HITACHIの遺伝子

 

Inspire the Next

 

 

これからの日立グループのあるべき姿を示した「日立グループ・ビジョン」。このビジョン実現への想いを宣言したスローガンが、「Inspire the Next」です。 「Inspire」の語源は、ラテン語の「In」(中へ)+「Spirare」(息吹)で、「中に吹き込む」、「膨らませる」、「鼓舞する」という意味のほか、「精神、意識を高揚させる」、「元気づける」などの意味を持ちます。

 

 祝! HITACHIが、創業の地を再整備へ

売上高9兆3686億円、営業利益7146億円、総従業員数30万7275人は、総合電機最大であり、日本の全業種中でもトヨタ自動車に次ぐ規模の従業員数を誇る巨大企業HITACHIグループ。その創業は、約100年前。日立鉱山に由来し、鉱山労働者を運ぶエレベーターの動力(エンジン)の開発部門がのちに独立し、今の日立製作所となった歴史があります。

 

茨城県日立市は、茨城の北部に位置し、日立製作所を筆頭に、HITACHIグループの企業城下町として発展してきました。しかし、近年は産業構造も変わり、華やかだった街も閑古鳥が鳴いている状況がつづいています。TOYOTAの本社は、愛知県豊田市に、KOMATSUの本社は石川県小松市に、しかしHITACHIの本社は、東京にあるため人の面、納税の面で地域が恩恵を受けられない状況ですグローバル化が進めば進むほど、企業のDNAが試されると幡谷は考えます。

 

そういったなか、日立市にあるHITACHIグループの創業の地の再整備がされることを嬉しく思います観光地としてはもちろん、地域をかえる起爆剤になると確信しています!ちょっと先ですが、茨城にお越しの際は、ぜひ日立にきて「Inspire the Next」を感じてください

 

株式会社日立製作所

日立グループの中核企業。国内最大の電気機器メーカー。通称は日立やHITACHIなど。特に創業の地であり、主力工場を抱える茨城県日立市などでは、行政機関の日立市や他の日立グループ各社などと区別するため日立製作所の略称で日製にっせいとも呼ばれている

 

前身は、現在の茨城県日立市にあった銅と硫化鉄鉱を産出する久原鉱業所日立鉱山である。日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成された。また、日立鉱山で使用する機械の修理製造部門が、1910年に国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させて、日立製作所が設立された。

 

やがて日本最大規模の総合電機メーカー、そして世界有数の大手電機メーカーとして発展することとなる。 報・通信システム、社会・産業システム、電子装置・システム、建設機械、高機能材料、オートモティブシステム、生活・エコシステム、その他の8の部門から構成されている[4]。売上高9兆3686億円、営業利益7146億円、総従業員数30万7275人は、総合電機最大であり、日本の全業種中でもトヨタ自動車に次ぐ規模の従業員数を誇る巨大企業です

 

 

経営危機で、東芝と日立をわけたもの

 

 

2008年のリーマン・ショックでは、両社とも深い傷を負った。09年3月期の純損益の赤字は東芝が3435億円、日立は7873億円。ダメージは日立が深刻に見えたが、その後の展開は真逆になった。

 

 日立は2009年3月期、当期純利益が7873億円の赤字まで落ち込んだものの、その後、(1)コーポレートガバナンスの強化、(2)積極的な子会社の再編による事業改革、そして(3)意欲的な中期経営計画を進めた結果、3年後には3471億円の黒字にまで大きく回復しました

 

鉄道の故郷イギリスで評価されたHITACHIの技術

経営危機後、日立はイギリスでインフラ関連にあたる鉄道事業で大成功をおさめています。27年間の保守点検事業をおよそ1兆円で受注しているほか、去年9月には約120億円を投じてイギリス北部に鉄道車両を量産する新工場まで建設しました。

 

鉄道の故郷として知られるイギリスですが、その鉄道網は脆弱で、遅延にくわえ、故障もあいつぎ、利用者にも見放されている状況でした。そんな中、HITACHIを含め数社のインフラ会社が試験的に導入され、鉄道網の再構築のため、その優越を競ったのでした。最終的にHITACHIが評価をうけたのが、圧倒的な技術力。そして、社員教育を含むソフト面でした。いずれのノウハウも、日本で培った技術が歴史が、背景にありました。ある年、ヨーロッパが大寒波に襲われた際、各国の列車が運行休止に追い込まれた中、HITACHIの列車だけは時刻どおり運行したそうです。「技術の日立」の面目躍如とはこのことです。

 

東芝と日立、経営再建が分かれた訳

リーマンショック後の経営危機のなか、川村社長は就任と同時に、日立が残す事業と外に出す事業を仕分けする「100日プラン」を策定。半導体、携帯電話、液晶パネル、プラズマ、ハードディスクなど日立を輝かせてくれた事業が合併や売却などで外に出しました。テレビまで自社生産を打ち切ります。黒字でも製品に優位性がなく利益の薄い事業は手じまいし、日立の技術を生かす分野に人とカネを投入。高機能素材や制御機器、モーターから鉄道、通信、電力といった都市インフラなどで勝負したことで、のちにイギリスでの鉄道事業の伸長をはじめ、奇跡のV字回復をみせたのでした。

 

一方、東芝は、日立とは反対に経営危機を乗り越えられず、不正会計が発覚。また、アメリカ子会社の巨額損失も発覚し、会社はバラバラに解体され、虎の子であった半導体部門が売りに出されることとなりました。

 

危機を迎えた時、小出し小出しで、再建を考えた東芝。一方日立は、背水の陣をひき、選択と集中によって危機を脱しています。日本を代表する2つの巨大企業は、原点に帰ることができた日立と、対処療法しか出来なかった東芝と比較ができるのかもしれません。

 

日立が帰る場所となったのが、「技術の日立」というキーメッセージであり、「Inspire the Next」という理念でした。一方、東芝には、1990年に策定された「人と、地球と、未来のために」という理念があったものの、リーダーがどれだけ理念を反芻していたか、疑問が残ります。そもそも東芝の創業の歴史は、江戸時代~明治時代に活躍した、カラクリ義衛門こと田中久重にまでさかのぼります。「立派な発明家となって国のため、人のためにつくせ」という久重の父の家訓のとおり、西欧の最新の科学にくわえ、日本の伝統をマッチさせた数々のヒット商品を送り出した人物です。

 

東芝が危機に陥った時、「人と、地球と、未来のために」そんな視点で再を担ったでしょうか?あるいは、立派な発明で国を支えようとの気概はあったでしょうか?

 

企業の大小をとわず、危機にあったとき、企業のDNAが問われます。企業の歴史や理念は、お題目にあらず、命の通った生き物であるはずです。 

 

日本初の企業内ベンチャー 小平の歩み

 

小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。

 

東京帝国大学工科大学電気工学科(現東京大学工学部)を卒業し、日立製作所取締役社長や同社の専務取締役などを歴任した。

 

1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。

 

「日立精神」は、数々の“失敗”のなかからうまれた。一貫して模倣を嫌い、“オリジナリティー”にこだわった「創業精神」。丸太小屋を「世界の日立」にまで築き上げた哲学を紹介します。

 

 

掘っ建て小屋から始まったHITACHIの歴史

 

 

 

「日立精神」は、数々の“失敗”のなかからうまれました。一貫して模倣を嫌い、“オリジナリティー”にこだわった「創業精神」を小平の半生から学びます。丸太小屋を「世界の日立」にまで築き上げた哲学とは・・・

 

初の国産モーターの誕生までの歴史 

日本全体が西洋列強の「模倣」に血眼になっていた明治期に、「国産技術」という夢にこだわり、果敢に挑戦し続けたひとりの青年技師がいた。1908年(明治41年)、ようやく日本にも「重工業」が芽生えかけてきた時代。かれは、当時寒村だった茨城県の人里離れた鉱山の草深い谷間に、杉皮ぶきの粗末な丸太小屋を建て、当時、100%輸入に頼っていた鉱山用のモーターを自作(国産化)する挑戦をはじめます。その青年技師の名は小平浪平でした。 

 

のちに「世界の日立」といわれる企業グループは、この「掘っ建て小屋」から始まりました。「日立」にまつわる経済人といえば、“鉱山王”久原房之助(1869-1965)や久原から事業を引き継いだ日産コンチェルン総帥・鮎川義介(1880-1967)の名が有名ですが、鉱山の一介の技師であった小平が、サラリーマン時代をへて、技術一筋で、ゼロから築き上げ、今日でいう社内ベンチャーとして、「日立グループ」を築き上げることとなりました

 

「技術の日立」のDNA 

独力で、国産初のモーターを完成させた小平は、つねにその“創業精神”に立ち返ることを忘れませんでした。当時のほとんどの企業がアメリカのGEやドイツのシーメンスなど欧米の大企業を模倣し、外国技術や技術指導員の支援を受けていたなか、日立製作所だけが独立独歩、自力で開発を進めていきます。国内の先発同業者と同じように外国企業と技術提携するほうがよほど近道であるなか、あえて遠回りを選んだのです。

 

もちろん「独立独歩」には手痛い失敗がつきもの。創業後しばらくは筆舌に尽くせぬ辛酸をなめることとなります。1921年(大正10年)、鉄道省は「東海道線電化計画」なるものを発表した。が、当時日本での「大型電気機関車」の製造は不可能であるとされていた。しかし日立製作所は、1924年(大正13年)に大宮工場においてこの試作に見事に成功したのである。安易な手段によらず、人から教わらず苦しんだ経験は、やがて世界に冠たる将来の新幹線の製造へとつながる国産初の大型電気機関車の成功に導き、「世界の日立」へと発展していくのである。

 

日本の工業を発展させるためには、それに用いる機械も外国から輸入するのではなく、自主技術、国産技術によって製作するようにしなくてはならない。それこそが日本が発展していく唯一の道だ」。

あの激動の時代に、ベンチャー企業として産業を興したことは称賛に値する。今も日立の精神的支柱であり、わたしを含めて全社員が尊敬の念を抱いている」―。日立製作所の創業者である小平浪平。最強のベンチャーの旗手を現会長の中西宏明はこうたたえる。

 

 多くの日本企業が欧米の技術に頼り、近代化を模索した20世紀初頭。若き技師だった小平だけは全く異なるスタイルを貫いた。欧米の模倣を嫌い、自主技術、国産技術に執着。数々の失敗を繰り返しながらも、自らの夢と可能性を信じた。小平の「独立独歩」の精神は、国産初の5馬力電動機(モーター)の開発に結びつき、技術の日立のDNAとなりました。

 

 日立設立から15年後の1935年。小平は新入社員に対し、こう訓示した。「日本の機械工業を進展させて、日本の隆々たる国運にそっていきたい」「社会の仕事とは、金儲けばかりやっているのではない」。優れた自主技術や製品の開発を通じて、社会に貢献する必要性を説いたものである。これが現在も受け継がれる“日立の精神”に他なりません。

 

 

 

  

もう一人の創業者・久原房之介と日立鉱山の歴史

 

 

 

久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日(明治2年6月4日) - 1965年(昭和40年)1月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。

 

日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。

 

鉱業家の誕生 

久原房之助は後に藤田財閥を開いた藤田伝三郎の実兄にしてその共同経営者であった久原庄三郎の子として生まれた。1889年(明治22年)12月、慶應義塾予科を卒業し、3、4ヶ月休息ののち、貿易商森村市左衛門の森村組神戸支店に入社する。入社1年でニューヨーク支店駐在員を命じられるが、渡航直前、井上馨がこの赴任に反対し、森村組を退社する。

 

藤田組に入社した房之助は小坂鉱山に赴任した。1900年(明治33年)には小坂鉱山所長に就任。1905年(明治38年)3月、房之助は父庄三郎が隠居したので家督を相続、藤田組の取締役に就任。同年12月10日に藤田組を退社し、翌11日に、茨城県多賀郡日立村赤沢銅山の買山契約を締結した。

 

久原は赤沢銅山を所在地日立村の地名をそのままとって、「日立鉱山」と改称します。そして、従来の操業方法の近代化、機械化につとめ掘削方式を一新、科学的近代技術と機械の導入で能率の向上をはかったのです。小坂鉱山は戦国時代から銀山として有名でしたが、当時掘りつくされ、藤田組としては廃坑か売却を考えていました。房之助はニューヨ-ク行きを断念した結果が、廃坑の後始末ではかなわないと思い、なんとか鉱山の再生を考えます。銀鉱は掘りつくしたが、黒物(黒鉱)は充分にありました。黒鉱とは、銅、鉄、鉛、亜鉛、硫黄に少量の金銀を含む複合物です。これをなんとかできないかと房之助は考えます。特にそこから銅を抽出する事を考えます。その発想どおり、40年には熔鉱炉の火入れを行った。1908年(明治41年)11月、製錬場の操業が始められ、37年から41年までの産銅量は、138トン、246トン、260トン、787トン、1,872トンと順調に増え続け大成功を収めたのです。

 

久原房之助が創始した久原鉱業所と言っても現在知る人はほとんどないと思います。しかし日産自動車、日立製作所、ジャパンエナ-ジ-は現在の日本を代表する企業です。房之助はこれらの会社を創立したというより、その基礎を作りました。同時に彼は明治末から大正時代にかけて出現した、富豪・成金の代表です。

 

明治31年の銅生産額は360トン、翌年は833トン、産額はどんどん増加し明治39年には7000トンを超えます。産出額総体は現在の金額に直すと1000億円と想像されます。小坂鉱山は銀山から銅山に生まれ変わりました。日立鉱山は開業3年目くらいから経営は軌道に乗り、銅の産出額は増加し続け、1916年(大正5年)には37000トンを産出します。第一次大戦で銅の需要は急増し銅価は上昇し房之助は大富豪になります。盛時における彼の資産は約2億5千万円になると推測されています。当時の国家予算がだいたい10億円ですから、彼の資産は国家予算の25%になります。現在の規模に換算すれば25兆円に昇ります。まさに大富豪になったのです。

 

日立製作所の誕生へ

房之助を慕って、多くの人材が日立に来ます。彼らの内重要な人物は小平浪平と竹内雅彦でしょう。小平は発電機の修理を担当していました。そのうち自分で発電機を作ってみたくなり、機械を組み立てます。房之助はあまりこの方向には関心がなく賛成ではありませんでしたが、小平の試みを黙認します。小平の試みは発展し、1912年久原鉱業日立製作所の開設に至ります。現在の日立製作所です。竹内雅彦は後に経営危機に陥った久原鉱業を受けつぎ、この会社は現在のジャパンエナ-ジ-になりました

 

ある街の長い煙突

日立鉱山の大煙突(ひたちこうざんのだいえんとつ)は、茨城県日立市の日立鉱山で1915年(大正4年)3月1日に使用が開始された高さ511フィート(約155.75メートル)の煙突である。日立鉱山の大煙突は完成当時世界で最も高い煙突であり、日立鉱山の経営の重荷となっていた煙害問題の軽減に役立ちました。

 

その後は鉱工業都市日立の象徴的な存在となり、また大煙突の建設は新田次郎の小説『ある町の高い煙突』の中心テーマとして取り上げられ、その存在が広く知られるようになった。しかし1993年(平成5年)2月19日、約3分の1を残して倒壊してしまう。倒壊後に改修が行われ、高さは54メートルとなってしまったが煙突としての利用が続けられています。

 

立鉱山の大煙突は、その威容から建設直後から地元日立の多くの歌に歌われるようになった。中でも最も古いものは大煙突が完成した同じ年の1915年(大正4年)11月に発行された日立製作所芝内寮の寮歌であるとされる。また日立市内の小学校の校歌では大煙突が数多く歌われており、その他、日立市民の歌や日立小唄の中で大煙突が詠み込まれた。このように大煙突の姿は日立市民の中に定着し、故郷の一風景として愛着を持つようになっていっています。

 

昭和30年代以降の高度成長期、目覚しい鉱工業の発展とはうらはらに公害問題に対する対処は後手後手に回るなか、全国各地で公害問題が顕在化し、とりわけ四大公害病は極めて大きな社会問題となっていました。このような中で大煙突の建設に代表されるかつての日立鉱山の鉱害問題に対する取り組みを知った新田は、日立鉱山の大煙突建設を中心テーマとした小説、『ある町の高い煙突』を執筆し、1969年(昭和44年)1月には文藝春秋から刊行されました。。『ある町の高い煙突』の発表後、これまで地元日立でも広く知られていたとは言い難かった大煙突建設のいきさつが一躍世に知られるようになり、公害防止のシンボル、そして日立市のシンボルとなっていってます。

 

令和元年には、映画化もされ、再評価もはじまりました。

 

 

 

 

 

 

 

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