藤原氏の家訓と公家文化

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。

 

藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。

 

平安時代中期以後は、藤原北家のみが栄えた。藤原良房は清和天皇の外戚となり、人臣で初めての摂政となった。そして、良房の養子・基経もまた、陽成天皇の外戚として摂政と関白を務めた。皇室と姻戚関係を結んで他氏の排斥と権力増強を行う路線は代々引き継がれ、842年(承和9年)承和の変から969年(安和2年)安和の変に至る一連の事件で藤原北家の他氏排斥が完了する。藤原道長・頼通父子の代になると摂関政治の最盛期を極めた。

 

平安後期になると、藤原氏と姻戚関係を持たない上皇による院政が始まり、さらに源平両氏の武家政権と移行するにつれ藤原氏の権勢は後退した。但し、その後も江戸時代末期に至るまで摂政・関白は(豊臣氏を除き)藤原北家のこの系統に限られていくようになる。藤原北家以外で関白となったのは豊臣秀次ただ一人(秀吉は藤原秀吉として任官)であり、五摂家以外からの摂政は例がない。

 

家紋は「藤の花」

始祖である鎌足は、大化の改新でも活躍した人物で、もともと中臣を名乗っていたものが天皇によって、「藤原」の姓が下賜され以後、子孫たちは藤原を名乗ることとなります。  家紋は、「藤」にちなんだデザインになっています。「藤の花」は、紫色の花をつける綺麗な草木である一方、他の木や、棚に巻きついて成長する特徴があります。強い生命力がある一方、自分の力だけでは立つことができない宿命も背負っています。

1000年に渡る藤原氏の政治支配は、藤の花のごとく、天皇家という太い幹に寄り添いながら成長していくのです。

 

 

貴族政治が終わったあとも。。。 

鎌倉時代に入ると、栄華をきわめた藤原氏も政治の表舞台から退場することとなります。しかし、権威としての朝廷の力はのこり、主に文化の担い手として、嫡流は近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の五摂家に分立し命脈を保ちます。その後も、五摂家が交代で摂政・関白を独占し続けで公家社会では一定の影響力を持ち続けていたようです。

 

全国に及んだ藤原氏の時代は意外な形で現代にも引き継がれています。たとえば名字ランキングで上位をしめる伊藤、斎藤、加藤、佐藤など○藤という苗字は、藤原の藤にそのルーツがあると言われています

 

伊藤=伊勢国藤原氏

斎藤=斎院司の官僚で藤原氏

加藤=加賀国藤原氏

藤=土佐国藤原氏

 

また明治なると、貴族たちは、それぞれ華族として再び政治の表舞台に登場することとなります。 代表的な政治家としては、近衛家の当主・近衛文麿が有名です。文麿は国難の時代に3度にわたって、総理大臣に任命され、日中戦争を拡大させた首相として知られるものの、他方で、日米開戦を回避するための活動も行いました。藤原氏の流れをくむ文麿は、昭和天皇の意をくみとり、太平洋戦争の回避に努めた皇室の藩屏だったのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遺訓書『九条殿遺誡』とは

  

右大臣藤原師輔が公卿としての心得を記した家訓。10世紀中ごろの成立。毎日起床後に行うべき事柄をはじめとする日常生活の作法,宮廷に出仕する際の心得など,公卿の生活全般にわたって細かい訓誡をのべており,子々孫々にまで重んじられた。書名は師輔の第宅が九条にあったことに由来する。 

 

道長の祖父、藤原師輔が残した文章を手がかりに、貴族の生活や彼らの文化を見てみます。

師輔は「九条殿遺誡」という子孫へ残す文章を書いています。幅広い内容をもつ文章ですが、とくに道徳的な教えと貴族として毎日行うべきことについて、詳しく述べています。

 

 

★属星の名を唱えなさい

★鏡で顔の状態を見なさい

★暦を調べて吉凶を確認しなさい

★楊枝で口の中をきれいにしなさい

★西向きになって手を洗いなさい

★守護仏の名を唱えなさい

★尊崇する神社に祈りなさい

★前日のできごとを日記に書きなさい

 

 

 師輔は、貴族は朝起きてからまず、自分のうまれた年の守り星の名を7回唱え、鏡で顔を見て自分の健康状態を確かめるようにと書いています。このように貴族たちのあいだでは、神仏や陰陽道の教えが入り混じったかたちで信じられていたことがわかります。

 

 

藤原 師輔(ふじわら の もろすけ)

 

平安時代中期の公卿。

 

有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。

 

師輔自身は、摂政・関白になる事はなかったが、村上天皇の崩御後に安子の生んだ憲平親王が即位し(冷泉天皇)、その後は守平親王が続き(円融天皇)、外戚としての関係を強化できたことが、後に師輔の家系の全盛につながり、長男の伊尹を筆頭に、兼通、兼家、為光、公季と実に5人の息子が太政大臣に昇進し、子供たちの代で摂関家嫡流を手にすることとなった。

 

忠平の教育を受けた実頼と師輔はそれぞれ有職故実の流派を確立。実頼は小野宮流、師輔は九条流と呼ばれ子孫たちに受け継がれることになった。これを纏めた書物が『九条年中行事』である。師輔と同じく故実に通じた源高明と親交があり、師輔の三女と五女が高明に嫁いでいる。才人であった高明は師輔の後援を受けて栄進する。

 

また、歌学にも優れ、家集『師輔集(九条右大臣集)』を残している。天暦10年(956年)「坊城右大臣師輔前栽合」を主催。代詠を頼むため紀貫之の家を訪ねた逸話などが『大鏡』に記されている。勅撰歌人として、『後撰和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に36首が採録されている。

 

自身の日記『九暦』、子孫に宛てた遺訓書『九条殿遺誡』を残す。  

 

 

 

 

 

 

 

公家文化の謎

 

毎日、宴をもうようし、歌をよみ、とても忙しく働いていたとは思えない平安時代の公家たち。しかし、その政治体制は長く続き、平安京の遷都(794年)から、鎌倉幕府の成立(1192年)まで実に400年以上続いていたことが分かります。戦国時代を勝ち抜き盤石の体制を整えた徳川政権とて、264年の歴史しか紡いでいないことを考えると、遊びほうけていた公家文化には、現代では分からない「合理性」があったのかもしれません。

 

藤原氏の家訓から考える 

道長の祖父、藤原師輔が残した文章を手がかりに、貴族の生活や彼らの文化を見てみます。師輔は「九条殿遺誡」という子孫へ残す文章を書いています。幅広い内容をもつ文章ですが、とくに貴族として毎日行うべきことについて、詳しく述べています。歯をみがけとか、毎日日記を書けとか、時代をつくった権力者とは思えない普通のことを家訓として子孫に伝えています。

 

戦国時代のように、実力本位の世の中は、誰にでもチャンスはある一方、少しでもスキをみせると、あっという間にほろばされてしまいます。一方、ゆる~い公家文化のなかでは、とびぬけた才能よりも、相手を気遣い仲間内で嫌われない?才能がもとめられていたのかもしれません。当時の公家たちが盛んに短歌を詠んでいたのも、そうした背景があったと家訓ニストは考えます。短歌をよむためには、相手の心の機微をつかむ必要があります。そして、そんな生ぬるい環境は、日本人には居心地もよかったことでしょう

 

合理的に考えれば、京都で暮らす公家たちが日本全体を支配する理由が見当たりません。しかし、地方に暮らす農民にとっても、ゆる~い支配は、それなりの自由と、ほどほどの幸せを保障していたものと推測されます。

 

現代の政治のなかでも、ビックプロジェクトがなんとく始まったり、責任者のいない会議でなんとく、全員賛成で物事が決まることが多々あります。そうしたぬるま湯の会議では、発言の内容よりも、会議の席順や、ドレスコードが問題になっている気がします。つまり、平安時代の公家たちも、宮中での席順や、衣の色や装飾具に心をくだくのは、それはそれなりの合理性がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

 

藤原道長は、栄華を誇った藤原氏のなかでも、最盛期を飾った人物です。今から1000年ほど前の平安時代に最も権力を持った人物でした。794年、今の京都に平安京が置かれてからおよそ400年間を、「平安時代」とよびます。平安京は政治、経済、文化のすべてが集まる大都市でした。当時、政治は天皇が中心となって行うものとされていました。しかし実際は、「貴族」とよばれる人たちが政治を行っていました。政治を行う権力をめぐって貴族のあいだで争いがくりひろげられ、その結果、ほかの一族より強い力を持ったのが藤原氏の一族です。

 

自分の娘を天皇の后に 

藤原氏のなかでも特に大きな権力を持ったのが、藤原道長です。道長はどのようにして権力を手に入れたのでしょうか。道長は、まず自分の娘(むすめ)を天皇の后(きさき)にして、天皇の親戚(しんせき)になります。天皇と娘のあいだに男の子が生まれると、その子を次の天皇にしました。こうして天皇の祖父となった道長は、幼い天皇に代わって政治を行う「摂政(せっしょう)」として力をふるいました。

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天皇と関係を深め強い権力をにぎった 

そしてしばらくして息子に摂政(せっしょう)をゆずり、自分は後見人として力を保ちます。天皇が成人すると、息子は「関白(かんぱく)」となって天皇を補佐(ほさ)し続けます。自分の一族を重要な役職につけることで大きな権力をにぎったのです。摂政と関白が天皇に代わって政治をするこのしくみを、「摂関(せっかん)政治」といいます。天皇との結び付きを強くして、自分に権力を集中させた道長。かれには、だれもさからうことができないほどの大きな権力が集まりました。

 

 

この歌は、藤原道長の三女が後一条天皇の饗宴の席で歌われた有名な歌です。同母姉・太皇太后の彰子、皇太后・妍子と共に一家に三后が立つ前例のない程の出来事で、自身の栄華を誇ったものと言われています。

  

「この世は自分のためにあるようなものだ、満月(=望月)の欠けたことが無いように」。現代語訳に直すと、おおよそこのような意味です。

 

 この歌を聞いて何を思うでしょう?驕りすぎだと感じることもあれば、それすら許される藤原道長の凄さを感じることもあるでしょう。その一方で、みちたる月は、欠けていくのも世の定め、道長の死去後、藤原氏は少しずつ衰退をはじめていくことになるのです。

 

 

日本史最大の謎 なぜ藤原氏は天皇とならなかったのか?

 

井沢元彦の代表作である「逆説の日本史」の4巻の第2章、「良房と天皇家編」では藤原氏がのちに強大な権力の握る礎を解説しています。

 

藤原氏は摂関政治という政治システムを構築し、天皇家から権力を奪うことに成功します。しかし、藤原氏の権力の元になっている摂関政治ですが、その権力構造は生物学的な条件に左右され、決して盤石のものではない。では、なぜ藤原氏は天皇を飾り物とするだけの強大な権力を手中に収めたにもかかわらず、自分自身が天皇とならなかったのか。他の国の歴史を見れば、そのようなことはいくらでも起こっている。自分が天皇となれば、権力は安定した形で藤原氏のものになるではないか。との指摘です。

 

 

虎(天皇)の威をかるキツネ

荘園という言葉は、「この土地は田畑ではなくて、私の庭園です。ですから、国へ税など払いません。」という事から生まれました。もちろん、このような屁理屈を通すことができるのは、高位貴族や有力な寺社だけです。ですから、中小貴族や武士は、土地を「書類の上では高位貴族の庭園」ということにしてもらって、自分の土地を無税にしてもらって、引き続き、自分の土地を経営しました。このことを「寄進」と言います。もちろん、高位貴族への謝礼も払いますし、それによるコネクションも生じます。

 

藤原氏は、あえて1番にならないことで、既得権益の甘い汁を数百年にわたって甘受することになったのです。藤原氏の摂関政治の最盛期には、国の管理する公の土地よりも、藤原氏のもつ「荘園」の方が多かったとの指摘があるほどです。しかし、この「荘園制度」、荘園のあいだには境界(きょうかい)をめぐっての争いや、農産物をうばいあうなどの争いが多かったともいわれ、その上、国を守る国司のなかには、自分が国司でいるあいだに沢山もうけようと、やとった兵に荘園をおそわせたり、よ分に税をとるといった悪い国司もでてきました。そこで自分たちの村や家族を守るために、武器をもって戦う集団が現れました。これが武士のはじまりです。

 

日本中を賄賂政治をひろげた藤原氏でしたが、その後、荘園の管理のために雇ったボディーガード達が反乱を起こすにいたると、丸腰の貴族たちでは、なすすべはなく、時代は、貴族から武士の時代に移ることとなるのです。

 

  

 

 

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