茨城の老舗 岩間東華堂

 茨城の老舗シリーズ

 

創業天和3年(1683年)、300年以上の歴史をもち、生類あわれみの令の頃からつづく、老舗ちゅうの老舗『岩間東華堂』を紹介します。

 

水戸藩には、漢方の老舗が多く、とくに救民妙薬は、水戸藩第2代藩主の徳川光圀公が、身近にある草木などを使用した薬の作り方など、庶民でも実践しやすいよう作らせた家庭の医学書です。これが人々の助けとなり、1693年(元禄6年)の初版から何度も版を重ね、明治・大正時代になっても売れていたと言われています。

 

ドラマのように、諸国漫遊をしなかった光圀公でしたが、多くの庶民に愛された理由は、こうした善行が、深く関わっていました。

 

 

岩間東華堂グループは、現在、薬局、クリニック、及びリラクゼーション施設を経営しています。

 

1683年に水戸徳川家御免の生薬屋「筑波屋」として開業し、光圀公の師であり壽昌山(じゅしょうざん)祇園寺の開祖である東皐心越(とうこうしんえつ)禅師より伝授された『北斗香めぐす利』の総本家として現在も製造販売しています。

 

岩間東華堂が一子相伝で伝えてきた薬の一つが目薬の【北斗香】です。そのいわれは、中国に伝わる神話では南斗星君は『生』を司る神であり、北斗星君は『死』を司る神とさす。

 

死を意識させる北斗七星。これを反転させると【生】に通じると、岩間東華堂では、北斗七星を反転させたデザインを看板に掲げてきました

 

リアル北斗神拳、岩間東華堂さん。

気のせいか16代目当主は、ケンシロウに似てる気もする(>_<)

 

 

 

      あなたの街に「老舗」がある理由

 

地方が輝いた江戸時代のまちづくり

東京への一極集中の問題が浮き彫りになりつつある現代の日本。しかし、ちょっと前の日本では、地方地方に、その土地の風土と歴史に根付いた文化があり、人々も誇りをもって暮らしていました。その背景をさぐると、物語は江戸時代にさかのぼります。

 

日本には創業200年をこえる老舗企業が3000社あり、その数は世界の6割をしめるほどです。あなたの街にもきっとある老舗企業は、世界でも希な、幾多の苦難をのりこえ現代にバトンタッチされた貴重な地域資源なのです。

 

天下統一に成功した徳川家康。当時、小さな漁村にすぎなかった江戸の街を大改造し、江戸時代中期には人口100万人をこえる世界有数の都市を、ゼロから築きあげました。おなじように、戦で覇をきそった戦国時代が終わると、各地域の大名たちは、特色のある「まちづくり」で競争をはじめたのでした。

 

加賀百万石といわれた前田藩では、京都のまちづくりを参考に、たくさんの職人を招き入れ、絢爛豪華な加賀文化を育てていきました。その背景には、徳川幕府への反抗の意志がないことを明確にする必要があったといわれています。また、会津藩では、初代藩主・保科正之によって、見事な城下町と、規律を重んじた教育がほどこされました。正之は、家光の異母兄弟であり、隠し子同然の隠遁生活から取り立ててくれた将軍家への大恩がその背景となりました。同じように、仙台では、伊達政宗が、鹿児島では、島津氏が、おのおのの歴史を背景に、地域の特性をいかした独自のまちづくりを実施し、300余藩といわれた地域が輝く時代をつくったのでした。そして、おのおのの地域には、地場に根付いた商人が発生したのです。その商いは、江戸から明治、そして平成、令和と時代が変わっても、往時の息吹を今に伝えています。

 

水戸藩の場合

茨城県の県庁所在地である水戸市は、徳川家康の子息によって、水戸藩が設けられました。長い歴史を紡ぐこととなった藩政において、とくに有名なの二代藩主・光圀公です。一般には「水戸黄門」の通称が有名であり、大日本史の編纂事業を開始した名君でした。光圀公は、こうした歴史事業のみならず、藩政の充実にも尽力しています。経済政策から福祉、軍事まで光圀が着手した分野は数多くあります。光圀の施策が由来となった史跡や名跡。そして老舗の企業が水戸市には存在しています。

 

なかでも、 民衆思いだった黄門様は、貧しい民が病になっても医者にかかれず、薬も得られないのを気にかけ、医師に命じて、身近で入手しやすい薬草の処方を紹介した家庭療法の本『救民妙薬(きゅうみんみょうやく)』を1693年に発刊しています。手に取りやすいコンパクトなサイズの本には、薬草の処方をはじめ、旅に携帯すべき薬や、無病延命の方法なども紹介され、当時の大ベストセラーになりました。今も続く、黄門さまの人気の背景には、こうした背景がありました。

 

ドラマ「水戸黄門」の裏話

家康公の孫であり、水戸藩2代藩主となった徳川光圀。江戸時代中期より、「水戸黄門漫遊記」として、講談で語られたことから、名君の名を不動のものとしました。昭和になってからも、TBSドラマ「水戸黄門」として絶大な人気をはくしています。ただし、物語はあくまで物語。藩主である光圀公自らが、世直しのために、全国を行脚したという記録はなく、水戸と江戸の往復にくわえ、母の菩提寺があった鎌倉など、限られた場所を訪れた記録が残るのみです。

 

講談のもとになったのは、光圀公の命のもと、全国をめぐった学者たちの存在が背景にありました。当時、水戸藩には、国内外の多くの学者が集められ、『大日本史』の編纂が行われていました。彼らの中に安積澹泊、佐々十竹という学者がいました。澹泊はまたの名を覚兵衛、十竹はまたの名を介三郎といいます。そう、覚さんと介さんです。この二人、字こそ違っていますが、あの助さん格さんのモデルと言われています。水戸黄門漫遊記として、全国の悪代官を懲らしめたというのはドラマのお話ですが、彰考館の学者たちが資料を集めるために全国を旅していたようです。

 

光圀が実際に日本全国を歩き回ったことはありません。わかっている資料では実母を訪ねて鎌倉までいったのが一番遠い場所となります。しかし『大日本史』の資料収集のために学者たちがあちこちに出かけたこと、また「救民妙薬」の出版などの業績やエピソードが後世においてミックスされ、現在まで愛される時代劇の大ヒーロー「水戸黄門」誕生へとつながりました。

 

 

 

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