ペリー 「日本遠征史」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)

生誕:1794年4月10日

死没:1858年3月4日

 

アメリカ海軍の軍人。エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた 

 

 

 

 

 

 

 

 

捕鯨船の補給と通商が目的だった

 

この頃の太平洋では捕鯨船が多く運行されており、鯨を追ってアメリカから日本近海にまでやってくる船もいました。当時はランプの燃料や工業製品の潤滑油として鯨油に高い需要があったため、捕鯨が産業として成立していたのです。

 

しかし本国から遠く離れて航海をしていると、食料や燃料不足に陥ったり、船が破損したり、船員が病気にかかったりするなど、様々な困難が発生することもありました。このため、補給を受けられ、いざという時に避難できる日本の港が欲しい、という要望がアメリカの捕鯨業界から出されていました。

 

しかし日本は鎖国をしていたために寄港できず、これを改めさせて港を開かせよう、というのがアメリカ政府の方針になりました。また、交易を行って収益をあげたいという意向も持っており、ペリーはフィルモア大統領の指令を受け、日本に開国を促すため艦隊を率いてやって来たのです。

 

ペリーの来歴

マシュー・ペリーは1794年に、アメリカのロードアイランド州で生まれました。父も兄もアメリカ海軍の軍人で、その影響を受け、彼もまた海軍の士官候補生となり、順調に出世を遂げていきます。 

(兄のオリバー・ペリーは米英戦争で活躍し、歴史の教科書に掲載されるほどの人物で、アメリカでは兄の方が著名です。)

 

ペリーは米英戦争に参加した後、造船所の所長となって、当時の最新鋭艦である蒸気船の建造に携わります。そしてアメリカ海軍の最高位である代将に就任し、本国艦隊の司令官になるなどして活躍しました。

 

日本来航を志す 

ペリーは単に軍人として働くだけでなく、歴史に名を残すような仕事をしたいと考え、そのために日本遠征を強く希望するようになります。このあたりは兄の名声の影響があったのかもしれません。

 

日本はなかなか開国要請に応じない国として認知されており、補給港や通商の需要があったことから、これを開国させることは外交上の功績になる状況だったのです。

 

ペリーは1851年までに東洋の情勢の研究を行い、独自に日本遠征を成功させるための計画を練っています。この時から、自らが構築した蒸気船艦隊の力を見せつけることで日本を威圧し、開国せざるを得ないようにしよう、と考えていました。

 

当時の日本は長崎のみを外国に対して開いていましたが、ここに寄港を許可されていたのはオランダ船だけであり、彼らが対日貿易を独占していました。このため、長崎に寄港するとオランダの妨害を受ける恐れがあるとして、これを避けて関東に直接乗り込むことを企図しています。

 

このあたりの計画を見るに、ペリーは日本の実情を正確に把握していたことがうかがえます。

 

先任者の解任

ペリーがそのような計画書を海軍長官に提出していた頃、東インド艦隊の司令官・オーリックに遣日特使の役目が与えられ、日本に開国を迫ることになります。しかしオーリックは艦隊の旗艦・サスケハナ号の艦長とトラブルを起こしたために解任され、このために計画書を出していたペリーが、新たに日本に送られることになりました。

 

1852年に海軍長官から訓令を受け、日本との交渉についての自由裁量権や、周辺の島々の探索、情報収集などの任務を与えられ、大統領の親書を携えて、艦隊が待つ上海へと向かいました。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ペリーの日本遠征記 

 

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。ペリーは翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再び来航し、条約締結を求め、3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約を締結しました。ペリーには江戸日本、日本人はどう映ったのでしょうか。

 

日本人の並外れた好奇心には驚かされる。わが国の独創的な発明品の数々を展示すると、彼らはあの手この手で飽くなき好奇心を満足させようとした。日本人にとっては、どの展示品もこの上なく珍しかったに違いないが、それをこと細かに観察するだけでは気がすまず、士官や乗組員らの後をついてまわり、機会さえあれば衣服に触ってみようとする

 

日本人の好奇心には驚いたようです。珍しくて「ほう」と感心するだけでなく、しつこく飽きることなく見て回るのです。

 

乗艦を許された人々も同じように詮索好きで、近づけるところなら隅々までのぞき込み、あちこちの寸法を測ったり、目に触れるものはなんでもかんでも独特の流儀で写生したりする

 

技術を盗もうとしたわけです。さらにペリーは鋭い観察をしています。

 

実際的および機械的技術において、日本人は非常な巧緻を示している。・・・日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技能を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるであろう

 

江戸日本には既に一定の高い技術力があったことを示しています。だから黒船を評価でき、持ち前の好奇心で様々な角度から分析できたのです。ペリー初来航から2ヶ月後には洋式大型軍艦の建造に着手し、翌年には完成させています。「鳳凰丸」です。蒸気機関車の模型も安政2年(1855年)には走らせることに成功しています。

 

読み書きが普及しており、見聞を得ることに熱心である。・・・彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、我々も多くの質問を受けた」「長崎のオランダ人から得た彼らの知識は、実物を見たこともない鉄道や電信、銅版写真、ペキサン式大砲、汽船などに及び、それを当然のように語った。またヨーロッパの戦争、アメリカの革命、ワシントンやボナパルト(ナポレオン)についても的確に語った

 

識字率は大きなポイントです。明治期の日本人の識字率は50%を超えており、当時の世界一の大国であるイギリスの20%を凌駕していました。こうしたものに対してフランスの社会学者ピエール・ブリューディは「文化資本」という概念を適用しています。知識、知性、教養、マナー、伝統的なものなどを指し、ブリューディは「社会資本より文化資本の方が強い」と指摘しています。比較文化学者の金文学氏によると日本は江戸期に高い文化資本を持っており、これが明治に入って西洋文化を吸収し、近代化に成功した秘訣だと述べています。また外国人は日本を植民地化することはできないと考えた理由の一つだとも指摘しています。

 

吉田松陰とペリー

 

4月25日の午前二時頃、下田沖に停泊中のミシシッピー号に二人の男が近づいてきた。瓜中萬二こと吉田寅次郎と、市木公太こと渋木松太郎の二人である。旗艦では通訳を出し、その男たちの要望を聞いた。合衆国へ連れて行ってほしい、世界を旅行し見聞を深めたいと言う。この行為はアメリカの法律では無罪でも、日本の法律からみると犯罪であり、相手国の法律を尊重するには引き返してもらうより他なかった

 

吉田寅次郎は吉田松陰のことです。ペリーはこの二人を「漢文を淀みなく見事に書き、物腰も丁寧で精錬されている」「知識を求めて生命さえ賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲」「道徳的・知的に高い能力」と評価しており、「日本人の志向がこのようであれば、この興味ある国の前途は何と有望なことか」と評価しています。

 

 ペリーは条約締結後に下田へ行っています。ここでも様々な交渉で衝突しています。そして交渉がまとまり、下田を去ることになります。

 

「いよいよ私が最後の別れの挨拶を述べたときは、彼らは心から名残を惜しんでくれた。前日に送った以下の覚書で、私はかなり厳しいことを書いているのだが」

 

「しかし、不誠実だとか、果ては二枚舌と言われても、日本人は決して腹を立てない。口がうまいとかずるがしこいとか言われるのを名誉と考えているのだろうか、と思うほどである」

 

どんな相手であっても、何か面倒なことがあっても、礼節を尽くすのが日本人です。むやみに感情を表に出さないのも日本人です。これらも日本の「文化資本」なのです。 

 

吉田松陰の渡航事件について、ペリーの「日本遠征記」には次のように書かれている。

 

この二人(松蔭とその弟子・金子重輔)の事件は、われわれを非常に感激させた。教育のある日本人ふたりが生命をかえりみず、国の法律を破ってまでも、その知識を広くしようとするはげしい心を示したからである。日本人はまことに学問好きな研究心のつよい国民である(中略)。この計画ほど日本人がいかにあたらしいことを好む心が強いかをあらわにしたものはない。日本人のこの心は、厳しい法律と監視(幕府の)のためにおさえられているが、日本の将来に実に想像のできない世界をひらくものではなかろうか

        

こののち吉田松陰は、禁じられていた外国人との接触をとがめられ、投獄。将来の実直な性格もあいなって減刑などをもとめず、政府や老中への批判を繰り返したことから結局、打ち首となります。しかし、ペリーも認めた才気ある若者は、自分の育てた弟子たちたの手によって日本全体を巻き込んだ倒幕運動、そして明治新政府の樹立につながることとなるのです。

 

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