井伊直弼 辞世の句

 

 

 辞世の句 

咲きかけし たけき心の ひと房は

散りての後ぞ 世に匂ひける 

意訳 : 国 を想ってきた熱い自分の気持ちは、自分の

死後、きっと後世に理解されるだろう。

解説:死の前日に求められて詠んだもので、はからずも結果的に 辞世の句となった

 

井伊 直弼(いい なおすけ)

生誕:文化12年10月29日(1815年11月29日)

死没:安政7年3月3日(1860年3月24日)

 

幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。

大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた

 

 

元祖ニート?まわってこない控えの半生

 

文化12年(1815年)10月29日、第13代藩主・井伊直中の十四男として彦根城の二の丸で生まれる。兄弟が多かった上に庶子であったこともあり、養子の口もな、父の死後、三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごした。今風にいえば、ニートというところでしょうか?

 

この間、国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らしていたといわれています。また暇つぶし?のためにか熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成していたのでした。

 

ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定します。嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け家督を継いで藩主となったのでした。30過ぎまで気ままに暮らしていた14男坊が、この後、日本の政治の表舞台に立つこととなるのです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ペリー来航から15年で明治に 

 

ドラマや多くの書物で語られる幕末の動乱期、しかしペリー来航から数えるとわずか15年という短い時間の間に起こった出来事です。幾多の英雄が現れる幕末の歴史において、井伊直弼は、そのきっかけとも言える働きと、悲劇に彩られた人生を歩むこととなります。

 

幕末の動乱の中で 

彦根藩時代は藩政改革を行い、名君と呼ばれた。また、江戸城では溜詰として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。嘉永6年(1853年)、黒船来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘がアメリカの要求に対する対策を諮問してきた時には、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国を主張している

  

 

幕末の政局と井伊直弼 

嘉永6年(1853)、ペリ―が来航して開国を要求すると、江戸幕府の体制が急速に動揺しはじめます。幕府は挙国一致してこの状況を乗り切ろうと考えますが、かえって、それまで幕政に関わってこなかった徳川一門や外様大名、さらに朝廷が政治に参入する機会を与えることになりました。

そして将軍徳川家定の跡継ぎと通商条約締結という二つの問題をめぐって、幕閣・譜代大名と外様・徳川一門の対立が朝廷も巻き込む形でおこり、井伊直弼の大老就任から条約調印、安政の大獄、さらに桜田門外の変へと政局は激しく展開していきます。 

  

ペリー以降、外国船が来航するようになると、幕府は欧米列強への危機意識を高めていきました。それに伴い日米和親条約が結ばれ、そして安政5(1858)年には日米修好通商条約が締結されることになったのです。しかしこれらは日本にとっては実に不利な条約でした。

 

加えて、幕府は12代将軍・家慶の死後に後継者問題にさらされており、一橋慶喜を推す水戸派と徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派の対立が激化します。そんな状況で、南紀派の直弼は大老に就任し、次の将軍を慶福に定めたのです。これには水戸派の反発は高まりました。加えて直弼は、日米修好通商条約を天皇の許諾(勅許)なしに締結することにしたのです。

 

とはいっても、元来直弼は勅許なしの条約締結には反対だったそうです。ただ、混乱する幕府の内情と時代の流れの速さがそれを許しませんでした。孝明天皇が超・攘夷派だったので、勅許を得るのが難しかったのです。

 

様々な状況があったとはいえ、直弼を糾弾する声は高まり、水戸派を中心とした尊王攘夷一派は天皇に働きかけて幕府を非難する密勅まで出させました。朝廷が政治に口出しするということになり、直弼はやむなく厳しい手に打って出ることとなったのです。その結果、吉田松陰をはじめ多くの志士を投獄・処刑し、水戸派の重鎮を謹慎処分にしました。

 

連座した者は100人以上にのぼりました。これが安政の大獄です。

直弼はこれで大きな恨みを買い、孤立を深めていくことになるのです。

 

戊午の密勅と安政の大獄 安政5年(1858年)8月〜 

幕府が条約を調印すると、直弼政権に反対する一橋派が開国を快く思わない天皇と手を結んで行動に出ます。一橋派が公家に働きかけた結果、8月8日、孝明天皇より、直弼の幕府運営を批判する勅諚が出されました。さらに、水戸藩へはこの内容を諸藩に伝えるよう添書が下されます。これを「戌午の密勅(ぼごのみっちょく)」といいます。天皇が幕政を批判し、一大名に直接命令することは、200年以上維持してきた社会体制を否定するものであり、幕府体制の根幹をゆるがす犯罪行為でした。そのため、幕府はこれに関わった水戸藩の家臣や反幕府の政治活動をする者を捕らえ、処罰しました(安政の大獄)。

  

密勅返納問題から桜田門外の変へ 安政6年(1859年)1月〜12月

安政5年12月に孝明天皇は条約調印に対して了解の意を示しましたが、戊午の密勅が依然として水戸藩の手元にある状況は、幕府にとってゆゆしき問題でした。そのため幕府は、水戸藩に密勅を返納させる勅命を下すよう朝廷に働きかけますが、文言の調整に手間取り、安政6年12月になってようやく勅命が下され、幕府から水戸藩へその旨が伝えられました。幕府の返納要求に対して、水戸城内に移された密勅を断固死守しようと、過激派が長岡宿に集結します。藩は彼らを鎮めようとしますが、その中心人物は脱走し、江戸に潜んで大老井伊直弼の暗殺を謀ったのでした。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

桜田門外の変とは

 

安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。駕籠に乗っていた直弼は狙撃され、引き出されて首を刎ねられたのです。これが「桜田門外の変」です。事変の一部始終を見ていた水戸藩士によると、襲撃開始から直弼殺戮まではわずか十数分の出来事だったそうです。

 

司馬遼太郎さんは、「世界史の中でテロが政治を変えたことはなかったが、桜田門外の変は唯一の例外」と評しています。

 

事件後、幕府側は直弼の暗殺を隠します。それは井伊家の御家断絶や、水戸藩との争乱の激化を防ぐための配慮でした。

表向きにはしばらく闘病した後に亡くなったとされたため、井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑では、命日が「三月二十八日」と書かれているそうです。

 

桜田門外の変で敵対した両藩の城下町である水戸と彦根が和解して親善都市提携を結んだのは、事件発生から約109年後の1968年(昭和43年)10月29日であった。水戸市から彦根市へは偕楽園の梅、彦根市から水戸市へは彦根城堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、直弼の曾孫にあたる井伊家の当主で殿様市長として知られた井伊直愛でした

 

事件が与えた影響

この桜田門外の変は薩摩藩兵の上京計画とともに計画されていました。 桜田門外の変で大老を襲撃・暗殺し、それと同時期に薩摩藩主・島津斉彬が藩兵を率いて上京、天皇の勅許を得て幕政を是正しようと考えたのです。 しかし、思いもかけないことがこの計画を破たんさせてしまいます。島津斉彬が上京を目前にして死去してしまったのです。理由はコレラとも暗殺とも言われています。

  

 

時計の針は戻せない・・ 

この直弼の死が尊王攘夷運動の激化の始まりとされ、この7カ月後大政奉還により江戸幕府は280年続いた歴史に幕を閉じることになりました。幕政を正すべく行動した水戸藩ですが、この後、水戸藩出身の徳川慶喜が将軍に推挙されるに至って、正すべく相手が、自分の親分となる「ねじれ」を生みます。水戸藩はこのねじれに苦しみ、天狗党の乱をきっかけに、壮大な内ゲバがおこり、藩内は味方同士の内戦状態に陥ります。

 

また、直弼の死は彦根藩にも大きな打撃を与えたのです。直弼の死後、彦根藩は石高を35万石から25万石に減らされ、京都守護職を解任されてしまいます。その後を継いだのが会津藩主・松平容保、そしてその下に配属されたのが新撰組でした。第二次長州征伐でこそ幕府方で出陣するものの、鳥羽・伏見の戦いでは翻って新政府軍につき、倒幕の姿勢をしめしています。元新撰組局長・近藤勇を逮捕するなどの功績で賞典禄2万石を与えられました。

 

こんなはずでは。。。という水戸藩、彦根藩の面々。そしていつのまにか、計画から抜け出し、薩長同盟以下、明治維新をなしとげる薩摩藩・・・ 時計の針は戻せないもの、そして「桜田門外の変」は進めなくてもいい時計の針を進めるテロになってしまったのでした。

 

 

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