徳川光圀 家訓

 

 

 

 

 

 「苦は楽の種楽は苦の種と知べし」

徳川光圀家訓

 

徳川光圀

生誕:寛永5年6月10日(1628年7月11日)

死没:元禄13年12月6日(1701年1月14日)

 

水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。名君として知られた光圀公。講談で語れ、のちにテレビドラマとなった

  

徳川光圀とは?

 

若き日は「かぶき者」

水戸黄門こと徳川光圀は寛永5(1628)年6月10日に、初代水戸藩主徳川頼房の三番目の子として誕生しました。三番目の子ですから普通は家を継ぐことはないのですが、光圀の場合は六歳の時、兄の頼重を差し置いて嗣子と定められます。

 

弟が兄を超えて嗣子と定められることで、光圀の優秀さが今に伝わるエピソードとなる一方、光圀自身は、兄を追い越したことに深く悩み、その後光圀は兄・頼重の子を自らの養子とし、後を継がせる配慮をみせています。

 

名君として知られる光圀ですが、十代の頃には「かぶき者」として鳴らしたと伝えられます。「かぶき者」とは奇抜な服装や行動を好む人のことを言い、今で言えば光圀は「ぐれていた」ということでしょうか。 ところが、ぐれていた光圀を一変させる出来事が起こります。中国の歴史書『史記』との出会いです。この『史記』中の「伯夷伝」に感銘を受け、以後勉学に励むようになるのです。多くの学者を招いて学問を教わったり、当時一流の大学者であった林羅山とも交友を持ちました。ここから光圀は「名君」への道を歩み始めるのです。

 

徳川光圀 訓戒(家訓

 

一 苦は楽の種楽は苦の種と知べし

一 主人と親とは無理なるものとおもへ下人はたらぬものと知べし

一 子ほど親を思ひ子なきものは身にくらべ近き手本と知べし

一 おきてにおぢよ火におぢよ

一 恩を忘るる事なかれ

一 欲と色と酒とは敵と知べし

一 朝寝すべからず咄の長座すべからざる事

一 小なる事は分別せよ大なる事驚かざる事

一 九分にならず十分はこぼるる物と知べし

一 分別は堪忍に有と知べし

 

ドラマ『水戸黄門』で知られる水戸藩第二代藩主徳川光圀の作とされる九カ条からなる訓戒。記述には,原本は1698(元録11)年に書かれ,1722(享保7)年に江府御城御広間に掲額されていたとある。 「松屋筆記」74巻に「西山公御自筆十カ條壁書」として,本史料と同様の以下の訓戒が記されている。(西山(せいざん)は徳川光圀のこと)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「大日本史」の編纂へ

 

国家的な大事業に着手

学問に目覚めた光圀は特に歴史をテーマにした書物を数多く編纂しました。中でも名高いのが『大日本史』。明暦3(1657)年に江戸に支局を開設し、これを後に彰考館と名付けて編纂を行いました。

 

大規模な国史をまとめる事業は、「古事記」「日本書紀」などがまとめられた平安時代以来のこと、当然、資料も散逸しています。本来であれば、多くの時間とお金がかかる国家的な大事業に、御三家とはいえ30万石の中藩の水戸藩がとりかかることは、大変な負担を強いるものとなりました。

 

結局、『大日本史』は光圀が生きている間には完成せず、水戸藩をあげての大事業としてその死後も編纂が継続されました。江戸の中期ごろには大体の形が出来上がるのですが、それでも手が加え続けられ、結局全てが完成したのは1906(明治39)年。江戸幕府も水戸藩さえも存在していない時代に、最後の編纂は、水戸徳川家の私費を投じて完成に至っています。この250年にもおよぶ前代未聞の大事業は、資料的な価値だけでなく、尊王思想や国家思想としてのちの時代に大きく花を結びます。とくに、水戸では、史書を学ぶ聖地として「水戸学」と呼ばれる学風を形成しました。

 

明治という時代をつくったOS 

OSとは、OS(OperatingSystem オペレーティング・システム)の略語で、コンピューターを動作させるための基本ソフトです。エクセルや、ワード。インターネットはアプリケーションと呼ばれます。これらの便利な機能も、OSという土台の上で実行されるので、OSがないと動きません。これを「革命」でたとえると、新体制となって連発される政策(アプリケーション)も、OSがないと、機能しないと言い換えられます。明治維新という革命を成功させたOSは、水戸学の学者たちが生み出した「尊皇」(天皇を中心とした政治体制)という思想でした。

 

明治維新の真実

どんな善政をひいたとして、不満をもつ人は必ずいます。お金が欲しい人、地位が欲しい人、不満をもつ人を束ねることが出来れば、旧体制を倒すところまでは簡単です。しかし、本当の革命は、倒したあとに始まります。「倒す!」という絶対的な目標がなくなった後は、同床異夢の怪物たちが主導権争いを始めることになるからです。旧体制を倒してからが本当の革命なのです。

 

2011年の中東における非暴力の市民による民主化運動「アラブの春」では、長年にわたって続いてきた独裁政権がドミノのように次々に倒れていきました。ところが、それから5年。中東は今、未曾有の混乱のなかにあります。民主化の停滞はもとより、独裁政治の復活や内戦の勃発、そして、「イスラーム国(IS)」の出現と、中東の状況は「春」以前よりも確実に悪くなってしまっています。

 

倒幕後の新政府でも、薩摩と長州。あるいは、薩摩のなかだけでも、方向性の違いから大久保と西郷が血で血を争う抗争をくりひろげることとなりました。そうした例は、フランス革命や、アメリカ合衆国の独立戦争など古今東西で見られる事例です。旧体制を壊すことは、比較的できること。問題は、壊したあとにどんな国づくりの「夢」を描けるか?そこに革命を成功させるか、失敗させるかの秘訣があります。

 

そして日本には、幸運なことに光圀公が遺した「尊皇」(天皇さまを敬う)というOS(軸)があり、天皇さまを中心にした国づくりをするという「夢」が描ける土台があったのです。水戸藩による250年に渡る編纂事業は、日本を救う事業にもなったのです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

庶民の味方? 黄門様の真実

 

ドラマ「水戸黄門」の裏話

ちなみに、彰考館には数多くの学者が集められ、『大日本史』の編纂が行われていましたが、彼らの中に安積澹泊、佐々十竹という学者がいました。澹泊はまたの名を覚兵衛、十竹はまたの名を介三郎といいます。そう、覚さんと介さんです。この二人、字こそ違っていますが、あの助さん格さんのモデルと言われています。水戸黄門漫遊記として、全国の悪代官を懲らしめたというのはドラマのお話ですが、彰考館の学者たちが全国を旅していたのは事実です。

 

  

名君・徳川光圀

光圀は歴史事業のみならず、藩政の充実にも尽力しています。経済政策から福祉、軍事まで光圀が着手した分野は数多くあります。中には効果をあげられなかった政策もありましたが、光圀の施策がスタート直後の水戸藩の体制を整えたのは間違いないことで、民衆の支持も勝ち取りました。

 

なかでも、 民衆思いだった黄門様は、貧しい民が病になっても医者にかかれず、薬も得られないのを気にかけていました。そこで彼は水戸藩の医師に命じて、身近で入手しやすい薬草の処方を紹介した家庭療法の本『救民妙薬(きゅうみんみょうやく)』を1693年に発刊しました。手に取りやすいコンパクトなサイズの本には、397もの薬草の処方をはじめ、旅に携帯すべき薬や、無病延命の方法なども紹介されていました。現代医学では効きそうにない処方も見受けられますが、江戸時代の知恵と、黄門様の民への思いやりがぎゅっと詰まったこの本は、当時の大ベストセラーになりました。こうして、「黄門さま」こと、徳川光圀公は、水戸藩だけでなく、多くの庶民の味方として人気を博すこととなったのです。

 

黄門様の世直しとは?

光圀が実際に日本全国を歩き回ったことはありません。わかっている資料では実母を訪ねて鎌倉までいったのが一番遠い場所となります。しかし『大日本史』の資料収集のために学者たちがあちこちに出かけたこと、また「救民妙薬」の出版などの業績やエピソードが後世においてミックスされ、現在まで愛される時代劇の大ヒーロー「水戸黄門」誕生へとつながりました。

 

しかし、史実のなかには、「世直し」のために駆け回った光圀公の姿も伝えられています。光圀公の御世は、江戸時代の中期。戦乱の世が終わり、人々が泰平の世を満喫しはじめた頃です。その頃、奇想天外なお触れが現れます。それが「生類憐みの令」です。

「天下の悪法」とも言われたこのお触れを出したのは、徳川五代将軍・綱吉。そんな綱吉を批判したのが、「水戸黄門」としてもお馴染みの、徳川御三家水戸家の当主・徳川光圀でした。天下の将軍を批判した光圀は、江戸の人々の喝采を浴びます。

 

綱吉を将軍にしたのは光圀だった!! 

徳川四代将軍・家綱の時代、幕府の統治方針は、武力によって統治する「武断政治」から、学問や法令の拡充によって世を治める「文治政治」へと変わっていきました。家綱の弟であった綱吉は、若くから学問に親しむ秀才でした。綱吉が将来将軍になるとは誰も思ってもいませんでした。家綱が跡継ぎを残さず病床に倒れると、後継者問題が巻き起こります。

その時、綱吉を将軍に推したのが、光圀でした。次期将軍には将軍家に最も近い血縁である綱吉がふさわしいと主張したのです。こうして五代将軍・綱吉が誕生しました。なんと天下の愚将とも呼ばれた将軍・綱吉を生み出すきっかけを作ったのは、光圀だったのです。 .

 

「徳川光圀 VS 徳川綱吉」

将軍となった綱吉の政治は、徐々に独裁色を帯びていきます。そして出されたのが、「生類憐みの令」。あらゆる生き物の殺生を禁じるこの法令により、江戸庶民の生活は大混乱。綱吉への不満が高まりました。そんななか、綱吉の下に光圀からの献上品が・・・。その中身はなんと、犬の毛皮!!光圀は「生類憐みの令」を真っ向から批判したのです!! 光圀は江戸庶民から喝采を浴び、反対に綱吉は「犬公方」と揶揄されました。

 

それでも、綱吉はこの法令に生涯こだわり続けます。この法令の目的は、単に犬を守ることではありませんでした。殺生をすることの愚かさを認識させる、いわば人々の意識改革にあったのです。これは現代にも通じる先駆的な倫理観。綱吉の信念は江戸時代には早すぎたのかもしれません。

 

将軍の就任を後押しした光圀に対し、さすがの綱吉も厳しい処分は下せません。それをしたたかに利用し、将軍をたしなめようとする老獪な政治家・光圀公。宗家ではないものの家康の孫であった光圀公。庶民のため、あるいは徳川家のために活躍した姿が、江戸時代から現代まで、庶民に愛されるスーパースターを誕生させたのかもしれません。

 

 

 

 

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