創業600年 佐久ホテルの家訓

佐久ホテル家訓

「流行の事業に手を出すな」

 

 

佐久ホテルの創業は室町時代の正長元年(1428年)。望月城・望月河内守が現在の佐久ホテルのある場所において、宿泊や食事を提供したのが始まりだという。

 

創業から600年間を数えようとしており、長野県で最も古い老舗として知られる。同ホテルは足利将軍家が贈ったという感謝状を所蔵しているという。戦国時代、天文年間には武将・武田信玄が訪れ、入浴したと伝わる。江戸時代は陣屋元にあったため、割元・名主・公事宿(郷宿)の任を務めた。

 

江戸時代末期、幕末の頃に蒸気船を旅客船として事業化を企画・出資するも、鉄道の普及により失敗。これによる損失は現在の価値に換算して60億円にも上るものであった。その戒めとして、不慣れな事業や相場、賭事には手を出さないよう、家訓を定めた。歴史上の偉人・文人が訪れたという誇りも公にせず、取材にも応じないこととしたため、普通のビジネスホテルと見られがちであった。

 

現代、第19代目当主(株式会社佐久ホテル代表取締役)は、一転して歴史や伝統を前面に押し出す経営へと方針を転換。伝統の鯉を使った料理の提供や、放棄されていた温泉の再興、インターネット・SNSを活用した情報発信を行っている

 

 

 

「 佐久ホテル 家訓守り600年、信玄も接待」(老舗の研究 持続の秘訣)

 

参照:日経新聞電子版

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41279300U9A210C1L31000/

 

室町時代の1428年、望月城の望月河内守が現在の佐久ホテルの場所で領主として宿泊や料理を提供したとの古文書が残る。長野県随一の老舗企業で、十九代当主の篠澤明剛社長は「世界最古の飲食店としてギネスブックに申請している」と語る。

 

古文書をたどると、1531年に武田信玄を接待したのをはじめ、小林一茶、葛飾北斎、島崎藤村、柳田国男、北原白秋、若山牧水ら様々な人物が宿泊している。幕末から明治の激動期に積極的に挑戦したのが十五代の豊太郎だ。1885年に明治天皇の専用室も備えた「佐久ホテル」を開業し、会社組織にした。東京と霞ケ浦・北浦を結ぶ外輪蒸気船事業に参画して酒造にも手を広げるなど事業意欲は強かったが、後発の鉄道に押されて外輪船は失敗。家業が傾くほどになった。ホテルの礎を築いた豊太郎は1905年、経験を元に家訓を書き残した。それには「流行の事業に手を出すな」「慣れない事業や無経験のことには着手するな」「米相場は家断絶の業」とある。第2の危機は第2次大戦後。農地解放で多くの土地を失い、GHQ(連合国軍総司令部)に数百本の刀剣類を接収された。戦中に佐久ホテルに疎開し戦後も専用室に住んだ詩人の佐藤春夫は、監視していたGHQの検閲を避けるため、原稿や手紙の郵送を篠澤家の幼い娘達に託したという。

 

豊太郎の家訓はバブル経済の時に生きる。当時、土地や株式売買、団体客受け入れへの規模拡大など様々な投資話が舞い込んだが、明剛社長の父、十八代の秀夫社長はすべて断った。この時に過大投資して失敗したホテルや旅館は多く、賢明な判断だったといえる。しかし明治に建てられた旧館は消防法に抵触して建て替えざるをえなくなっていた。

 

秀夫氏は建設費用捻出へ知人ら約30人に株主になってもらい、建て替えに踏み切った。牧水や春夫が滞在した部屋の天井や柱材を活用するなど、旧館の面影を随所に残している。04年に社長に就任した明剛氏は「昔からの風習を守ること、言い伝えを6人の子どもたちに伝えることを大切にしている」という。従来は表に出してこなかった古文書やゆかりの人々の逸品を積極的にPRして独自性を出すとともに、温泉「旭湯」を復活させた。風習といえば、7月の岩村田祇園祭の際に150人分のウナギ、豆腐、天茶などのふるまいを元禄時代から300年以上続けている。かなりの出費だが、「観光地でもない佐久市で600年近く続くのは、地域のおかげ」と明剛社長。今も冠婚葬祭や会合での利用が経営を支えている。佐久ホテルの名物である佐久鯉のうま煮はタレを約270年つぎ足している。先祖代々の教えに沿いつつ時代時代の要素を加えてきた佐久ホテルの経営に通じるものがある