徳川四天王 本多忠勝 辞世の句

 

 

 

 

 

 

  

本多忠勝 辞世の句

死にともな鳴呼死にともな死にともな深きご恩の君を思えば

 

 

 

本多忠勝 

生誕:天文17年2月8日(1548年3月17日)

死没:慶長15年10月18日(1610年12月3日) 

 

 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。

 

本多忠勝とは?

戦国武将でも人気の武将である本多忠勝です。徳川家康に仕え徳川四天王の一人でした、その活躍は物凄いもので若干14歳で敵の陣に討ち入り手柄をたてました。関白となった秀吉に、「秀吉と家康のどちらをとるか」とのいじわるな質問をされた際には、「君の恩は海より深いといえど、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」といい、天下人の権威にもひるまぬ程の徳川家への忠誠心をみせつけました

  

関ヶ原の戦いの本多忠勝

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍。。前哨戦ともいえる竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦し、また吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。本戦でも奮戦し、僅かな手勢で90にも及ぶ首級をあげた。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされている。

 

忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭し、忠勝自身も慶長9年(1604年)頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっている。

 

慶長9年に先述のように病にかかり隠居を申し出るも、この際は家康に慰留されている。その後、慶長12年には眼病を煩い、慶長14年(1609年)6月、嫡男・忠政に家督を譲って隠居。慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した。享年63。

 

忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している

 

関ヶ原の戦い終了後、福島正則は忠勝の武勇を褒め称えた。忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。 

 

遺書の一節「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と、辞世の歌「死にともな嗚呼死にともな死にともな深きご恩の君を思えば」は、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っている

 

本多中書家訓(遺書)

侍は、首を取らずとも不手柄とは言わない。事の難にあたって、退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ忠節を守るものをさして、さむらいと申すものなり。 義理、恥を知らぬ輩は、物の吟味をしないゆえに、幾度もの首尾があっても、一つも床しいとは思えない。 禄を持って招く時は、譜代の主君を捨てて二君に使える輩が出てくるものだ。

... そもそも、心というものは物に触れて移ろいやすいものなのだから、仮初にも、侍道の外を見ず聞かず、 朝夕身を修練し、武芸を心がけ学問するとも、忠義大功を聞き、兜の緒を締め、槍長刀太刀を提げ、 天下の難儀を救わんと志す。それこそが、侍の役割なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家康には過ぎたるもの二つあり、唐のかしらに本多平八

 

唐の頭とはその時代に、中国より渡来してきた「ヤク」の角を配した兜のことであるとされています。兜にはヤクの毛が付いたものだったそうです。映画などでよくみる武田信玄の兜を想像すればいいでしょうか?

 

本多平八とは本多平八郎忠勝のことで、12歳での初陣以来、家康に従って転戦し、生涯50余度の合戦に参加、関ヶ原を経、一度たりとも戦で手傷を負わなかったという「天才的な武人」とされております。伊勢桑名藩十五万石の藩祖となりました。

  重要文化財の名槍「日本号」と共に有名な「蜻蛉切り」と称される名槍は本田平八郎の遺愛の品として現在に伝わっております。この槍をかざして縦横無人の活躍をしたと言われています。刃長が43.8cmあり笹穂型の大長槍でした。蜻蛉切とは穂先にトンボが止まり、トンボが真っ二つになったという逸話からこの名前がついたそうです。伝説の槍は、本多忠勝の武勇と共に現代にまで伝えれています。

 

生涯の戦は大小を合わせて57回に及んだが、かすり傷一つ負わなかったが、忠勝が死ぬる数日前に小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、手元が狂って、左手にかすり傷を負ってしまいました。忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と言いその後その通りになりました。

 

 

めんどくさい・・・三河武士の真骨頂 

 

「三河武士」とは無骨で忠義ものと評された家康譜代の武士団の総評。犬といわれるほどの忠誠心が後世までたたえられている。本多忠勝は、その代表格で、徳川家(松平家)に代々奉公しています。 本多家は、三河武士の中でもとくに有名な一族で、徳川四天王の一人に数えられています。四天王とは安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称です。 

 

有名な三河武士といえば、「三河物語」を記した大久保彦左衛門があげられます。無骨すぎる武士団は、戦とあらば命をかけて主君につくし、また直言をもって殿をいましめていたといわれています。めんどくさい・・・部下たちでしたが、それも互いの信頼関係があればこそです。 

 

ある時、秀吉が家康に対して「三河殿の秘蔵の宝は?」と問うたとき、家康は「それがしの為に命を懸けて戦ってくれる五百騎の三河武士です」と答えたという話に家康の気持ちは表れる逸話です。

 

下剋上が当たりまえだった戦国時代、信長は部下であった光秀に裏切られ、また伊達政宗は、実父と弟を自分の手で殺めています。そんな中、家康は三河武士といわれる忠誠心の厚い家臣団に恵まれ、激動の時代を勝ち抜きました。魔王と恐れられた信長や、天下人となった秀吉も、結局、勝てなかったのは、三河武士団に代表される部下たちの差、もっと言えば部下たちとの信頼の差だったのかもしれません。

 

 

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