたこの日記は当時を状況を知る貴重な資料となっている

 

武力と謀略で津軽を平定した祖父・津軽為信。しかし、孫の信栄の時代となると、荒々しい武治の時代が終わり、法律や教養によって国を治める文治の時代となっていくのでした。

 

多くの戦国大名が、武治から文治への変換に苦しむ中、津軽氏の一族は見事に生き残り、270年の徳川時代に一度も国替えもなく、明治維新までその家名を盛り立てたのでした。その陰には、「津軽家家訓」に代表される智の継承、そして経験を教訓にかえてきた一族の強さがあったのではないでしょうか

 一代で津軽を平定した始祖

 

津軽 為信(つがる ためのぶ、旧字体:津輕爲信)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。陸奥国弘前藩初代藩主。官位は従四位下・右京大夫

 

為信の出自は定かではなく、大浦氏の生まれともいわれておりますし、南部氏に繋がる久慈氏の血筋だとも残されています。多くの部分で、津軽氏側の資料と南部氏側の資料とで食い違いがあり、はっきりとしたことが分かりません。

生年は1550年。十代の半ばを過ぎた頃、大浦為則の養子になり、大浦氏の家督を継ぎました。

 

謀略、知略?なんでもありの国盗り物語

当時の東北地方では、南部晴政が台頭し、勢力を拡大していました。「三日月の丸くなるまで南部領」と言われるほどに領土を広げていたのです。しかし、その内情は決して強固ではありませんでした。

男子がなかった晴政は、従弟の石川信直を娘の婿に迎え、後継者としていました。ところが、1570年になって男子が誕生したため、信直が邪魔になりました。晴政と信直は争いを始め、そこに為信がつけ込みました。

すぐ近くにあった石川城を急襲し、城主石川高信を討ち取りました。南部氏が津軽地方を統治するには高信が必要であったといわれており、高信亡き後、南部氏は津軽地方に干渉する余力はありませんでした。それをいいことに、為信は津軽地方で大暴れして、領地を着々と広げていきました。

十年ほどして晴政が没し、南部氏の家督は信直が継ぐことになりました。依然として為信の行動は脅威でした。南部氏としてはなんとか対処したいところではありましたが、内情が安定しておらず、南部軍主力を動かすのでは背後での反乱が怖いし、津軽地方への出兵を命じられた九戸氏は動かないという有様で、さらに為信は自由に津軽を席巻出来たのです。

 

豊臣秀吉への臣従

何しろ津軽は日本の端っこにあります。中央政局の情報も入りづらい地勢です。どうやら為信は最上義光を通じて中央の情報を仕入れていたようで、豊臣秀吉に服するべきと判断しました。臣従の意を示すべく、自ら秀吉に目通りを願おうと、はるばる旅路に出ようと試みたのですが、四度にわたって失敗しました。

一度目は海路。暴風で流されました。

二度目は矢立峠を越えようとしましたが、浅利氏に妨害されて失敗。

三度目は南部領を強行突破しようとしましたが、出来るわけがない。

四度目は秋田氏の領内を通ろうとしましたが、秋田氏が許してくれませんでした。

ようやく五度目、秋田氏と和議を結んで使者の通行を許してもらって、ようやく秀吉の下に名馬と鷹を献上することが出来ました。

 

この速やかな恭順の姿勢が後に津軽氏を救うことになります。奥州惣無事令に反したとして、南部氏により糾弾されましたが、津軽氏は独立を許されたのです。

 

残虐な人物か、義に篤いのか

為信の逸話には、あまり美しくないものがあります。気に入った女性の夫を殺害し、あげくその女性に振られると、怒って殺してしまったとか。扇動した手勢に略奪を行わせ、金品を強奪させたりとか。毒を盛って、妻子もろとも敵を暗殺しただとか。

 

活躍の実績からいって優秀だったのは間違いないのですが、あまりいい話ばかりでもありません。しかし為信は三国志の豪傑、関羽を尊敬していたらしく、関羽のようにひげを伸ばしていたといいます。関羽といえば義の人ですから、為信とは似ても似つかないように思われますが、為信にも義を立てた逸話があります。

 

関ヶ原の合戦で、為信は東軍につきました。戦いは東軍の勝利に終わり、西軍の石田三成は捕らえられ処刑されました。しかし、三成の子重成は津軽氏によって匿われ、藩の重臣となっています。また為信が作り始めた弘前城には稲荷神社があり、こっそりと、誰にも知られないように秀吉像が祭られていました。徳川幕府に身を置く上では、危険な所行です。

 

石田三成の遺児をかくまう  

津軽為信は、東軍の一員として出陣し、勝利者の側に居た。同時に、その状況を覆すような、三成の遺児を匿うという行動を起こしていたのである。後に、本多正信が、出家していた三成の子のひとりを、「三成の子の坊主の一人や二人助けてやってもよい」と、助命した話が『東照宮御実記』に収録されている。だが、津軽家が三成の遺児を匿った時点では、そのような寛容を示している余裕は徳川家にはなかったし、何より、本多正信が許したのは、出家した息子だった。

 

もっとも、三成の遺児を津軽へ落ち延びさせたのは、大坂に居た津軽信建の独断だったのかもしれない。だが、為信はその後も、三成の遺児が、津軽に居る状況を変えることをしなかった。前田利家が断じたような「表裏仁」であれば、おそらく、早々に三成の遺児を徳川家に差し出していただろうに、それをすることはなかったのである。

 

そうした津軽為信の行動からは、石田三成との関係が、前田利家との関係とはまったく異なっていたことを推測させる。吹けば飛ぶような辺境の小藩ではあるが、津軽為信をはじめとする津軽家の面々は、石田三成という人物に感じた「津軽人の愛情」によって、その危険性を顧みることなく、三成の遺児を庇護し、さらには自分の一族の中に加えていくのである。

 

「果ては自分の命までも」という、危険性を顧みない「津軽人の愛情表現」は、3代藩主となる津軽信義や、4代藩主・津軽信政の代に、寛文蝦夷蜂起鎮圧のために軍勢を率いて津軽海峡を渡った杉山吉成へとつながっていった。二人はともに、三成の孫である従兄弟どうしだった。こうして、石田三成の血統は、最果ての津軽弘前藩に受け継がれていったのである

 

桂太郎 母の家訓

 

桂 太郎(かつら たろう)

生誕:1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉

死没:1913年〈大正2年〉10月10日)

 

日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。位階勲等功級爵位は、従一位大勲位功三級公爵。 日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に首相を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。ニコポン宰相の異名も持ち、通算在職日数は2,886日(2019年12月現在歴代2位)。軍人としての階級は陸軍大将で、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」とされる。後の憲政会、立憲民政党に連なる立憲同志会の創立途中に病没した。

 

台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)などを歴任した。 

 

 長州藩士であり、毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たる。

 

戊辰戦争に参加し、明治維新後、横浜語学学校で修学し帝政ドイツへ留学。帰国後は山縣有朋の下で軍制を修学した後に陸軍次官、第3師団長、台湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣、第1次大隈内閣、第2次山縣内閣、第4次伊藤内閣で陸軍大臣を務めた。

 

明治34年(1901年)6月2日、内閣総理大臣に就任、第1次桂内閣発足。日英同盟を締結し、日露戦争で日本を輝かしい勝利に導いた。西園寺公望と交代で首相を務め、「桂園時代」(けいえんじだい)と呼ばれた。大正2年(1913年)2月20日に辞任する(第3次桂内閣総辞職)までの内閣総理大臣通算在職日数は「2,886日」で、その後の百年以上に渡り日本の憲政史上最長となった。戦前戦後を通じて永らく歴代一位となる総理大臣在職日数であったが、令和元年(2019年)11月20日に第90・96・97・98代内閣総理大臣安倍晋三が「2,887日」となり在職記録を更新された[2]。

 

明治33年(1900年)9月15日には、拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である獨逸学協会学校の2代校長を明治20年(1887年)4月から同23年(1890年)7月まで務めた。第2次桂内閣時には韓国併合も行った(朝鮮の歴史:大韓帝国→日本統治時代の朝鮮)。

 

 

 

参照:小名木善行とまなぶ会

 

https://www.facebook.com/nezusan123/photos/a.1608568089176919/2634292246604493/?type=3&__xts__%5B0%5D=68.ARByJ5CURH6EQONnO-O9DZVXnMDPuxe6s5KquZJfVAHNOs0Wz3PZ5ZYftGsoepBGY8M2JEKa0yjL3S89M78CZanr_V6lxMA6bczqjIeRhWQpiNNKHxuPSucInvvAbrXO8UegDubROreoJTlNdWQcMirFjVpj-1cKnvk2zWrqrjct415bZ2jfuVGTd5S95iyk76ODLd8z0DnjIJ5ch1s_JmIWXQcOwyCaUZwu3i4MXJ5Prp7zTFb4GyuzP6sqy__p1H82j_KxD-sfb5jPI1wZfGNN1GmcH6_CTuKKwwX0vH6GGcauOL9Cg4uQ0nb-xNVBZW1VbKyJwVMwE8m5kmAErUYKjiaz&__tn__=-R

 

  

桂太郎(かつらたろう)は、ペリーがやってくる少し前の1848年の生まれで、陸軍大将、第二代台湾総督、陸軍大臣、外務大臣などを歴任し、内閣総理大臣を三期勤めた人です。 陸軍大臣のときに義和団事件を収め、日露戦争を勝利に導いた総理でもあります。 この桂太郎が、ご自身の母について小文を残しています。 素晴らしい内容ですので、ご紹介したいと思います。 なお、原文は文語ですので、いつものねず式で現代語に訳しています。

 

 

我が母のこと(原題「母」)

私の母は、父と同じで、ものごとを耐え忍ぶ人でしたが、名誉を尊び、人後に落ちることを嫌う人でした。 家は貧乏でしたが、母は、人を保護したり、人を救うことに、まったくためらわない人でもありました。 子を教育するうえにおいても、

 「他の人に劣らないように心がけなさい。たとえ飢渇におちいったとしても、決してきたない挙動をしないように」と教え、 「常に、率先して人よりも抜きんでることを志しなさい」と諭されました。

 

幼いころに、母がよく言われたことがあります。それは

「おまえの両親は、おまえよりも先に死ぬのです。おまえに希(ねが)うことは、おまえが人らしい人として生きることです。 おまえは桂の家を嗣(つ)ぐべき嫡子(ちゃくし)です。 ですから私達は力のおよぶ限り、おまえに教育を施します」 というものでした。

 

父が他界したとき、四十九日の忌明けと同時に、私はただちに郷里を出て、横浜の大田村という語学所に入学しました。 まだ幼い弟や妹たち、それに母の悄然と寡居している寂寥(せきりょう)のありさまを思うと、ほんとうに自分は志を許してもらえるだろうかと悩みながら、私は母に、「お暇を賜りたい」と申し上げました。 すると母は意外にも、快く承知してくれました。 「おまえが志を立てて学を修め、 桂家の名を顕(あらわ)そうとするのなら、 私はいかなることにも耐え忍びます。 ですから心置きなく出発しなさい」と勧めてくれたのです。

 

翌年(明治3年)秋、私はドイツに留学することになりました。 官費留学では、時期を逸すると思った私は、自費留学したいと思い、その学費に、戊辰戦争のときの軍功によっていただいた250石(当時の1石は、いまの1万円くらい)の禄をあてたいと、母に申しました。母は、「新たに賜った禄は、おまえの功労によるものです。これをもって将来の志を遂げて身を立てるための学資とすることは まことによろしきを得たものです。我が家の俸禄は併せて年間350石です。  残りの100石で女子ともども生計を立てます」 とこれを認めてくれました。 こうして私は欧州に渡航することができました。

 

尋常なら小康に安んじて、子が遠くに遊学することを喜ばなかったかもしれないし、そのために凌雲の志も、挫折したかもしれない。そうした例は当時少なからずありました。 私が素志を貫くことができたのは、母が、雄々しくおわして、常に私の志を励まし続けてくれたことによります。 私は、明治6年に帰国しました。 翌年8月に、母は他界されました。 私が陸軍少佐だった頃です。

 

母は、いまわのきわに及んだとき、「もはや、心置くことなし」と言われたそうです。 私は不幸にして、母の往生に立ち会うことができませんでした。 私なりに最大限の努力をし、家名を顕していくことこそ、母の「心おくことなし」の言葉への、せめてもの孝養であったといまも思っています。 私の父母は、物事によく耐え忍び、忠孝を貴び、名誉を重んじ、いやしくも家名を辱めるがごときことを深くおそれつつしむ人たちでした。 私のいまがあるのは、ひとえにこの家庭における訓戒によるものであることは、言をまちません。 ですからわが子孫たる人々も、すなわちこのことを以って、父祖の家訓と心得えるならば、きっとおおいなる過ちはないものと思います

 

憲政史上 最も優秀な政治家

 

 

参照:JBPRESS 

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60512

 

  

 

 ドイツで学んだドイツ軍の強さの秘密

 幼名は寿熊。弘化4(1848)年、長州藩の上級武士の子として生まれた。藩主毛利敬親に小姓として仕える。

 幕末維新の動乱では、大きな活躍はしていない。吉田松陰や高杉晋作のような維新を見ることなく命を散らした世代はもちろん、木戸孝允・井上馨・伊藤博文・山県有朋らからみても世代は下である。長州藩は、佐幕か討幕かで派閥抗争が激しく、維新回天を志す正義派が、現状墨守の勢力を俗論派と呼んで激しく抗争した。まだ子供の桂は心情的には正義派であるが、藩内政局と関わることが無かった。

 

 戊辰の役では東北地方を転戦している。桂は大きな武勲は立てていないが、目端が利く若者として目を懸けられた。木戸に頼み込み外国留学を志す。しかし、官費での留学が困難と悟るや、私費でヨーロッパに向かった。時は、普仏戦争の真っ最中。鉄血宰相ビスマルクの卓越した政治指導の下、モルトケ参謀総長によく訓練されたプロシア軍がフランスを破竹の勢いで打ち破った。そしてビスマルクはドイツ帝国を建国する。

 

 桂はフランス語を学んでいたにもかかわらず、ドイツ留学に切り替えた。桂はドイツ軍の強さの秘密を学び、3つの面で成果を上げた。1つは学理的な研究である。軍事学の基礎を身に着けた。2つは実務である。ドイツ軍の強さの秘訣はモルトケの作り上げたシステムにあったが、桂は日本に輸入しようと「大事は小事まで」と細かく観察し、身に着けた。そして3つは、幅広い教養である。ドイツ軍の強さは分業と動員体制にある。桂は、前線の戦闘部隊だけで軍が成り立つのではなく、後方の兵站、平時における政治との関係や経済体制も含めて総合的に成り立っていることを見抜いた。法律学や経済学の素養も身に着けた。

 

 当時の日本人は――特に大久保利通や伊藤博文のような国を首班として率いる政治家こそ――ビスマルクに憧れたが、その政治主導を学理実践の双方で最も学んだのが桂だった。

 

「ニコポン政治家」、独断で兵を動かす

 帰国後の桂を重宝するのが、日本陸軍建国の祖である山県有朋である。山県は桂の最新の生きた知識を求め、列強に対抗できる陸軍の創設に邁進する。山県が陸軍で重きをなすにつれ、桂も引き上げられた。

 1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布された。施行は翌明治23年11月29日の帝国議会開会の日である。この日が我が国憲政の始まりである。その時の総理大臣は山県有朋、桂は陸軍次官として仕えた。

 

 初期議会において、衆議院は自由民権運動の牙城である。第一党は板垣退助を首魁とする自由党、第二党は大隈重信を首領とする改進党である。薩長藩閥政府の元老は、枢密院・貴族院・陸海軍・官僚機構は掌握していたが、選挙で選ばれる衆議院にだけは手が出せない。しかも彼らは国家の意思である予算を掌握している。薩長の内閣は必ず予算問題で衆議院と対立し、次々と退陣に追いやられた。二大政党に政権担当能力は無いのだが、拒否権だけは行使する。

 桂は山県に仕えた第1回議会から、政党に予算を削られまいと奔走することとなる。桂の代名詞は「ニコポン政治家」である。ニコッと笑って肩をポンと叩けば、相手を篭絡するから「ニコポン」である。また、八方美人と冷やかされた伊藤博文が、「ならば桂は十六方美人だ」と評したことがある。だが、桂は妥協を繰り返しつつも、来るべき大陸での戦争に備えて陸軍充実に邁進した。

 単なるニコポンではない、桂の果断を示す逸話がある。第3師団長として赴任していた時、濃尾大地震に遭遇した。阪神大震災で知事の要請が無かったので、自衛隊が動けず大惨事となったのは今でも記憶に新しいだろう。実は、帝国陸軍も同じなのである。知事の要請無しに現地の師団長が陛下の軍を動かせば統帥権干犯であり、下手をすれば軍法会議で死刑である。しかも当時の陸軍大臣は高島鞆之助、人付き合いの良い桂が、珍しく苦手としソリが合わなかった人物だ。そうでなくても桂の失脚を目論んでいる。だが、桂はそのようなことは顧みず、知事の要請の前に独断で兵を動かし、復旧復興で人命を救った。桂は待罪書を持参して宮中に参内したが、地元首長や住民からは感謝状が殺到しており、かえって明治天皇からはご嘉納を賜った。高島も手が出せず、辞表は却下された。桂は、統帥権独立が何のためにあるのかを示した。

 

世界の大英帝国を振り向かせ同盟締結

 明治27年からの日清戦争では派手な軍功は無いが堅実に勝利を重ねた。戦後は初代台湾総督として赴任する。その後、伊藤・大隈・山県・伊藤の4代の内閣で陸軍大臣を務める。相変わらず、議会対策が仕事だ。

 この間、隣国の清で義和団事件~北清事件が発生し、日本は八カ国連合軍の中核として事件収拾にあたる。この時、強硬論を唱える外務省に対し、国際協調を旨とした穏健論を唱えたのが桂だった。ロシアは事変後も満洲に居座り、イギリスの警戒感を招く。自然、日本への好感へと変わった。桂の大局観に基づく構想が、これを読んでいたのだった。 

 

国際情勢が緊張する中、国内の政争に悩む元老筆頭の伊藤は考えた。自分が衆議院の第一党を率いれば、政治は安定するのではないかと。そこで板垣系の代議士を糾合し、傘下の官僚を引き連れ、立憲政友会を設立した。だが、今度は党内がまとまらない。伊藤は政権を投げ出し、やがて総裁の椅子も西園寺公望に譲り渡すこととなる。その政友会の牛耳を執る用になるのが、原敬である。桂の政治的盟友かつ終生の仇敵となる人物である。

 

 明治34年、伊藤が政権を投げ出した後の政権は、桂に回ってきた。元老が誰も入閣せず、「二流内閣」と呼ばれた。第二世代の桂を筆頭とする大臣ばかりだったからだ。だが、この内閣が日本史に残る偉大な業績を上げるのだから、世の中わからない。

 桂は、清に居座り、朝鮮をわがものと扱うロシアに対抗するため、日英同盟を進める。ただし、世界の大英帝国が極東の小国を相手に対等の交渉をする訳が無い。桂は伊藤博文をロシアに派遣し、提携交渉を行わせる。もちろん、そんなものが成功するとは思っていない。本音は、イギリスに対する弱者の恫喝だ。日本の動きを知ったイギリスは、それまでの「光栄ある孤立」を捨て、日本との同盟を選ぶ。この間、桂は緻密に緻密を重ねた動きで「ダブルディーリング」であると思わせない細工をした上で、イギリスを振り向かせた。

 明治35年、日英同盟は結ばれた。

 

戦時に明らかになる指導者の資質

 そして明治37(1904)年、国運を懸けた日露戦争に突入する。陸に海に連戦連勝、日本国は挙国委一致で戦争に邁進し、薄氷の勝利を積み重ねた。

 この間、桂は自分の仕事を3つと心得た。

 1つは外交。開戦の決断と辞め際の見極めである。開戦当初からアメリカの仲介を得るべく、高平小五郎駐米公使に加え、セオドア・ルーズベルト大統領の知己である金子堅太郎を派遣して、外交に務めていた。

 2つは戦費の捻出。桂の議会対策では、軍拡と健全財政を旨としていた。戦時には外債募集と増税を行わねばならないからだ。必死に英米から借金をし、国民には増税に次ぐ増税で耐えてもらった。なお、当時の選挙権は納税額によるが、この時の増税で有権者は3倍に拡大している。

 3つは、人心の統一である。丸々2年続く戦いに、人心は疲れていた。それを桂は支えた。国民の結束こそが戦いを勝利に導くと桂は知っていた。逆にロシアでは革命が起きている。

 また、桂は軍事には極力口を出さず、現場に任せた。ただし、現場の暴走は戒めた。

 さて、今次コロナ騒動を、各国の指導者が「戦争」と称した。我が国の総理大臣閣下も御多分に漏れず「戦い」にたとえた。ならば、「いつ戦いを終えるのか、条件を明示した上で、好機が訪れたら果断に行う」「戦いの裏付けとなる財源を確保する」「人々の心を支え、国として結束する」が総理大臣の仕事である。

 そのすべてを行わず、現場に判断を丸投げしている史上最長任期の総理大臣と桂を比べるのは、並べるだけ非礼であろう。

 

 

情意投合」の桂園時代

 桂は日露戦争を勝ち抜いた。その代償は、政友会への政権譲渡だった。原敬は戦争への協力の代償として、政権を要求した。桂は日本の安全保障環境が安定させたうえで、西園寺公望に政権を譲渡する。

 

 桂と西園寺は、肝胆相照らす仲だった。西園寺は桂の外交路線を継承する。ヨーロッパ情勢の緊迫に乗じ、日英同盟と露仏同盟を結ばせた。明治40年は「協商の年」と呼ばれる。日仏、日露、英露の3つの同盟が立て続けに結ばれたからだ。日露戦争中、既に英仏協商は結ばれている。これで日本はロシアの復讐に備えなくてよくなった。ここに日本は、幕末以来の緊張から解き放たれた。

 政権は再び桂に戻る。「桂園時代」である。桂が首相に就任してから12年間、2人が政権をたらいまわしにした。藩閥官僚を率いる桂と衆議院を抑える政友会総裁の西園寺が組めば、他の人々は手出しができない。だが、それだけに体制内の暗闘は熾烈だった。桂内閣が退陣する時は原敬の恫喝が、西園寺内閣が辞める時は山県有朋の陰謀が存在した。そして政権交代の際は桂と西園寺が談合し、元老会議を開かせなかった。桂園時代は恫喝と陰謀による「情意投合」の時代だったのだ。

 第2次内閣で、桂は悪化したアメリカとの関係を改善する。高平ルート協定である。これで安全保障上の問題を完全に除去した。ルーティンワークで朝鮮を併合し、関税自主権を回復して不平等条約改正を達成した。日露戦後の財政難に対処するために自ら大蔵大臣を兼任して対処した。

 

だが、それより何より桂が望んだのは、日本をイギリスのような二大政党制の国にすることだった。

 桂園時代とは、官僚と衆議院第一党による談合である。何回選挙をやっても必ず政友会が勝つ。彼らは田舎の地主の代表であり、国益よりも私利私欲を優先する。官僚も自らのセクショナリズムで国益を蔑ろにする。健全な政権交代が無いので、そうした腐敗を浄化する手段が無い。桂自身も「ニコポン」で「情意投合」に不本意ながら務めてきたが、政友会に対抗できるもう1つの政党の必要性を痛感していた。

 だが、それを決意した時には、桂の体は癌に蝕まれていた。

 今、日本はすべての周辺諸国の靴の裏を舐めて生き続けている。内政においては既得権益層が利権を貪るが、国民は最低限の景気回復すら達成できない状況に甘んじている。どころか、災害対策すらできない政府、官僚と自民党に絶望している。

 桂の時代より、後退している。

 これを羊のように我慢するのか、獅子のように振り払うのか。

 我々自身の決心である。

 

 南下を阻止したかった英米にとっても、日本の勝利に賛辞をおしまなかったと伝えられています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■コロンブス以来の大事件! 「日露戦争勝利」の意義

 

(参照:日本人の覚醒)

http://kabukachan.exblog.jp/19062401/

 

白人国家 VS 非白人国家」での非白人国家の最初の勝利 

陸の乃木、海の東郷と称えられた2人の英雄の導きにより、日本は大国ロシア相手に奇跡的な大勝利を手に入れました

日露戦争での「日本の勝利」は、その後のアジア諸国にどの様な影響を及ぼしたのでしょうか? この点について考えてみます

 

それまで、欧米列強に浸食されていたアジア・アフリカ諸国は、「自分達がどう転んだ所で、欧米列強には敵(かな)いっこない」と諦(あきら)めていました。そこへ、最近までチョンマゲを結っていた極東の小さな島国が、欧米列強の一大国・ロシアに勝利したと言うビッグ・ニュースが飛び込みます。

 

このニュースは、植民地支配に苦しんでいたアジア・アフリカ諸国の「希望の星」になったと同時に、それまで欧米列強には敵わないと諦めていた国々に「独立」と言う希望を抱かせたのです。その後、第三世界に次々と新たなリーダーを輩出させていきました

 

 

「コロンブス以来の大事件」

有色人種の国家が最強の白人国家を倒した。というニュースは、世界史の大きな流れからすれば、コロンブス以来の歴史的大事件となりました。

 

コロンブスの新大陸の発見が世界史上の大事件であったことを認めない人はいないはずです。

コロンブス以前の世界史では、それぞれの地域で起きた事件が別の地域に影響を与えるということは、ほとんどなかった。アレキサンダー大王が現れても、それはアメリカ大陸には関係がないし、また、漢の武帝の即位がアフリカに影響を及ぼすということはなかった。

 

ところが、コロンブス以後、大航海時代がおこり、世界中はひとつになった。ヨーロッパで起きた事件でアジアが動くという時代が始まったのである。この歴史の分水嶺から400年間に、世界史で何が起きたかといえば、白人が有色人種の土地にやってきては、それを植民地にするという時代がはじまります。

これに比べれば、その他の事件、たとえばアメリカの独立戦争(1775~83年)も、同じ文脈にそうことになります。それは小さな出来事に過ぎないのではないでしょうか?

 

アメリカが独立しようと、イギリスという国の植民地になろうと、それはあくまで白人同士の内輪もめであって、「世界史」全体からすれば、どちらに転んでもいい話である。インディアンたちにとって、アメリカ大陸の支配者が誰であろうと、白人であるかぎりは状況は変わらない。白人の植民地支配のほうが、ずっと大きな問題だったのである。

 

日露戦争がなかったら、あるいは日露戦争に日本が負けていたならば、この白人優位の世界史の流れはずっと変わらず、21世紀を迎えようとしている今日でも、世界中は植民地と人種差別に満ちていたであろうということには、豪毛の疑いもない。

 

ところが、日露戦争で日本が勝ったために、コロンブス以来400年ぶりに、世界の歴史の大きな流れが変わったのである。つまり、有色人種が白人の言いなりになりつづけるという時代に終止符が打たれた。それを日本が満天下に示したのであった。

 

そして、時間が経てば経つほど、誰の目にも日露戦争の世界史的意味は大きくなってくるのである。

ふたたび繰り返すが、ここ500年間の世界史の事件で、コロンブスの新大陸発見に匹敵する大事件は、日露戦争における日本の勝利しかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■植民地支配とは?

 

植民地とは、ローマ時代にも見られた占領政策で、とくにコロンブスの新大陸発見以後、西欧列強がこぞってその支配をひろげていきます。初期は搾取型で、金銀財宝を盗んでくることを目的としています。中期には、産業革命によって可能になった工業品を高~く買わせることでお金を吸い上げます。また白人たちは、プランテーションといわれる大型農場を展開するようになり、更に儲けを積みます。農奴とかした現地の人々は、教育の機会はもちろん、民族の言葉や宗教をも奪われていきます、生かさず殺さずといった、巧妙な植民地経営は未来永劫つづくと思われました・・・

 

画像は1度でも植民化、あるいは影響下に入った国をぬりつぶした地図です。パープルの西欧諸国が世界中を支配していた状況がよくわかるのではないでしょうか?

 

この時代の象徴的な出来事は、イギリスと清(いまの中国)によるアヘン戦争です。紅茶の原料となるお茶の葉を購入していたイギリスは支払をしたくない故に、アヘンを売りつけることを画策します。怒った中国側が抗議のすえ戦争に突入すると艦隊をおくりつけこれを殲滅、戦いに勝ったイギリスは、香港という植民地を手に入れ、またアヘンの販売を公式に認めさせるに至ります。

 

っていうかメチャメチャ(*_*) 当時、鎖国政策をとっていた日本でしたが、大国と信じていた中国がいとも簡単に翻弄される姿に愕然とし、開国、そして明治維新と、植民地化に対抗することが国是となっていきます。

 

 

 

人気漫画「HUNTER×HUNTAER」で、怪物が無慈悲に人間を殺戮するシーンが登場します。その時、人間はこういいます

 

人間:「助けてください・・・」

怪物:「おまえらは、牛や豚の命を奪う時、その声に耳を傾けることはあるのかい?」っと

 

植民地化された国々では、当たり前のように人権や財産、そして民族のプライドを奪う政策が実行されていきました。

南アメリカでのスペインによる植民地支配は、卑劣を極めるものでした、数億ともいわれる徹底的な搾取と殺戮を基本とし、人口が足りなくなるとアフリカから奴隷を補充するという鬼畜ぶり、のちに殺しすぎるとプランテーションの運営に支障がでることから、生かさず殺さずという施策がとられるようになります。

 

そんな白人さんにとっては天国、そして大多数の有色人種にとっての地獄の時代が約400年間つづいていきます

そして、その理不尽な時代を終わらせる「分水嶺」となったのが「日露戦争」です。分水嶺とは、山の頂で、雨水が異なる水系に分かれる場所のことをさし、転じて、物事の方向性が 決まる分かれ目のたとえです。水の流れは1滴、2滴でも植民地時代を終わらせたた「日露戦争」は、時代をかえる頂だったのです。

 

以下、WEBサイトの投稿から、植民地支配と、日露戦争の意義を改めて検証してみます。

 

(参照:輝きはじめた日本)

http://japan.alowy.com/?p=124

 

今から約百年前のこと、世界は欧米(ヨーロッパやアメリカ)の国々が支配していました。彼らは、主に白色人種(肌の色が白い人種)で、世界中に植民地を持っていました。そして、有色人種(白色人ではない人種)を差別して、奴隷のように扱っていたのです。

 

白色人種のロシアも例外ではありません。1898年、ロシアは満州(中国東北部)を占領しました。次にねらうは、朝鮮半島。そして、その後は、日本です。

 

このまま何もしないでいれば、やがて、ロシアに占領されると思った日本は、1904年2月、ロシアに戦いを挑みました。

これが、日露戦争です。

 

 日露戦争について理解するには、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』を読むことをお勧めします。この当時の日本人全員が、いかに苦労して国のピンチを乗り越えたのかよく伝わってきます。感動します。NHKのドラマにもなりました。しかし、ドラマでは、様々なしばりがあって、作者の言いたいことが伝わりにくく、あまり感動しません。大人になるまでに、是非、原作を読んでみてください。
 

先輩の公野衛教論は、「日本人の必読書だ」と言っていました。わたしも同感です。

さて、この当時の日本は、まだ近代化したばかりで、力の強い国ではありませんでした。ロシアより、ずっと力の弱い国でした。比較すると国のお金も軍隊の力も、ロシアのほうが約十倍も上回っていました。

 

まるで、大人と子供です。

みなさん、日本は、こんな強い相手に戦いを挑んだのです。

無謀だと思いませんか?

世界中の人々が、ロシアの勝利を予測しました。

そして、思いました。

「日本は、戦争に負けてロシアの植民地にされるのか」と。

 

しかし、少ない資源を有効に活用し、智慧を叡智を結集し、奇跡ともいえる勝利を実現したのです。

 

★20世紀に入る頃の白人による植民地支配は、

 次のような状況になっていました。

  

南米大陸 (南アメリカ大陸)

  ポルトガル、スペインが支配

 

北米大陸 (北アメリカ大陸)

  イギリス、フランスが支配

  途中でアメリカが白人国家として独立

 

アフリカ大陸

イギリス、オランダ、フランス、ベルギー、ポルトガル、

スペイン、ドイツ、イタリアが支配

 

オーストラリア大陸

  イギリスが支配

 

中東アジア

  イギリスが支配

 

東南アジア

  インドネシアはオランダが支配

  マレーシアはイギリスが支配

  アメリカはフィリピン、ハワイを支配

  フランスはベトナムを支配

  イギリス、ドイツ、フランスでミクロネシア諸島を支配

 

極東アジア

  イギリス、フランスで中国を分割支配

  ロシアは満州を支配

 

上記の通り、地球上にある陸地は、ほぼ全てを白人が支配した状況になっていて、

最後の最後に残っていたのは、極東の日本と朝鮮半島だけでした。 

 

日本を植民地にすれば、白人による世界支配は完了だったと指摘する声があります。ギリギリのところで踏ん張った日本、そして日露戦争後、植民地は1つも増えていません。そして、圧政に苦しんだ世界の国々は次々と独立を果たしていきます。世界史に分水嶺があるとするならば、1つはコロンブスによる新大陸の発見、そしてその流れを変えたもう1つの峰は、日露戦争の勝利、すなわち有色人種による初めての勝利であったと断言できます

 

慣が、素晴らしい人生をつくる

家族の無事をねがい、子供の健やかな成長をたくす「育児」。しかし、様々な情報が錯そうし、何が大事か、何を優先すべきか、迷子になっていませんか?

わたしは、そんなお父さん、お母さんの悲鳴をききつけ、解決を図るために、様々な機会に登場し、「家訓づくり」のセミナーを開催してきました。

 

この5年間で、PTAや、各種研修、青年会議所などを中心に、全150回、7000名を超える方々に対し研修をおこなっています

 

「家訓」とは、言い伝えや教訓を子孫に残す文化で、古来より日本に根付いてきました。古臭いもの、あるいは、名家や、老舗にあるもので、自分の家とは関係ないと感じたのではないでしょうか?しかし、「家訓」は特別なものではありません。誰にでもできるシンプルな習慣です。守ってほしい家族のルールや、人生のなかで大事にするべき「伝えたい」言葉、それが家訓です

 

家訓は、おじいちゃん、おばあちゃんの知恵であり、人生で本当に大事にしなければならい金言がそこには溢れています。たとえば、セミナーを受講された狭山市の石川さんは、「靴をそろえる」という家訓をつくりました。たったそれだけのことでも、家族全員が、1つのルールを守る事で、たくさんの素敵な変化が家族のなかに起こったと教えていただきました。家訓づくりでつくる習慣が、ご家族の素晴らしい人生を約束します。学校の勉強も大事ですが、もっと大事なもの、それが正しい習慣です。

 

この度、セルバ出版さまより

世界一簡単な幸せをまねく家訓の作り方

 

が、発刊されます。

これまでのセミナーで学んだこと、体験してきたことを1冊の本にまとめました。これにあわせ、家訓ニスト協会(仮)と、協会の専用のホームページを立ち上げます。

 

この機会に、著作を多くの皆様に手に取っていただき、素晴らしい家訓の世界と、幸せを招くちょっとしたヒントを全国の皆様にお届けできれば幸いです

 

2015年5月

家訓二スト協会(仮) 会長 幡谷哲太郎

 


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・・・工事中

kakun

 訓は、家族を幸せにする魔法の杖

 

家訓と出会って、本当に今の自分が幸せなんだなと感じるようなりました。

(埼玉県 主婦Aさんより)

 

家訓づくりに挑戦した主婦の方から、嬉しいお便りを頂戴したことがあります。子育てのなかでは、忙しい毎日をこなすばかりで、イライラがつのり、主人や子どもにあたり、「私だけ辛い。誰も理解してくれない」と壁を作ってはマイナス思考の日々だったそうです。それでも心のどこかで「このままではいけない」と感じたなかで、出会ったのが、「家訓」によるシンプルな子育てです。

 

 をそろえる

家訓づくりのセミナーでは、シンプルな家訓を選ぶようにおすすめしています。埼玉県狭山市の石川さんは、「靴をそろえる」、そんな家訓を制作されました。

 

最初は、半信半疑で始めた習慣でしたが、家族で決めた、1つのルールをみんなで守るようになると、家の中がピシッとするようになったと石川さんは教えてくれました。

 

下のお姉ちゃんは、幼稚園で、この習慣を守り、他の園児の靴を毎日そろえているそうです。

お母さんも、子供の変化に驚いており、それまで、怒ってもいう事を聞かなかった子供たちが、「靴をそろえる」家訓をきっかけに、自分のことを自分でやるように変わってきたとの嬉しい報告をくださりました。

 

家訓は、家族を救う魔法の杖です。ぜひそんな魔法をあなたの家族にかけてください。

 

 訓づくりはエンターテイメント

 

育児は、育児本でなく、手本。そして輝く父ちゃんと母ちゃんこそが、一番の教科書です。

わたしは、単純に、いい母ちゃん、いい父ちゃんのもとでは、いい子どもが育まれると考えています。

 

家訓づくりのセミナーは、楽しく笑顔がたえない内容です。そして、家訓は家族の歩みに寄り添い、もっとたくさんの笑顔をご家族にもたらします

 

人生をハッピーに過ごしてもらうために!家訓ニスト協会(仮)では家訓づくりを推進していきます

 

 

 

 

 

 

Gallery

セミナーの実施風景①(尾道)


 セミナーの実施風景②(幸手市) 

 

セミナーの実施風景③(安来市)

ガイダンスにしたがって、誰でも楽しく家訓づくりに挑戦できます