相撲宗家 吉田司家 家訓

 

 

 

 

 

 相撲宗家 吉田司 家訓

 『一味清風』

 

 

吉田司家(よしだつかさけ)は、現在まで800年以上の歴史を持つ、五条家に代わる相撲の司家、家元である

 

志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗る。元来、京都二条家に奉公し節会相撲の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をした。以来、熊本県熊本市に住む。相撲に関する全権は、後鳥羽天皇より委ねられたという。

 

世界初のプロモーター?江戸期・横綱の考案 

江戸時代には、勧進相撲が取り行われるようになり、19世吉田追風は「横綱」を考案し1789年(寛政元年)11月、谷風梶之助・小野川喜三郎に横綱を免許した。その伝達式の後、両力士は太刀持ちと露払いを1人ずつ従える現代と同じ形の横綱土俵入りを披露。1791年に上覧相撲が予定されていたこともあって、19代吉田追風は派手なデモンストレーションとして横綱土俵入りを企画したが、これがたちまち江戸中で大評判となった。

 

明治維新の中で相撲廃止論が起こったとき、23世吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。、1909年(明治42年)6月の両国国技館の新設することとなります。以後、第40代横綱東富士欽壹までは吉田司家による横綱本免許状授与式が続いた。しかし、24世吉田長善が不祥事を起こし1951年(昭和26年)11月に引退、当時7歳の長孝が25世を継いだが、日本相撲協会は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱千代の山雅信以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相撲界との関係断絶 

1986年(昭和61年)5月、借金問題など司家の経営上の不祥事により、25世吉田長孝と春日野理事長(当時)との会談で、横綱授与の儀式を全面的に協会へと委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。なお、1983年(昭和58年)7月に推挙の第59代横綱隆の里俊英までは司家も推挙式に臨席し、毎年十一月場所後に司家の土俵での奉納土俵入りが行われていたが、関係中断によって1986年7月に推挙の第60代横綱双羽黒光司以降、司家は推挙式には臨席せず、司家土俵での土俵入りも事実上の廃止となり、行われなくなった。

 

その後も25世吉田長孝は相撲界への復帰と司家の権威の回復を目指して支援者らとともに活動しており、2015年には阿蘇市の阿蘇内牧温泉に新たな拠点を置く計画を公表、同年4月、阿蘇市小里において「相撲三神」の神霊を熊本市から移す「仮殿遷座祭」を挙行した。司家は今後本殿や土俵を建設して相撲文化の拠点となる施設を設け、相撲大会の開催や相撲を通じた地域おこし、更に横綱奉納土俵入りなどかつての司家の儀礼を復活させる構想を示している。こうした司家・熊本県関係者側の動きに対し日本相撲協会は全く反応していない。

 

なんだかおかしい横綱審議員会

横綱の権威を保つためにも横綱免許の家元である吉田司家ではなく、相撲に造詣が深い有識者によって横綱を推薦してもらおうということとなり、1950年4月21日に横綱審議委員会が発足しています。委員は好角家・有識者のうちから理事長が委嘱する。現在の委員の定数は7名以上15名以内、任期は1期2年、最長で5期10年まで。委員長は、委員の互選によって選出する。委員長の任期は1期2年、最長で2期4年まで。過去の委員は新聞社の社長やNHK会長など、マスコミのトップが多い。読売新聞のナベツネこと、渡辺恒雄氏も委員として名を連ねている

 

誰が決めるか?品格の問題 

モンゴル出身で、一時代をきずいた横綱・朝青龍は、横綱審議委員会から度々、「品格にかける」との指摘をうけてきました。外国から日本にきて、相撲道に精進し、神(横綱)にまで上り詰めた朝青龍。そんな朝青龍に注文をつけることに、どれだけ意味があったのでしょう? そもそも、横綱審議委員会はそんなに偉い人なのか!? 少なくとも「品格」の面で、委員会で朝青龍に説教できる人がどれだけいたのかが?疑問です。 横綱審議委員会とは、いったい何様の集まりなのでしょう?

 

伝統をふりかざしていた委員会のメンバーたち。しかし伝統をいうのであれば、「吉田司家」に勝るものはありません。大相撲は、権威であり、また国技なのに国から補助金ももらわず、庶民の木戸銭(入場料)だけで運営される尊い存在です。その後、相撲協会におこったスキャンダルは、八百長問題であり、理事長選挙であり、「品格」とはほど遠いものでした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知られざる相撲の歴史

 

 国技といわれ、日本の伝統文化である相撲。 八百長問題や、横綱の不祥事などがおこると、相撲はスポーツなのか?という議論がおこります。日本の相撲はスポーツにあって、スポーツにあらず。日本人にとって、相撲は神聖な神事なのです。画像は、古墳から発掘された力士像です。ちゃんとマワシをつけて四股をふんでいるようにも見えます

 

神話にさかのぼる相撲の歴史

相撲の起源としては、古事記(712年)や日本書紀(720年)の中にある力くらべの神話や、宿禰(すくね)・蹶速(けはや)の天覧勝負の伝説があげられます。五穀豊穣を神に祈った年占いの神事に起源を持つ相撲は、朝廷の公例行事「三度節」のひとつである相撲節会、武家相撲、そして広く一般庶民に親しまれるようになった勧進相撲を経て、現在の大相撲や全国各地で催される奉納相撲、アマチュア相撲に、その伝統は受け継がれています

 

江戸時代に入ると浪人や力自慢の者の中から、相撲を職業とする人たちが現れ、全国で勧進相撲が行われるようになり、中期には定期的に相撲が興行されるようになった。 やがて谷風、小野川、雷電の3大強豪力士が出現し、将軍上覧相撲も行われ相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至った。

 

相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになった 神事相撲は、五穀豊穣、天下泰平を祈って奉納され、力士が四股を踏み、地霊を鎮め大きく両手を広げて、邪気を祓い清めたものだともいわれています。  また力士は地域を守る神でもあることから、山と里の勝負で勝った方が豊作になるといった、五穀豊穣を祈る祭礼に密接不可分な存在であるともいわれています

 

「横綱」は神様?

横綱が巻いている注連縄(しめなわ)とは、そもそもどんな意味があるのでしょうか? 「しめ縄」とは、 稲藁でさまざまな形に造り、鳥居や神殿の入り口などに張られています。しめ縄は、神や人の占有地であることを示すしるしであり、俗世界との結界をしめすものです。 つまり、神聖な神社と等しく、 横綱は神様的存在だからこそ、注連縄が張られるのです。

 

相撲宗家 吉田司家

後鳥羽天皇の御代、文治二年(1186年)それまで中断されていた相撲節会復興に際し、相撲故実旧例に詳しい吉田家始祖豊後家次は、越前の国より後鳥羽天皇に召され相撲節会の典儀を故実旧例に従い無事勤め、 「国技の古き伝統を守り伝えよ」という訓を「追風」の号に託し獅子王団扇とともに賜り、相撲の司として以来800年の間、国技相撲道の普及発展に尽力して参りました。  

 

弘治年間(1555年~)当時角力と称し、唯一の協議として人気のあった相撲は、単に力くらべとなり相撲本来の礼儀礼節を尊び古例旧式にならう相撲道から大きく離脱の様相に、十三代追風は、土俵上の登場礼式(力士が土俵にあがり行う動作及び型)を定め、神儀であった相撲を国技の「 道 」として確立。時の正親天皇より永禄元年(1558年)相撲全般をとり仕切る行司官を、命じられ、「マカロオ」の団扇を勅賜。元亀年中(1570年~1572年)関白二条晴良公より「一味清風」の四文字が記された団扇を授与された追風は、以降国技相撲道に二派はなく、常に一味(ひとつの派のみ)の作法でもって相撲道を守ることを相撲界はもとより、吉田司家の家訓として代々伝授してきた。

 

西洋化の荒波のなかで・・・

 また明治維新(西洋思想影響)の旧物破壊(日本古来の文化否定)の大怒涛のなかで裸体でとる相撲は未開野蛮人の行為で国辱だと相撲廃止論が起こったとき相撲宗家としての地位と矜持をもって国技相撲道の護持のため獅子奮迅の活躍をみせた。 二十三代追風は、東京・大阪両相撲会所の対立に於いても『一味清風』の家訓を基に一本化を図り日本相撲協会の設立、国技相撲の発展に多大な貢献をして参りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像:吉田司家跡

 

吉田司家とは

 

かつて司家の屋敷は熊本市北千反畑町(中央区)の藤崎八旛宮参道脇にあり、土地約1000平方メートルの敷地に吉田追風の住宅、天照大神・住吉大神・戸隠大神の三神(十三代吉田追風が相撲関係者の崇拝神として定めたという「相撲三神」)を奉斎した神殿、吉田司家宝物館、土俵など建物計約200平方メートルがあったが、2005年(平成17年)2月に土地・建物が熊本地方裁判所にて競売にかけられ、穴吹工務店(高松市)に約2億円で売却された。建物はすべて取り壊され、跡地には同社のマンションが建設された。参道に面したマンション敷地内に「吉田司家跡」の石碑が存在する。

 

吉田司家の歴史

初代追風家次は後鳥羽天皇から獅子王の団扇と木剣を拝領している。むろん相撲節会に行事官として大いにつとめた功によるものである。第二世は豊後守追風といった。その頃承久の乱がおこって都はまた騒がしくなったので、追風は万一をおもんばかって勅賜の品々や家伝の書類を持って遁れ、河内国の一族のもとに非難した。それから代々大和摂津の間に流寓することになる。 

 

 第三世から第十二世追風まで、この間、北条、足利、戦国時代とつゞくため、都に出ることも少なく、したがってさしたることもなかったようである。

 

 十三世追風にいたって特記すべきことがおこった。十三世は名を長助といった。時の帝は正親町天皇である。天皇はふたたび相撲節会の復興を念じられ、長助を召して行事官とし、豊後守と称させた。その時の相撲節会の奉仕の功を賞して「マカロオ」の団扇を勅賜された。関白二条晴良は長助を呼んで相撲の故実について種々下問したが、その答えが実に立派であったので、「一味清風」の四文字を記して長助に与えた。

  

この 一味清風 というは日本相撲の法二派に分るゝ時は必ず道が乱るゝから作法を一味にして相撲道を守る、これ清風なり、という意であるとつたえられ、また一説には相撲の初祖志賀清林の清と追風の風をとって一味清風と書かれたものともいう。

 

 

 

 

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