尾張徳川家・徳川宗春 家訓

 

 

 

 

 

 

 

徳川 宗春(とくがわ むねはる)

生誕:元禄9年10月28日(1696年11月22日)

死没:明和元年10月8日(1764年11月1日

 

江戸時代中期の大名。尾張徳川家第7代当主・第7代尾張藩主。

 

尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗のライバル。幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけといわれた名君。

 

 

当時の幕府は享保の改革を推進する将軍徳川吉宗のもと、老中松平乗邑の主導で質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた。それと全く逆を行く宗春は、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく。

 

この頃の将軍家は、宗家の血脈が絶え、尾張・紀州・水戸の御三家から将軍を迎えることとなります。まず、家康の遺言で将軍輩出を禁じられていた水戸家が辞退。争うこととなったのは、尾張と紀州となったのです。しかし老中たちは、紀州の吉宗を選出。失意のなか、宗春の兄は逝去することとなりました。積極的な消費政策の裏には、兄が吉宗と争って、将軍の座が得られなかったという遺恨が残っていたのではないでしょうか?

 

緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和の尾張藩となっていった。一方、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。

 

しかし絶対の権力者である将軍家にたてついた代償は大きく、晩年は母の葬儀の出席も許されぬ謹慎処分をうけ、また肖像画や、資料等も徹底的に処分された。ドラマ等で取り上げられる「暴れん坊将軍」こと徳川吉宗が、実は、ネチネチの性格であったことが分かる一方、痛快なまでの破天荒さが魅力の宗春。実は、本当の暴れん坊は、宗春だったのかもしれません

 

 

徳川宗春家訓 『温知政要』(21箇条)

二十一箇条からなる

序文第一条 : 大きな愛と広い寛容の心で仁徳ある政を

 

第二条 : 愛に敵なし 権現様のように仁者であれ

第三条 : 冤罪は国の恥 罪科はとことん調べつくせ

第四条:継続は力なり 私欲に走らず、志を最後まで

第五条:学問の第一は愛情 小賢しい学問より自分自身に正しくあれ

第六条:適材適所 どんなものにもそれぞれの能力がある

第七条:好きこそものの上手なれ 他の者の心情を察するように

第八条:規制は必要最小限で良い 法令は少ないほど守ることができる

第九条:お金は活かして使え 過度な倹約省略はかえって無益になる

第十条:生かすも殺すも庶民の知恵 押し付けではなくまずは仲良く

第十一条:ストレスなしが養生一番 怠けなければ心身ともに健康である

第十二条:芸能は庶民の栄養 見世物や茶店などを許可する

第十三条:先達はあらまほしきこと どんなことでも事情通であれ

第十四条:芸道は偉大 あらゆる芸事を数年で身につくとは思わぬように

第十五条:若者への諫言には若気の至りをもって 異なる意見は相手の年齢を考えて

第十六条:失敗は発明の母 大器量の者でも若い頃は羽目を外すことはある

第十七条:人の命は金では買えんぜ 生命は尊く、常日頃の用心が肝要

第十八条:何事も庶民目線で 世間の事情によく通じ深い愛情を示せ

第十九条:天下の政治は緩急自在で 国の改革はゆっくりと普段の用件は速やかに

第廿条:  改革は文殊の知恵で 自分ひとりではなく良き補佐が大切

第廿一条:「まぁええがゃぁ」が臣下に対する主君の心得。古参新参・男女等を問わず平等に深く愛情を示せ

 

 

享保17年(1732年)正月、自身の著書『温知政要』(21箇条)を藩士に配布した。

その中で「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた。これらの政策には、質素倹約を基本方針とする幕府の享保の改革による緊縮政策が経済停滞を生み、蝗害による不作も重なり、各地で暴動が頻発していたことへの反発があると言われている。なお、幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである

 

この結果、継友時代の倹約令で停滞していた名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。また宗春の治世の間、尾張藩では一人の死刑も行われなかった。宗春は、犯罪者を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町造りを目指し、藩士による表立った巡回をさせている。また犯罪者が増えると、死刑ではなく別の処分(髪や眉毛などを剃る等)も行われた。さらに、心中しようとした者を、野ざらしの刑にはしたが、結果的には夫婦として普通に生活することを許可した(闇森心中事件:当時の幕府の令では「心中未遂の場合は非人あるいは死罪」)。岐阜への巡視では奴振りをさせ、知多への巡視では徒歩で移動するなど、当時としては斬新な行動をいくつも行なっている。こうしたことで、当時としては珍しく、生存中の大名が浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吉宗VS宗春のライバル対決

 

(参照:BS-TBS ライバルたちの光亡)

http://www.bs-tbs.co.jp/rival/bknm/23.html

 

 

 徳川幕府の危機 

徳川幕府誕生から110年。度重なる大火事や飢饉により幕府は財政破綻に。その影響は庶民にまで及んでいた。この惨状を救うべく二人が立ち上がる。一人は徳川御三家、紀州藩に生まれ、後に8代将軍になった徳川吉宗。そしてもう一人は御三家筆頭の尾張藩主となった徳川宗春。二人が掲げた政策は正反対であった。吉宗が打ち出したのは、国を挙げての節約生活。極端な倹約令を全国民にしき、経済を根幹から建て直そうとした。しかし宗春は、吉宗の緊縮政策を真っ向から否定。豪華絢爛、ド派手な衣装に身を包んだ宗春。吉宗に対抗し打ち出したその驚きの政策とは!? ある時、吉宗のもとに届いた一冊の本、「温知政要」。書いたのは宿命のライバル宗春。そこに記されていたのは反享保の改革ともいえる言葉の数々であった。宗春の思想を危険視した吉宗は、宗春を尾張藩主の座から引きずり降ろす為クーデターを起こす。将軍吉宗が放った策、果たしてその結果は? 中興の祖の名君、徳川吉宗。徳川幕府きってのトリックスター、徳川宗春生死存亡を賭けた戦いが今始まる。

 

因縁の二人 

貞享元年(1684)、吉宗は紀州藩主徳川の四男として誕生。紀州徳川家は、いわゆる“徳川御三家”の一つ。御三家には将軍家の後継ぎが途絶えた時、御三家のいずれかから将軍をたてるという役割があった。御三家とはいえ吉宗は四男。出世の道は既に閉ざされていた。ところが、宝永2年(1705)、父、長男、三男が次々と急死。吉宗は思いも寄らない形で紀州藩主の座についた。さらに大きな運命が吉宗を待ち受けていた。正徳6年3月。7代将軍の徳川家継が病にかかり危篤状態に陥る。家継はまだ8歳。当然子はなく、徳川宗家の血が途絶えてしまう一大事。次期将軍候補は、御三家の尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、そして、紀州の吉宗。御三家筆頭、尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。時の老中、間部詮房が将軍に指名したのは紀州の吉宗。正徳6年、6月26日。吉宗は江戸幕府8代将軍に就任した。一方、当然将軍家になると考えていた御三家筆頭尾張藩は、後継者争いに負け落胆。数年後、その尾張から吉宗にとって不倶戴天の敵、継友の弟、徳川宗春が現れる。宗春は、元禄9年、尾張藩三代藩主の子として誕生。父には多くの側室があり、子供の数は39名。宗春は20番目の男子。当然、跡取りの望める様な状況ではなく、宗春は江戸の町に毎夜くり出し、芝居見物や遊郭で遊ぶ気ままな日々を過ごしていた。宗春が35歳になった享保15年、大勢いた兄が次々と死に、存命の兄も他家を継ぐ事となっていた為、宗春が藩主の座を継ぐ事に。宗春は吉宗に藩主となった報告をする為江戸城に出向く。質素な服を着た将軍の目の前に、豪華な衣服を身にまとう宗春が現れた。片や4男、片や20男。出会うはずのない二人が、同じような道を辿り、将軍と御三家筆頭藩主として歴史の表舞台であいまみえる。 .

 

 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」

 

温知政要

家臣への給米も払えぬ程、財政状況が追いつめられる中、吉宗が最も力を入れたのが、徹底した倹約だった。自らも率先し倹約に努めた。安い木綿の服を着て、色も地味。食事は1日2食、おかずは三品まで、それ以上は「腹の奢りである」と自らを戒めた。ある時、質素倹約を進める将軍吉宗は奇妙な噂を耳にする。「江戸にある尾張藩邸が近頃やけに賑やかで、深夜を過ぎても人の出入りがある」との事だった。この頃宗春は、日常生活に関する物の売り買いまでも制限する吉宗の政策を問題視していた。そして宗春は真っ向から吉宗に勝負を挑みはじめる。藩主となった宗春は、まず尾張藩邸の夜遊び帰りの門限を撤廃し、規制を大幅に緩める。同年、尾張に戻った宗春は、芝居の興行を奨励。さらに、遊郭の営業も認める。ある日、宗春は質素になっていた盆踊りを盛大に行うよう藩庁に指示を出す。町民は浮き足だち、町は俄然にぎやかになった。が、その最中、宗春の2歳になる娘が、亡くなるとの報が入る。当然、藩庁は祭りの中止を告げ、領民たちはあきらめてこの触れに従った。ところが、「上に立つ人間の都合で、民の楽しみを奪ってはならぬ」と宗春は言い、盆踊りの再開を命じたのだ。人々は心をうたれ、宗春を支持する者が増えた。自らの政治理念を記した本「温知政要」を、堂々と吉宗に献上したというのだ。それはまさに時の将軍吉宗に対する挑戦状であり、もし宗春が敗北することがあれば、尾張藩自体の存亡も危ぶまれる。この時、吉宗は、自分にとっての宿命のライバルが現れた事を悟った。 .

 

対決 

二人の対決がついに始まる。宗春は端午の節句の日、江戸の尾張藩邸におびただしい数の鯉の幟を飾り町人に見物させた。贅沢を禁じる吉宗への挑発。怒った吉宗は宗春のもとへ使者を差し向ける。使者は倹約令を守らない宗春の態度を咎め詰問。意外にも宗春は素直に頭をさげた。抵抗を恐れていた使者はこの態度に胸を撫で下ろす。すると宗春は使者に「ここからは世間話ですが」と断り一気にまくしたてた。「上にたつ主が倹約、倹約とおっしゃっても、貯まるのは幕府の金庫の中身のみ。民を苦しませる倹約は本当の倹約でしょうか。私は金を使いますが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるから使っているのです。口だけの倹約とは決して異なるものです」使者を真っ向から説き伏せてしまった。確かに吉宗が目指していたのは、緊縮財政政策による幕府の再建で、民の暮らし向きは二次的なもの。宗春の人気は急速に広がり、やがて「近々、尾張公が公儀をあいてに、一戦挑むそうな」といった不穏な噂までもがでる始末。この噂は、尾張藩士たちに強い危機感を与えた。吉宗は尾張藩の内部分裂を見逃さなかった。ある日吉宗は密かに尾張藩の重臣を江戸城に呼び寄せる。吉宗は、重臣を通じ尾張藩の有力な家臣たちに次々と接触。秘密裏にある計画を進めていた。そして、宗春が参勤交代で江戸へ出向いていた時の事。重臣たちが、「宗春さまが藩主になってから決めた事はとりやめ、すべて以前に戻す。これからは藩主の言う事ではなく、我らのいうことに従うべし」と、尾張国内で勝手にお布令を出した。反宗春派によるクーデターであった。さらにとどめとなる命令が幕府から下される。「藩主宗春、行跡常々よろしからざる故もって隠居謹慎せよ!」尾張で起こったクーデターの責任を宗春にとらせるという形。宗春の失脚が決まった。側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。「おわり(尾張) 初もの」。自らの藩主人生の「終わり」を、「御三家筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせた。 .

 

ゆめのあと 

8代将軍徳川吉宗は、その生涯を通し、不安定な幕府の財政を立て直そうと戦い続けた。吉宗が進めた改革は、一応の成功を治め、吉宗亡き後も幕府が財政破綻に陥るたび、政治家たちは享保の改革を手本とした。その吉宗が最も恐れた男・徳川宗春は謹慎を命じられると尾張に戻り、名古屋城内に幽閉された。基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列することは許されなかったという。明和元年(1764)、歴史の表舞台に戻ることなくこの世を去る。今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか、宗春在命中の正式な記録は闇に葬り去られている。そんな中、宗春の治世を懐かしみ、密かに記された一冊の本がある。「遊女乃阿戸(ゆめのあと)」こんな一説が記されている。「老若男女、貴賤ともにかかる面白き世にうまれ逢う事、ただ前世の利益ならん」必ずしも、宗春の意図したようには事は進行しなかった。260年の江戸時代のどこを見ても民衆にここまで言わしめた藩主は、如何の地にも出てはいない。

  

 

 

 

 

 

 

 

トリックスター宗春の政策は、ケインズの経済理論!?

 

(参照:英孝塾)

 

http://eikojuku.seesaa.net/article/298436205.html

 

 

ケインズの経済学

質素倹約を推奨した吉宗に対し、宗春は、積極的に自分がゼイタクをし、金を使いました。さらに、藩政の中でも楽しみを主体にした施策を次々とおこなっています。それまで禁止されていた、町でのお祭や行事も復活させました。そこへどんどん江戸から芝居小屋や遊郭あるいは歓楽施設がなだこみます。

 

一見、吉宗の政策が正しいように思えるものの、お金の総量を規制してしまうことは、金魚鉢の水がグルグルまわるだけで、結局、だれも豊かになれません。一方、大盤振る舞いをつづける宗春の政策は、無駄遣いのようにみえて、新しい投資を招いているのがポイントです。長い目でみれば、同じ金魚鉢のなかでやりくりする経済よりも、お金の総量を増やす宗春の政策が国全体を豊かにすることが分かってきました

 

名古屋の繁栄ぶりは「京(興)も冷める」と言われたほど。つまり、京の都でさえ青ざめるほどだったのである。いったい、宗春は何をしたのか?藩のお金を惜しみもなく使って、町の景気をジャカジャカ盛り上げた効果でした。祭りは派手にやるわ、遊郭は増やすわ、芝居を年に100回もやらせるわ…、名古屋の町では毎日のように花火が打ち上げられていたという。今で言えば、極端な緩和政策。ケインズに先駆けること200年前。世界恐慌を抜け出す秘策となった公共投資の拡大に成功したのでした。

 

消えない100両

口うるさい家老は、野放図に藩の金を使う宗春に意見したそうです。なにせ、時は享保の改革が行われている真っ最中、日本全国が質素倹約の時代だったなか、宗春だけが大盤振る舞い。「幕府から倹約令が出ているというの差し障りがありますまいか?」すると宗春、逆に家老に問い正す。

 

「倹約せずに使った金はどうなる? たとえば、贅沢三昧して一夜に100両を使ったら、その100両は消えてなくなるのか?」当然と言わんばかりの家老、「もちろん、無くなりまする」。ここぞとばかりに宗春、「金が消えてなくなるものか! その100両は遊女屋なり料理屋なりの懐に入る。その金で遊女が箸を買うのなら、その金は小間物屋に回る。その小間物屋は子供に小遣いをやるかもしらん。そうすれば、子供はアメ玉でも買うだろう。アメ玉屋はアメをつくるために米を買う」。つまり、お金は「消えてなくならない」というのである。

 

天下を巡り巡って、その途上途上で多くの人々の懐を潤していくと言っているのである。「風が吹けばオケ屋が儲かる」、「どこかでチョウが羽ばたけば、どこかで竜巻が起こる(バタフライ効果)」。この世の中、どこがどう繋がっているかは見えぬものの、必ずどこかで繋がり合っていることだけは確かである。たとえ、100両をドブに捨てたとしても、それが再び天下の流れに乗ることもあるだろう。要するに、宗春は流通経済論をまくし立てたのであった。そして、ヘリコプターから大金をバラまくために、惜しみなく藩の金庫からカネを引っ張りだしたのであった。当然、名古屋の庶民は大喜び。「かかる面白き世」にしてくれた宗春を「仏菩薩の再来」と崇め奉り、ただただ「ありがたし、ありがたし」。宗春の撒いた甘い水に、周辺の人々が面白がって集まってきたというわけだ

 

こうした経済政策を「ケインズ理論」といいます。21世紀の経済は、このケインズ理論をベースに運営されています。

宗春は知ってか知らずか?ケインズの誕生する100年も前に、グローバルな経済政策を選択していたのでした

 

 

名古屋市の繁栄の基は、尾張宗春

宗春の統治時代、名古屋は激変しています。周辺諸国が飢饉に苦しむ中、名古屋は飢えた領民を出していません。人口は減るどころか激増。宗春以前の名古屋の人口はおよそ5万人。それが宗春の時代には、40%、実に2万人も増えています。

 

将軍・吉宗の倹約令は民衆の暮らしを良くするためというよりは、幕府の貧乏を打開するための策でした。幕府は租税率を四公六民(40%)から五公五民(50%)にまで引き上げています。一方、名古屋は藩の蔵を開けて、「民とともに世を楽しんでいる」。税率も「四ツならし」という定めにより、四公六民を守っている。さらには藩札と呼ばれる藩の借金札を尾張藩では一切発行していなかった。ところが、将軍・吉宗の実家・紀州藩では藩札を濫発したために、経済が大打撃を被っていた。何よりかにより、将軍・吉宗の仕切る日本全国が大不況に陥っています。享保17(1732)年に西国で発生した大飢饉では、200万人が被災、うち1万2,000人が餓死するという大惨事に至っており、江戸では大規模な打ち壊しが巻き起こっていた。 

 

名君と名高い吉宗の政策は、実はそれほど機能していなかったことが分かります。一方、宗春の治めた尾張(名古屋)は空前の活況に恵まれます。

 

現在、名古屋市は、世界一の自動車メーカーとなったトヨタ自動車のおひざもとして、発展を続けています。東京ではない、大阪とも違う、日本の三大都市圏である名古屋は、バブルの傷も浅く、いまでは大阪を、ある面では東京をしのぐ大都市となりました。

 

東京の霞が関にいる官僚さんが全て正しいわけではない。ときには反発し、お上に逆らう反骨心をもった地方や企業があることが、健全な経済の成長をうながします。早すぎたケインズ理論の実践者・徳川宗春の偉業は、これからもっと評価されていくのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

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