伊藤忠の理念『三方よし』

初代 伊藤 忠兵衛 (しょだい いとう ちゅうべえ)

生誕:天保13年(1842年) 

死没:明治36年(1903年)

 

日本の商人、実業家。伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した

 

初代忠兵衛は、五代目伊藤長兵衛の次男として生まれた。生家は紅長(べんちょう)の屋号で耳付物という繊維品の小売をし、また1、2町の田地を自作する手作りの地主でもあった。伊藤家は、この初代伊藤忠兵衛と兄の六代目伊藤長兵衛が、近江湖東の犬上郡甲良郷八目村(犬上郡豊郷町八目)で安政5年(1858年)5月に近江麻布類の持下り商を開業し、堺や紀州に行商したのにはじまる。伊藤忠も丸紅も、この年を創業年としている。

 

兄の長兵衛は国元で仕入れに当たり、のちに博多新川端で伊藤長兵衛商店を開業した。弟の忠兵衛は、明治5年(1872年)1月に大阪本町二丁目に呉服・太物店をはじめ紅忠(べんちゅう)と称して、麻布類・尾濃織物・関東織物を取り扱った。この2つが合併・分割を繰り返して現在の伊藤忠・丸紅につながっている。

 

商売は菩薩の業

紅忠は開店と同時に店法を定め、利益三分主義をとった。これは、店の純利益は本家納め・本店積立金・店員配当に分かち、これを 5:3:2 の配分率にして「三つ割銀」といった。店員への配当を割くことによって勤労意欲を喚起したもので、これは伝統的な近江商法に拠ったものである。また忠兵衛は真宗の信仰に厚く、津村別院へ熱心に通い、「商売は菩薩の業」と説いて多数の人材を育て、財産を分かつことを商売繁盛の本道としていた。

 

明治18年(1885年)には、甥の外海鉄治郎と組合組織で伊藤外海組を設立し、神戸に事務所をおいて直貿易を始めた。明治26年(1893年)には安土町二丁目で綿糸卸商の伊藤糸店ができて綿糸も取り扱う。明治29年には日東合資会社をつくり、中国綿の輸入と日本綿糸の輸出にあたる。

 

晩年には郷土の豊郷村の村長も務めた。明治27年(1894年)に兄の長兵衛が死去(61歳)。そして明治36年(1903年)7月8日に忠兵衛は須磨の別邸で死去した。家督は17歳の次男の精一が相続、二代目伊藤忠兵衛を襲名した。

  

 

 

日本を動かす巨大総合商社・伊藤忠商事

 

伊藤忠商事

売上高:連結:11兆6004億85百万円 単独:4兆4703億29百万円

従業員:連結:102,086人単独:4,285

 

丸紅

売上高 連結:13兆9,253億39百万円 単独:7兆3,285億53百万円 

 

1858年、初代伊藤忠兵衛が麻布(あさぬの)の「持下り」行商を開始したことをもって創業としている。同業の丸紅とは同じ起源となっている。その後、いったん丸紅と分割されたものの、戦時中に再度合併(大建産業)、戦後の財閥解体措置により再度両社は分割され、1949年に現在と直接つながる伊藤忠商事株式会社が設立された

 

社名は、創業者の伊藤忠兵衛が、「紅は高貴な色である」として実家の屋号「紅長」から1文字をとった「紅忠」という商号を使用して、○の中に紅という文字を入れた印を暖簾や半纏に使ったことに由来する。

 

1960年代から1970年代前半には三井物産・三菱商事と並んでスリーエムと称される総合商社トップ3の一角であったが、その後伊藤忠が安宅産業を合併して力を付けたことや、住友商事の台頭、さらにはロッキード事件の影響などもあった。

 

1997年のアジア通貨危機によって各商社は甚大な負債や不良債権を抱え、それによって丸紅も一時倒産の危機に直面したものの、中期再建計画であるAction21 A Planに沿って業績のV字回復を達成する。その後は、他商社とともに「商社夏の時代」を謳歌している。特に丸紅は、伝統的に紙・パルプ部門、食料部門、電力部門に強みを持っている他、空前の資源高の恩恵、またはリスク・マネジメントの強化などもあって、2013年3月期は2期連続で過去最高益を更新し、売上高は七大商社中第3位となった

 

伊藤忠商事は2020年1月、同社グループの企業理念を4月1日から近江商人の経営哲学「三方よし」に改めると発表した。

改訂は28年ぶり。創業者の初代伊藤忠兵衛が「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の起源となる言葉を最初に提唱したことにちなんだものだ

 

   近江商人の家訓

 『売り手よし 買い手よし 世間よし』

  

解説:

売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、さらに商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならないとしたものです。三方良しの理念が確認できる最古の史料は、1754年に神崎郡石場寺村(現在の東近江市五個荘石馬寺町)の中村治兵衛が書き残した家訓であるとされています。(※ただし、「三方良し」は戦後の研究者が分かりやすく標語化したものであり、昭和以前に「三方良し」という用語は存在しなかったといわれています)

 

商人の「道徳」(世間よし)

近江商人の家訓、三方よしで有名な「売り手よし 買い手よし 世間よし」をご存知でしょうか?現代のビジネスシーンでは「自分よし自分よし自分よし」という一方通行が多いようです。 自分が儲けるために、お客さんを喜ばせ、なおかつ社会(世間に恥じない商いをすることを昔の商人たちは戒めとして家訓に記しています

 

村上ファンドやライブドアの事件以後、お金儲け(ビジネス)が程度の差こそあれ、現代においても倫理や道徳を大事にすべきではないか?と議論がおこります。テクノロジーの進化は、1秒の間に、何回も売り買いを繰り返し利ざやを稼ぐマーケットまで登場させていたます。プログラミングされたコンピューターがする「商い」に道徳はありません。そして、道徳のない商いに、未来がないことを日本の商人たちは、伝統的に知ってきました。

 

世界では、商人。とくに金貸しを忌み嫌う風習がのこり、それは、キリスト教文化圏、そして中国などの儒教の文化圏、いずれも商人への差別はひどいものがありました。とくに、土地をもてなかったユダヤ人たちは積極的に「金貸し」の世界をひろげ、他の民族との確執をうみました。実は、旧約聖書では、ユダヤ人同士の金の貸し借りを禁じています。そのかわり、他宗教、つまりキリスト教の信者には金を貸せたことで、逆恨みをかい根深い差別意識を醸成してしまいました。

金利をのせてお金をかす金融は経済の基本です。しかも、ボランティアではない以上、儲からないわけがない。しかしそれが、差別をまた生む。という悪循環です。 

 

商人という言葉はどこから来たのでしょうか。商い(あきない)をする人・・・。実は違うのです。その語源は中国の大昔に発します。中国の王朝を順に追っていくと、殷・周・秦・漢・・・と学校でも学びます。その「殷」という名で知られている王朝は、実は殷という呼び名は後世の呼び方で、その時代は「商」と呼ばれていました。

  

商の人々はものを遠くに運んで売ることで利益をあげる、ということを盛んに行っていました。時には国境を越えて周辺地域にまで足を運んだりしたので、その地域の人々からは商から来た人、という意味で「商人(しょうひと)」と呼ばれました。また、商が滅亡して周の時代になってからも、ものを運んで売り買いする人の代名詞として、「しょうひと」という言葉が使われ続け、これが商人の語源となったと言われています。

 

近江商人とは

 日本においても、当時の中心地であった、京都を中心に、美濃国・伊勢国・若狭国などの近隣地域を中心に行商を行う商人が誕生していきます。そして徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、中には朱印船貿易を行う者も現れました。鎖国成立後は、京都・大坂・江戸の三都へ進出して大名貸や醸造業を営む者や、蝦夷地(現在の北海道)で場所請負人となる者もありました。幕末から明治維新にかけての混乱で没落する商人もあったが、西川産業のように社会の近代化に適応して存続・発展したものも少なくない。今日の大企業の中にも近江商人の系譜を引く会社はたくさんあります。

 

その商才を江戸っ子から妬まれ、伊勢商人とともに「近江泥棒伊勢乞食」と蔑まれたが、実際の近江商人は神仏への信仰が篤く、規律道徳や陰徳善事を重んずる者が多かった。様々な規律道徳や行動哲学が生み出され、各商家ごとに家訓として代々伝えられています。

 

当時世界最高水準の複式簿記の考案(中井源左衛門・日野商人)や、契約ホテルのはしりとも言える「大当番仲間」制度の創設(日野商人)、現在のチェーン店の考えに近い出店・枝店の積極的な開設など、近江商人の商法は徹底した合理化による流通革命だったと評価されています。

 

「三方よし」は「買い手よし、売り手よし、世間よし」といわれ、近江商人の活動の理念を表わすものです。その原典は江戸時代中期の近江商人である中村治兵衛が孫に残した書置にあるとされ、そこには、「たとへ他国へ商内に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分の事に思わず、皆人よき様にと思い」とあり、自分の事よりもお客の事を考え、みんなの事を大切にして商売をすべき、という風に書かれています。

 

また報徳思想で有名な二宮尊徳の言葉(意訳)として 

「道徳なき経済は犯罪であり 経済なき道徳は寝言である」との言葉も伝わっています。

 

企業の社会的責任(CSR)が強く叫ばれるようになった昨今、企業の間でも、近江商人の大切にしていたこの三方よしの考えが注目されています。ビジネス言葉に「win-win」というものがありますが、売り手よし、買い手よし、ここまでは上手くいっても、世間よしには中々繋がらないものです。そこで、CSRを実践するため自社の経営理念に三方よしの考えを取り入れる企業が増えてきています。

  

 

近江商人の流れを汲むとされる主な企業

 

・百貨店など流通業

大丸

高島屋(高島郡出身の商人飯田儀兵衛の婿養子である飯田新七が創業。社名は高島郡に由来)

白木屋(長浜出身の大村彦太郎が創業。1967年に東急百貨店に吸収)

三中井百貨店(神崎郡出身の中江勝次郎が創業。1945年の終戦とともに消滅)

藤崎(創業者藤﨑治右衛門は日野出身との説がある)

山形屋(近江商人の血を引く羽前庄内出身の源衛門が創業)

西武グループ、セゾングループ (愛知郡出身の堤康次郎が創業)

 

・商社

伊藤忠商事・丸紅(犬上郡出身の伊藤忠兵衛が創業)

住友財閥(初代総理事広瀬宰平は野洲郡出身、2代目伊庭貞剛は蒲生郡出身)

双日 母体となる 日商岩井、ニチメンとも、近江商人の流れを汲む。

トーメン(彦根出身の児玉一造が中心となって創業)

兼松(前身の一つである江商は、犬上郡出身の北川与一が創業)

ヤンマー(伊香郡出身の山岡孫吉が創業)

 

・繊維関係

日清紡

東洋紡(前身の一つである金巾製織は、滋賀県知事の勧奨から複数の近江商人が創業)

東レ

ワコール(仙台出身神崎郡育ちの塚本幸一が創業。社名は「江州に和す」に由来)

西川産業(八幡出身の西川仁右衛門が創業)

 

 

商社(問屋)は社会の癌なのか?

 

 

 

Yahoo知恵袋に、学生さんからの質問で、「商社を通すのは無駄なのに、なんで日本には遅れた商環境がのこっているのか?との質問がありました。

 

伊藤忠をはじめとした総合商社や、そのほか、専門商社。輸出入だけでなく、街の雑貨さんから、居酒屋にビールをとどける酒問屋さんまで、そのいずれの商社は、ものづくりをせず、他人の商品を買って、利益をのせて転売する【ピンハネ】商売です。

 

一見無駄にも思える商社の機能。実際、90年代の経済紙には、問屋不要論が声高に叫ばれ、10年後にはなくなる商いの筆頭にあげられていました。専門家から、学生さんまでみんなが無くなると思っていた商社の【ピンハネ】機能。しかしそれから30年。なくなったのは、ダイエーやそごうといった大手小売りチェーンであり、無駄なはずの商社は、むしろ売り上げをのばしたのでした。

 

明治維新の英雄、坂本龍馬は、その短い半生を世直しのために捧げました。そんな竜馬の本当の夢は、世界を相手に貿易をし、日本を豊かにすることだったといわれています。日本の三大商社の1つ三菱商事は竜馬の遺志をつぎ同郷の岩崎弥太郎が起業した会社です。鉄も石油もとれない日本は、右から左、左から右と、商品を【ピンハネ】することで豊かな社会をきずきあげてきました。

 

商社は社会の癌にあらず。社会を豊かにする潤滑油である。世の中のためにがんばっている問屋さんのために、その意義や可能性を歴史から紐解き解説します。

 

 

 

江戸時代からの伝統 日本スタンダード「問屋」という商い

浮世絵に描かれる江戸時代の風景は、当時の賑わいを今に伝えてくれます。画像は、お江戸日本橋。橋の向かいには、多くの蔵が立ち並んでいることが分かるでしょうか?

 

トラックや電車のない江戸時代、物流は、川や運河が担っていました。とくに100万もの人口を抱えていた江戸には、衣食住、すべての物品を運び込む必要があります。日本橋は、当時の物流基地であり、全国から集められた産品を集積し販売する「問屋」が存在していました。

 

問屋という呼称が一般的になったのは江戸時代に入ってからのことです。油・木綿・木材・生魚・干鱈などの問屋が発生していました。大都市に安定した需要が生まれ、それぞれの商品の流通量が増加し、収拾過程と分散過程が長く多岐に渡るようになると,自然に商品毎の卸売業が発達することとなります。

 

問屋とはプラットフォームビジネスを行う存在だったのです。

 

 

問屋とは?

「問屋は、社会の血液」と言われています。社会をそっとささえる裏方のような仕事ともいえます。

 

あなたの経営するお店が100メーカーの製品を売っているとしたら100社分の口座を開き(100社からの請求書を照合し、100社に入金しなくてはいけませんので経理部員がそれだけ必要になります)

 

しかし2社か3社の問屋とお付き合いすればそれらすべての商品が一度の商談で入ってくるわけです。問屋はあらゆるメーカーのあらゆる商品を一台のトラックに乗せて納品させます。50アイテムを入庫してもらっても、支払い口座は1本で請求書は1社分だけ管理すればいいわけです。

 

たとえばそれが大手小売店など大規模な店の場合には5000社、1万社からのメールを毎日チェックして毎日見積もりをチェックする仕事をすることになります。経理部員は1万社からの電話を何十人かで帳簿管理を行い、相殺打ち合わせや計上ミスの確認に追われます・・・ 考えるだけで憂鬱です(*_*)

 

ハサミと問屋は使いよう

一見、いらないような問屋の商いには、江戸時代から続く、商いの「知恵」が詰まっています。一部に根強い問屋の不要論も、メーカーの直販の優位性もある意味、その背景は同一であると認識しています。アメリカでは、日本における「問屋」の商いは存在していません。これをもって、「遅れている」とされた時代がありました。アメリカでは日本でいうところの卸問屋は求め難く、メーカーの直販が常識です。

 

しかしアメリカ最大のスーパー、ウォルマートの本部には、売り上げ規模で換算すれば日本のほぼ20倍以上の人員をおいているそうです。日本では問屋が、長い歴史の積み重ねもあってそれこそ網の目のように配送網を張り巡らせていますが、アメリカにはそれがありません。

 

また日本の文化に根付いたコンビニエンストアーも、問屋があってこそ、成立する商いです。もはや生活にかかせなくなったコンビニ。たえずお客様のニーズにこたえるために、店舗には1日4回以上の配送便が現れ、お弁当や、飲料、タイムリーに商品を供給していきます。この奇跡の物流を支えるものの、「問屋」の機能です

 

ただし真の問屋機能を持たない問屋はもはや生き残れない時代で、実際、地方の問屋さんは次々に廃業をしていきます。また、一部のメーカーや大手小売は問屋機能の内製化を始めています。江戸時代から続く「問屋」の歴史は、アメリカにはない日本スタンダードの歴史です。そしてその歴史は、人々の生活をがっつり支える裏方の歴史でもあるのです。

 

問屋は社会の癌にあらず。ひっそり支える菩薩の生業なり^^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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