長岡藩 家訓 「常在戦場」

 

 

 

 

 

 

 

 

 長岡藩 家訓

『常在戦場』 

 

長岡藩とは?

 越後・長岡藩藩主の牧野氏は、三河国でもともとは今川家の家臣だったものの、桶狭間の戦いで今川家が滅び、後に徳川家康の家臣となりました。豪勇を持って知られ、徳川十七将に数えられた名門の家柄です。

  

藩領には、天然の良港、新潟湊をもち、これを基点とする上方との北前船の物流を活用して藩の財政は潤うものの、幕末には、財政危機に直面。こうした中、英才と誉れ高い河井継之助が藩政改革を断行することとなる。

 

 しかし、改革半ばにして、徳川氏処罰反対の立場とる長岡藩は戊辰戦争に巻き込まれ、河井の主導のもと奥羽越列藩同盟に参加を決定、同盟軍側(東軍)として、長州藩・薩摩藩を中心とする官軍に抗戦したが敗北した。

 

明治元年12月22日に赦免されて24,000石(牧野氏)で復活、まもなく財政窮乏などの理由で藩主牧野忠毅は明治3年10月22日(1870年11月15日)に城知を返上して柏崎県に併合され、長岡藩は廃藩となった。

 

 

長岡藩 家訓とは?

戦国期の牧野氏は、周りを今川氏、武田氏、織田氏、松平氏等の大勢力に囲まれ、奮闘と緊張の毎日でした。荒波を乗り越え生き抜いた体験から「国が興り守るのはより多くの人材づくり」と確信し、常に守るべき生活信条を家訓に定め明文大書きしました。家訓を「牛久保の壁書」といい、「常在戦場」はその第一条です。

  

元和4年(1618)、初代藩主牧野忠成公は晴れて長岡城主に任命され、長岡開府の町づくりと、常に自己を磨く教育の大切さとして「常在戦場」精神を長岡に伝えました。その精神は、藩校崇徳館教育で結実し、河井継之助、小林虎三郎、山本五十六、長岡商人等により実践され、長岡藩は消滅しても、現代長岡の教育に遺憾無く注がれ、今やあらゆる長岡人の血肉となって不死鳥の如く力強く発揮され、長岡の地に根付いていると言われています。

   

参州牛久保の壁書 十八カ条

一、常在戦場の四文字

一、弓矢御法という事

一、礼儀廉恥という事

一、武家の礼儀作法

一、貧は士の常という事

一、士の風俗は、外聞に係るという事

一、百姓に似る共、町人に似るなという事

一、進退ならぬという事

一、鼻は欠くとも、義理は欠くなという事

一、腰はたたずとも一分をたてよという事

一、武士の義理、士の一分をたてよという事

一、士の魂は清水で洗へという事

一、士の魂は蔭ひなたなきものという事

一、士の切目、折目という事

一、何事にても根本という事

一、日陰奉公という事

一、荷ない奉公という事

一、親類は親しみ、朋友は交わり、傍輩中は附き合ふという事、又一町の交り、他町の附き合いという事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

司馬遼太郎によって描かれた長岡藩と河合継之助「峠」

『峠』は幕末の長岡藩で家老を務めた河井継之助が主人公の小説です。世の中が明治新政府中心に変っていく中で、それを良しとせず、最後は旧幕府側として戦い亡くなるまでを描いています。負けるとわかりながらも、自分の信念を貫いた河井のような生き方に心服した司馬によって小説化され、歴史の中に埋もれていた長岡藩の歴史に陽が当たったのでした。

 

藩風を生んだ「家訓」

藩風は藩祖以来の「常在戦場」「鼻ハ欠とも義理を欠くな」「武士の義理、士の一分を立てよ」「武士の魂ハ清水で洗へ」等の『参州牛窪之壁書』や「頭をはられても、はりても恥辱のこと」「武功の位を知らずして少しの義に自慢すること」等の『侍の恥辱十七箇条』と呼ばれた条目を常の武士の心がけとしてかかげ、質朴剛健な三河武士の精神を鼓吹するものです。

 

明治初めの藩政再建中に小林虎三郎が、越後長岡藩の窮乏を見かねた支藩の三根山藩から贈られた米百俵を教育費にあてたという「米百俵の精神」もこのような藩風とともに生まれ、その後も長岡人の気風として受け継がれている。

 

 

長岡藩・河井継之介 辞世の句     

 

 

 

 

河井継之助、辞世の句

 八十里 腰抜け武士の 越す峠

 

 

 

 

 

 

河井 継之助(かわい つぎのすけ)

生誕:文政10年1月1日(1827年1月27日)

死没:慶応4年8月16日(1868年10月1日))

 

江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。

 

幕末期に長岡藩の家老を務めた人物。青年期に諸国を放浪つつ山田方谷、佐久間象山、斎藤拙堂などに学ぶ。故郷である長岡藩に戻ると、類まれなる行政手腕で長岡藩の改革を行い、農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施し成果を上げる。新政府軍と幕府軍の間で戊辰戦争が勃発すると、本来は家老にはなれない家柄だったが、その手腕を買われ長岡藩家老に就任、軍事総督を任命される。

 

わずか7万にも関わらず、武装中立を目指し新政府軍と直談判するも失敗、戊辰戦争最大の激戦とされる北越戦争に突入、新政府軍を苦しめるも敗戦。河井も戦死した

  

 

 

 

 

 

 

 

小さな藩の平和を守るための備え

 

平和に慣れた現代の日本ではイメージしにくいですが、政治的な中立とは、武力があって初めて成立する政策です。

AとB、2つの陣営があったとして、そのいずれにも攻められても守りきる「武」があってこそ、「中立」という立場を保てます。

 

永世中立国として有名なスイスも、アルプスに囲まれた牧歌的な印象とは反対に、国民皆徴兵制をひき、冷戦の際には、原子爆弾にそなえ国中にシェルターを供えていました。一般に中立国は、おおげさすぎるほどの軍備を供えるのが必然です。左翼さんが唱える非武装中立というおとぎ話は、世界史史上どこの国にも存在しないのが現実です。

 

明治維新という激流の中で新政府と幕府が抗争し、諸藩が恭順か佐幕を迫られるなか、河井は長岡をヨーロッパのようなスイスに仕立て上げる構想を練りました。その中立を守るために、この小藩にすれば過重なほどに新鋭武器を買い入れ、藩軍を洋式化し、封建組織を改革していきました。

 

有名なのが、当時の最新兵器である日本に3門しかなかった最新鋭のガトリング砲を2門購入し、北越戦争に投入したことです。ガトリング砲は、機関銃の原型ともいえる兵器で、当時の価格で3億円ほどし、北越戦争では新政府軍を苦しめたといいます。結果として戦乱にまきこまれ、継之介の目指した中立は成し遂げられませんでした。卓越した手腕で、小さな藩の行く末をになった継之介でしたが、その構想は、早すぎるものだったのかもしれません。

 

壮絶すぎる死に様

北越戦争で重傷を負った河井は死期を悟り、従者に自分の死体を焼くための火を起こさせ、その火を見つめながら死んだという。

 

八十里 腰抜け武士の 越す峠 (河井継之助、辞世の句)

 

後世に与えた影響 

河井の存在は、数多くの人間に影響を与えています

 

外山修造

 「寅や」と、外山修造にいったのも、そのときであった。

「このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はもう、おれが死ねば最後よ」

(「峠」司馬遼太郎より)

 

外山はその遺訓に従い、明治期に商人として活躍。大阪財界の立役者となっていきます。

 

維新の動乱期、河井継之助のもと、長岡で戦い、河井の遺訓により商人として生きることを決意する。明治6年大蔵省銀行課に入り、国立銀行創設に力を出した。1878年(明治11年)、渋沢栄一の斡旋で大阪第三十二国立銀行(浪速銀行の前身)総監役として、業務の内容に取り組み、横浜正金銀行大阪支店を経て、1882年(明治15年)から3年間、日本銀行大阪支店長に就任して大阪銀行界の指導者になった。1908年(明治31年)、浪速銀行頭取、大阪舎密工業社長、1909年(明治32年)に阪神電鉄社長に就任したのをはじめ数多くの関西の会社設立に尽力し、大阪銀行集会所委員長として関西財界の指導者として活躍した。

 

②米百俵と長岡藩

米百俵(こめひゃっぴょう)とは、幕末から明治初期にかけて活躍した長岡藩の藩士小林虎三郎による教育にまつわる故事。後に小泉総理の演説で引用され有名になる。この逸話は、現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語としてしばしば引用される

 

 

連合艦隊総司令長官、山本五十六 

河井と同じ長岡の出身であった。北越戦争後、長岡は焼け野原になり、長岡出身者は苦労を強いられたが、山本は終始河井を尊敬し、座右の銘は「常在戦場」だったという

 

「僕は、河井継之助先生が小千谷談判で天下の和平を談笑の間に決しようとされた、あの精神で行ってくるつもり」

(山本五十六、ロンドン軍縮会議に赴くにあたり遺した言葉)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 米百俵の精神  

戊辰戦争のとき、小林虎三郎は、やってくる官軍に対し、幕府の正当性をしっかりと訴えながら、なおかつ戦わないという独自の非戦論を唱えました。けれど藩内の意見は河井継之助の奥羽越列藩同盟による会戦論となります。長岡藩は勇敢に戦うのですが、結果は敗北。

 

そのため、14万2700石あった藩の俸禄は、わずか6分の1の2万4000石に減じられてしまいます。勝てば官軍の名のとおり、「義」を貫いた長岡藩士たちは、たいへんな貧窮のどん底に追いやられてしまいます。あまりの藩内の貧窮ぶりに、藩主の親戚の三根山藩の牧野氏がみかねて、長岡藩に米を百俵送ってくれることになりました。

 

飢えに苦しむ藩士たちからしてみれば、ひさびさに米にありつけるありがたいことです。しかし、百俵の米というのは、藩士とその家族の数で頭割りしたら、ひとりあたり、わずか2合程度にしかなりません。そこで当時、藩の大参事となっていた小林虎三郎は、その百俵を元手に、藩に学校を造ろうと提案しました。

 

「皆、腹は減っている。しかし百俵の米をいま、ただ食べてしまったら、それだけのもので終わる。こうした苦しい状況に藩が追いやられたのも、もとをたどせば、官軍と自藩の戦力の違いを見誤り、ただ感情に走ったことにある。結果、多くの命が失われ、生き残った者も、このように苦しい生活を余儀なくされている。それもこれも、教育がしっかりしていれば、時勢を見誤ることなく、危機を乗り越えることができたはずである。そういうことのできる人材が育っていなかったために、藩がこのような窮乏に立たされているのなら、二度と同じことが起こらないよう、しっかりとした人材を育てるべきである。そのためにこそ、この百俵の米は使うべきである」

 

妻子が目の前で腹を減らしているのに、どうして、目の前にあるせっかくの米を「要らぬ」ということができましょうか。

藩士たちの言い分と、小林虎三郎の意見は真っ向から対立しました。

 

膝詰め談判となったとき、小林虎三郎の目の前には、藩士の刀が突き立てられたそうです。このとき虎三郎は、静かに「常在戦場」の額を示したと言われています。

 

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

そして、米は売却され、その資金によって藩内に学校が建てられました。この学校には、士族だけでなく、一般の庶民の入学も許可されました。その後、明治政府によって学制が敷かれたとき、この学校は現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校となって、現在に至っています。

   

この学校からは、山本五十六ら多くの優れた人材を輩出していきます。米百俵のエピソードは、平成13年(2001年)の所信演説で小泉元首相も「米百俵」を引用したことで、再び全国的に知れ渡りました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

山本五十六の座右の銘(長岡藩の藩是)

「常在戦場」   

  

  

 

山本 五十六(やまもと いそろく)

生誕:1884年(明治17年)4月4日

死没:1943年(昭和18年)4月18日)

 

日本の海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。1943年に前線視察の際、ブーゲンビル島上空で戦死

 

戦争を嫌った軍人、山本五十六とは?

山本五十六は、新潟県長岡市の生まれで、太平洋戦争時には、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を指揮した人物です。海外での留学経験もあり、戦争を回避すべく努力していた人間が、その矢面に立たざるを得なくなってしまった歴史の皮肉です

 

太平洋戦争直前近衛文麿首相に戦争の見通しを聞かれたとき、五十六は対米戦争には最後まで反対しながらもこんな発言をのこしています。「私にやれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れてご覧にいれます。しかし、その先のことはまったく保証できません。」 対米戦争には「負けるに決まった戦争するやつがあるか!」と強硬に反対するものの、時代の流れにあがらえず、いよいよ開戦と決まると、乾坤一擲の作戦となった真珠湾攻撃を立案、見事成功させたのでした。

 

しかし、前線の視察中の五十六の行動をアメリカ軍が無線を傍受し、司令官はあっけない最期をとげます。その後、大東亜戦争は早期講和は実現せず、未曾有の悲劇に招いていくことになります。

 

山本五十六の名言

 苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これをじっと我慢していくのが男の修行だ。

 

百年兵を養うは、ただ平和を守るためである

 

私にやれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れてご覧にいれます。しかし、その先のことはまったく保証できません。

 

人は誰でも負い目を持っている。それを克服しようとして進歩するものなのだ。

 

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば人は動かじ

 

男は天下を動かし 女はその男を動かす 

 

 

藩風と山本五十六 

明治初めの藩政再建中に小林虎三郎が、越後長岡藩の窮乏を見かねた支藩の三根山藩から贈られた米百俵を教育費にあてたという「米百俵の精神」。この米百俵で学んだ学生の一人が、山本五十六、その人です。

 

長岡藩の藩風は、質実剛健で言い表せます。有名な「常在戦場」の一節だけでなく、「鼻は欠くとも義理かくな」の一文に、河合継之介、小林虎太郎、そして山本五十六の半生が重なります。

 

そもそも、「常在戦場」とは、近隣の北●鮮のように、いつでも戦争ができるように準備しておく!という意味でなく、銃をかまえた瞬間だけでなく、むしろ銃後、つまり日常のなかでこそ、戦場に勝る武勲も、繁栄の種があることを教える家訓なのではないでしょうか?

 

藩は消えても、藩風は消えず。

長岡人の中には、いまも長岡藩・牧野氏が遺した戦国の気風が受け継がれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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