幻の名家 北風家の家訓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北風家(きたかぜけ)

兵庫県の旧家。伝説によれば神代から続く歴史を持つ。江戸時代には商人として隆盛をきわめ、とくに北前船による商船航路の開拓に成功し、巨万の富をたくわえた。しかし、1895年(明治28年)北風正造の逝去によって歴史を閉じた。伝説および家伝については以下の通り

 

第8代孝元天皇の曾孫である彦也須命(ひこやすのみこと)を初代家祖とする。神功皇后に従い、新鮮な魚介類を献上すると共に、新羅に出兵、功あり、兵庫の浦一帯の管理を任される。家宝に皇后の鐙が伝わる(御手判もあったが寛政7年焼失、有栖川宮織仁親王の手判に置き換えられた)。その後、平家による福原京遷都計画の影響で浜方に移るまで、代々、会下山(えげやま)に居を構えた。

 

22代彦主の頃、当時まだ新興の藤原氏と婚姻を結び、白藤(しらふじ)氏を名乗る。

 

44代白藤惟村が一門(当時支流だけで21家)を引き連れて南朝後醍醐天皇方に加勢し、1336年北風の強い日、家伝によると、わざわざ敵前を兵庫から東の敏馬(みぬめ)まで船で漕ぎ渡り、敏馬神社に参拝の後、取って返して、兵庫の浦で足利尊氏の軍船の大半を焼いた。尊氏の姿が見えるほど肉薄したが、もう少しのところでその船を取り逃がす。

 

南北朝時代 家の危機を救った北風家の北条政子とも言うべき藤の尼

九州に逃げた尊氏の追討将軍である新田義貞から、喜多風(後に北風に改める)の姓、名前の「貞」の字を賜る。しかし、九州から反撃してきた尊氏軍によって、湊川の戦いで楠木正成は戦死、新田義貞と共に喜多風家一門は敗走。この時、 

藤の尼が一門を諭した文書が尼ぜ文書であり、滅亡するはずだった喜多風家の面々は私心を排除して公に奉仕すべしとの家訓を残した。これより公に奉仕する伝統が北風家に伝わる。

 

 

北風家家訓 尼ぜ文書

(音読原文) 尼ぜ御申の事、 浄観寺殿すぐれし強者(もさ)におはしまつれど、ひととせの浪の上のさわぎの折、勢い足らざれば、のがすまじい船を取にがいて、果々は、あらぬさまにおのれ落さすらへ給ひぬる。

九郎左の小さかしき馬鞍にも事をかき、はかばかしき手の者もあらずして、今、はた、いかがせむにて、はぢをしのび、世にうづまれて、すぐしぬとも、おおん為に思し立ぬる初をわすれず、あ子、まごはさらなり、ひい子のひい子の末々の世までもたゆみ無ういひつがせて、類ひ詠う人をふやし、物をたくわへ、時をまちてこそ。人ふゆともわが人となおぼしそ、物ふゆともわが物となおぼしそ。おおん為の人、おおん為のものぞ。 

(元さらに長文なるも天正の戦乱にて紛失後、家人記憶をたどり復元と)

 

(訳文) 藤の尼(尼御前)が以下申しおく。 浄観寺(貞村の法名)殿は優れた武将であったが、足利尊氏を兵庫の港に襲撃したとき、本来ならば討ち取るべきところを、惜しくも逃がしてしまい、結果として落ちぶれてしまった。荷物運びにも不自由となり、よい家人もいなくなったので、今日いかにして生きようかと悩む様な毎日である。たとえ、恥を忍び、貧困の中で時を過ごす境遇にあったとしても公に志を抱いた家の始まりを忘れず、子や孫や、子々孫々まで言い伝えて、境遇に耐え、人を増やし、財産も増やして、時を待ち、再び公に奉仕せよ。人が増えても、わが人と思うな。財産が増えても、わが財産と思うな。それは全て公に奉仕する為にそなたたちに一時預けられているものである。

 

「公」への奉仕と、北風家の活躍

江戸時代、河村瑞賢に先立ち、1639年加賀藩の用命で北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。また、尼子氏の武将山中幸盛の遺児で、鴻池家の祖であり、清酒の発明者といわれる伊丹の鴻池幸元が1600年、馬で伊丹酒を江戸まで初めて運んだ事跡に続き、初めて船で上方の酒を大量に江戸まで回送し、「下り酒」ブームの火付け役となったのも北風彦太郎である。さらに、これは後の樽廻船の先駆けともなった。

 

俳人与謝蕪村の主要なパトロンが63代北風荘右衛門貞幹である。貞幹は無名時代の高田屋嘉兵衛を後援したことで知られる。

 

また、幕末から明治にかけての当主・北風正造(66代荘右衛門貞忠)は、表向き幕府の御用達を勤めながら、勤王の志士側について百年除金・別途除金(1796年以降代々の主人が個人の剰余金を居間と土蔵の2つの地下秘密蔵に貯め、60万両以上あったという)の資金と情報を提供、倒幕を推進。明治に入っては、初代兵庫県知事伊藤博文のもと、国事・県政に尽力した

 

代々の北風家の当主たちは、「家訓」を守り、公に対し、惜しみない援助をしてきました。しかし、明治はいり、ケタ違いの援助を続けた一方、経済構造の変化に対応できず没落することとなります。いまは、語られることも少ない名門一族は、本拠地の神戸だけでなく、日本全体の公に貢献したものの、家訓に生き、家訓に死んだ一族となってしまいました。

 

北風家の人々は、いまの日本の発展をどうみているのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

  

戊辰戦争の影の役者

 

北風 正造(きたかぜ しょうぞう)

生誕:天保5年2月11日(1834年3月20日)

死没:明治28年(1895年)12月5日

 

江戸時代末期から明治時代の日本の商人。古代から続いた兵庫の豪商北風家に婿養子に入り、家督相続。幕府御用掛を勤めながら、資金面から勤皇の志士を後援した。

 

維新後は友人でもある初代兵庫県知事・伊藤博文と共に、兵庫および神戸の発展に貢献した。神戸駅用地(約24万m²)を無償提供した事でも知られる。しかし、新政府が藩閥組織の様相を呈してくるや、理想とのギャップから官職を辞退。ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)等を使って茶の輸出事業を興す等、家業・商業に専念するが、大番頭の別家喜多文七郎死後、使用人の不祥事、物品思惑購入の失敗が相次ぎ、終に倒産し、失意の中、東京で客死した。

 

維新関係文書は本人が焼却したと伝えられ、西郷隆盛、伊藤博文等と維新前から知己があった。神戸事件で事態解決のため派遣されてきた東久世通禧とは七卿落ちの時手助けした関係でよく知った間柄であった。その他、多くの勤皇の志士と面識があったといわれている

 

すごすぎる北風の財産とあっけない最期

国際都市として発展をつづける神戸市も、北風家の援助なくしては今のはありませんでした。兵庫隊の創設、湊川神社の建立、神戸初の普通学校 「明親館」 の設立など、ほとんどの公共事業に一役買っています。阪神間に初めて鉄道が建設されることになり、神戸駅が正造の所有地内に決まると、この広い土地をぽんと寄付し、開通の日には参列者全員に扇を配って、この喜びをかみしめたと言われています。

 

財産を提供し、心血を注いだ新しい国造りでしたが、正造の想いとは裏腹に、明治政府は藩閥政治の色を濃くし、正造の頭に描いた新政体とはほど遠いものであることがはっきりしてきてきます

 

「おぬしのようなきれい事では出世は出来ぬ」という友人伊藤博文の忠告に

「出世したくない」と憤然として県庁を去ったのは明治六年のことでした。

 

このころから北風家は下り坂に向かっていた。資財にも限りがある。使用人の気風も変わった。家業を再建させようと売った倉庫の代金を持ち逃げする家人も出てきた。明治十五年の不況期には、定期米や北海肥料の買占めに失敗。回船の入港も次第に減り、明治二十六年十二月ついに倒産した。 

 

江戸時代から明治時代にかわると、ひどい汚職が頻発します。政財界が入り乱れ、様々な利権をめぐって争うこととなりました。三菱を筆頭に新興財閥が、財産をきづく一方、時代の波にのれず、没落する家も多数出現しました。とくに北風家は、戊辰戦争のメインスポンサーともいわれ、掛け値なしに、新しい国造りに協力したものの、明治政府、長州を中心にした長州閥に見捨てられる形で、神代からつづく名家は消滅することとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

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