ヤマサ醤油・浜口家「家訓」と「稲むらの火」

 

創業350年 ヤマサ醤油の歴史

 

ヤマサ醤油株式会社は、千葉県銚子市にある醤油を中心とした調味料メーカー。七代目当主濱口梧陵の代で医学をはじめ様々な社会事業に尽力し、現在でも診断用医薬品や抗体試薬などの医薬品も販売している。醤油業界では同社と同じ千葉県に本社を置くキッコーマンに次いで全国シェア第2位

 

1645年(正保2年) - 初代・濱口儀兵衛が紀州から銚子に移り、廣屋儀兵衛商店として創業する。「山笠にキ」の暖簾を考えるが、紀州徳川家の船印と同じだったため、キを横向きにした所、サと読めることからヤマサとした。以後も代々の当主は銚子と紀州を行き来している。

1854年(安政元年) - 第七代当主濱口梧陵が安政南海地震において津波の来襲から村人を救い、その後「稲むらの火」として紹介される。

1864年(元治元年) - 江戸幕府より品質に優れた醤油として、最上醤油の称号を拝領、商標の右上にある「上」の由来となる。

 

創 業 :1645年(正保2年))

売上高 :569億円(2017年12月期)

従業員数:830人(2011年12月)

 

「醤油」の誕生

醤油の元となるものを作ったのは、鎌倉時代、紀州由良(現在の和歌山県日高郡)の興国寺の僧であった覚心だといわれています。覚心が中国で覚えた径山寺味噌の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似たものだったのです。ヤマサ醤油を創業した初代濱口儀兵衛は、醤油発祥の地である紀州湯浅の隣りの広村(現広川町)の出身。濱口家の家長は代々、紀州広村にある本家と銚子を行き来していました。

 

ヤマサ醤油の歴史

代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは1645年(正保2年)です。

新しい漁労法で大成功をおさめて銚子外川港を作った、同じく紀州出身の崎山次郎右衛門という人物に刺激されて銚子での商売を始めたのではないかといわれています。以来、ヤマサ醤油は創業から3世紀半以上、途中若干の起伏盛衰はありましたが、12代に渡り品質の高い醤油を作り続けてます。同時に、銚子は気候が醤油作りに最適な紀州とよく似ていることもあり、漁業だけではなく醤油の町としても発展していきました。

 

1603年に江戸幕府が開かれ、1615年の大阪夏の陣で豊臣方が敗れて以来、名実共に文化・政治の中心は江戸に移っていきました。

ヤマサ醤油は、江戸幕府誕生のほんの42年後に、千葉県は銚子の地で創業しています。江戸という町が大きくなっていくのと歩調をあわせ、ヤマサ醤油は醤油という日本独特の味を人々に提供し続け、食文化の発展に貢献していくことになります。

 

 

浜口家家憲

「たとへ主人と雖も 其の少年時代の逸楽安居を許さず。 一には自ら困苦に堪へうる習ひを養ひ 一には人を率ゐるの道を知らしめん」

 

 

 「稲むらの火」の逸話

 

江戸時代のCSR 「稲むらの火」

1854年(安政元年)、紀州(和歌山)で南海の大地震に遭遇した当時のヤマサ醤油の当主・浜口梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。

 

梧陵は深夜を迎えていた村にあって、村民を避難させるため、田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。この当時、稲(米)は、現金と同じ価値をもつ大事な作物です。そうした大事な財産をも投げすて多くの人命を救った梧陵は、まさに偉人です。

 

明治になり、この逸話に感動した文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「仏の畠の中の落穂拾い」という短編集の中で、‘A Living God(生ける神)’として梧陵を紹介しています。そして物語「稲むらの火」は昭和12年から10年間、小学国語読本に採用されました。梧陵の名は、ちょっと前の日本人なら誰でもしる大人物だったのです。

 

濱口梧陵の生涯 

梧陵は文政3年・1820年、紀伊国有田郡広村(現在の和歌山県有田郡広川町)で生まれました。紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男だった七太(梧陵)は、12歳の時に本家の養子となり、銚子で家業である醤油醸造を継ぐことになります。 

 

梧陵の邸宅は現在、「濱口梧陵記念館」として公開され、多くの村民を救った英雄として今でも尊敬を集めているそうです。

 

この記念館では、梧陵の生い立ちを紹介しており、濱口家の家憲(家訓)も紹介されています。 

 

たとへ主人と雖も 其の少年時代の逸楽安居を許さず。 一には自ら困苦に堪へうる習ひを養ひ 一には人を率ゐるの道を知らしめん

(たとえ主人といえども、少年時代に遊び暮らすことを許さず。一つには自ら困難に立ち向かう態度を養い、一つには人を率いる道理を得る。)

 

梧陵はこの家憲にならい修行し、その倫理観が血となり肉となり、後の思想と生き方の根幹になっていったのです。

 

お金は儲けるより使う方が難しい

梧陵の活躍は人命救助だけに留まりません。津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止しました。また、将来の津波被害を防止するため、私費を投じ、堤防の建設を進めました。全長600m、高さ5m、海側に松、陸側に櫨(ハゼ)の木が植えられたその姿は、今でもその景観をたたえており、史跡に指定されています。

 

「お金を稼ぐより使う方が難しい」とは、松下幸之助さんの言葉です。浜口家では、代々の当主は、お金を稼ぎ、そして「生き金」として使ってきたのではないでしょうか?「稲むらの火」で有名になった浜口梧陵は、その後も慈善家として活躍し、医療制度の充実や、はては明治維新にも大きな影響をあたえる半生をすごしました。

 

 

江戸の商人たちの気高きDNA

 

近年、注目をあびるCSR,CSVといった社会貢献の概念。そのきっかけは、リーマンショックの際、企業の価値は、決算書に現れない「理念」や「社会貢献」ではないか?と考えるようになったからだと言われています。西欧の経営者たちがようやく気付き始めた商人の「道徳」について、日本は100年も、200年も前から実践してきた歴史があります。

 

とくに、平和な時代が続いた江戸時代、日本には多くの商人が登場し、いまなお商いを続ける老舗企業が多くあることが知られています。一般に商人の評判は、人を騙したり、銭にうるさかったりと、いいものとは言えません。しかし江戸の商人たちは、自分たちへの悪評を振り払うように、旺盛な経済活動に加え、圧倒的な社会貢献で、社会の秩序を担ってきました。

 

たとえば、災害時、他の国では、弱みにつけこみ高値で食糧や衣服をうりつける商売が横行します。しかし、江戸時代の記録では、商人たちが積極的に、お米や支援物資を配っていたことがわかっています。また八百八橋といわれた大阪では、橋などの公共物は、商人たちが自分たちで架け替えることが普通でした。

 

また、三越では、世界初の「現金掛け値なし」(正札販売・定価販売)が行われ、大いに商売を繁盛させました。こうした例は、本業による社会貢献(CSV)の先駆けともいえそうです。「稲むらの火」で有名なヤマサ醤油の当主・浜口家も、そんな気高きDNAをもった一族でした。

 

現代の日本の企業も、社会貢献に熱心になってきており、その活動はHP等で知ることが出来ます。しかし、ほとんどの活動は、利益のなかから、ちょこっと?活動費にあてるもので、やらないよりかは、いいのかな?という印象はぬぐいきれません。一方、江戸時代の商人たちの社会貢献は度胆をぬくもので、ほとんどが見返りの求めない純粋な社会貢献だったのではないでしょうか?

 

会社は、「社会の公器」とたとえられます。アメリカでおきたリーマンショックでは、決算書上ではピカピカの会社が、次々に倒産し、会社の価値、そして会社の本当の強さは、決算では分からないことを教えてくれました。そしてその教訓として、企業の社会貢献の有無を、会社をはかる定規の1つとしたのです。しかし、日本では、商人のなかば常識として、社会貢献をになったきた歴史がありました。まなぶべきは、西欧の経営学だけでなく、むしろあなたの街にもきっとある老舗企業の歴史や社訓のなかにあります。ヤマサ醤油・浜口家の歴史には現代でこそ活かされる教訓がありました。

 

創業370年のトップが語る「老舗力」

 

参照:ライブドアニュース 

https://news.livedoor.com/article/image_detail/11841181/?img_id=10827840

 

 

370年老舗のトップが語る会社が生き残る変化対応力 

日本で300年以上続く企業は435社。このうちの1社であるヤマサ醤油の濱口道雄社長が、超成熟産業になった醤油製造をどう盛り上げてきたのか語ってくれた。

 

300年企業のリレーランナー 

ヤマサ醤油の初代、濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、会社を創業したのが正保2年(1645年)で、私は創業家の12代目となります。先代からバトンを受け、そのバトンを後継者に渡すのが私の大事な役割です。走っている間は他のランナーに抜かれてはいけないし、できることなら前を走るランナーに追いつき、追い越したいと思って33年間経営に当たってきました。

 

日本には諸外国に比べ、長く続いている老舗が多いといわれます。

 

『百年続く企業の条件』(帝国データバンク編)には、100年以上の企業が1万9518社あり、そのうちの938社は200年以上、さらに435社は300年以上続いているとあります。ヤマサ醤油は300年以上続いている会社の1社ということになります。

 

私までバトンをつないでくれたランナーたちはみな、企業の永続を大事にしていたはずです。当社だけでなく、日本の多くの会社が長続きすることを経営の価値観として持っていると思うのです。

 

この価値観はアメリカでは多数派ではありません。ある程度育てた会社を高く売って、あとは人生を謳歌しようと考えている創業者が多いのです。ヤマサ醤油が同じ創業家で12代続いていると話すと大体のアメリカ人はびっくりします。合衆国の誕生より古くから事業をやっているのだから驚くのも当然でしょう。

 

本業の中の変化は恐れずに 

300年を超える歴史があれば、順風満帆ではない時代もあります。昔、五島列島に出て行って漁具を売る店を出して失敗したり、南部、今の岩手県北部で鉄鉱山の経営に乗り出し撤退したりしたこともありました。さらに祖父の時代、北海道の海産物に手を出して相場が暴落して大損し、一時は会社が人手に渡るという危機もあったのです。

 

若い社員の中には、「どうして事業の多角化をやらないのか」と言う人がいます。でも、長い歴史の中でいろいろやったけど全部失敗し、残ったのが醤油だったというのが現実です。

 

だからといって、今やっている事業を守りさえすればいいと考えるのでは企業は永続しないでしょう。先ほど引用した『百年続く企業の条件』のサブタイトルに「老舗は変化を恐れない」とあります。時代によってお客さんも変われば技術も変わる、社会全体が変化します。経営者が「企業を永続させたい」と強い信念を抱くことは老舗になるための必要条件ですが、十分条件ではありません。経営者は環境変化に敏感であり、それにいち早く対応していけるかどうかが企業の命運を握っているのです。

 

ただし、変わるべきはあくまでも本業の中のことであって、まったく関係のない事業にまで手を出してもうまくいかないというのは、当社の歴史が示している通りだと思います。

 

求心力は実績の積み重ねで決まる 

私の代での大きな環境変化は、醤油製造が超成熟産業になったということです。私が若いころは醤油の売り上げだけで十分ごはんが食べていけました。近年、海外では日本食ブームに乗って需要が増しているのですが、国内マーケットは縮小し、業界全体の生産量は最盛期の3分の2までに落ち込んでいます。

 

その一方で、醤油加工調味料が増えてきました。めんつゆやポン酢醤油、すき焼の割り下といった分野です。昔は家庭で野菜を炊いたり魚を煮つけたりするときは、かつおだしに醤油やみりんを合わせたものですが、今は醤油加工調味料をベースにするのが一般的になりました。

 

私は2~3年前まで醤油加工調味料の商品開発に自ら携わっていました。入社してから社長直轄として商品開発の部門をつくったのです。当初は醤油そのものの調子がよかったので、商品開発と言っても誰もその必要性を理解しません。一部の役員からは「次期社長のおもちゃ箱だ」などと酷評されたものです。

 

ところが、商品開発を始めてみると、一つの新商品で新しく3億円程度の売り上げが立つという、今から振り返ると新商品開発の競争も激しくなく恵まれた状況でした。ポン酢や焼き肉のたれなど新商品を次々と出すうちに商品開発の活動は社内で注目されていきますし、だんだんと期待されるようにもなりました。

 

新商品の成功はそのまま私の実績です。実績が上がってくると周りの人たちも私の言うことに耳を傾けてくれるようになりました。それまでは私に面と向かって意見を言う人もいない代わりに、私が何か提案してもまったく反応がなく、無力感を覚えていたのです。

 

リーダーとして求心力を生むには、実績の積み重ねがとても大事だということです。

 

 

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書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

出版社: セルバ出版

価格 : 1,600円+税

 

URL  : http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063