軍事の天才 大村益次郎 辞世の句

 

 

 

 

辞世の句

君のため 捨つる命は 惜しからで

ただ思わるる 国の行末

 

大村 益次郎(おおむら ますじろう)

生誕:文政753日(1824530日)

死没: 明治2115日(1869127日)

 

幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。 

 

長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。

 

 

軍事の天才

大村が、軍事の天才と言われる由縁は、戦略と戦術に優れていたからです。ついでに、兵制といった軍政面でも優れていました。大村は、戦いのプロである武士出身ではなく百姓医出身ですので、幼少から軍事の教育を受けることなどありませんでした。彼の軍事知識は、蘭書の翻訳作業によっています。

 

当時の外国本の翻訳というのは今とは違いとても大変な作業で、造語を作るだけでなく想像力も要求されるものでした。

大村が天才であったのは、翻訳の知識をもって実戦でも十分に通用する軍事能力を持ったことです。例えば、野球の解説書を読んだところで名監督やコーチにはなれないように、本で得た知識だけで実際の戦いを構想できるというのは特殊な能力なようです。いや、正確には、大村にはもともと軍事の才能があった上で西洋の軍事知識を得たことで、それを実際に発揮できるだけの素養を手に入れたというべきでしょう。

 

「花神」で司馬遼太郎も書いていますが、軍事的天才というのは誰に宿っているか分からないもので、画家や音楽家と同じで一定の教育を施しても身に付くものではない得がたいものです。

 

大村が実戦で作戦を立てたのは第二次長州征伐のときからですが、その後の戊辰戦争をも含めて彼の作戦は全て的中しています。だけでなく、戦闘以外の敵軍の動きまで的中させたりしています。上野戦争では、戦いの全てが事前の構想どおりに進み、敵が退却する時間まで的中させています。長岡、庄内、会津などの戦いでは、敵が降伏する時期まで的中させています。さらに大村のすごいところは、銃砲弾の使用数や前線での諸経費まで予測しほぼ的中させていることです。

 

大村は、戊辰戦争の最中から、既に10年後に起きた西南戦争を予想していました。「いずれ九州(薩摩のこと)から足利尊氏のごとき者が現れる」(つまり薩摩の西郷隆盛が政府に対する反乱を起こし、中央へ押し寄せようとする)そのため戊辰戦争が片付いた明治2年(大村が暗殺されたのは同年11月)には、九州への海運に便利な大坂に造兵廠を宇治には火薬庫を建設して薩摩の反乱に備えました。

 

 

 

幕末長州に不可欠の人物、吉田松陰、桂小五郎、大村益次郎 の不思議なつながり

 

もともと藩士ではなく、長州をはなれ江戸で蘭学医としての人生を歩んでいた大村益次郎(当時は村田蔵六)に大きな転機があらわれたのはひょんなことからでした。某が『貰い子を殺した女が死刑に処せられ、幕府は腑分けを許してもよいという。その役にだれもがあなたを薦している』というのです。蔵六はあっさりとこれをうけます。

 

安政6年(1859年)の10月29日、場所は小塚原の刑場。偶然この2日前、伝馬町の獄舎に投獄されていた吉田松陰が斬首されておりました。その遺骸をもらい受けるため、長州藩の桂小五郎と伊藤利輔(博文)はこの小塚原の刑場に来ていました。その帰りに桂小五郎はこの場所で死囚の解剖をしている村田蔵六を見かけます。あのひとはどなたです、と人にきくと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」といわれて、同郷の蘭学医を思い出すのでした。桂小五郎が、のちの倒幕軍の総司令官、わが国近代兵制の創始者となった大村益次郎こと村田蔵六を見出したのは、じつにこの時期、この小塚原の刑場だったのです。

 

司馬遼太郎氏の著書:『王城の護衛者』の「鬼謀の人」に次のようなくだりがあります。

 

村田蔵六、のちの大村益次郎。

幕末のぎりぎりのときに官軍参謀として彗星のようにあらわれたこの天才的な戦術家は、桂に知られる最初から、一種数奇なふんい気をおびている。「地下の松陰がひきあわせたのか」と桂は晩年までそう信じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

活躍を始めるまで 

1824年、長州藩の大村で生まれました。大村益次郎の大村は、出生地である大村から来ており、名を改める以前には村田権六を名乗っていました。

父もまた医者であった益二郎は若い頃に医学を学び、蘭学や算術も学び、何名かの師についており、緒方洪庵の下では塾頭となっています。この精力的な学習が、後の人生を大きく変えていきます。

1850年に、父の要請で村に帰り村医となり、結婚しました。

 

軍艦建造から幕府の学者として 

大村益次郎の最初の業績は、宇和島藩での西洋式軍艦の建造でした。開明的であった宇和島藩主伊達宗城の招聘に応じ、医者であり、蘭学者でありながら、突然軍艦を作れという指令をよくこなし、日本で最初の日本人だけで作った軍艦を完成させました。

その後は主君と共に江戸に赴き、益二郎は私塾を開いて蘭学を始め、兵学、医学を教えました。名声は幕府の知るところであり、幕府からも招聘されて講武所の教授となって、西洋の兵学書の翻訳と講義を行いました。講武所での働きは特筆すべきものであったようで、益二郎以前と以後ではレベルが違うとの評価を受けています。

この時期、桂小五郎と知り合って意気投合し、長州藩士となりました。

 

長州藩士として 

1863年からは長州藩に居を移して活動しました。このころ長州藩では攘夷論が盛んで、攘夷の意志の乏しい幕府とは険悪な関係にあり、戦争も辞さない構えをとっておりました。長州藩における益二郎の仕事は多岐にわたり、まず何よりも西洋式の軍制改革を指導しましたし、語学力を必要とされる仕事を与えられたりもしました。

第一次長州征伐で長州藩が敗北すると、一時的に藩論が穏やかになりましたが、それに不満を持った高杉晋作が奇兵隊を組織して武力によって改革、藩論を倒幕に変えました。この際、奇兵隊の軍制改革を指導したのが益二郎でした。

 

第二次長州征伐の時には、後年の益二郎にも見られる基本的思想が現れています。戦闘のための兵員を武士だけでまかなうのではなく、町民を訓練して戦わせるべきとして、新しい部隊を編成しています。

新式武装も積極的に購入して迎えた第二次長州征伐では、武装の質で優位に立ち、優れた戦術でも圧倒するという具合で、大勝の下で停戦となりました。幕府が兵を引いた名目は将軍の死去でしたが、長州藩の勝利は誰の目にも明らかなことでした。

 

倒幕から明治まで

 

倒幕の流れは決定的になり、江戸が開城されました。しかし、江戸内部では彰義隊が勢力を保持して抵抗を続けています。その鎮圧を任されたのが益二郎でした。軍費を調達し、江戸の警察権を手中に収めて全権を預かり、十分な準備の下に開始された討伐戦はたった一日で終結しました。

彰義隊の勢力は小さくなく、海江田信義などは武力による早急な殲滅を否定しました。これを益二郎は一蹴し、「君は戦を知らぬ」とまで言ったそうです。もともと両者は仲が悪かったようですが、この件では特に腹を立てたといい、このことが後の暗殺に繋がったのではないかともいわれています。

 

暗殺 

明治政府でも軍政について深く関与しましたが、大久保利通とは対立していました。益二郎の描く新しい国の軍政は、利通や西郷隆盛らとはずいぶん違った姿をしていたのです。結局のところ、武士という階級を廃止していく益二郎の路線は踏襲されましたが、そのために隆盛が西南戦争を起こすこととなります。

益二郎は官職を辞することにしましたが、桂小五郎の説得で兵部省の指揮を引き受けました。あるとき、軍事施設の視察のために京へ向かうことになりました。小五郎らによれば、京では信義らの扇動する暴徒が益二郎を狙っているということで、視察は引き留められたようですが、それを押して出発してしまいました。

 

旅館で会食中に八名の刺客に襲われ重傷を負い、手当てが遅れて命を落としました。享年四十六。従三位の位を贈られました。

 

辞世の句です。 

君のため 捨つる命は 惜しからで ただ思わるる 国の行末 

 

 

 

 

 

 

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