鹿島アントラーズと「住友」の秘密

 

 

 

 

 

 

 

 

鹿島アントラーズの強さの秘密

 

平成29年元日。鹿島アントラーズは、天皇杯決勝で、川崎フロンターレを破り、Jリーグ発足後。19冠目のタイトルを手にしました。11月には世界クラブ選手権(通称トヨタカップ)で、レアルマドリードと優勝をかけて戦うなど、世界にその名を知らしめました。

 

天皇杯をきそった川崎Fの選手は、アントラーズとの差をこう評しています。

「鹿島との差は、守備の寄せなど、ちょっとしたものだ。しかしその差は大きい」っと

 

鹿島アントラーズは、強豪チームです。しかし、ホームタウンとなる鹿嶋市は人口8万人弱の小さな町であることをご存知でしょうか?

それだけでなく、Jリーグ発足前は、社会人リーグ2部に低迷する弱小チームでもありました。

 

川渕チェマンをして、「99.9%ないから、あきらめろ」っと諭されたチームが、世界一のクラブチームを追い詰めるまで、どう成長していったのか?

 

アントラーズの強さの秘密を、サッカーの神様ジーコとの交流、そして鹿島という町の歴史と共に紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鹿島アントラーズにジーコが来て暴走族がいなくなった

 

Jリーグ発足時、川渕チェアマンは、サッカーの興業にとどまらず、街づくり、人づくりに貢献する壮大なビジョンを打ち出します。実際、発足から20年がたち、ローカルで成功しているクラブが誕生しています。とくに、Jリーグ発足の頃、国民全体が共感できる、そういう物語がいっぱいありました。

 

とくに、鹿島アントラーズにはスペシャルな物語があります。

 鹿島には、住友金属の工場しかない街でした。実際、中学生から高校までの6年間を鹿嶋で過ごした幡谷は、暴走族がたくさん走りまわる姿を思い出します。

 

しかし、日本中どこにでもある地方都市に、サッカー界のスーパースター・ジーコがきて、アントラーズのスタジアムがいっぱいになり、ゴール裏でみんなが大きく応援し始めた頃には、暴走族がまったくいなくなった。これは革命にも近い劇的な変化でした。

 

ジーコが鹿島にやってきた! 

ジーコは、ブラジルを代表するスーパースターです。90年には現役を引退し、ブラジルのスポーツ大臣に任命されています。しかし、翌年の91年。大臣を辞任し当時社会人リーグ2部に甘んじていた住友金属鹿島に入団することとなりました。

 

引退イベントも既に終えて年齢的に再び選手として走る気は無かったが、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力的なものを感じたジーコは住友金属と契約し来日したのです。

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鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。

 

しかし当の本人は、練習場へは電車で通勤し、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と、おもむろに自分のシューズの手入れを始めるなどジーコのストイックな姿勢に周囲の選手たちはジーコイズムを学んでいくこと成ります。また、自分から線審を買って出てジャッジとプレーの関連を指導するなど、周囲のお祭り騒ぎとは裏腹に本人は暗中模索で日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心していったのでした。

 

1993年にJリーグが開幕した当初、この小さな町のクラブは横浜マリノスやヴェルディ川崎といった大都市のクラブに対し不利が予想されていました。ジーコはこの予想を覆し、チームが上位に食い込むことに成功。日本のサッカー界を積極的に盛り上げました。その黄金期の伝統は途絶えることなく、今もアントラーズの伝統として息づいています。

 

 

(参照:CHANT ) 

http://chantsoccer.com/posts/307

  

 1993年。

Jリーグが開幕し、世間はサッカー一色となった。

日本中がブームとも呼べるJリーグブームに湧く中で、象徴となったのがヴェルディ川崎の存在だった。

スター選手を多く抱え、華となる存在のクラブとして多くファンを集めます。実力的にも飛び抜けていると思われたが、年間優勝こそ優勝候補の筆頭ヴェルディ川崎が輝いたが当時2ステージ制のJリーグの最初のステージとなるサントリーシリーズで優勝したのは、鹿島アントラーズだった。

 

鹿島アントラーズの前身となったのは住友金属工業蹴球団。茨城県鹿島という場所柄もあり、Jリーグへの参入へと手を挙げた時には人口の問題から集客が難しいとされ、Jリーグ加盟は難しいと考えられていた。

クラブの歴史は深いものの、決して強くはなかったチーム。Jリーグの前身となったJSLでも2部に所属していたチームであり、Jリーグに参加するとなるとそれは飛び級的な扱いとなる。数々の問題点をクリアするために招聘したのが、あのジーコだ。

 

ブラジル代表黄金カルテットの一角であるスーパースター・ジーコが、なんの結果も出していない設備も整っていないJSL2部の住友金属に移籍したのは奇跡に近い出来事だった。

しかし、何事もそこには理由が存在する。

そこから鹿島の「本気」が始まっていたのだ―。

 

鹿島アントラーズの強さとは?

鹿島アントラーズはなぜこんなにも強いのだろうか。

 

鹿島アントラーズはJリーグ開幕からコンスタントに力を発揮し、上位に食い込んできたクラブだ。

王者という言い方をすると必ず鹿島を念頭に挙げる。そのくらいの存在感と歴史が鹿島アントラーズにはあるのだ。

2部から飛び級でJリーグ入りしたチームながら、初年度に誰もが予想していなかったステージ優勝を決めた。

 

現在、鹿島のチームをみても、スタメン、そしてベンチの選手たちの名前を見てピンとこない人たちも多いかもしれません。鹿島は、大金を払いスター選手を引き抜くことはありません。常に、鹿島のサッカーはブレてはいない。鹿島のサッカーは「鹿島のサッカー」なのだ。若手が育つクラブ、そして誰を起用しても鹿島のサッカーを表現することができるチームという特徴があります。

 

ジーコスピリットとは?

鹿島にとってジーコスピリットはとても重要なものだった。サッカーに関してだけではなくクラブの内部のこと、フロントの在り方や選手獲得方法、選手とクラブの信頼関係の距離感までさまざまなプロ意識の土台を作った。

そこから鹿島らしさを独自に創って築いているのだ。

 

振り返ってみてほしいが、鹿島はあまり突然の争奪戦競争に手を挙げることは少ない。それは時間をかけて選手を獲得したいから。選手の人間性も熟知した上で信頼関係を築き、獲得したいという方針があるからだ。

若い次世代を期待される高卒や大卒の選手たちが鹿島を選択することが多いのには理由がある。

強化部の熱心さと、鹿島には特別な準備があるからだ。それは選手たちの次の場所を見つけてあげること。鹿島で力を出すことができなかった選手、起用することができなかった選手に対し、鹿島は次の場所をほとんどの場合で用意するようにしている。

通常は選手が戦力外通告を受けるとトライアウトに参加したり代理人が次を探すなど戦力外となったことで自分たちで次のチームを探すことになるが、鹿島は違う。

鹿島はクラブとして獲得をした責任があるからという理由で、選手たちの次のプレーの場を探してくれるのだ。

鹿島がダメだったときの次の場所まで責任を持って探してくれる。そういうクラブなのだ。

 

帰属意識を持ってもらう意識作り

鹿島は選手たちをクラブに属することで大切にしている理念がある。それが帰属意識だ。言葉にすると「チーム愛」の部分である。

 

サッカー選手は所属しているクラブにチーム愛を持たないことには戦うことはできないであろう。

しかし、一人の事業者であり、プロサッカー選手は自分が第一でなくてはいけない職業だ。

そのため、時にクラブ愛とだけ言っていられない時や選択も当然出てくる。それはプレーに対しても現れることも当然あるのだ。特に現在海外志向が多くなってきた中で、なかなか芯の部分からのクラブ愛を唱えるのは難しくなってきた。

 

それでも鹿島はチーム愛の部分が選手たちに生まれるようなクラブの在り方を心がけている。

選手たちにクラブ側ができるだけのことをしてあげる。そうすることで、選手たちの中でプレーで返そう、クラブの結果として返そう、自分が成長することで返そうという意識になるのだ。

 

できる限りのことをしてあげる、そう徹することで選手たちが鹿島アントラーズというクラブに対しお世話になっているから恩返しを、このチームのために戦おうという気持ちになってくれるという。

鹿島には実力ある選手たちが揃っているのではなく、鹿島が実力ある選手たちに育てた選手が多い。中途採用というような他クラブから獲得した選手たちも、獲得以前よりも着実に力をつけ、大きくなる。そして今まで感じたことのないクラブからの愛情を受けて育つのだ。他のクラブにはない取り組みが鹿島には存在する。

 

偉大なる先輩の背中を見る育成

鹿島の選手たちは先輩たちの背中を追うことから育成がスタートする。ジーコを筆頭に選手たちは常に同じポジションで、代表クラスの選手たちの背中を追うことになる。そしてそれを越そうと同じラインに立ったときには代表クラスの選手となっている図式だ。

 

当然選手たちの意識も高い。多くの先輩たちが行ってきた選手としての意識づくりが根付く。

生活から食事方法、睡眠方法、筋力トレーニングまで意識を持って取り組んでいる選手が多い。

先輩から学ぶ意識。それが長くプレーする身体作りやチーム全体のレベルの質の向上にも関係し、チーム力が上がっていくことに繋がる。どうやったらあのレベルまで到達できるのかを選手たち自身が模索し、それを実践する。追われる選手たちも負けるわけにはいかないという意地を持つ。

わからないとき、行き詰ったときはチームを常に上位に導くためにチーム作りをしてきた経験ある強化部がサポートする。それが鹿島アントラーズなのだ。

 

有望な選手たちを獲得し、育て上げるのは鹿島の強い武器だ。それはクラブとして一貫して曲げずにやってきた理念があるから。ジーコが築いた土台をしっかりと大きくし、積み重ねているからこそ。新しいことを導入しなかったわけではないが、大幅に変えたことはない。それもひとつの武器なのだ。

貫くからこそ生まれる強さ。

「鹿島らしさ」を背負い、これからも築いていくことが鹿島アントラーズの「責任」の在り方なのだ。

 

1991年。 ジーコが鹿島の地に立ったのも、きっとこういった熱意と信頼が生まれたからだ。 時間をかけて本気を伝えることで、動かすものがある。 それが鹿島の最初に出した「答え」だったのかもしれない―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

びっくりするほどの田舎・・・ それが鹿島という町

 

鹿嶋市は、茨城県の南部に位置する小さな町です。 面積でいえば東京都23区の倍。しかし人口はわずか7万人弱。たとえば23区内の世田谷は90万人以上の人口があります。その脇の狛江市の人口はおよそ8万人。狛江がサッカーのクラブチームをもち、抜群の成績を収めることを想像できるでしょうか?

 

ホームタウンといわれる近隣の市町村を足しても、鹿嶋市 67,726人、潮来(いたこ)市 28,739人、神栖(かみす)市 94,803人、行方(なめがた)市 36,423人、鉾田(ほこた)市 50,289人。5市合計:277,977人です。 浦和レッズを筆頭に、100万人ごえを果たすチームも多い中、ホームタウンの人口は16チーム中、14位。本拠地の人口だけいえばダントツの最下位。ちなみにJ2と比較しても、最下位という数字です(-_-;) 陸の孤島といわれた鹿嶋の地。 人口も少なく、スポーツ興行のむいているとも思えない。それが鹿嶋です。

 

ジーコが来日した当初には、サンダル姿で近所のスーパーで買い物をしている姿を何度もみました。しかしその距離間の近さは、他のクラブチームにはない絆にもなっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鹿島の歴史

 

鹿島の歴史は、鹿島神宮をなくして語れません。ちなみに、「アントラーズ」とは、鹿の角。

鹿島神宮に縁深い、神様の使いである「鹿」にちなんで命名されています。

 

鹿島神宮は、日本建国・武道の神様である「武甕槌大神」を御祭神とする、神武天皇元 年創建の由緒ある神社です

北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座しています。東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られています。

古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社です。鹿を神使とすることでも知られています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鹿島のもう1つの特徴は、住友金属鹿島工場の存在です。

アントラーズの母体でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

住友の歴史  

   

「浮利をおわず」

住友家 家訓

 

住友の歴史は、17世紀に住友政友(まさとも)[1585-1652]が京都に書林と薬舗を開いたことに始まります。政友は商人の心得を説いた「文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)」を残し、その教えは今も「住友の事業精神」の基礎となっています。

「文殊院旨意書」の冒頭には、「商売は言うまでもなく、人として全てのことに心を込めて励むこと」と、一人一人が単なる金もうけに走ることなく、人間を磨き、立派な人格を醸成することを求めています。そして本文では、正直・慎重・確実な商売の心得が説かれています。

 

ロスチャイルドをこえる「住友」の歴史

住友グループはロスチャイルドより古い世界最古の財閥とされています。約400年前、関ヶ原の戦いが終わった頃、住友政友は武士を辞め、京都に本と薬の店を開業。その後、銅の商いを始めました。これが住友財閥の起こりです。のちに、銅山経営、両替商と多角化をすすめ、日本が誇る名閥となりました。現在、主なグループ企業として、住友商事 、住友化学などのほか、日本板硝子やNECも加盟しています。住友グループ全体の売上高は約60兆円に達し、これは日本のGDPの約10%を占める規模であると言われています。

 

俗に三大グループといわれる三菱、三井、住友。それぞれの社風にあわせ、「組織の三菱」「人の三井」「結束の住友」と言われることがあります。各グループでは、財閥解体後も、社長同士のつながりを重視した親睦会を組織し、各グループで家訓に代表される企業のDNAを育て守る取組をしています。第二次世界大戦後、財閥解体のため創業者一族が経営から身を引いた住友も、「浮利に走らず」に代表される「家憲」は守られているそうです。

 

住友家と国家100年の計

住友家の歴史は、鉱山経営の歴史です。巨大な資本と膨大な人の数が必要な鉱山の運営は、つねに「胆力」(がまん強さ)が求められるものです。「浮利をおわず」の家訓は、目先の利益を追うことなく、企業経営に、超・長期的な視点、さらに国家的な視点を求める戒めです。また鉱山の経営には、自然破壊と公害の側面が付きまといます。

 

住友金属では被害を抑えるよう、各時代に巨額の投資をし、環境保全につとめてきました。また1980年代には、和歌山の製鉄所で公害が発生。その解決のために、茨城県の鹿島に環境基準をクリアした新工場を建設。あわせて社員、家族をあわせ1万人をこえる前代未聞の集団移転を実現しています。 この鹿島工場では、鉄鋼不況のさなか、1000億をこえる新型溶鉱炉の建設に着手。世界中の鉄鋼メーカーが二の足をふむ大型の投資にも、当時の社長は「住友は国益を先にし利を後に考えます、たとえ住友金属が倒産しても、この日本に溶鉱炉が残ればいいじゃないですか!」と宣言。その後、2000年代にはいり中国の経済復興がはじまると新型溶鉱炉は、威力を発揮し、住友に大きな「利」をもたらしたのでした。

 

アメリカの経営者は、半年ごとの決算で利益率をあげなければならないと絶えずプレッシャーにさらされています。成果をあげられなければ、自身も解雇の対象です。そのため強引なリストラで従業員の職を奪うケースが相次いでいます。住友も、商いを世界中にひろげるグローバル企業の1つです。一方、国家100年の計に立ち、超・長期的な経営戦略を実現する老舗企業という側面も持っています。そんな2面性をもつ住友の歴史には、商人の知恵、そして日本の美徳が詰まっているのではないでしょうか?

 

あらためて考える鹿島アントラーズという奇跡 

三方を海に囲まれた鹿島は、陸の孤島と呼ばれ、日本のチベットと揶揄される遅れた地域でした。

80年代にはいると、そこに住友金属が移転し、以後工業地帯として発展していきます。しかし、そこには、古くから住む旧住民と、新住民との目に見えない軋轢もありました。

 

そんな軋轢を解消するため、住友金属は、様々な施策を打ち出します。代表的な例では、東京までつなぐ高速バスの整備や学校の建設などがあげられます。幡谷が通った母校・清真学園もそうしたビジョンにそって設立された学校です。

 

鹿島アントラーズの設立は、鹿島開発の集大成であり、真の地域の発展を考えた住友金属の最後の一矢でもありました。ジーコの招へいから始まるアントラーズの奇跡の背景には、旧住民と新住民をつなぐ意味があったのです。そしてその思いは、19冠という圧倒的な実績と共に、結実しようとしています。

 

Jリーグ発足時、川渕チェアマンは、サッカーの興業にとどまらず、街づくり、人づくりに貢献する壮大なビジョンを打ち出しました。実際、発足から20年がたち、鹿島アントラーズは、その夢をもっともはっきりと実現させています。

 

アントラーズの奇跡は、偶然でなく用意された奇跡です。そしてその背景には、関係者の努力はもちろん、工場建設にとどまらない住友金属の地域への貢献と、国家100年の計にたった住友家の伝統があったのではないでしょうか?