新撰組 局中法度

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。

 

新撰組 局中法度とは

 

烏合の衆である浪人集団を統率する為、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。

 

法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事」等のように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。

   

一、士道ニ背キ間敷事

(武士道に背く行為をしてはならない)

一、局ヲ脱スルヲ不許

(新撰組からの脱退は許されない)

一、勝手ニ金策致不可

(無断で借金をしてはならない)

一、勝手ニ訴訟取扱不可

(無断で訴訟に関係してはならない)

一、私ノ闘争ヲ不許

(個人的な争いをしてはならない)

右条々相背候者切腹申付ベク候也

(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡す)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

(会津藩 家訓より)

 

 

新選組は会津藩の配下で活動していた準軍事的な武装組織で治安を守るため京都を中心に活動する反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事して警察官みたいなことをしていましたが幕府ではなく「会津藩預かり」という、現代でいえば非正規組織の対テロ部隊みたいなものでした。

 

会津藩とは?

第三代の将軍徳川家光の異母兄弟の保科正之が藩祖。側室の子として生まれた正之は、早くから養子にだされ、藩主となる見込みはないはずでした。しかし兄弟であった家光は、弟をとりたてます。正之は、この計らいに恩義を感じ、終生幕閣に尽くす一方、会津藩の家訓をつくり、歴代藩主たちにも、将軍家を補佐することを強く求めました。

 

義に死すとも、不義に生きず

家康が幕府を開いた当時、江戸には、8万人もの侍が直轄軍として待機していました。いわゆる旗本といわれる武士階級です。しかし200年にも及ぶ平和な時代は、軍としての機能は久しく低下し、幕末の動乱の時代、幕府には武力での衝突に耐えられる手ごまはありませんでした。そこで、白羽の矢がたったのが、福島の会津藩です。

 

動乱の京都で治安を守るというやっかいすぎるミッションに、藩主であった容保は一度は、固辞します。しかし、さいごには「将軍家に尽くす」との家訓を持ち出され、説得に応じ、京都守護職に就任します。その後は、新撰組を麾下に置いて会津藩士ともども取り締まりや京都の治安維持を担っています。また禁門の変では、皇居にむかって発砲するなど暴挙に至った長州藩を撃退し、京都の市民はもちろん、孝明天皇から厚い信頼を得るに至りました。

 

しかし、孝明天皇が崩御すると、既に薩長同盟を締結していた薩摩藩、長州藩との対立が激化。さいごは、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となります。さいごは、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏。少年兵を中心に組織されていた「白虎隊」が、自決するなど。現代においても長州(現在の山口県)との間に、遺恨を残していると言われています

 

明治維新という魑魅魍魎が跋扈する時代に、ただただ純真に、己の「義」。己の「家訓」にいきた藩、それが会津藩です。歴史のなかで誰かが引き受けなければならない「ババひき」で、最後のババを引いたのが会津藩だったのかもしれません。

 

本当の朝敵は誰?

京都守護職として孝明天皇から絶大な信頼を受けていた容保は孝明天皇から宸翰(しんかん)(天皇直筆の書)を下賜されていました。これは会津藩が朝廷から特別の信頼を受けていたことの証の品です。

 

その宸翰には次のような言葉が寄せられていました。

「乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり」。

同一の勅語に「忠誠」の文字が二度あるのは、空前絶後のことといわれ、容保の天皇が容保の忠誠に感じ入り、公武一和実現のパートナーとして深く信頼している心情が今に伝わります。鳥羽伏見の戦いで掲げられた「錦の御旗」は、疑惑だらけの灰色の旗であったのに比べ、容保の持つ「宸翰」にこそが、陛下の本当の「意志」が込められていたのではないでしょうか?

 

この「宸翰」が発見されたのは、容保の死後10年のこと。遺品を整理していた家族によって発見されることとなりました。容保は存命中、この宸翰を銀の入れ物にいれ、肩身はなさず大事に保管していたと言われています。

 

御宸翰の存在を知った新政府がそれを高額で買い取ろうとした時も、容保公は決して首を縦には振らなかったと言われています。御宸翰を表に出して騒ぎ立てるようなことをすれば、いわば私信として御宸翰を賜った孝明天皇の大御心を裏切ることになります。それはたいへんな無礼ですし、不忠でもあります。さらに、孝明天皇との大切な思い出に泥を塗ることにもなる。容保公としては到底そのようなことはできなかったのでしょう。

 

「会津藩家訓」がつくった容保に代表される義に厚い会津人の気質。義にすとも、不義に生きることをよしとしなかった容保の生き様に感動です。そして、そんな容保公が創った組織が「新撰組」なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新撰組とは

幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図。

 

江戸で求人した後、京に移動した。しかし清河の演説でその本意を知った、近藤勇や芹沢鴨らが反発、京都守護職の会津藩主、松平容保の庇護のもと、新撰組として発足した。同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。

 

隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。

 

慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、同戦争終戦と共に解散した。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

農家のセガレ達が、時代の寵児に

幕末の混乱のなか、当時の政府(幕府)が治安維持のために頼ったのが、正規軍(旗本)でなく、新撰組に代表される傭兵たちでした。300年ちかく続いた太平の世のなか、旗本たちは牙をぬかれ、もはや戦う集団ではなくなっていました。俗に「旗本八万騎」と呼ばれ、旗本・御家人の家臣を含めると、およそ80,000人にも及ぶ戦力は、結局戦いらしい戦いもないまま、倒幕を見守ることとなります。

 

一方、新撰組は入隊に際し身分をとうことなく、完全実力主義が貫かれます。自らの命を削る厳しいミッションがつづくなか、彼らは、功績が認められ名字帯刀をゆるされる本物の「武士」となる出世を遂げることとなります。かつて戦国の世には、立身出世を夢みる若者が、腕をみがき、仕える殿さまのために集った歴史がありました。同じように新撰組の男たちも、時代の趨勢にあらがいつづけ、最後の最後まで戦いつづけました

 

大河ドラマや多くの映画にもなった新撰組の奮闘や精神は、いまなお高い人気を誇っています。

 

 

 

 

 

 

 ■ご購入はこちら 

大人気・家訓ブログが本になりました!

 書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

出版社: セルバ出版

価格 : 1,600円+税

 

URL  : http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063