楠正成 『七生報国』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楠木 正成(くすのき まさしげ)

 

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。

 

楠木正成は、後醍醐天皇を守護するため、勝目の無い戦いに死を覚悟して挑み、そして最期に「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」と語ったと伝えられています。これが「七生報国」の精神です。

 

菊の御紋は本来皇室にしか許されない紋ですが、菊の家紋を半分にした家紋を彼に授けました。後醍醐天皇が菊水の家紋を下贈されたことも彼に対する信頼がいかに厚かった物語っています。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。いまも、皇居の外苑には、皇室の行く末を見守るかのように雄大な正成公の銅像がそびえたっています。

 

楠正成とは? 

楠木正成は鎌倉時代〜南北朝時代に活躍した武将で、鎌倉幕府の大軍に寡兵で挑み倒幕の引き金となったことで有名です。その後、楠木正成は南朝方の有力武将として足利方と戦いますが、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で敗れ、1336年7月4日(建武3年5月25日)に弟の楠木正李と刺し違えて自決しました。享年は42歳前後だったといわれています。そんな楠木正成の辞世の言葉と言われているのが以下の言葉です。

 

楠木正成 辞世の句 

罪業深き悪念なれども、われもかように思ふなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん

意:罪業の深い救われない考えだが、私もそう思う。さあ、それでは、同じように生まれ変わって、このかねてからの願いを果たそうではないか!

 

この言葉は、死に際して、弟の楠木正李が言った「七生まで生まれ変わっても、やはり同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼしたいと思う。」という言葉に答えたものだと言われています。

 

水戸黄門が再評価した中世の英雄 

名君として知られる、水戸藩の藩主・徳川光圀(通称:水戸黄門)。しかし若い頃には、人切りをもいとわない荒れた少年時代をすごします。そんななか、中国の歴史書である「史書」に出会い反省し、名君として成長していきます。光圀公は自らを改心させた歴史書のありがたさを実感する一方、日本には「史書」にあたる本がないことに気づきます。そして、古事記、日本書紀の編纂以来となる国史「大日本史」の編纂に乗りだしたのでした。

 

日本の歴史とは、そのまま歴代の天皇さまの歴史です。その過程では、皇統の再評価が行われ、再発見された英雄が、楠正成です。鎌倉時代の終わりに活躍した正成でしたが、死後300年近くたった江戸時代には、忘れられた存在になっていました。光圀公は、天皇のために忠節を誓い戦場に散った正成を忠臣として称え、自らの寄進により墓所が建てられたのでした。

 

明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られていきます。また、皇国史観の下、大義の為に身をささげた生き様が、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 楠正成公の生涯

 

戦前の日本では、正成公は国家的な英雄として知られていました。その生涯は、道徳の教科書で語られた他、絵本や、童歌などになり人気を博していたそうです。画像は、後醍醐天皇より下賜された正成公の御紋「菊水紋」です。天皇の藩塀として活躍した正成公の御紋は、海軍の紋章として採用され、多くの戦艦や勲章に刻まれることとなりました。

 

「悪党」楠正成

「悪党」とは、幕府や朝廷など既成の支配体制の枠組みでは捉えることのできない者たち、即ち、反体制的な集団ということです。また「悪」とは、強く逞しい「武勇」を表す言葉でもありました。楠木正成の名が最初に出ている史料には「悪党楠木兵衛衛尉」とあります。

南河内の金剛山の麓が彼の根拠地で、その周辺を支配していた土豪であり、「散所の長」(寺社の警護・掃除などをする集落の長)であったといわれます。既存の枠組みでは「悪党」とされた正成でしたが、商業や流通にも関わりをもち、また彼は、近くの山の水銀の採掘権と販売権を持ち、さらに水の支配権も持っていたといいます。

正成は荘園を管理する代官を追い出したり、年貢米を分捕ったりして荘園領主に抵抗しています。生まれた場所も歳もよくわからないアウトローの正成。しかし既存の枠組みに入らない正成こそ、疲弊した鎌倉時代の終わりをつげる新しいリーダーだったのです。そして、鎌倉の武士たちにすら相手にされない「悪党」正成は、時代の最高の権威である後醍醐天皇と結びつくことで、持ち前の才能を発揮しこの後、時代を動かす大活躍をみせることとなるのです。

 

 

 (参照:湊川神社HP)

http://www.minatogawajinja.or.jp/history/ 

 

楠木正成公(大楠公)は、永仁2年(1294年)、河内国でお生まれになりました。この地の豪族の出身だと伝えられています。

 

鎌倉幕府の滅亡

元弘元年(1331年)正成公38歳の折、鎌倉幕府を倒して天皇自らが政治をとり、よりよい国をおつくりになろうとされた後醍醐天皇のお召しにより、天皇の許に馳せ参じられました。正成公はじめ鎌倉幕府打倒に立ち上がる武士も少なくありませんでしたが、幕府軍の力は強く、後醍醐天皇は捕らえられて、隠岐島(おきのしま)(島根県)に島流しになってしまいます。

 

しかし、後醍醐天皇が配流になった後もそれに臆(おく)せず、なお戦い続けた武将が.いました、それが正成公です。大軍勢を率いる幕府軍を、得意のゲリラ戦で振りまわし、さんざん敵を悩ます戦を続けられました。正成公の目覚ましい戦いぶりは、諸国の武士を驚かせ、勤王軍への加勢を促します。

 

後醍醐天皇の呼びかけと正成の働きに呼応し、北条氏率いる幕府軍の打倒に立ち上がった武士たちが各地で活躍し、ついに幕府軍が敗退。建久3年(1192年)から続いた鎌倉幕府は滅亡することになったのです。

 

建武の中興(新政)

京都に還御された後醍醐天皇は、幕府の統治を改め、理想の治国を実現しようとされました。これを「建武の中興(けんむのちゅうこう)」といいます。しかし新しい体制に、武士の中には不満を持つ者も出てきました。鎌倉幕府打倒に力を尽くした足利尊氏もそのひとりで、その尊氏の謀叛によって、再び日本各地での戦乱が始まりました。 

 

尊氏は、鎌倉を攻略すると、そのまま居座り、武家の政権を復活しようとしました。朝廷は尊氏を反逆者とみなし、新田義貞に討伐を命じます。天下はふたたび戦乱の世となりました。一時は形成不利となった尊氏も、九州に逃げたあとには勢力を蓄え、大軍を従えて京都に向かいます。その足利軍を防ごうと朝廷方は、新田義貞と正成公に、兵庫で尊氏の大軍を迎え討つことを命じました。

 

正成公は、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(今の大阪)で、御子の正行公(小楠公)に後事を託して別れ、手兵700で会下山に陣の間を置きました。主力の新田軍は和田岬に陣を敷いて足利方の海上軍に備えましたが、敵の策略のために、正成公の軍の間を分断されてしまいました。

 

新政の崩壊 と忠臣の心

この日、正成公は足利尊氏の弟、直義等の軍も合わせた大軍と16度にわたる激しい合戦を交えられますが、大軍の前には、さすがの楠木軍も善戦虚しく、味方はわずか73人にまでになってしまいます。もはやこれまでと覚悟された正成公は、弟の正季卿ら御一族と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓って殉節(じゅんせつ)され、その偉大な生涯を閉じられました。

光圀公が再評価したご遺徳は、明治維新の前後には、新しい日本の国づくりを願ったたくさんの志士達を引き付け、墓前に詣でつつ国事(こくじ)に奔走することとなります。その後、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じになり、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建されました。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した

 

後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。

 

名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成の愛国心

 

2017年の衆議院解散総選挙では、投票権が18歳に引き下げられてからの選挙となりました。今回の選挙では、従来見られなかった特徴があります。その特徴は若年層の保守化です。自民党に1票を投じたという大学生は、次のようなコメントを残しています。

 『国が好きということに右も左もないのに、好きって言った瞬間に右翼だと言われてしまうこの風潮が馬鹿らしい』と

 

戦後、GHQによる占領を経験した日本では、戦中、戦前以上の言論統制と教育改悪が進められました。本来、国民的な英雄であった楠正成の偉業も、消されてしまったというのが現状です。驚くべきことにGHQコードといわれる戦前の価値観を否定する統制は今も根深く社会のなかに存在しています。しかし、インターネットの成長は、そうした印象操作に騙されない新しい日本人を増やしています。若年層の保守化とは、そうした社会変革の1つの答えなのかもしれません。

 

画像は、教科書にも載っている世界の国々の変遷図です。様々な地域の国が、様々な民族に支配されてきたことが分かります。しかし、日本だけは唯一同じ体制が、続いていることにお気づきでしょうか? 日本は神世の昔より天皇さまが君臨し統治してきた歴史があります。そしてそんな天皇さまを崇拝し、ときには楠正成のような英雄が現れ、現代まで歴史を紡いでいます。

 

国が好きという気持ちに右も左もありません。正成公が、7度生まれ変わっても、守ろうとした皇室の御偉功とは何なのか?

改めて、日本という国、そして天皇さまの歴史を振り返ってみたいと思います。 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 世界中から尊敬される日本の皇室

 

先日来日され、公式実務訪問賓客として御所に招かれたサウジアラビアの副皇太子殿下との会見では終始穏やかな雰囲気で行われたました。このご会見についてはアラブ諸国でも報道されているのですが現地の人々に衝撃を与えているのは、ご会見の様子でした。陛下と殿下、そして通訳の方の椅子と、花瓶の置かれたテーブルのみという、空間の究極的なシンプルさに、多くの方が感銘を受けています。

 

権威をあらわすために、金蘭豪華な諸外国の王宮にくらべ、あまりにシンプルで、それでいて気品のある空間に、海外では、「欧州の王宮と全然違う」 皇居を特集した番組がつくられたとのこと日本人には当たり前にみえる光景でも、世界に人々には驚きをもってむかえられているようです。この一枚の写真が示唆することは数え切れないほどあるのかもしれません。

 

日本の皇室の歴史は大変古いものです。西洋の政治がはじまるずっとずっと前から、天皇さまは日本国を率いていらっしゃいました。

 

日本は世界で一番古い国

 

あまり知られていない事実ですが、日本はギネスにも認定される世界で一番古い国です。あなたはその事実をご存知でしたか?

 

日本の建国は、神話上は紀元前660年2月11日(旧暦:神武天皇元年1月1日)、初代天皇である神武天皇が即位された日までさかのぼります。歴史学者の中には、4世紀頃の建国だと指摘する声もあるものの、日本の次に古いのがデンマークで建国は10世紀ごろであることを考えると、「世界一古い国」という事実は動かしようのない事実です。

 

これは、ギネスや、アメリカ合衆国のCIA公式サイトでも掲載されています。また、日本の天皇家は、世界では現存する最古の王朝であり、現存する唯一のエンペラーであり、現存するただ一つの神話をバックボーンに持つ血統です。

 

世界の王室が集まった時、天皇陛下が最も上座に座る

日本の天皇陛下の権威はローマ法王と並び、世界最強クラスです。しかし、天皇陛下の権威を日本人は知らず、誤解されている部分も多くあります。海外でもその権威は健在で、エリザベス女王も、アメリカ大統領よりも上の存在です。世界で唯一「エンペラー」と呼­ばれる存在で、日本人がその権威を知らないのは、おかしなことです。

 

その理由は、この2つです。

・天皇家は世界で最も歴史のある王室である事。

・「King」よりも格上とされる「Emperor」であるから。

 

もし、ローマ法王と天皇陛下、そしてエリザベス女王と、アメリカ大統領が同じタクシーに乗ったとして、天皇陛下(emperor)≧ローマ法王(Pope)>英国女王(Queen)> アメリカ大統領etc(president)っと、上座は天皇陛下が座ることになるのです。私達日本人として、天皇さまの正しい知識と情報とふさわしい見解を持ちましょう。

 

天皇の基礎知識

古くから日本人にとって、「天皇=皇室」は空気のような存在だったのかもしれません。皆様は、京都御所を見たことがありますか? 御所には外敵を防ぐための堀などはなく高さ6尺程度の土塀があるだけです。皇室は、誰も攻めてこない・・・との共通認識があった証拠です。いつの時代の国民も御所を攻めて天皇にかわろうという発想はしませんでした。王様の警備がスカスカなんて、世界広し日本だけの現象です。

ここに日本の皇室のすごさが隠されています

 

古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼ばれ、語源としては7世紀中頃以降で、中国語の天皇・地皇・人皇の一つに由来しており、スメラミコトの漢語表現といわれています。古代日本では権力の頂点をオオキミ(大王)といったが、天武天皇(672年 - 686年)ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになりました。初代・神武天皇から、現上天皇の明仁(あきひと)様まで、125代の天皇が即位してきました。

 

戦前、天皇陛下が君臨する政治体制を「国体」と表現していました。この「国体」は神話の世界から2600年間。史学的に証明できる一番古い天皇からさかのぼっても1500年間、たえず守られてきたものです。馬上の天下は馬上で終わるとの言葉があります。「馬上」つまり武力で奪った天下は、いつか武力で奪われるもの、しかし日本の御皇室は、奪ったのでもなく、もらったのでもなく「ある」もの。そして、長い間、国民に愛されてきた事実は、「必要とされてきた」証でもあります。

 

 

平成のご皇室のありかた

 

先代の昭和天皇さまは、戦後の巡幸で国民に勇気を与えてくださいました。そして今上天皇さまは、日本列島に自然災害が襲う度に、被災地にお姿をおみせになられるようになりました。東日本大震災の際には、いち早く国民にむけてのビデオメッセージをお出しになっただけでなく、痛みを共に感じるために、計画停電にあわせて、電気をつかわない生活を実践されていたそうです。

 

巡幸も、宮城、岩手、福島の3県だけでなく、埼玉、千葉、茨城の被災地もめぐられています。忘れられた被災地といわれる茨城には首相も大臣もくることはありませんでした。しかし、陛下がいらっしゃることになり、その後の復興のスピードが加速的に進んだと住民の方が教えてくれました。戦後の混乱期、そして被災地にあって、国民が傷つき打ちのめされた時、弥勒菩薩のように現れる陛下は、本当の意味で現人神なのかもしれません。世界的な権威であり、政治家であり、無私のひとであり、どれだけ賛美の言葉を並べても、ご皇室の皆様をあらわす言葉がみつかりません

 

中国では易姓革命という考えがあって、「徳」のある君主が徳の無い君主に代わって天下を治めるとされています。実際に有史以来、何度も王朝が変わっていますが、日本では王朝の交代は起りませんでした。

 

19世紀 イギリスの思想家「スマイルズ」は、

国としての品格は、その国民が自分が偉大なる民族に属するのだという感情によって支えられ、そこから力を得るものである。」

と述べています。

 

世界には190国あまりの国があるそうです。1度しかない人生、自分が生まれた国を愛せない人がいるとしたら、それは寂しいことです。

 

家訓ニストは、「皇居勤労奉仕団」として4日間の活動に従事する機会に恵まれました。奉仕団ができる草ぬきや落ち葉ひろいは、広い皇居においては、お手伝いできる最小限のことに限られます。悠久の歴史をつむいでいらっしゃった天皇家の皆様の御偉功に感謝し、恩に報うためには、草抜きをする奉仕団に加わるよりも、日常を頑張ることこそ、「報恩」にあたいします。

 

経営者は立派な経営をすること、お父さんお母さんは家庭をまもり子育てをすること、国民それぞれが、一所懸命に、それぞれの場所で、懸命に働き、喜びを分かち合う日々を送られることこそ、天皇皇后さまが望んでいらしゃることだと、確信しています。

 

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