島津斉彬と久光と明治維新

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

島津斉彬( しまづなりあきら)

生誕:1809

死没:1858

 

島津 斉彬(しまづ なりあきら)は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、島津氏第28代当主。 薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人である。 西郷隆盛・大久保利通などの維新の立役者を見出し育てたことから、維新の父と呼ばれることがある。

 

島津斉彬家訓

 

一、人心の一致一和は政治の要目なり

一、民冨めば国富むの言は、国主たる人の一日も忘るべからざる格言なり

一、人君たる人は愛憎なきを要す

一、凡(およ)そ人は一能一芸なきものなし、其長所を採択するは、人君の任なり

一、既往の事を鑑(かんが)みて、前途の事を計画せよ

一、勇断なき人は事を為す事能(あた)わず

一、国政の成就は、衣食に窮(きゅう)する人なきにあり                 

 

相続はしたが、予は薩摩藩を自分の所有物とは思っておらぬ。これは辱(かたじけな)くも天子様からお預かりしたものである。ゆえに民が衣食のことで困窮するならば、第一に朝廷に対して申しわけが立たぬ。また、国家の動乱は人心の動乱から起こり、人心の動乱の基は十に八、九は米価にある。金銀を蓄えることばかり考えず藩庫を開いて、窮乏する民を救わねならない。 善行とても前後をよく考えなければ難を呼ぶ。人事も同様、時が熟するのを待たねばならない。薩摩隼人は勇壮無比で知られる。しかしながら、今、第一に求められているのは堪忍の二字である。

(高崎崩れと呼ばれるお家騒動の後、ようやく初老にして藩主になった斉彬が反対派に対して報復人事をしなかった。不平を言う家臣たちに対して、その理由を述べた言葉)

 

斉彬なくして維新もなし

 

(参照:武将ジャパン)

https://bushoojapan.com/tomorrow/2017/03/14/96065

 

オランダ贔屓の曽祖父・重豪の影響を強く受ける 

斉彬の人格や価値観は、長命だった曽祖父・重豪(しげひで)の影響を非常に大きく受けて形成されたといわれています。 重豪は自らオランダ語を話せたといわれるほどの「蘭癖大名」で、幼い頃の斉彬も、曽祖父とシーボルトの会見に臨席したとか。また、当時の大名家としては珍しく、重豪は斉彬と一緒に風呂に入ったこともあったそうです。

 

さらに、斉彬の母・弥姫(いよひめ・嫁いでからは周子「かねこ」に改名)は、これまた大名家の正室としては異例となる「実母の母乳」で子育てをした人です。弥姫は、自ら中国の歴史書について子供たちに講義するほどの才女でした。

 

父・斉興(なりおき)と斉彬の関係についてはビミョーな所です。後述する「お由羅騒動」その他のイメージが強いため、さぞ昔から仲が悪かったのだろう……と思いきや、周子は斉興の婦人の中で一番多く子供を産んでいます。

 

 

蘭癖になれば藩の財政が逼迫!? そこで起こった「お由羅騒動」

大名家では家族間だけでなく、家臣との関係も非常に重要です。曽祖父・重豪に倣って西洋への興味を強めていった斉彬に対し、重臣たちは良い印象を持ちませんでした。というのも、重豪は蘭癖が過ぎて藩の財政に支障をきたしており、斉興がそれを立て直していたからです。

 

ここで正室の長男=まず間違いなく跡を継ぐ斉彬が蘭癖になると、せっかくマシになった経済が逆戻りしかねません。幕末へ向かっている時代ですから、西洋に対する嫌悪感なども手伝ったことでしょう。斉興もその辺の事情を加味してか、なかなか斉彬に家督を譲りたがりませんでした。

 

斉彬が40歳を過ぎてもそんな感じだったので、側室たちが「あわよくば我が子を藩主に」と考えるのも無理のないことです。こうして起きたのが「お由羅騒動」でした。まずお由羅の方とは、斉興の寵愛を受けていた側室で、後に生麦事件の当事者となる島津久光の母です。お由羅の方は久光を藩主にしたがりました。一方で斉彬派の家臣もおり、事を重く見て、お由羅の方と久光の暗殺計画を立てています・この計画が事前にバレ、首謀者13名が切腹、他50人が流刑や謹慎になりました。

これが事件のあらましです。

 

薩摩藩内では規模の大きな騒動でしたので、後に歴史に名を残す人も多く関わっています。有名どころだと、大久保利通や西郷隆盛の父親がいます。

 

洋学を重んじた「集成館事業」を押し進める 

お由羅騒動から二年後、事後処理も終わってようやく斉彬が藩主になりました。やはり洋学を重んじ、造船や冶金(やきん・鉱石から金属を作ること)のための反射炉を作ったりしています。斉彬の主導で行われたこの辺の事業を「集成館事業」と呼んでいます。特にガラス製品は質が高く、「薩摩の紅ビードロ」として知られ、大名同士の贈り物にも重宝しました。これは一時技術が途絶えてしまったのですが、近年復興され「薩摩切子」と名を変えて再び注目を浴びています。

 

集成館事業は、ご想像のとおり相当な費用がかかりましたが、造船事業の一環で、このころ薩摩で作られた西洋式軍艦の「昇平丸」は、明治に入ってからも蝦夷地開拓で活躍するなど、当時としてはかなり高い技術力を持っていました。また、斉彬の視野の広さは人材発掘においても活かされ、元は下層藩士だった西郷隆盛や大久保利通を登用しています。本人の才覚もさることながら、こういった維新の功労者たちに尊敬されていたことも、斉彬が名君とされる理由です

 

斉彬は、こうした功績・才覚に驕ることなく、家督を継ぐ前から宇和島藩主の伊達宗城や、水戸藩主・徳川斉昭など、同じく名君と呼ばれていた人物とも交流を持っていました。

 

大老・井伊直弼と対立 

斉彬はまず、ときの老中・阿部正弘に対し、幕政改革の一環として公武合体と開国、それに伴う軍事的準備を訴えました。 正広の許可を得て、琉球王国を介してフランスから兵器購入などを計画していたようです。そして阿部正弘が安政四年(1857年)に亡くなると、大老になった井伊直弼と次期将軍について対立しました。この頃の将軍は十三代・家定。篤姫の旦那さんです。

 

斉彬は、かねてから親交のある斉昭の息子・慶喜を十四代将軍にすべく動き始めたのでした。一方、直弼らは血筋の近さなどから紀州藩十三代藩主・徳川慶福(よしとみ)を擁立しました。こちらはこちらで英邁を知られており、推される理由としては充分です。最終的に大奥での斉昭のウケの悪さ、慶福が家定のいとこであることなどにより、慶福が十四代将軍に決まります。斉彬らの敗北ということになりますが、これに対して彼は武力で対抗しようとしていた……とされています。そのための準備として本拠・鶴丸城(鹿児島城)で閲兵していたところ、急病となりそのまま亡くなりました。

 

死因はコレラということになっていますが、斉彬の息子の多くが夭折している(暗殺の疑いがある)ため、「斉興や久光(とその愉快じゃない仲間たち)による暗殺ではないか?」という説も根強く囁かれております。

 

次の薩摩藩主の座は、斉彬の遺言で、久光の長男・忠義が継ぐことになりました。当初は斉彬の息子・哲丸が成人するまでの予定でしたが、当の哲丸が夭折したため、忠義がそのまま藩主を務めています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

ハシゴをはずされた悲劇の勝者(殿さま)

 

島津 久光(しまづ ひさみつ)

 

斉彬の異母弟。藩主にはなれなかったものの藩主の父という立場で、幕末の薩摩藩を率いて倒幕を成功。維新後は、明治政府の内閣顧問、左大臣を歴任するものの事実上の閑職の立場に追い込まれる。「お由羅騒動」では、兄・斉彬と島津家の跡目争いをすることとなり、家臣団を二分する騒動に発展。しかし、斉彬、久光の兄弟にとっては、知らないところでの権力争いだったといわれ、兄弟仲は良かったとされている。

 

中央政界へ進出 

兄の死後、斉彬の遺言により息子が島津家の当主に、久光は藩主の父という立場であったが、事実上の幕末の薩摩藩の最高指導者となる。

文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京。朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する久光の運動は、亡兄・斉彬の遺志を継ぐものとされた。京都滞在中の4月23日、伏見の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を粛清する寺田屋事件を起こす。

 

公武合体運動の挫折 

文久3年(1863年)3月に2回目の上京した際には、久光の建議によって朝廷会議(朝議)に有力諸侯を参与させることになり、薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議が成立するが、孝明天皇が希望する横浜鎖港をめぐって、限定攘夷論(鎖港支持)の慶喜と、武備充実論(鎖港反対)の久光・春嶽・宗城とのあいだに政治的対立が生じる。結果的に久光ら3侯が慶喜に譲歩し、幕府の鎖港方針に合意したものの、両者の不和は解消されず、参預会議は機能不全に陥り解体、薩摩藩の推進した公武合体運動は頓挫する。久光は3月14日に参預を辞任、小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して薩摩へ帰郷する

 

倒幕の決断

久光が在藩を続けた約3年間に中央政局は、禁門の変(元治元年7月19日)、第一次長州征討(慶応元年5月16日)、条約勅許[(10月5日)、薩長盟約の締結(慶応2年1月21日)、第二次長州征討、将軍・徳川家茂の薨去(7月20日)、徳川慶喜の将軍就職(12月5日)、孝明天皇の崩御(同月25日)、等々と推移する。

 

慶応3年(1867年)、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議を開くものの条城における慶喜との会談では、対外関係を理由に対立、これにより倒幕路線を確定することとなる。同年、10月14日に薩長へ討幕の密勅が下され、大政奉還、王政復古の大号令。そして、運命の慶応4年、鳥羽伏見の戦いが勃発。戊辰戦争へと推移し、同年には明治元年が宣言され、明治維新が成功することとなる。

 

「おい いつになったら将軍になれるんだ?」

徳川家康が、征夷大将軍になったのが1603年。以後、関ケ原の戦い屈辱の気持ちをおさえつつも、264年もの長き渡って、幕藩体制に組み込まれてきた島津家。久光の代になりようやくリベンジに成功したものの、倒幕のあとに待っていたのは意外な結末でした。

 

「おい、いつになったら将軍になれるんだ!?」とは、明治維新後に久光が発したとされる言葉です。俗説の域がでない発言ですが、当時の久光の気持ちからすれば、嘘とも言い切れない一言です。つまり、にっくき徳川家を倒し、あわよくば天下人(将軍)になれるものと、明治維新をすすめたはずが、気が付けば出世したのは部下ばかり・・・ 文句のひとことも言いたいというのが人情です(*_*)

 

島津家は、平安時代まで歴史をさかのぼる名家で、薩摩を収めることとなったのは、鎌倉時代のこと、以後700年に渡って九州南部を支配しつづけました。その間、藤原氏、源氏、信長、秀吉、家康っと、権力者が変わる度、危機におそわれるものの、そのたびに、一族の団結と、「薩摩に暗君なし」と言われた強いリーダーのもと領地の安堵に成功してきました。

 

しかし、明治維新では、徳川家の打倒を果たしたものの、今度は、西郷や大久保といった部下に裏切られる形で「廃藩置県」が成立。久光が反対したこの案は、各地を支配してきた領主たちの土地や支配権をとりあげ、天皇中心の国家をつくる大大革命でした。封建社会を一夜にして終わらした「廃藩置県」は、久光にとっては、倒幕よりもショックのでかい下剋上となりました。

 

明治4年、西郷や大久保らが主導するかたちで、廃藩置県が断行。これに激怒し、抗議の意を込めて薩摩の自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせたといわれています。旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になりました。

 

その後も久光は、新政府の政策にことごとく反対、明治天皇や、昔の部下たちに改革に反対する建白書を何度も出すものの、お殿様を必要とする時代はすぎ、旧習復帰をねがう久光の願いをかなうことなく、政府の意思決定からは実質的に排除されることとなりました。

 

晩年  

明治20年(1887年)12月6日に死去、享年71。元の主君であった久光に薩摩の侍たちは、左大臣への就任など精一杯の配慮をみせ、その死に際しても異例の国葬をもって送ることとなります。しかし久光は新政府への抗議の意味をこめ、廃刀令等の開化政策を無視、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめませんでした。

 

700年に渡って薩摩を支配した島津家。その最後は、部下たちにハシゴを外される形であっけない最後をむかえました。身分制度の強い江戸時代であれば、藩主である島津家の当主にお目見えできるのは一部の家臣のみ、西郷も大久保も、生涯ちらみもできない程の差があるはずでした。しかし、明治維新の激動は、身分の低い家臣であっても、あれよあれよと、明治政府の要人に押し上げる一方、維新を指図したはずの殿さまたちを隠居においこんでしまったのでした。

 

ある意味、将軍の座をおわれることとなった徳川家よりも、島津家の方が屈折した怒りがこみあげる明治維新という名の革命になったのかもしれません。  

 

 

 

 

 

 

 

島津家とは?

 

島津家は、平安時代まで歴史がさかのぼり明治まで、700年ちかく渡り同一の国・地域を治め続けた世界でも稀有な一族です。島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む広言が、藤原摂関家の近衛家の島津荘の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大、その子の忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされています。

 

初代島津忠久が薩摩国・大隅国・日向国の3国の守護職に任じられて以降、南九州の雄族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代には外様大名・薩摩藩主として将軍家と閨閥も築き、幕末期に近代化を進めて雄藩の一つとなって明治維新の原動力となっています。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来明治に至るまで家を守り通すことに成功しています

 

関ヶ原の戦いでは、西軍に属して徳川家と敵対関係に陥るも、武備恭順の態度を取り所領安堵を認めさせることに成功する。以降、薩摩藩として、幕藩体制に組み込まれることとなる。

 

幕末になると、28代島津斉彬の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興した(集成館事業)。藩内より尊皇倒幕の志士を輩出、徳川将軍家と深い縁戚関係にありながら、遂に外様で反徳川の毛利氏と薩長同盟を結び、倒幕の中心となる。

 

 

 

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