鳥居元忠 遺訓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

鳥居 元忠(とりい もとただ)

生誕:天文8年(1539年)

死没:慶長5年8月1日(1600年9月8日)

 

 

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。天正壬午の乱では、1500の手勢で1万の北条勢を破る。その後、天下人となった秀吉から度々官位推挙の話があったものの、「儂は三河譜代の士、主君以外の人間から貰ういわれはない」と断ったという。関ケ原前夜、伏見城を守って討死

 

鳥居元忠とは

父は岡崎奉行などを務めた老臣で、元忠も徳川家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。長兄の忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、次兄の本翁意伯は出家していたため、元亀3年(1572年)に父が死去すると、家督を相続した。

 

永禄元年(1558年)の寺部城攻め、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加。諏訪原城合戦では斥候として敵陣に潜入し、敵に発見されて銃撃で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残したものの、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいては石川数正とともに馬防柵の設置を担当する。以後、数々の合戦で武功をたて家康を支えていきます。

 

慶長5年(1600年)、関ケ原の戦い前夜、家康は、会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、伏見城を預けられる。6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」 と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。

 

家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。元忠は最初から玉砕を覚悟で、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、戦い続けた。13日間の攻防戦の末、8月1日、鈴木重朝と一騎討ちの末に自刃した。享年62。

 

その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

関ケ原の戦いでの元忠の働き

 

史上最高の「捨て駒」

伏見城に立て籠もる際には既に討死を覚悟しており、「我、ここにて天下の勢を引き受け、百分の一にも対し難き人数をもって防ぎ戦い、目覚ましく討死せん」と述べたと伝わる(『名将録』)。

 

これは元忠が嫡子の忠政に言い残した遺戒とも伝わり、他に「徳川の家風は守るところの城を明け、難を逃れて命を惜しみ、敵に弱みを見せぬ者ぞ」「徳川の御家と盛衰安危を共にし、外に主を取らぬ筋目、寝ても覚めても忘れてはならぬ。また1度の不満に旧恩を忘れ、仮にも別心する事は人の道ではない」と遺したと伝わる。

 

一方で家康の下に退くか逃げることもできたが、元忠の遺戒では「何十万の兵に包囲されても難なく囲みを破って逃げる事はできるが討死するまで戦うのが武士の志であり忠節である(我等においては城踏へ、速やかに討死すべき覚悟なり。何十万騎にて攻め寄せ、千重に囲むといふとも、一方を打破って退ぞかんに手間取るべからず。夫は武士の本意にあらず。忠節とはいひ難し)」と述べている

 

伏見城の戦いが、関ヶ原の戦いに与えた影響 

開城を求める西軍約4万に対し、伏見城の守備隊は1,800人でした。当初は3日間もあれば終わると思われていましたが、鳥居元忠率いる守備兵たちの必死の抵抗もあり、10日以上もかかってしましました。これは、鉄砲の大量使用を前提に築城されたために、死角が少なく、弾幕を張られるとなかなか近づけないというこの城の特徴がもたらした結果でもあります。そして、予想外に日数がかかってしまったため、西軍はその後計画していた、美濃・伊勢方面の攻略が出来ぬまま、家康は本拠地である江戸に戻ってきます。

 

この時、家康は様々な大名と共に上杉征伐に出ていたため、従軍していた大名たちをそのまま支配下において関ケ原の合戦を迎えることができました。自ら進んで「捨て駒」となった鳥居元忠の忠義は、家康の天下とりの隠れた立役者となりました。 

 

元忠と、戦場の友情

 

(参照:日経新聞) 

https://www.nikkei.com/article/DGXLASHC20HBK_T20C15A3AA1P00/

  

 大坂の陣から400年の節目を迎え、にぎわう大阪城天守閣(大阪市)。数ある展示品の中で、訪問客がとりわけ足を止めて見入る戦国の鎧(よろい)がある。「紺糸素懸威(こんいとすがけおどし)二枚胴具足」。徳川家康の忠臣として知られる鳥居元忠が着用した、と伝わる逸品だ。

  

伊予札(いよざね)と呼ばれる長方形の革板を紺色の糸で綴(つづ)った胴部には、一面に金箔が貼られている。袖や佩楯(はいだて)も金に輝く。胴の下に垂れる草摺(くさずり)は朱色。武将が戦場で華美を競い合った安土桃山時代にふさわしい威容だ。大阪城天守閣の宮本裕次研究副主幹は「歴史ファンや外国人観光客に人気の高い所蔵品の一つ」と話す。

 

西軍が討ち取る 

元忠は1539年生まれ。家康が駿河・遠江(現静岡県)の大名、今川義元の人質となっていた少年時代から近侍し、三方ケ原や長篠など徳川家の主要な合戦に参加した。家康が江戸に入った1590年には、下総矢作(現千葉県香取市)に4万石を与えられて大名に列した。

 

1600年の関ケ原の戦いでは、西軍を食い止めるために京都・伏見城に千数百人の手兵で籠もり、城と運命を共にした。現在、大阪城に展示される鎧は、この時に元忠が着用したもの、との伝承を持つ。

 

なぜ伏見で散った徳川の忠臣の遺品が、今は大阪城にあるのか。そのきっかけは元忠を討ち取った西軍の武将、鈴木重朝の子孫が15年ほど前、大阪城天守閣に展示されていた関ケ原合戦の絵巻を鑑賞したことだった。

 

絵巻には伏見城で重朝と元忠が一騎打ちをする場面が描いてあった。「元忠が纏(まと)う鎧の色彩や形が実物と違うのでは」。実は紺糸素懸威二枚胴具足は、鈴木家に代々伝わっていたものだった。問い合わせを受けて宮本副主幹らが調べたところ「絵巻は後世に想像で描いたもの。一方、この胴具足は元忠の遺品の可能性がある」との結論に至った。

 

宮本副主幹は「有力武将を討ち取った際、その具足などを名誉として家宝とすることはよくあった」と説明する。伏見城での重朝の戦功に対し、西軍の総大将だった毛利輝元らが贈った「鳥居元忠を討ち取り、豊臣秀頼様もお喜びだ」などと記した感状も現存。論拠の一つとなった。

 

子孫から寄贈 

徳川の天下となった後、水戸徳川家に仕えた鈴木重朝は元忠の子・鳥居忠政を訪ね、甲冑(かっちゅう)などの返還を申し出た。忠政は感激しながらも「名誉と共にご子孫に伝えてほしい」と丁重に断った――。こんな逸話が、様々な江戸期の古文書に記録されています。

 

ただし忠政は、重朝が所蔵していた父の血染めの肌着だけは引き取ったとされる。鳥居家が江戸期に領した栃木県壬生町にある精忠神社のご神体となっている

 

鈴木家では代々、元忠の命日には鎧を床の間に飾り冥福を祈ってきたが、よりよい保存のため、新たに縁のできた大阪城天守閣に2003年に寄贈した。年に数カ月間、不定期で展示される際には鳥居家の子孫らも見学に訪れるという。その輝きは400年の時を超え、かつての敵将への敬意と共に守り伝えられる。

 

 

 

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