大伴氏 家訓「海ゆかば」

 

 

 

 

 

 

 

 「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」

 

 

 

大伴家持

 

大伴氏(おおともうじ)は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏(ともうじ)に改称。姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。

 

天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。

 

「大伴」は「大きな伴造」という意味で、名称は朝廷に直属する多数の伴部を率いていたことに因む。また、祖先伝承によると来目部や靫負部等の軍事的部民を率いていたことが想定されることから、物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。なお、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた 

 

「海ゆかば」

万葉歌人大伴家持が越中国守時代に作った長歌の一節であり、大伴氏の言立て(誓い)であることはあまり知られていない。大伴氏の家訓と言われています。

 

『海行かば』(うみゆかば)とは、日本の軍歌ないし国民歌の一である。詞は、『万葉集』大伴家持作の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。 

 

「海ゆかば」は昭和十二年軍靴の響き高まる中、国民精神総動員運動に呼応し、国民歌謡として作曲され、戦時体制への精神教化の歌・軍歌ともなりました。原詞は大伴家持の万葉集にあり、信時潔が作曲した荘重な調べの傑作で、太平洋戦争末期には大本営発表等での準国歌また玉砕報道の鎮魂歌(レクイエム)として放送されました。

 

天平21年(749年)陸奥国小田郡(涌谷町)から日本始出の黄金が、東大寺大仏鍍金のため、聖武天皇に献上されたことは史上に特筆される出来事で、天皇は黄金産出の報告に驚き喜び、産金を告げる宣命を出しました。越中国守として任国高岡にいた家持は、その宣命に大伴氏言立(家訓)が引用され、天皇が大伴氏の忠誠功績を讃えたことに感激し「陸奥国より金を出せる詔書」を賀ぐ長歌と反歌を詠みました。

 

反歌「須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈流 美知乃久夜麻尓 金花佐久(すめろきの みよさかえんと あづまなる みちのくやまに くがねはなさく)」はよく知られています。

 

長歌は五百三十二文字の長文で、その一節に「…海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃敞尓許曽死米 可敞里見波勢自等許等大弖(うみゆかば くさむすかばね おおきみのへにこそしなめ かへりみはせじとことだて)…」(万葉集巻十八―四〇九四)と詠み天皇への忠誠を誓いました。

 

大伴氏は新興藤原氏の勢力に押されて凋落の一途の時で、家持は氏の長として一族の団結と奮起を促す気持を込めてこの歌を詠んだとされ、この一節が昭和前期、軍歌として放送され広く一般に歌われたのです。古代涌谷の産金を祝って万葉集編者大伴家持の詠んだ古歌が、昭和期に一世を風靡した国民歌謡「海ゆかば」の本歌であるという歴史を、郷土の文化財産として記憶に留め、語り継いで行きたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「海ゆかば」誕生秘話

 

 (参照:中日新聞デジタル)

http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201707/CK2017071502000223.html

 

 海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ

 

  戦時中、陸海軍部隊の玉砕の際などに、鎮魂歌としてラジオで放送され、人々の涙を誘った「海ゆかば」。今や、そのラジオ放送を聴いた人もほとんどが鬼籍に入り、歌える人も少ない。 戦時中、この歌は「君が代」に次ぐ第二国歌、準国歌なみの扱いを受け、国民に親しまれた。戦後、「天皇の側でこそ死のう。わが身を振り向くまい」という意味が災いして、軍国主義を助長したとして長く封印されてきた。

 

 この歌詞が、万葉歌人大伴家持が越中国守時代に作った長歌の一節であり、大伴氏の言立て(誓い)であることはあまり知られていない。大伴氏の家訓と言えるだろう。

 

 「海ゆかば」とは?

 長歌は「陸奥の国より金を出せる詔書を賀く歌」(天平感宝元年五月十二日)。大仏造営に必要な金が産出されたことに喜んだ聖武天皇が、詔書の中で大伴氏の家訓を取り上げ、氏の先祖代々の功績をたたえたことに家持が感激し詠んだ。

  

 長歌の中で家持も遠い祖先に思いをはせ、家訓を取り上げ歌う。「大伴氏は勇敢な男の清らかな名を今に伝える一族だ。家訓を守り天皇に仕えるのが役目だ。手に弓を、腰に剣を帯びて朝夕に天皇をお守りするのは大伴氏をおいて他にいない」

   

 飛鳥時代以前、古代豪族は家柄に応じて職務を分担し、天皇家を支えてきた。蘇我氏は財政、物部氏は司法・警察、阿倍氏は外交、中臣氏は祭祀(さいし)などである。大伴氏は天皇家直属の重臣として“近衛兵”を率いて天皇家を守った。武門の家だった。

  

 「大君の辺にこそ死なめ」「みかどの守り、われをおきて人はあらじ」。大伴氏の遠い先祖から受け継いだ、この“血の信念”を家持は終生持ち続ける。 

 

 越中国守の任を終え、奈良の都に帰った家持を待ち受けていたのは、家持はじめ大伴氏の庇護(ひご)者だった左大臣橘諸兄と光明皇太后のおい藤原仲麻呂との激しい権力闘争だった。仲麻呂の圧迫を受けた諸兄は引退し、まもなく死去。その子奈良麻呂が仲麻呂打倒を叫びクーデターを企図する。

 

 しかし計画は事前に露見。奈良麻呂はじめ、家持越中時代以来の歌友大伴池主、唐僧鑑真を日本に連れ帰った気骨の武人大伴古麻呂らは拷問の末、獄死する。

  

 この前年、不穏な空気を察知した家持は「族を喩す歌」を作り、一族の軽挙妄動を戒めている。「大伴氏は代々の天皇に誠心誠意仕えてきた。浅はかな考えで祖先の名を絶やしてはいけない」

 

 家持が国守として執務した越中国庁は、富山県高岡市伏木古国府の勝興寺のある場所にあったとされる。平成の大修理が続くその境内に「海ゆかば」の歌碑が立っている。家持が歌を詠んだ国守館は、寺から程近い高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)にあったと伝えられている。

  

 

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