神様になった水戸人 杉浦少尉

 

  

 

 神様になった水戸人 杉浦少尉

 

「海ゆかば」

(飛虎将軍廟の祝詞)

 

 

 

 

 

 飛虎将軍廟(ひこしょうぐんびょう、正式名称:鎮安堂飛虎将軍廟)は、台湾台南市にある民間信仰の廟で日本軍人が神として祀られている。 煙草を奉納される飛虎将軍廟神像。3体の神像はいずれも杉浦茂峰像で、脇の2体は信者から要望があった際に貸し出される

 

1944年、台湾に配属されていた日本海軍の杉浦茂峰兵曹長(戦死後に少尉昇進)は零式艦上戦闘機三二型に搭乗して台湾沖航空戦に出撃。10月12日午前、台南上空で米軍機を迎え撃つも撃墜され、落下傘降下中に機銃掃射を受けて戦死した。軍靴には「杉浦」と書かれていて、その後第二〇一海軍航空隊分隊長の森山敏夫大尉の協力で、この飛行士が「杉浦茂峰」と判明した

 

第二次世界大戦後、村のあちこちで不思議な夢を見たという噂が広まった。白い帽子と服を着た日本の若い海軍軍人が枕元に立っているという夢を見たという者が、皆に話したところ、同じ夢を見たという者が数人名乗りでた。その後、その海軍軍人が杉浦であり、集落への墜落を避けるため被弾した乗機を操縦して郊外まで飛び、そのために脱出が遅れて戦死したことが判明。自分の生命を犠牲にして村人を救った杉浦を祀るため1971年、落下地点に廟を建設した

 

現在は毎日管理人が朝夕2回、煙草に点火して神像と写真に捧げて、日本の国歌「君が代」、午後は「海行かば」を祝詞として歌っている

 

2016年9月21日には神像が高雄国際空港から成田国際空港を経て杉浦の故郷である茨城県水戸市に運ばれて里帰りを果たし、翌22日には茨城県護国神社で慰霊祭が営まれた。これは、2016年春に廟を訪ねた日本人作家の夢枕に杉浦が立って「水戸に帰りたい」と告げたという話があり、それを受けて廟の管理委員会が神像に伺いを立てたところ「その通りである」との託宣を得たことによる。その後、神像は台湾に戻されるが、同神社には茨城県に関係した軍人・軍属が合祀されていることから、飛虎将軍廟から護国神社に分祀しようという計画もあるという

 

台湾の為に尽くし「神様」として祀られた杉浦少尉の再評価は、まだまだ始まったばかりのようです。 

 

 

大伴氏 家訓「海ゆかば」

 

 

 

 

 

 

 

 「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」

  

大伴家持 

大伴氏(おおともうじ)は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏(ともうじ)に改称。天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族。

 

「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた 

 

「海ゆかば」

万葉歌人大伴家持が越中国守時代に作った長歌の一節であり、大伴氏の言立て(誓い)であることはあまり知られていない。大伴氏の家訓と言われています。

 

『海行かば』(うみゆかば)とは、日本の軍歌ないし国民歌の一である。詞は、『万葉集』大伴家持作の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。 

 

「海ゆかば」は昭和十二年軍靴の響き高まる中、国民精神総動員運動に呼応し、国民歌謡として作曲され、戦時体制への精神教化の歌・軍歌ともなりました。原詞は大伴家持の万葉集にあり、信時潔が作曲した荘重な調べの傑作で、太平洋戦争末期には大本営発表等での準国歌また玉砕報道の鎮魂歌(レクイエム)として放送されました。

 

 

       「海ゆかば」誕生秘話

 

 (参照:中日新聞デジタル)

http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201707/CK2017071502000223.html

 

 海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ

 

  戦時中、陸海軍部隊の玉砕の際などに、鎮魂歌としてラジオで放送され、人々の涙を誘った「海ゆかば」。今や、そのラジオ放送を聴いた人もほとんどが鬼籍に入り、歌える人も少ない。 戦時中、この歌は「君が代」に次ぐ第二国歌、準国歌なみの扱いを受け、国民に親しまれた。戦後、「天皇の側でこそ死のう。わが身を振り向くまい」という意味が災いして、軍国主義を助長したとして長く封印されてきた悲しい歴史があります。

 

 

 「海ゆかば」とは?

  

戦後の教育の現場では、戦前の軍国主義の反動として、日本を愛する心をも否定する教育が施されました。その教育は戦後70年たった今も続いています。

 

愛する妻子や地域を守るため、図らずも武力でしか解決をはかれなかった時代に、銃をとったことは本当に「悪」なのでしょうか?結果だけいえば、もっと上手なやり方があったやもしれないものの、それは時代も背景も違う評論家のいう戯言(たわごと)です。少なくとも、日々の生活を守るために戦い英霊となった兵士の皆様の想いを否定することはできないはず

 

「君が代」、そして「海ゆかば」で称えられる天皇家を崇拝する気持ちは、個人崇拝のようで、個人崇拝でないというのがポイントです。日本国憲法では天皇は日本の象徴(シンボル)とされます。戦前は、このことを「国体」と表現しています。万葉の古代から近現代まで、家族や愛する人のための戦いとは、公のための戦いであり、つねに天皇ための戦だったのです。

 

英霊の死は無駄だったのか? 

 

大東亜戦争のなかでも、激戦地として知られる硫黄島の戦いで、東京の北区ほどの小さな島、硫黄島は、日米両雄の決戦地となりました。作戦当初、物資両面で勝る米軍は、島の専有を5日で完了する予定でしたが

、栗林大将の入念な作戦のもと、40日に渡る激戦に引きづりこまれ、戦傷者数でアメリカ軍が日本軍を上回ることになりました。

 

これはアメリカの建国以来最大の戦傷者となり、のちの沖縄戦を含め、日本人の逆境のなかで奮闘する姿が、アメリカ中枢部で、本土決戦を回避する選択肢を選ばせたと言われています。

 

負けて勝つ。硫黄島という小さな島をめぐる決戦が、本土決戦という最悪のシナリオを回避し、ひいては戦後の繁栄をもたらしたといっても過言はないでしょう。またこの決戦の結果、米軍のなかで、バンザイ特攻を繰り返す狂信的な日本軍というイメージが払拭され、敵ながら相手を尊重する、畏怖の念が生まれるきっかけになったとも言われます。栗林大将を筆頭に、硫黄島に眠る2万の英霊は、日本の繁栄と共に日米の友情の架け橋になったのです。

 

事実、日本より、アメリカでの知名度の勝る栗林大将の半生は、イーストウッドによって映画化され、「硫黄島からの手紙」として封切られ、日米両国で話題となり、結果国内でも名誉回復が実現されました。

かくいう家訓ニストも、映画によってこの戦いを知った「知ったかぶり」世代です(>_<)

 

愛する家族を守りたい・・・その素朴な想いも、時代の周遊のなかでは、武力という手段しか選択できない時代もありました。

今日、硫黄島をはじめ、戦いに散った旧日本軍の戦没者は、英霊として東京靖国神社に奉られています。平和に暮らす我々の暮らしの基には、英霊の活躍があったこと、そしてそれに感謝することは必然なのではないでしょうか? 

 

今年も、元旦より閣僚による靖国参拝を批判するニュースが流されました。 批判自体を否定する気持ちはありません。確かに日本との交戦のなかで、不合理な一面もあったことですし、A級戦犯を奉っているというのも事実だからです。しかし隣国からの批判を、そのまま国際常識のように受け止める反日の報道姿勢は、別次元の話。日本の大臣、そして宰相が、国を代表して英霊に感謝をし、不戦の誓いをすることを批判する報道関係各位の「品位」を問いたいとおもます。

 

家族を守る素朴な気持ちは、戦中、戦後。そして平成の御代まで変わらぬものです。不幸にして、命を削ることでしか家族を守れなかった時代、多くの軍人が家族を行く末を案じ手紙をのこしました、その多くが、鬼や悪魔のような内容でなく、一人の人間としての普通すぎるパパぶりを今につたえています。主義主張を乗り越えて、すべての英霊をたたえる教育が施される日が来ることを望むばかりです。

  

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大人気・家訓ブログが本になりました!

  

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家訓にみる組織論

家訓にみる組織論

 

 

組織の悩みは、そこに働く人、そして組織を率いる人、それぞれに尽きることのない悩みです。そんな悩みは、現代だけでなく、有史以来、ずっと続いてきたものではないでしょうか?

 

日本は創業200年以上つづく老舗の数が世界一の老舗大国と知られています。老舗の歴史は、数々の困難を乗り越えてきた歴史です。歴代の経営者は、困難を乗り越えるための教訓を「家訓」として託し、次の世代、そして次の世代とつないできました。

 

たとえばある商家では、後継ぎ(長男)が出来が悪かったら、優秀な番頭さんを選び、婿にしろっとの家訓を伝えています。老舗の数だけ家訓(教訓)がある家訓天国、日本。そんな中でも、一番の家訓が遺された時代が戦国時代の武将たちによる「家訓」です。

 

荒々しいイメージの強い戦国武将たち、しかしその実態は、領国経営にいそしむ敏腕経営者だったのではないでしょうか?たえずライバル企業との領地(シェア)争いに巻き込まれ、

隙をみせれば、部下にも寝首をかかれる下剋上の時代、武将たちはどんな「家訓」を遺したのでしょうか?

 

黒田家の場合

 

黒田長政の「異見会の三つの掟」 

希代の軍師として知られる黒田如水(官兵衛)の息子、長政。長政は、父、官兵衛の跡をつぎ福岡を発展させ、今に続く、繁栄をもたらした名経営者です。黒田長政は生存中、毎月日を決めて「異見会」を開いていました。「異見会」とは、いまでいう会議です。その三つの掟とは、

 

一、身分を忘れる

二、何でも言い合っても後にしこりを残さない

三、秘密を守る

 

出席者は、部屋の釈迦像に向かい、手を合わせてこの三つを誓う。この「異見会」は幕末まで続き、黒田家の安泰の礎となった。また長政は嫡男忠之へ遺言として、次のような言葉を遺しています

 

兵法は平法と心得よ 

(意:居ながらにして、天下を平らげることこそ真の兵法。民百姓まで安楽にあってこそ兵法である)                         

 

 父、黒田如水(官兵衛)は「異見会」の基となった子の長政や部下たちに残した訓戒も紹介させていただきます。

 

 すべて人には、相性が良い、悪いということがある。主人と家来の関係でも同じだ。多くの家来の中にも、主人の気に応じる者と応じない者が居る。応じる者は相性が良いと言ってよいだろう。しかしこの者がもし善人であったならば、国の重宝となるが、悪人であったとすれば、国家の妨げとなるのだから大変な違いである。したがって、家来の中に、例え自分と相性が良いものがあっても、それを専ら近く召使い、心を奪われることは危険である。それは相性が良い場合には、ともすれば悪い事を見逃すこともあるから、良く注意して、そういう点を発見し、自分に対して諫言もさせるとともに、またその者が良い気になって行儀が悪かった時には、傍らに呼びつけて意見をすべきである。

 

黒田藩のガバナンスを考える

日本では、大企業になればなるほど、ガバナンスの重要度が増してきます。しかし、ガバナンスを徹底させるために会議につぐ会議をするというのも、逆にいい結果を生まないのではないでしょうか?黒田藩で採用されていた「異耳会」は、会議を有意義なものにするための知恵がたくさん詰まった「家訓」です。 経営者にとって自分と異なる意見を持つ社員さんの存在は疎ましいもの、しかし黒田藩では、そうした異分子を大事にしてきた歴史があります。そして、官兵衛は、YESマンばかりだとまずいとの訓戒を遺しています。

 

現代を暮らす我々にも、会議の仕方、そして人材登用の妙を、黒田衛、長政の親子の「家訓」から学ぶことができます。

 

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樹木希林の遺したメッセージ

樹木 希林(きき きりん)

生誕:1943年1月15日

死没:2018年9月15日 」

 

日本の女優。東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。夫はロック歌手の内田裕也。間に娘・内田也哉子(エッセイスト、本木雅弘夫人)がいる。夫の内田とは長く別居を続けていた 若い頃から個性派女優として数多くの作品で張りだこ状態でした。

 

数年前に全身ガンを告白しつつも現在も精力的な活動で活躍する樹木希林さんの若い頃が想定外に破天荒です。

 

旦那よりもロックンローラーな半生

夫の内田裕也との別居婚も有名ですが若かりし頃から別居婚というスタイルを選びつつ壮絶なDVにも合うも離婚を選択しなかった樹木希林さんの内田裕也さんへの思いや関係を改めて追ってみようと思います

 

生前出演した「ファミリーヒストリー」では、家系をたどると徳川幕府最後の将軍に従えた武家の出身にさかのぼる家であることが紹介されました。本人の証言によれば、実業家としての顔も持つ母親清子さんは当時の戦前戦後を通じてカフェ、アパート経営、仕立て屋、料理店などを経営する女性事業家として活躍する女性だったという。

 

誰かに似てる?ヒモ状態の父親

ただ、肝心の実父は元警察官であったが清子さんとの結婚後はその職を辞して一切働く事がなかったそうです。今風に言えば完全にヒモ状態の父親、働かずに趣味で始めた琵琶の演奏に没頭していたというでもそれを許してバリバリ働く母親清子さんと温厚で優しく人柄の良い父親は樹木さん姉妹ら曰く『母親がとことん惚れこんだ亭主』だったとのこと。

 

働きはしないけど、人として夫として心から惚れてい母親と働かないが温厚で琵琶に没頭する父親を見て育った樹木希林ら姉妹。この実の両親像が樹木希林さんに与えた影響は恐らくかなり大きかったのではないでしょうか?

 

女優の道へ

樹木希林さんは市ヶ谷にある千代田女学院に入学後演劇部に在籍しそれがきっかけで、当時薬剤師を目指し勉学に励むも大学受験直前にスキーで足を怪我した事が元で大学進学を諦める。その後女優への道を選ぶも1964年同期だった俳優の岸田森(きしだ しん)と結婚。4年後の1968年に離婚。 その後1973年10月内田裕也と結婚。わずか結婚から1年半で別居。原因は内田裕也の家庭内暴力がかなり酷かったといわれています。

 

 

それでも別れない夫婦の関係

別居生活50年来の夫婦関係にはどんな秘密があるのでしょう。その間もかなりな女性関係で浮世も流した夫内田裕也との離婚をそこまでして避けた理由は? 「好きだから別れたくない」 凄いインパクトある言葉です。また別のインタビューでは生まれ変わったら一緒になりたいか?との質問に、「お互い顔をふせて歩くと思います。顔をあげたら好きになってしまうから・・・」 っと

 

度重なる不祥事の度にマスコミの前に登場した生前の樹木希林さん。籍を入れた責任上、どうするかを考えながらいきたい。」と、謝罪を繰り返してきました。そして「夫1人だけ奈落の底に落として、自分だけ保身ということはしません。」と、どうしてそこまでっと思えるぐらいの関係です。

 

夫婦のことは夫婦しかわからない。変わった関係にも思えた二人の関係こそ、二人にとって一番いい距離感だったのかもしれません。近年、「文春砲」に代表される芸能人の不倫関係や家族の関係を面白おかしく報道されることが多くなりました。でも、本来夫婦のことは夫婦でしかわからないもの、あーだこーだと形を決めつける世間こそが間違っていたのでしょう。

 

樹木希林さんの遺言、そして家訓

樹木は8月15日の手術直前、「ワイドショーで知ったら嫌でしょう」と相手のことを思い、内田に自ら電話をしたという。樹木は『いままでいろいろ悪かったね』と伝えたそうです。内田も『こっちこそ悪かったな』って。

 

痛快なまでにかっこいい女、樹木希林さん。数々の名言を遺した希林さんですが、いわゆる「家訓」というものは発見できませんでした。しかし、彼女の生きざまこそが家訓であり遺言だったと確信しています。

 

たえず問題を引き起こす夫・内田裕也。そして晩年は全身癌を告白し苦しいはずの闘病生活も笑いと飄々としたコメントで周囲を常に明るく照らす樹木希林さん、生前、「ありがたいという字は、有り難い→難有りと書く。病気も旦那もありがたいっと」

 

2018年9月15日享年75歳没心からのご冥福をお祈りします

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大泉洋 家訓?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大泉洋さんは江別市生まれ。北海道テレビ制作の「水曜どうでしょう」出演をきっかけに大ブレークし、地元はもちろん全国区で活躍している。2014年には道庁から「北海道特別『福』知事」にも任命、北海道が生んだスターとして抜群の人気をほこっています。

 

映画のイベントで披露された大泉家家訓とは?

俳優の大泉洋(45)が13日、都内で行われた映画「焼肉ドラゴン」(22日公開)大ヒット祈願イベントに参加した。

 

劇中の一家の家訓「明日はえぇ日になると、前を向いて生きろ!」にちなみ、自身の家庭の家訓を聞かれ「親父が言ってたのは『食べられるか食べられないかは、食べて判断する』。腐ってるかもしれないけど、食べて判断する。妻が『捨てるよ』と言っても『待ちなさい』と」と“大泉家のしきたり”を説いた

 

同作は、2008年に、日本の新国立劇場と韓国の芸術の殿堂(ソウル・アート・センター)のコラボレーションで製作された同名舞台を映像化。高度経済成長期の真っ只中、万国博覧会が催された1970年代に関西の地方都市の一角で、一家が営む焼肉店を舞台に、故郷を奪われた6人の家族が時代の波に翻弄されながらも、泣いて笑って、力強く生きる姿を描く。

 

 公開を直前に控えた真木は「撮影は、とても濃厚な1ヶ月だった。今でも忘れられないくらい素晴らしい家族の関係を築けた」と感慨深げ。韓国からの“逆輸入俳優”としても知られる大谷は「言葉の壁が現場であると思い“通訳”としても意気込んでいたけど、中盤になったら、皆さんが通訳を介さずに韓国の役者さんと会話していた。家族の輪が自然と出来上がっていましたね」と笑顔で振り返った。

 

 家族がテーマの作風になぞらえて“家訓”を問われた大泉は「父がとにかくもったいないからと、物が捨てられない人だった。『食べれるか、食べれないかは“食べてから”判断しろ』と言われてましたね。それは私も実践しています」と告白。鄭義信監督から「それは家訓じゃない」とツッコミが入ると、真木も思わず吹き出していた。

 

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森信三 「家訓」躾の3原則

 

人間は一生のうち 逢うべき人には必ず逢える。

しかも一瞬早過ぎず、 一瞬遅すぎない時に。

森信三 名言より)

  

 

 

愛知県知多郡武豊町に父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で岩滑(やなべ、現在の半田市)の森家に養子に出され、以来森姓となる。

 

1920年(大正9年)広島高等師範学校英語科に入学、福島政雄・西晋一郎に学ぶ。

1923年(大正12年)、京都帝国大学哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受け、卒業後は同大学大学院に籍を置きつつ天王寺師範学校(現大阪教育大学)の専攻科講師となる。

1939年(昭和14年)に旧満州の建国大学に赴任、敗戦後の1946年(昭和21年)に帰国、

1953年(昭和28年)、神戸大学教育学部教授に就任。

1975年(昭和50年)「実践人の家」建設。

1992年(平成4年)逝去。

 

おもな著書に『修身教授録』『哲学叙説』『恩の形而上学』などがある。ちなみに「信三」は戸籍上は「のぶぞう」と読み、「しんぞう」は戦後帰国した際に他人が読みやすいという理由から名乗った通称である。

 

森信三とは?

(参照:一般社団法人 実践人の家) 

http://www.jissenjin.or.jp/profile.html

  

人には迷いがあります。森信三の若い時代も迷いの連続でした。しかし、真摯な取組みで人生の真理の解明にあたり、独自の人間哲学、教育哲学の道を切り拓いてきました。膨大な著作、中でも「修身教授録」は大ベストセラーとして信三の名を高め、半世紀以上経た今でも広く読み継がれていますが 、信三は著作以上に実践のひとでした。 学校での講義の合間に全国津々浦々に脚を延ばして人間教育の土台づくりを図りました。精力的な教育行脚は晩年を迎えて更に拍車がかかりました。信三に接した人々は皆、信三の一言で迷いが消え、新たな気持ちで職務にあたれたと語っています・・・・・

 

   『学者にあらず、宗教家にあらず、はたまた教育者にあらず、ただ宿縁に導かれて国民教育者の友としてこの世の生を終えむ』 という自銘のことばに従い、『私の内面には、常に全国五十万の国民教育者の姿が消えたことはない』 と明言し、 一万回以上にわたって、全国津々浦々への講演行脚に明け暮れた。

 

西洋の哲学に飽きたらず、日本人として如何に生きるべきかの探求から「全一学」を提唱した。 教育においては [ しつけの三原則 ] [ 学校職場再建の三大原理 ] 主体的人間になるための [ 立腰教育 ] などを ひろめ、森信三の教えは学校や企業での研修教育に採用されている。 全著作全集は33巻に及ぶ。その他、啓蒙書として [ 修身教授録 ] [ 幻の講話 ] 等の名著を遺す。 

 

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「家訓」の世界へようこそ!

慣が、素晴らしい人生をつくる

家族の無事をねがい、子供の健やかな成長をたくす「育児」。しかし、様々な情報が錯そうし、何が大事か、何を優先すべきか、迷子になっていませんか?

わたしは、そんなお父さん、お母さんの悲鳴をききつけ、解決を図るために、様々な機会に登場し、「家訓づくり」のセミナーを開催してきました。

 

この5年間で、PTAや、各種研修、青年会議所などを中心に、全150回、7000名を超える方々に対し研修をおこなっています

 

「家訓」とは、言い伝えや教訓を子孫に残す文化で、古来より日本に根付いてきました。古臭いもの、あるいは、名家や、老舗にあるもので、自分の家とは関係ないと感じたのではないでしょうか?しかし、「家訓」は特別なものではありません。誰にでもできるシンプルな習慣です。守ってほしい家族のルールや、人生のなかで大事にするべき「伝えたい」言葉、それが家訓です

 

家訓は、おじいちゃん、おばあちゃんの知恵であり、人生で本当に大事にしなければならい金言がそこには溢れています。たとえば、セミナーを受講された狭山市の石川さんは、「靴をそろえる」という家訓をつくりました。たったそれだけのことでも、家族全員が、1つのルールを守る事で、たくさんの素敵な変化が家族のなかに起こったと教えていただきました。家訓づくりでつくる習慣が、ご家族の素晴らしい人生を約束します。学校の勉強も大事ですが、もっと大事なもの、それが正しい習慣です。

 

この度、セルバ出版さまより

世界一簡単な幸せをまねく家訓の作り方

 

が、発刊されます。

これまでのセミナーで学んだこと、体験してきたことを1冊の本にまとめました。これにあわせ、家訓ニスト協会(仮)と、協会の専用のホームページを立ち上げます。

 

この機会に、著作を多くの皆様に手に取っていただき、素晴らしい家訓の世界と、幸せを招くちょっとしたヒントを全国の皆様にお届けできれば幸いです

 

2015年5月

家訓二スト協会(仮) 会長 幡谷哲太郎

 


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・・・工事中

kakun

 訓は、家族を幸せにする魔法の杖

 

家訓と出会って、本当に今の自分が幸せなんだなと感じるようなりました。

(埼玉県 主婦Aさんより)

 

家訓づくりに挑戦した主婦の方から、嬉しいお便りを頂戴したことがあります。子育てのなかでは、忙しい毎日をこなすばかりで、イライラがつのり、主人や子どもにあたり、「私だけ辛い。誰も理解してくれない」と壁を作ってはマイナス思考の日々だったそうです。それでも心のどこかで「このままではいけない」と感じたなかで、出会ったのが、「家訓」によるシンプルな子育てです。

 

 をそろえる

家訓づくりのセミナーでは、シンプルな家訓を選ぶようにおすすめしています。埼玉県狭山市の石川さんは、「靴をそろえる」、そんな家訓を制作されました。

 

最初は、半信半疑で始めた習慣でしたが、家族で決めた、1つのルールをみんなで守るようになると、家の中がピシッとするようになったと石川さんは教えてくれました。

 

下のお姉ちゃんは、幼稚園で、この習慣を守り、他の園児の靴を毎日そろえているそうです。

お母さんも、子供の変化に驚いており、それまで、怒ってもいう事を聞かなかった子供たちが、「靴をそろえる」家訓をきっかけに、自分のことを自分でやるように変わってきたとの嬉しい報告をくださりました。

 

家訓は、家族を救う魔法の杖です。ぜひそんな魔法をあなたの家族にかけてください。

 

 訓づくりはエンターテイメント

 

育児は、育児本でなく、手本。そして輝く父ちゃんと母ちゃんこそが、一番の教科書です。

わたしは、単純に、いい母ちゃん、いい父ちゃんのもとでは、いい子どもが育まれると考えています。

 

家訓づくりのセミナーは、楽しく笑顔がたえない内容です。そして、家訓は家族の歩みに寄り添い、もっとたくさんの笑顔をご家族にもたらします

 

人生をハッピーに過ごしてもらうために!家訓ニスト協会(仮)では家訓づくりを推進していきます

 

 

 

 

 

 

Gallery

セミナーの実施風景①(尾道)


 セミナーの実施風景②(幸手市) 

 

セミナーの実施風景③(安来市)

ガイダンスにしたがって、誰でも楽しく家訓づくりに挑戦できます