島津義久 20カ条の淀書

 

 

 

 

 

 

  

 
 

 

 

島津家とは?

 

島津家は、平安時代まで歴史がさかのぼり明治まで、700年ちかく渡り同一の国・地域を治め続けた世界でも稀有な一族です。島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む広言が、藤原摂関家の近衛家の島津荘の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大、その子の忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされています。

 

初代島津忠久が薩摩国・大隅国・日向国の3国の守護職に任じられて以降、南九州の雄族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代には外様大名・薩摩藩主として将軍家と閨閥も築き、幕末期に近代化を進めて雄藩の一つとなって明治維新の原動力となっています。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来明治に至るまで家を守り通すことに成功しています

 

関ヶ原の戦いでは、西軍に属して徳川家と敵対関係に陥るも、武備恭順の態度を取り所領安堵を認めさせることに成功する。以降、薩摩藩として、幕藩体制に組み込まれることとなる。

 

幕末になると、28代島津斉彬の時に洋式製鉄、造船、紡績を中心とした近代産業を興した(集成館事業)。藩内より尊皇倒幕の志士を輩出、徳川将軍家と深い縁戚関係にありながら、遂に外様で反徳川の毛利氏と薩長同盟を結び、倒幕の中心となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦国最強の4兄弟の長男

 

島津 義久(しまづ よしひさ)

生誕:天文2年2月9日(1533年3月4日)

死没:慶長16年1月21日(1611年3月5日) 

 

義久は3人の弟(島津義弘・歳久・家久)とともに、九州統一を目指し、一時は豊後・豊前の一部を除く九州のほぼ全てを手中に収めるなど、島津氏の最大版図を築いた。

辞世の句は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空

 

義久は、島津氏第16代当主になる前、鎌倉時代から続く名門の島津家も、領地をけずられ勢力が減退していました。しかし、ここから戦国最強の4兄弟と言われる一族の活躍がはじまるのです。

 

義久は、自ら戦にでることはなく、その差配を現場の弟たちに任せていたと伝えられています。ただし和平の際や、お家の一大事の場面では見事な立ち回りをみせる武将でした。家督を継いだあと、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破るなど、九州全土を支配する九州王となった武将です。

 

鬼島津の伝説

沖田畷の戦いで龍造寺氏を粉砕した際には、島津勢3,000 VS 龍造寺25,000で勝利。朝鮮に渡った慶長の役での泗川の戦いでは、20万人前後の明、朝鮮軍を相手に7000人で打ち破り、海外で「「鬼石曼子(おにしまず)」と恐れられました。

 

とくに有名なのは、関ケ原の戦いにおいての弟の義弘が、敗戦濃厚の西軍の戦場から、撤退に成功した「島津の退口(ひきくち)」です。この義弘は、前代未聞の正面突破による退却と、「すてかまり」なる戦術をとります。戦場においてすでに300名まで減っていた島津軍は、退却に際しただただ逃げ回るのでなく、一番攻撃力の高い、敵本陣にむかって突撃し、猛烈な攻撃を仕掛けます。鬼島津の名の通り、捨て身の正面突破にさすがの東軍も陣形をくずし、ひるだとみると、一転全軍の向きをかえ、伊勢街道を走りぬけ撤退に成功したのでした。ただしこの退却では、義弘をのぞく殆どの家臣、兵が戦死。この時の決死の戦法は「すてかまり」といわれるものです。味方を逃がすために数人残し、残った兵は死ぬまで戦い時間稼ぎをする壮絶なトカゲの尻尾切り戦法です。多くの味方の命を失ったものの薩摩に帰郷することに成功した義弘。「鬼島津」の名は、こうして不動なものになったのです。

 

天下人との神経戦 

本来なら島津家の一員が関ヶ原において西軍へ加担したことで改易は免れませんでしたが、「あれは弟・義弘の独断であり自分は何も知らなかった」と義久は言い張り、結果的に折れた徳川家康から本領安堵されたのでした。しかも交渉上手の義久は、弟の義弘の命も守ることにも成功しています。過去には、秀吉に従わなかった三男・歳久を討たなければならなかったこともあり、もうこれ以上弟を死なせたくなかったのかもしれません。

 

300余藩といわれた江戸時代の日本にあって、薩摩藩は最南端に位置します。徒歩での移動しかなかった時代、何万もの大軍を鹿児島まで派遣するコストは、計り知れないものでもありました。また、鹿児島の訛りは、冠者を炙り出すために複雑化されたとも言われ、言葉だけでなく、たえず防御をかため臨戦態勢をととのえていた最強の国でもあったのです。 薩摩に戻った義弘は、兄である義久に戦後処理をまかせます。ここで義久は、徳川家への恭順の姿勢をみせつつも、軍備を整備し、徳川家との戦いにそなえる和戦両方の構えをみせます。

 

結局、九州諸大名に島津討伐の命令をだした家康も、関ヶ原で島津勢の捨て身の攻撃を目のあたりにしたためか、にらみ合いだけがつづくことになります。もしここで長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れもあった時代です。結局、義久の仕掛けた神経戦は、家康の態度を軟化させることに成功、慶長7年(1602年)に家康は島津本領安堵を決定することになりました。

 

関ケ原の戦いで、同じく西軍にくみした長州藩が120万石から35万石への減封されたのに比べ、島津家は60万石が安堵される見事な敗戦処理をみせました。この頃の戦況は、関ケ原の戦いで勝利したとはいえ、大阪には秀吉の遺児秀頼が健在だった時代、島津家は和戦両方の構えで家康から最大限の譲歩をひきだしたのです。 島津を誅伐出来なかった家康はこのことが心残りで、死に臨んで遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したとされます。

 

そしてそれから260年、島津家が率いる薩摩は、関ケ原の戦いの敗者・毛利氏の長州藩と手をくみ明治維新を成功させます。 家康の遺言は、はからずも当たったことになったのです。薩摩の侍たちの強さと、主家に対する忠誠心は、他のどの家にもない特徴です。そして、鬼島津の異名をとった島津家にあって、当主の義久は、知力をもって兄弟たちをたばね、秀吉、徳川と天下人からつづく介入を阻止。鎌倉時代からつづく、家名を守るとともに、江戸時代をとおして国力をたくわえ、関ケ原の戦いのリベンジとなった明治維新を成功させる土壌をきずいたのでした。

     

島津義久公 「二十箇条の掟書」

 

 

一、百姓を憐れむことをもって、憲法の第一とする。民の飢えや寒さを思い、貧窮の苦悩を知ること。 

一、家の造りを立派にすることは、古の賢王が堅く禁じたことである。 

一、罰を薄くして賞を厚くせよ。 

一、民の耕作の隙を見て、これを召し使うことが肝要である。 

一、主人の利益を基とし、いやしくも私利を貪ることがあってはならない。

一、民の利益を先にして、己の利益を後にせよ。 

一、欲しいままに民のものを取ってはならない。民が貧しければ、主に財が無くなるものである。例えて言えば、枯れた木の本のようなものである。民は主の財である。ゆるがせにしてはならない。

一、人の心を養うのをもって情とする。眷属をかえりみることを忘れてはならぬ。

一、威勢をもって人を屈服させれば、その身体は屈従したようでも、心は従わない。 

  正直の徳をもって民を従いさえすれば、身命を軽んじて、謀反の心を起こすようなことはないのである。

一、下郎の科をかれこれいってはならぬ。下郎の無礼に対しても同様である。

一、讒言(ざんげん)と讒訴(ざんそ)とを用いてはならぬ。虚言や中言を信用してはならぬ。

一、たとい愛している者に対しても、科があったならば、処罰せよ。憎んでいる者に対しても、忠義の行いがあったならば、賞を惜しんではならぬ

一、家を治めるほどの者は、また、国を治めることもできる。ただ、民を憐れむ者を、君の器と見なす。

一、人が罵詈雑言したとて、これをそのまま受け取って、咎め立てをしてはならぬ。

一、隠し立てしなければ恥ずかしいようなことは、してはならぬ。人の目は天にかかっているものである。

一、独り言であっても、卑怯な言葉を使ってはならぬ。人の耳は壁についているものである。

一、利巧じみたことを言わないこと。

一、古い反故を読んではならぬ。人の書き物などをみだりに取って見てはならぬ。

一、悪い若党を使ってはならぬ。

一、悪い友達と交わってはならぬ。         

 

 

 

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