大久保利通 「経世遺言」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大久保 利通(おおくぼ としみち)

生誕:文政13年8月10日(1830年9月26日)

死没:明治11年(1878年)5月14日

 

日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった

 

島根県士族・浅井寿篤により紀尾井坂にて暗殺された。享年49。

 

 

金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたが、大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めなかったという。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。

 

寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかったと言う。桐野利秋も大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれ、すぐに引き下がったといわれる。

 

大久保の部下だった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省で後任の内務卿である伊藤博文の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの宴会の話をしたり、用もないのに中井弘が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている 

 

盟友 西郷隆盛との別れ

西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と言ったようだ)。

西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んでいたりしていた。また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている

 

 

 

最期の言葉と遺言

 

無礼者! 

 (暗殺された時に叫んだ言葉)

 

済世遺言 

維新の盛意を貫徹せんには三十年を期するの素志なり

明治元年から十年までは「兵事多くして則ち創業時間」たる第一期、

明治十一年から二十年までは「尤(もっと)も肝要なる時間にして内治を整い民産を殖する」第二期、

明治二十一年から三十年を「後進賢者の継承を修飾するを待つ」第三期。 

 

※生前の大久保が最後に会っていたのが大久保邸を訪れていた福島県令・山吉盛典。この時の会談内容が遺言として伝わっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盟友 西郷隆盛との友情と別れ 

 

西郷隆盛と大久保利通は、同じ町内に住み、ともに同じ郷中に通うなど、仲が良かったことが知られてます。 子どもの頃に西郷の家でよく大久保は西郷家の人々と食事を供にしていたそうです。

 

西郷は幕末に2度、島流しになっています。1回目は安政の大獄から西郷を守るためでしたが、2度目は薩摩藩主の父で藩の実権者だった島津久光の怒りをかってしまい刑を受けました。 西郷は英明君主といわれた久光の兄である島津斉彬に発掘され薫陶を受け重用されましたが久光には嫌われました。 大久保は西郷の1回目の島流し後に久光が囲碁好きを知って囲碁を習い久光に近づき久光にその才を買われ重用されていました。 大久保は西郷の島からの召還を久光に嘆願します。特に2回目の島流しの召還のときは久光のくわえていたキセルに歯の跡がつくほどに久光は西郷を嫌っていましたが大久保の必死な嘆願によって西郷は召還され、その後に倒幕運動で大活躍します。 西郷は表舞台で大久保は裏舞台でとお互いの役割を分けて二人三脚で薩摩藩を指導し維新の原動力となり明治維新を達成しました。

 

維新後の2人

維新後も2人は「版籍奉還」「廃藩置県」という政治改革を断行し成功させます。 西郷と大久保に距離が出来始めるのは、「征韓論騒動」からです。

 

征韓論とは明治初期の対朝鮮強硬論です。 明治初年に維新政府は当時鎖国をしていた朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉をしました。しかし、朝鮮は維新政府の国書受け取りを拒絶しました。 大久保らが外遊中も西郷を中心とした留守内閣は粘り強く朝鮮と交渉しようとしますが朝鮮は頑なに拒絶したので日本国内で「武力をもって朝鮮を開国させる」という征韓論が起こり、特にエネルギーをもてあましていた薩摩士族を中心に日本国内が紛糾します。

 

西郷は征韓論の中心で朝鮮の武力討伐を主張したように思われがちですが、西郷は朝鮮との戦争を望んだのではなく「自分が朝鮮にいって話し合って事を治める」として遺韓大使として朝鮮に渡ることを望んでいました。 西郷は自らが命を捨てる覚悟で遺韓大使として朝鮮に渡り、頑迷な朝鮮に対し日本の士族が朝鮮に攻め込むことをチラつかせつつ、開国して日本と手を結ぶことを説得して事を治めながら「清国(中国)・朝鮮・日本の三国が手を結んで西洋列強の脅威に対抗する」という西郷の師である島津斉彬の構想を実現し日本にとって仮想的であるロシアの南下政策を阻止しようとしたと思われます。

 

外遊から帰国した大久保ら外遊組は西洋列強の諸外国を見てその脅威を肌で感じています。その当時の日本は貧しい農業国家で産業が育っていません。また、江戸時代まで政治も国防も武士が行いその他の階級の人々は参加していなかったのに明治になって急に国民として政治に参加し国を守れと言っても無理な話です。 西郷が朝鮮に渡って殺されてしまったら戦争になります。当時の日本には朝鮮や戦争に介入してくるであろう西洋列強との戦争を行う国力はありません。 大久保らは「朝鮮と戦争をするよりも国民の教育を充実させて国民を育て、国民皆兵の近代的な軍隊を建設し産業を興すことを優先させるべき」と主張して西郷の遺韓大使に反対しました。そして西郷と大久保の全面対決となります。

 

西南戦争へ・・・

一度は決まっていた西郷の遺韓大使決定も、大久保はこれをくつがえします。 西郷はこれにより鹿児島に下野することとなります。そして、西郷は維新最大の功臣でありながら維新後に不要な存在となった薩摩士族とともに西南戦争で散っていきました。

 

大久保も西郷と相打ちのように西南戦争の翌年に不平士族によって暗殺されました。 西郷と大久保は盟友であり「征韓論」で対決して分かれましたが、考え方の違いであり最後まで互いを認め合っていました。 征韓論で敗れ鹿児島に下野しようとして西郷が大久保に会いにいったときに大久保は政府を去ろうとする西郷を「また悪い癖がでた」として怒ったといいます。

 

鹿児島に帰郷後、政府について問われた時に西郷は大久保の手腕を高く評価しており「一蔵どん(大久保)が居れば大丈夫!」と言ったそうです。 西南戦争後、日本国内の内乱は無くなり真の統一国家となりました。

 

大久保は晩年に「明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ。」といったと言われています。

 

西郷・大久保を失った日本は伊藤博文・山縣有朋らに委ねられ日露戦争後に大正・昭和初期の狂った軍隊・暗い歴史に向いました。 第二期を大久保が担当していればその後の「日本のかたち」は違ったものとなったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スーパーリアリスト 大久保利通の実績

 

大久保利通は、幕末の薩摩藩を西郷隆盛と共にリードし、264年続いた幕藩体制を打ち破りました。人望が篤く、武に凄れた西郷に対し、大久保は、文の人であり冷の人でした。倒幕後の明治新政府にあって、志士といわれた人材も、結局は我田引水とばかりに、藩の利益、個人の利益の奪い合いに陥ります。そんな中、リアリストであった大久保は私心をすて、ひとり国家的な視点にたって、幼い明治政府を導いていくのでした。

 

 

 (参照:コンパスポイント)

http://www.compass-point.jp/blog/3125/

  

 家康の功績はわかりやすいが、大久保の功績も大きい。もし、明治初頭、大久保なかりせば日本はかなりの確率で列強の軍門に降っていただろう。

  

 明治維新までを「破壊」とすれば、それ以降は「創造」だ。創造と破壊を比べれば、物語としては破壊の方が圧倒的に面白い。事実、いまだに幕末のエピソードは多くの日本人の心を打つ。私も好きだ。

 しかし、考えてみてほしい。江戸幕府の制度を瓦解させた後、新しく国の形をつくりあげなければいけないのである。しかも、目の前に牙をむいた列強がいる。さらに言えば、武士階級の働きによって明治維新という革命をなし遂げたにもかかわらず、明治4年、廃藩置県によって200万人以上の武士を失業させたのだ。つまり、武器をもった人たちの不満が日本列島に渦巻いている時期だった。

 そういう時代、岩倉使節団として大久保や伊藤博文が長期間にわたって欧米を視察するという目的で渡航したのは、ひとえに留守組である西郷らへの信頼があってのことだろう。

 しかし、ヨーロッパにいる一団に入ってきた情報は、日本国内で征韓論が渦巻いているということだった。失業した武士階級の突き上げによって生まれた朝鮮征伐論である。大久保たちは西洋の軍事力や工業力を目の当たりにしている。朝鮮半島に出兵するのは愚の骨頂だと急ぎ帰国する。

 その後が有名な征韓論争だ。論争に敗れた西郷や板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎らは新政権から離脱し、それぞれの郷里に下野する。この時が日本の最大の危機だったと私は思っている。そして、ここで強力な指導力を発揮するのが大久保だ。

 歴史の見方において、私がもっとも信頼をおく渡部昇一氏の言葉を借りる。

 ──本当の実力と地位が一致しているという状態は、日本史においてはその期間は長くはないのだが、その最たる例が明治初期の大久保利通だ。大久保は維新から死ぬまで権力の中枢にいた。「実力」と「地位」が一致していたという点で、大久保は維新政府の騎馬型人物であり、西郷は農耕型人物といえる。

大久保利通 また、こうも書いている。

 ──事をなす志を立てる人がいたら、政治家としては大久保に学ぶべきではないか。

 近代史に詳しい半藤一利は反薩長の色が濃い人だが、こう書いている。

 ──明治維新後の危機を乗り切ったのは、ひとつには大久保のたぐいまれな政治センスが大きかった。

 司馬遼太郎は心情的に西郷に与するものの、次のように書いている。

 ──大久保は日本国の政綱をまとめるにあたって、無数のように見える可能性のなかからほんのわずかな可能性のみを摘出し、それに向かって組織と財力を集中する政治家であったが、同時に不可能な事柄については、たとえそれが魅力的な課題であり、大衆がそれを欲していても、冷酷ともいえるほどの態度と不退転の意志をもってそれを拒否した。このようなことは当事者の精神の根底にいつでも死ねる覚悟がなければならず、大久保にはそれが常住存在した。

 石原慎太郎氏はこう書いている。

 

 ──西郷という人生かけての親友への友情よりも、大久保にとっては自ら預かることになってしまった日本という新生国家への忠誠心の方がはるかに大切だったのは自明で、もしも大久保が西郷との友情にかまけて政府を操り運営する仕事を投げ出してしまっていたら、今日の日本はあり得なかったにちがいない。

 堺屋太一氏も大久保の功績を大きく評価し、代表的な日本人の一人だとあげている。

 征韓論争後も大久保は清国との交渉など、日本人ばなれした圧倒的な外交術で成果を収めていく。

 

 おおまかにいえば、大久保は新生国家の運営を預かり、西郷は不満武士たちのガス抜きを一心に負ったともいえるだろう。その流れにピリオドが打たれたのが西南戦争だった。

 日本人は圧倒的なリーダーシップを発揮する人より、情に厚い人を好む。そのためか、大久保はつねに批判や妬みの対象になった。大久保を恨んでいる人がどこかの豪邸を写し、「大久保はこんな贅沢をしている」と鹿児島の西郷らに送ったが、実際、暗殺後にわかったことは、大久保に財産はほとんどなかったという事実だ。身も心も新生日本に捧げ、暗殺されるのを知って、なおかつ平然としていた。

 大久保利通。すごい人物がいたものだ。彼も時代の要請によってこの世に生まれた一人なのだろう。

 

 

 

 

 

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