「鍛治屋町郷中」と西郷どん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

郷中の教え

 

「負けるな」・「嘘をいうな」・「弱い者をいじめるな」                    

郷中(ごじゅう)の戒めより

 

勉強なんて二の次、三の次

薩摩藩では、武士の子供たちに「郷中(ごじゅう)教育」という独特の教育が行なわれていました。「郷中教育」とは、地域ごとに6歳から15歳くらいの少年が集まり、そこに15歳以上の先輩がついて組織されていました。今の教育はもちろん、幕末に日本中に広まっていた「藩校」とも異なる独特の制度でした。教師やテキストはなく、地域それぞれのコミュニティーの中で、年長者が年少者を育成するというもので、学力でなく人間力を育てる、いわば、男が男を磨くシステムでした。

 

「議を言うな」(意:つべこべ言うな)薩摩の青少年の間では、そんな空気が大事にされていました。他にも「弱いものをいじめるな」「嘘をつくな」など、薩摩では、郷中のなかで人間として大事なことを学び、且つ他の地域にはない男同士の結びつきを強く持っていくのでした。

 

西郷のすごすぎる人望

明治10年に終わった西南戦争。誰の目に見ても勝ち目も、その目的(大義)もない不毛な戦いでしたが、西郷さんの基には、薩摩出身者だけでなく、多くの支持者が集まることとなりました。明治6年、西郷さんが陸軍大将を辞任して郷里の鹿児島に帰ったとき、当時中央で役人や軍人をしていたおよそ600人が同時に職をなげうち駆けつけます。

 

東京で、西郷さんが鹿児島に帰ったという知らせをきいたある軍人は、家に帰ることもなくまっすぐに鹿児島に駆けつけたとのこと、主のなくした家には、ひきっぱなしの布団がそのままの姿で残されていたというから驚きです。

 

こうした理屈を超えた結びつきをつくったもの、それが「郷中教育」だったのではないでしょうか? 

  

様々な豪傑を輩出した明治維新にあって、西郷隆盛の人望と器は、突出したものがあります。薩摩出身で同じ「郷中」(町内会)で育った大久保利通の不人気ぶりとは対照的です。明治維新の立役者でありながらも、最後は、西南戦争の首謀者として命をおとす悲劇もあいなって、今なお人望をあつめる英傑です。

 

才能にたけた大久保は、新国家建設のため奔走し、ほとんどの重要事項を専任で実現させました。人気はなくても、明治維新は、大久保ひとりでやりとげた!といってもいい実現力をもつ男です。一方西郷さんは、ご自身の能力もさることながら、その人望で、敵も味方も虜にし、おなじ風呂敷にひょいっと入れてしまう豪快さが持ち味でした。大久保と西郷、2人の相反する才能のぶつかりあいが明治維新という革命を成功させたのです。

 

明治維新の立役者となった西郷隆盛。しかし武士たちが勝ち取った新しい世の中も、蓋を開けてみれば、サラリーはカットされ、お家は断絶。涙ばかりの保証をうけとってみても、商売するにも器量はたりず、そのほとんどが露頭に迷うこととなりました。西郷さん自身、新政府をけん引するはずが、「明治6年の変」では、失脚。そして明治10年、西南戦争をおこし、逆賊となって憤死することとなります。西郷は大久保利通とともに日本の近代化を進めてきた功臣・元勲です。しかし彼自身が創設した陸軍が、西郷を追い詰める皮肉な結果をうみました。

 

西郷は天才肌とか極めて優秀というタイプの人間ではありませんでしたが、飾らない人柄とそこから生まれる機転で上は明治天皇、下は地元民まで広く愛されました。結果的に敵対し、京都で新政府軍の指揮を取った大久保利通でさえ、西郷が死んだと聞かされて号泣したといいます。生前、写真を撮ることを嫌がり遺影も、著書さえも残さなかった西郷さん。とくに死後は、国賊となったことで、西郷さんを称えることをはばかる空気がありました。しかし、その人柄を愛する人々によって、「南洲遺訓」がまとめられ、その人柄が現代に伝わっています。驚くべきことに、この遺訓をまとめたのは、かつての宿敵である幕府側の雄藩・庄内藩の藩士たちでした。

 

「敬天愛人」と西郷隆盛

「敬天愛人」とは、西郷隆盛が終生、自己修養の目的とし、好んで使っていた言葉です。西郷さんと同じ薩摩出身の稲盛和夫をはじめ多くの経営者が社是や座右の銘として用いています。

 

 『南洲翁遺訓』の第二十四にこうあります。

 

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」

(現代訳)「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」

 

ある日、陸軍大将であった西郷が、坂道で苦しむ車夫の荷車の後ろから押してやったところ、これを見た若い士官が西郷に「陸軍大将ともあろう方が車の後押しなどなさるものではありません。人に見られたらどうされます」と言いました。すると、西郷は憤然として次のように言い放ったといいます。

 

「馬鹿者、何を言うか。俺はいつも人を相手にして仕事をしているのではない。天を相手に仕事をしているのだ。人が見ていようが、笑おうが、俺の知ったことではない。天に対して恥じるところがなければ、それでよい」

 

他人の目を気にして生きる人生とは、相手が主役で自分は脇役です。正々堂々の人生とは、真理と一体になって生きる作為のない生き方です。天とともに歩む人生であれば、誰に見られようとも、恥をかくことはありません。西郷隆盛は、志士や英雄の闊歩した明治維新のなかでも特に人望のあった日本人でした。人を愛する西郷さんは、味方はもちろん、戊辰戦争で敵方であった勢力にも、大変慕われていました。

 

新政府軍に敗れた庄内藩士らは、厳格な処罰が下ることを覚悟するなか、西郷さんの指示により極めて寛大な処置がなされ、そのことに非常に感激したそうです。明治の時代に入ると、西郷さんを訪ね、藩士だけでなく庄内藩の殿さま自身が門下生となり、教えを乞うこととなりました。ここでも西郷さんの人望は篤く、西南戦争の際には、庄内藩からの留学生2名が薩軍に参戦し戦死しているほどです。

 

この「敬天愛人」の逸話を記録した『南洲翁遺訓』は、庄内藩士たちが遺徳をたたえ独自に編纂したものです。

信念に従い最期は西南戦争を指揮し、不遇の死をとげた西郷さんでしたが、だれにも後ろ指をさされない「敬天愛人」の生き様は、いまも社会に生き続けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

凄すぎる町内会のリスト

 

西郷隆盛    陸軍元帥

大久保利通  初代内務卿

大山巌     陸軍大臣

東郷平八郎  連合艦隊司令長官

黒木為楨    陸軍大将

有馬新七    尊皇攘夷志士

吉井友実     枢密院顧問

山本権兵衛   内閣総理大臣

村田新八    砲隊学校監督  他

 

平安時代からの歴史を誇る島津藩。しかし、西郷隆盛は極貧の下級武士であり、西郷を育んだ鍛冶屋町も、おなじく苦しい生活を強いられる武士たちの住む小さなコミュニティーでした。

 

大河ドラマ「せごどん」で盛り上がる鹿児島に現地調査にいってきました。予想以上に小さい「加治屋町」のエリア。右も左も、石碑だらけの町割りのなか、西郷さんの生誕の地を訪問させていただきました^^

 

 

1つの町内会が、維新から日露戦争までやった

郷中教育は戦国時代から続く伝統があったとされ、他の地域がとうの昔に辞めてしまった古えの慣習を薩摩藩では大事に守っていました。

 

幕末の薩摩藩には、33の郷中があり、中でも加治屋町郷中では、西郷隆盛や大久保利通、大山巌。日露戦争でバルチック艦隊をやぶった東郷平八郎など多くの偉人を輩出しています。この加治屋町は、200m四方の小さな町です。わずか70戸ほど、現在でいえば中規模のマンションほどの小さなコミュニティーのなかで、生まれた子ども達が、明治維新から、日露戦争までを成功させる人材になっていくのでした。

 

薩摩の国是?「てげ」の思想

司馬遼太郎の著書「この国のかたち」に次のような記述があります。

 

“テゲテゲという方言が薩摩にある。テゲだけでもよい。『将たる者は下の者にテゲにいっておく』そういう使い方をする。薩摩の旧藩時代、上級武士にとって配下を統御する上で、倫理用語ともいうべきほどに重要な言葉だった。上の者は大方針のあらましを言うだけで、こまごました指図はしないのである。そういう態度をテゲとかテゲテゲとかいった。例えば、大将(薩摩では差引)を命じられた者は、命令はテゲテゲにし、細部は下級者に任せねばならないとされた。

戊辰戦争のときの薩摩軍をひきいた西郷隆盛や、日露戦争のとき野戦軍の総司令官だった大山巌、また連合艦隊を統率した東郷平八郎という三人の将領の共通点をみればわかる。みなテゲを守った。”

 

日露戦争で連合艦隊を率い当時世界最強といわれたバルチック艦隊を打ち破った東郷平八郎は、鍛冶屋町の出身です。戊辰戦争にも参戦し維新後には、海軍を学ぶために海外に留学することとなります。西南戦争の際には、多くの郷中の仲間たちが西郷さんと道をともにし、命を落とす中、東郷は、海外にいたことで命が助かることとなります。

 

もし日本にいれば、間違いなく西郷さんについていったと語った東郷平八郎。ちょっとしたボタンの掛け違いが、東郷を連合艦隊総督に押し上げ、結果、本人の命だけでなく、日本の命運をも変えることとなったのです。東郷は、世界三大提督との名声を得たほか、日本人として初めて雑誌「TIME」の表紙を飾っています。また、日本と同じくロシアの拡大政策に悩んでいた北欧のフィンランドでは、日露戦争の日本の勝利を祝い「トーゴービール」が発売されるほどの人気となりました。

 

西郷さん、大久保利通だけでなく、東郷平八郎まで排出した加治屋町には、どんな秘密があったのか?

あらためて歴史の不思議を感じるばかりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西郷さんの豪快すぎるエピソード

 

維新後も官職を乞わず、他の志士たちが着飾った洋装で会議に挑むのに対し、西郷さんはふんどしに着流し一枚で会議にあらわれたとの逸話も残っています。

 

『南洲翁遺訓』には、「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」との一文が添えられています。これは無血開城の交渉の中で、幕府側の交渉をになった山岡鉄舟を称える時に用いた文章です。 西郷の一生を振り返ると,人の失敗を許し,人のために生きていたことが分かります。ここに人間としての器(うつわ)の大きさがわかります。 山岡はもちろん、西郷さんこそ、「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの」の最たる者だと感じます^^

 

大久保利通と西郷隆盛

西郷隆盛と大久保利通は、同じ町内に住み、ともに同じ郷中に通うなど、仲が良かったことが知られてます。 子どもの頃に西郷の家でよく大久保は西郷家の人々と食事を供にしていたそうです。 西郷は幕末に2度、島流しになっています。1回目は安政の大獄から西郷を守るためでしたが、2度目は薩摩藩主の父で藩の実権者だった島津久光の怒りをかってしまい刑を受けました。 西郷は英明君主といわれた久光の兄である島津斉彬に発掘され薫陶を受け重用されましたが久光には嫌われました。 大久保は西郷の1回目の島流し後に久光が囲碁好きを知って囲碁を習い久光に近づき久光にその才を買われ重用されていました。大久保は西郷の島からの召還を久光に嘆願します。特に2回目の島流しの召還のときは久光のくわえていたキセルに歯の跡がつくほどに久光は西郷を嫌っていましたが大久保の必死な嘆願によって西郷は召還され、その後に倒幕運動で大活躍します。

 

西郷は表舞台で大久保は裏舞台でとお互いの役割を分けて二人三脚で薩摩藩を指導し維新の原動力となり明治維新を達成しました。

 

維新後の2人

維新後も2人は「版籍奉還」「廃藩置県」という政治改革を断行し成功させます。 西郷と大久保に距離が出来始めるのは、「征韓論騒動」からです。 征韓論とは明治初期の対朝鮮強硬論です。 明治初年に維新政府は当時鎖国をしていた朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉をしました。しかし、朝鮮は維新政府の国書受け取りを拒絶しました。 大久保らが外遊中も西郷を中心とした留守内閣は粘り強く朝鮮と交渉しようとしますが朝鮮は頑なに拒絶したので日本国内で「武力をもって朝鮮を開国させる」という征韓論が起こり、特にエネルギーをもてあましていた薩摩士族を中心に日本国内が紛糾します。

 

外遊から帰国した大久保ら外遊組は西洋列強の諸外国を見てその脅威を肌で感じています。その当時の日本は貧しい農業国家で産業が育っていません。また、江戸時代まで政治も国防も武士が行いその他の階級の人々は参加していなかったのに明治になって急に国民として政治に参加し国を守れと言っても無理な話です。 西郷が朝鮮に渡って殺されてしまったら戦争になります。当時の日本には朝鮮や戦争に介入してくるであろう西洋列強との戦争を行う国力はありません。 大久保らは「朝鮮と戦争をするよりも国民の教育を充実させて国民を育て、国民皆兵の近代的な軍隊を建設し産業を興すことを優先させるべき」と主張して西郷の遺韓大使に反対しました。そして西郷と大久保の全面対決となります。

 

西南戦争へ・・・

一度は決まっていた西郷の遺韓大使決定も、大久保はこれをくつがえします。 西郷はこれにより鹿児島に下野することとなります。そして、西郷は維新最大の功臣でありながら維新後に不要な存在となった薩摩士族とともに西南戦争で散っていきました。 大久保も西郷と相打ちのように西南戦争の翌年に不平士族によって暗殺されました。 西郷と大久保は盟友であり「征韓論」で対決して分かれましたが、考え方の違いであり最後まで互いを認め合っていました。 征韓論で敗れ鹿児島に下野しようとして西郷が大久保に会いにいったときに大久保は政府を去ろうとする西郷を「また悪い癖がでた」として怒ったといいます。 鹿児島に帰郷後、政府について問われた時に西郷は大久保の手腕を高く評価しており「一蔵どん(大久保)が居れば大丈夫!」と言ったそうです。 西南戦争後、日本国内の内乱は無くなり真の統一国家となりました。

 

盟友 大久保との別れ

西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と言ったようだ)。 西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。

 

大久保は晩年に「明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ。」といったと言われています。 西郷・大久保を失った日本は伊藤博文・山縣有朋らに委ねられ日露戦争後に大正・昭和初期の狂った軍隊・暗い歴史に向いました。 第二期を大久保が担当していればその後の「日本のかたち」は違ったものとなったかもしれません。

 

 

     

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発売日: 2015年6月1日

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