山田方谷 家訓

 

 

 

 

 

 

 

 

山田 方谷(やまだ ほうこく)

生誕:文化2年2月21日(1805年3月21日)

死没:明治10年(1877年)6月26日)

 

現在の岡山県高梁市に生まれる。年少のころから神童として知られ、青年期には江戸や京都で遊学し、佐久間象山らとともに学ぶ。40代半ばで藩の改革を断行し、老中など幕府の要職を歴任した藩主の補佐を長く務めた。越後長岡藩の河井継之助、長州藩の桂小五郎など、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。

 

幕末期に財政破綻寸前の備中松山藩5万石を立て直した名財政家であり、卓越した政治家である。わずか8年間の改革で借金10万両(現在の価値で約300億円)を返済し、余剰金10万両を作った。

 

元々は武家であった山田家。しかし方谷が生まれる頃には、生活に困窮し農民として生計を立てていました。厳しい身分制度を考えると、通常ではあり得ないことを成し遂げた方谷。とくに、 産直販売の拡大、奇兵隊の先駆けとなる農兵隊の編制など先駆的な社会改革を断行した点は現代でも尊敬をあつめる偉人中の偉人です。

  

 方谷は、幕末期最後の老中となった藩主・板倉勝静公を補佐し、「大政奉還」の上奏文の起草は方谷が行ったと言われています。維新後は、松山藩の存続に力を注いで成功し、新政府からの財務大臣就任の要請を断って、郷土の子弟教育に晩年は尽力し、明治十年(1877)に73歳で薨去した。 

 

山田家家訓とは

 

(参照:山田方谷マニアック)

http://ftown.boo.jp/takahashi/houkoku/

  

徳川吉宗・上杉鷹山を凌ぐ見事な藩政改革を行った方谷。実は彼こそ大政奉還上奏文の起草者でもあった。信念を貫いた生涯、知られざる家庭生活と苦悩等、勝者の歴史に忘れられた人間山田方谷。山田方谷の名前に記憶が無くとも、越後長岡藩の破天荒な英雄河井継之助が3度土下座を繰り返して生涯の師と仰いだ人物、と逸話を語ると案外思い出す人がいる。

  

越後長岡を武装中立国にしようとしてならす、十倍の官軍を震え上がらせて激戦の北陸戦争に散った継之助は、三十三歳の時、はるばる備中松山に遊学し、旅日記「塵壺」を残した。山田方谷を慕って備中松山を訪れ、継之助が半年以上も内弟子となってそこに滞在したのは、師の方谷が前人未踏の藩政改革を達成して、民百姓から神のごとく敬われている幕末の最も有名な陽明学者だったからである。

 

 

山田家の家訓 

方谷の父は五郎吉、母は梶といった。山田家の家系は元々は武士であったが今は落ちぶれて百姓となっていた、そのため方谷に徹底的に厳しい教育をしお家の再興を掛けた。 

 

母梶もまた超のつく教育ママで4才の方谷に書を教えた。

山田家の家訓は非常に厳しいものだったが、その内容をよく見ると自分には厳しく、他人には優しくと言う情愛に満ちたものであり、後の方谷の考えの基礎になったと思われる。

 

一.献上米二合を毎日なすべきこと。

一.ご神仏お初穂はこれまでどおりなすべきこと。

一.衣類は木綿に限るべきこと。

一.三度の食事は、一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯。もっとも母上には三度とも米をすすめ、夫婦の米は倹約すること。

一.酒のたしなみは無用のこと。

一.客の饗応は一汁一菜かぎり。

一.労働は朝七つ(午前四時)より、夜は九つ(+二時)まで。召使いの人は世間なみ。

一.履物は、わらぞうり、引下駄、わら緒にかぎること。

一.からゆ、さかやきは月に三度。びんつけは倹約に致すべし。高銀の櫛、算は無用。

一.もろもろの勝負ごとはかたく無用。

一.芝居その他の見物ごとはかたく無用。

一.遊芸はいっさい無用。 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

備中松山城の歴史

方谷が仕えた備中松山城は、堅固な山城として知られ、現代では雲海に囲まれた城跡の人気が高まり、東洋のマチュピチュといわれる程の観光地となっています。

 

この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に地頭に 任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。その後、戦国時代になると、毛利氏の東方進出の拠点として整備がすすみ、さらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中の国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築が なされるなどなど備中の要衝としての役割を担ってきた名城です。

以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えます。

現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430M)を中心に築か れた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存しており、昭和十六年には国宝(昭和二十五年文化財保護法の制定により 重要文化財)の指定を受けています。また、平成六年度からはこれら重要文化財を中心に、本丸の復元整備が行われており、本丸の正面玄関ともいえる本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが忠実に復元されています。

 

 

 

幕末の備中松山藩

第7代藩主となった板倉勝静は、困窮する藩の財政を立て直すため、農民の出であり出自を気にする方谷を説得し、藩のトップに据える人事を敢行した名君です。井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された翌々年の文久2年(1862年)には、徳川慶喜につかえる形で老中首座(筆頭)となりました。

 

藩政では山田方谷を起用し藩政改革を成功させたものの、勝静が幕府の要職にあったことから、鳥羽・伏見の戦いから1週間後には松山藩追討令が朝廷から出され、岡山藩の軍勢が藩主不在の松山城などを接収。京都にいた勝静は徳川慶喜に従って江戸へ向かい、以後の戊辰戦争では旧幕府方に身を置いて箱館まで転戦することとなりました。

 

日和見的に、新政府軍に従う藩主が多いなか、勝静は、最後の最後まで抵抗を試みた数少ない藩主です。そもそも、官軍、幕府軍ともに、実際藩主が戦地を転戦したという記録はほとんどなく、勝静の人間性がわかるエピソードです。

勝静自身が、慶喜に忠誠を誓ったように、また方谷も、勝静への恩義を忘れず、殿が不在のなか藩のかじ取りをまかされ、なおかつ函館まで転戦した勝静の命を救いだすことにも成功しています。

 

 

     

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