伊勢貞親 『為愚息教訓一札』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊勢貞親

生誕:1417

死没:1473

 

伊勢 貞親(いせ さだちか)は、室町時代中期の武士で室町幕府政所執事である。桓武平氏の流れを汲む伊勢氏

 

幕府をささえた伊勢貞親 応仁の乱でのトホホな活躍

応仁元年(1467年)、勝元率いる東軍と宗全率いる西軍の間で戦端が開かれ応仁の乱が起こると、義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、翌応仁2年(1468年)閏10月に正式に復帰した。しかし復帰に反発した義視が同年11月に出奔して西軍に擁立され、戦乱が長期化する事態となった(弟の貞藤も西軍に鞍替えした)。

 

また、復帰したとはいえかつてのように重要任務を任されることはなく、西軍の部将朝倉孝景の帰順交渉を担当したこと以外に目立った活動は無かったが、文明3年(1471年)4月に万里小路春房とともに蜂起を企てたと疑われて春房とともに近江の朽木貞綱(貞綱室は春房の妹)の元に亡命して出家、そのまま引退した(交渉は浦上則宗に交代、この騒動の背景に反義視の動きに関わる公家層も巻き込んだ蜂起計画があったとする説もある)、2年後の文明5年(1473年)に若狭で死去した。享年57

 

応仁の乱の原因を作った1人とも言われ、『応仁記』では賄賂を横行させ淫蕩に感け、幕府の治世を腐敗させた悪吏として指弾されている他、『応仁別記』という本には「世の中は皆歌読に業平の伊勢物語せぬ人ぞなき」という落首が伝わる。一方で、文正の政変を扱った『文正記』も佞臣として描きつつも、最後に身を退いたことで大乱を回避できたことを指摘して実は忠臣であったのではないか?と最終的には貞親に同情的な評価をしている。

 

また、貞親ら側近勢力こそが義政の政権運営を支えた中核的存在であり、文正の政変による貞親ら側近勢力の排除が義政の政務放棄の一因となったとする見方もある。貞親が逼塞した期間に義政は御内書を発給できず、復帰後も勝元ら細川一族が幕府に無断で軍事関係の書状を内外に発給したため幕府の軍事権限は縮小、応仁の乱後に幕府の権力が低下するきっかけとなった。また、子の貞宗に対して『伊勢貞親教訓』を残した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伊勢貞親 『為愚息教訓一札』

 

サラリーマン風の処世術家訓!?

足利幕府に仕えた伊勢貞親(1417~1473)は、敏景の遺訓より懇切丁寧に身内宛教訓を残したようだ。「気配りの貞親さんの本領発揮」とも言える。そのいくつかを紹介するがどのような振る舞いで生きたのか目に浮かぶようだ。

「将軍」の部分を、上司や社長に置き換えるだけで、現代でも役に立つ?処世術がならぶ家訓です。

 

 

一、 将軍からの御用がなくとも毎日出勤すべきである。そして3日に一度はお目見えするように。

二、 珍しい到来物などがあった場合は、多少にかかわらず主人に進上すべきである。

三、 人にお酒を勧めるのは、人に近づく仲立ちになると考えるべきである。そして、上は将軍から下は田夫に至るまで、悪く言われないことが第一だ。少しでも影で指弾されるようなことがあれば、家門断絶の始まりだ。

四、 侍は弓馬の道が肝要なのはいうまでもないが、能なども当世人の賞翫(しょうがん:そのよさを認めて大事にすること。)するものだから、多少の心得があったほうが良い。

五、 目立つ衣装を着けないように。特に将軍の前では他人と同様の模様など目立たないものがよい。

六、 いかに気に入らぬ者が来ても対面すること。この時に顔色を悟られてはならない。いかに野心を持つ者でも親切そうに対応してやれば、思い直して帰服することもあるのだ。

 

 このように貞親さんの教訓を見ていると最も重視しているのは、人にどう思われるかに腐心している。どうしたら良き評判を保っていくことができるかを貞親さんは累々切々と述べている。ただそれは仕える足利家のためでもなければ天下国家のためでもない。ひとえに自分の保身栄達のためである。

 

 現在の乱世を生き抜くために今日のわれわれが参考にすべき生き方はどちらなのか。読者自身で考え判断するしかない。

 

ちなみに、家訓をたくされ乱世の二人の武将がたどった子孫の最後の道は、越前朝倉家は敏景のあと5代目義景の代に、織田信長によって滅ばされた。一方、政所執事伊勢家は足利幕府の消滅によって絶えたという。福井県の福井駅の通路に戦国武将の一人として朝倉敏景の功績を讃える肖像画と足跡が紹介掲示されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地味すぎる大乱・・・応仁の乱とは?

 

とにかくグダグダ応仁の乱 

応仁の乱には、通説にあるような“単純な対立構図”はありません。むしろ『わかりづらいこと』が最大の特徴で、そこに面白さがある。実は、なぜ戦乱が広がったのかもはっきりしないし、最終的に誰が勝ったのかもよくわからない。

 

誰も望んでいないのに行きがかり上、広がってしまった大乱 

日本の歴史上、最も有名な戦乱のひとつのはずなのに、大河ドラマになれば低視聴率。誰が登場したのかも、どんな理由で争ったのかもよく知らない──そんな「応仁の乱」をテーマにした新書が、異例のベストセラーになっている。

 

 昨年10月に出版された、国際日本文化研究センター助教の呉座勇一氏の著書『応仁の乱』(中公新書)。増刷を重ね、累計18万部を記録している。応仁の乱といわれても、「人の世むなし……(1467)」という語呂合わせが出てくるくらいで、印象が薄いと感じる人も多いだろう。実際、応仁の乱を取り上げた大河『花の乱』(1994年放送、主演・三田佳子=日野富子役)は、当時の歴代最低視聴率を記録した。 そもそもどんな戦乱だったのか。通説をおさらいすると次のような内容となる。

 

 

〈息子がいなかった室町幕府の八代将軍・足利義政は弟の義視を後継者と定める。しかしその後、義政の妻・日野富子が男児(のちの義尚)を出産。富子は我が子を将軍にしようと画策する。この諍いに有力守護大名の細川勝元(義政側=東軍)と山名宗全(義尚側=西軍)が介入し、11年に及ぶ天下を二分した大乱に発展した〉──。

 

この乱の戦場は最初は京都を中心に戦っていましたが、11年にも渡り戦をしていたので、次第に地方へと広まって全国的内乱へ発展していきました。

 

この戦いの主力は、雇われ農民や浪人などの質のよくない足軽が主流でした。そのため、かれらは自分の得する方へ寝返ったり、強奪・焼き討ちなどやり放題の限りを尽くして、屋敷や重要な寺社仏閣なども焼けてしまい、京の街は焼け野原になりました。 

 

戦況も将軍義政と弟義視の仲がおかしくなり将軍家での東軍西軍が入れ替わってしまい、誰が誰のために戦っているか分からなくなってきます。そんなこともあり、幕府の権威がほぼ皆無に等しい状態になっていきます。

 

また、ほとんどの守護大名が京都へ遠征にきていたため、国人衆や配下の武将たちが自分たちの勢力を伸ばそうと、下剋上が各地で起きます。

 

誰のための戦いなのか分からない状態が10年ほど過ぎ、両軍の大将が相次いでこの世を去ります。最後まで畠山義就の小競り合いはあったが、細川・山名両氏の息子により和睦が成立して11年にも及ぶ大乱が幕を下ろす流れとなります。

 

最終的に、将軍職は義政が推していた義視ではなく、息子である義尚が9代目将軍となりました。この応仁の乱で、幕府の権威は失墜して全国で守護大名の不在時の混乱や下剋上が起きて幕府の手におえない状態になりました。

 

これにより、戦国時代の幕が上がっていくのです。

 

 

 

 

 

 

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