孫正義のビジョンと在日というDNA

   

孫家の家訓

「究極の自己満足」。自分もまわりもハッピーになることだ! 

孫正義を兄としてもつ孫泰蔵の著作『孫家の遺伝子』- 2002/8 より

 

 

孫 正義(そん まさよし)

生誕:1957年8月11日

 

ソフトバンクグループの創業者として知られ、ソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長やヤフー取締役、スプリント会長、アーム会長、アリババ取締役、福岡ソフトバンクホークス取締役などを務める。ソフトバンクグループの筆頭株主である。

2017年 フォーブス社の調査によると資産総額を204億ドル(約2兆2640億円)とされ、日本一の資産家と推定される

 

生きる伝説 孫正義だけがみえる「未来の形」

ソフトバンクとそのCEOである孫正義氏が過去に投資した20億円が、アリババのIPOで5兆円の時価総額に化けたことが話題となりました。ソフトバンクが世に知られるようになったのは、Yahoo JAPANの設立時のエピソードです。まだ社員が6~7名という時代に、20億もの資金をあつめ、ネット上のポータブルサイトに投資をしたのです。

 

いまでこそ当たり前となったインターネットの社会。しかしわず数十年前誕生したコンピューターの世界。儲け話になるっと、漠然とわかってはいたものの、多くの経営者は、次の時代への「投資」に二の足を踏んでいました。そんなか、「検索エンジン」の可能性をみぬき、誕生したばかりのYahooへの出資を決定。そして、YahooJapanの設立につなげたのでした。大きな工場を持つわけでもなく、錬金術のように、会社を売り買いし、事業を拡大してきたソフトバンクの歩み。多くの識者が、懸念をしめすのも意に介せず、孫さんは、孫さんしか出来ない決断と選択を繰り返し、日本をのみならず、世界のビジネス界のキープレイヤーとして注目を浴び続けています。

 

5分でみぬいた「アリババ」の可能性

ソフトバンクが株式の約36%を保有しているアリババ社がアメリカでの上場しました。当時、史上最大規模の上場とされ、時価総額は慎重に見ても10兆円、高ければ20兆円になると見られ、ソフトバンクが持つアリババ株の価値はざっと4兆~6兆円にもなることも話題となりました。

 

アリババの創業者であり現会長の馬雲(ジャック・マー)氏に孫氏が初めて会ったのは2000年。約20社の新興IT企業経営者との面談機会でした。おのおのの持ち時間は1社10分。創業間もないアリババは売り上げがほぼゼロで赤字の会社だったのに、孫氏は5分ほど話しただけで投資を即断即決する。孫氏によれば、こんなやりとりがあったという。

 

馬:「1億か2億円でいいです」

孫:「そう言うな、20億円は受け取ってほしい。お金は邪魔にならないだろう」

 

──事業計画書を見たわけでもなく、「動物的に〝匂い〟を感じた」「目つきで決めた」(孫氏)。

 

チャンスの女神には前髪しかないため通り過ぎた後、あわてて捕まえようとしても後ろ髪がなく掴む場所がない。 うかうかしているとチャンスを手にすることができないという諺、これはレオナルド・ダビンチの言葉だと言われています。

 

孫さんがもつ鉄板のハゲネタ?を紹介します。

「髪の毛が後退しているのではない。私が前進しているんだ!」

 

幸運の女神にも、そして自分の生え際にも愛される経営者、孫正義。

だれも見ることができない未来をみつづける孫社長の眼には、何が見えているのか?これからも注目です。

 

 

 

飛躍のきっかけになったアメリカ留学

 

「豆腐のように、売り上げを1丁(兆)、2丁(兆)と数えられるような会社にしたい」──約30年前、ソフトバンクの創業期に孫正義社長が語っていた言葉だ。それを聞いて、わずかしかいなかった社員は「この社長はおかしい」と逃げ出したという。

 

それが今、「売上高は6兆円」「2015年3月期は8兆円」「営業利益は1兆円」と、かつての夢が実現された。次は「時価総額で世界ベスト10、200兆円」と語る孫氏。株式の約36%を保有する中国・アリババの成長と上場により大きな富がもたらされるなど好材料がつづきます。

 

 2014年3月期の営業利益は前期比35.8%増の1兆853億円。売上高は同108.2%増の6兆6666億円。純利益は5270億円。いずれもライバルのNTTドコモとKDDIを上回っています

 

 

高校を中退して、憧れの経営者に会いにアメリカへ

久留米の高校に通っていた孫正義は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の脱藩に憧れて、渡米を決意します。

同時期に、日本マクドナルドと日本トイザらスの創業者である、藤田田の著作を読み、感動した孫正義は、藤田と面会しようと試みます。

もちろん、ただの高校生である孫正義に面会は許されませんが、何度も諦めずにやってくる孫正義に根負けし、藤田は面会します。

 

そこで、孫正義は藤田に、アメリカで何をするべきかを尋ねます。

藤田はコンピューター関連を学ぶように助言し、この助言がもととなり、孫正義はアメリカでソフトバンクへとつながる、コンピューター関連のことを勉強することになります。

ちなみに、孫正義が成功した後、藤田を食事に招待し多た際に、藤田はあの時の高校生が孫正義だったとは、と驚いたそうですよ。

 

英雄は英雄を知る。アポイントもなく、藤田氏との面談を求め続けた孫少年。そして、わずかなヒントを元に、アメリカ留学を決意し、のちの成功につなげたのでした。孫さんの経営者としての一番の才能は、こうした素直さや、人たらしの能力なのかのしれません。

 

家訓ニストの考える成功者の秘訣

ビジネスで成功する3つのファクターは、「努力、運、勘」という話を取引先のオーナー様より教えていただいたことがありました。 ビジネスである以上、努力をしているのは、当たり前として、「運」を招くことができるているか?あるいは、自分を磨き、「勘」を整えているでしょうか!? 孫さんが誰よりも努力しているのは周知の事実ですが、他の経営者が追随できない本当の凄味は、「運」や「勘」だと断言できます。前述のアリババへの出資の際には、将来をみすえた「勘」(ひらめき)と、その直感を信じることができた孫さんの能力がいかんなく発揮されました。商談の席に、アリババの社長が現れたというのも「運」と言っていってでしょう

 

孫さんが飛躍の機会を狙って次々にベンチャー企業に投資していた2000年代前半。のちのライバルとなるNTTドコモ社は、圧倒的な携帯電話のシェアを背景に、1兆円をこえる経常黒字を叩きだし、わが世の春を謳歌していました。豊富な資金を武器に、総額で数兆ともいわれた企業買収をつづけたものの、そのいずれもが、本業の業績に寄与することなく、10年もたたずに、撤退しています。孫さんとNTTドコモ社。2社を分けたのは、「今」の業績を買ったドコモ。「未来」の業績を買った孫さんの差だったのではないでしょうか?もちろん孫さんの投資の全てが成功だった訳でもなく、失敗した例も多かったことでしょう。しかし、有名大学を出て、社内出世競争を勝ち抜いたサラリーマン社長にはできない「失敗」を恐がらない姿勢こそが、孫さん流のビジネスの醍醐味です。

 

不肖・家訓ニストこと、幡谷哲太郎。運もいいし、勘もさえているっと分析していますが、「幡谷君の場合は、努力が足りない!」と一喝されてしまいました(>_<)

 

あなたの足りないものはなんでしょう?ぼくの場合は、「努力」を、運や勘が足りないっという方は、ぜひ拙書「なぜ一流の経営者は靴をそろえるのか?」をお読みください 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

在日朝鮮人としてのDNA

 

ソフトバンクの孫正義社長は、在日韓国人という生い立ちから差別を受け続けてきたことを、マスコミのインタビューに答えています。幼少期は実生活で攻撃を受け、幼稚園時代には日本人の子供から「朝鮮人!」とののしられ、投げつけられた石で頭から血を流すこともあったそうです。そうした心なき差別は今でも続き、ネット上などで罵詈雑言を浴びせられ続けています。そうした『負の一面』を隠すことなく、エネルギーに変えてきたというのも孫さんの魅力です。

 

ここでは、会社の説明会で孫さん自身が語った祖母との思い出、そして在日朝鮮人としてのプライドがわかる孫さん自身のスピーチを紹介します。 

  

(参照:Logmi.Biz https://logmi.jp/business/articles/40729

 

 

伝説のスピーチ  

 最後に、見慣れないおばちゃんの写真です。私にとっては大切な大切な人物であります。14歳で日本に渡ってきた。14歳で結婚しました。相手は三十何歳。私のおじいちゃん。彼女は私のおばあちゃんであります。途中で戦争も体験し、生きていくのがやっとと。泥水をすすって、飢えから子どもたちを守って、精一杯という状況。

 

日本にいて、韓国の国籍で、言葉もカタコトで、知り合いも頼る人もいなくて、14歳で渡ってきたんです辛いですよね。わからない、何も。14歳ってまだ娘です。中学生ですよ。一人で見知らぬ国にやってきた。辛かったと思いますね。

 

そんなおばあちゃんが私の父、私の母、父はもう中学のときには家族を経済的に支えて、経済を支えて、7人の兄弟、一生懸命仕事をしました。大変苦しい苦しい生活の中で這い上がっていって、ヤミの焼酎をつくって、豚を育ててなんとか生きていくということで生活をしていました。

 

そんな中で私が生まれた。1957年。私が生まれた頃にはすでに少しは生きていけると、トタン屋根のボロボロの部落の家に住んでましたけどね。村の私の戸籍は佐賀県鳥栖市五軒道路無番地と書いてあります。無番地ならわざわざ無番地って書かなきゃいいのに。

 

不法住居ですから。自分たちの土地ではなくて、線路脇の国鉄の空き地にトタン屋根で板を貼って住んでるわけですから、正式に戸籍を認めるわけにはいかないということだったんだと思います。無番地で生まれました。

 

豚の餌でぬるぬるしていたリヤカー

私が今でも覚えていますが、3、4歳の頃、おばあちゃん可愛がってくれました。毎日散歩につれて。父と母は今日来ております。私の父と母はおかげで存命で元気にしております。今日この会場のどこかにいますけど。一生懸命に、本当に一生懸命に仕事しておりましたので、いつも留守ですね。

 

私を子守してくれたのはおばあちゃんでした。毎日おばあちゃんが「正義や、散歩いくぞー」僕は喜んでおばあちゃんについていく。おばあちゃんが「散歩行くぞー」というときはリヤカーですね。リヤカーに乗って、しがみついていく。あんまり言いたくないですけどもね、今でも覚えていますなんとなく。

 

リヤカーが黒っぽいんですね。すべるんです、ぬるぬるして。そのリヤカーはドラム缶を半分に切って3つ4つ積んであって、そこに飼っている豚のえさを、残飯をですね、鳥栖市の駅前の近所の食堂から残飯をもらって、それを集めて豚の餌にして育ててる。

 

一生懸命ですよね。私は小さいからわからない。ただリヤカーに乗って楽しく行ける。ただなんとなくぬるぬるして、なんか腐ったような臭いがして、雨上がりのでこぼこ道だと、水溜りでね、ぬるっとすべったら落ちて死ぬなあ、と思いながら、しっかりつかまっとけよーってついてるわけです。

 

おばあちゃん大好きでした。その日が忘れられないですね。大人になって今見ると、リヤカーなんて乗りたくないです。恥ずかしいです。でもその頃は子どもだから別に辛いということはなくて、楽しかった。

 

そのあと少し物心ついてくるとですね、あれほど好きだったおばあちゃんが、大嫌いになったんですね。なぜ嫌いかというと、おばあちゃんイコールキムチなんです、キムチイコール韓国なんですね。そうするとそれにまつわるさまざまな、生きていくのに辛いことがやっぱあるんですよね。あまり例をあげたくないけど。

 

やっぱり辛いこといっぱいあるんです。そうするとやっぱり息を潜めるように、隠れるようにして日本名で生きているわけですね。ですからなおさらそれがコンプレックスになってる。あれほど好きだったおばあちゃんが、大嫌いになった。避けて通るというふうになってしまいました。

 

 実業家を目指し、渡米 

そんなときに、私の父が吐血をして入院しました。もう家族の危機ですね。1歳年上の兄は高校を中退して、泣き暮らしている母を支えて、家計の収入を賄って、父の入院費と家計のサポートをし母も一生懸命仕事をしました。

 

僕にとってはもう突然降って湧いたような家族の危機、なんとしても這い上がらないといけないということです。どうやって這い上がるかと。私は事業家になろうと、そのときに腹をくくったんですね。

 

一時的な解決策ではなくて、中長期に家族を支えられる事業を興すぞと。中学生のときに腹をくくったんです。ちょうどそのとき、竜馬がゆくを読んだんですね。目からウロコでした。いじいじぐずぐずしてた自分が情けなく思いました。

 

人種だとかなんだとか、そういうつまんないことで悩んでたということ自体が、ちっぽけな人間だったなというふうに気づきました。

 

そこで事業家を志して、アメリカに行こう、アメリカに渡ろうと。まあ言ってみれば脱藩のようなものですね。母は泣きました。友だちも先生も、全員止めました。ばあちゃんが心配して、行くな。泣いて泣いて泣いて泣いて暮らしました。

 

母は毎日泣いてました。行くなと、そんなわけのわからない怖いところに行くな。行ったら帰ってこれんようになる。僕は振り切って、行くと。

 

俺はアメリカに行って、事業家になる何か種を見つけてくる。そこで何かつかんで、日本に帰ってきて事業を興すと。絶対に家族を支えてみせる。親戚のおじさんとかおばちゃんとかには言われました。従兄弟にも言われました。

 

正義、お前はなんて冷たいヤツだ。父親が血を吐いて、生きるか死ぬかのところで彷徨ってるときに、お前の父を置いて、一人でアメリカに行くんか。お前のエゴのために行くんか。と言われました。私は言い返しました。

 

そんなんじゃない、家族を支えたいから行くんだと。もうひとつついでに言っとくなら、今まで自分が悩んできた国籍だとか、人種だとか、同じように悩んでいる人たちがいっぱいおると。俺は立派な事業家になってみせて、孫正義の名前で、みんな人間は一緒だと。証明してみせると心に誓ったんです

 

 

孫正義が祖母から学んだこと

その決意をしてから、ばあちゃんに言いました。ばあちゃんごめんね、あんなに優しくしてくれて愛してくれたばあちゃんに、俺は大嫌いだとか言ってしまった。ばあちゃん、俺を韓国に連れて行ってくれと。アメリカに行く前に、アメリカに渡る前に自分が忌み嫌ってきた先祖の国を見てみたい。韓国に連れていってくれ。ばあちゃんと一緒に二人で二週間ぐらい韓国をまわりました。

 

ばあちゃん喜んでくれた。正義、一緒に韓国いってくれるか。なして韓国に行ってみようという気になったと。二人だけでばあちゃんと渡りました。見にいきました。小さな村に電気もきてないです。りんごもちっちゃいです。やせ細った土地だからりんごもちっちゃいです。ローソクの中で迎える食卓。でもみんな、暗いローソクの中で、真っ黒い歯がニッコリ笑ってましたよ。一生懸命迎えてくれた。

 

ばあちゃんは僕らの古着のツギハギのズボンだとかセーターを、親戚の従兄弟のみんなかき集めて大きな風呂敷に詰めて、繕いだらけの服を持っていって、その村の子どもたちにお土産として渡してました。もうもらう子どもたちは満面の笑みでありがとう。綺麗だ。日本の洋服はきれいだ。ばあちゃんからもらうものを受け取ってました。ばあちゃんのそのときの笑顔が忘れられないです。いつも言っておりました。

 

ばあちゃんは人様のおかげだ。どんなに苦しいことがあっても、どんなに辛いことがあっても、誰かが助けてくれた。人様のおかげだと。だから絶対人を恨んだらいかんばい。人様のおかげやけん。私は会社をはじめて先程のビデオにありました、会社を始めて2年で大病をわずらって入院しました。もうつくづく思いましたよ。

 

お金じゃない、地位でも名誉でもない。ばあちゃんがやってたようなああいう人に喜んでもらえる、何もあげられない、ボロキレでも喜んでもらえる。そういうことに貢献できたらやっぱり幸せだ。入院したときにつくづくなおさら思いました。

 

 

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書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

出版社: セルバ出版

価格 : 1,600円+税

 

URL  : http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063