家訓で読み解く 明治維新の真実

 

 

 

 

  

 

 

 

 

世界に冠する経済大国、日本。GNPなどの指標では、人口の多い中国に抜かれたものの、海外に築いた財産は、対外純資産は14年末時点で366兆円。24年連続で世界一位の規模です。大東亜戦争に負け木っ端微塵に粉砕されたのが70年前、ペリーが来航し160年前。世界には180余りの国があるなか、日本はいつも特別な国でした。

 

石油が取れる訳でも、鉄があるわけでもない国、日本。しかし日本は豊かな国であり、西欧人ばかりが闊歩する近代の歴史のなかで確固たる地位を占めています。

 

経済大国・日本。その表現は、半分は本当で、半分は本当の評価を隠すものです。

真実はいつも控えめで、上手な嘘のうしろに隠れてしまいます。日本の評価を隠す一人目の犯人は、GHQ。もう一人の犯人は、長州史観を広めた維新後の政治家たちです。反対に二つの嘘を暴けば、本当の英雄がうかびあがるのではないでしょうか?

 

本当の英雄の名、それが徳川慶喜です。

慶喜の功績とは、見事な負け試合を演じて国体を守った点。内戦に乗じて植民地支配をたくらむ西欧列強の出鼻をくじき、国力を維持したまま旧政権(幕府)から、新政府への政権移行を成功させました

 

その後の明治新政府は近代化に成功。日露戦争の勝利も慶喜の決断があってこそのものです。勝負に勝って試合に負けた⁉偉大な敗者 徳川慶喜の功績にもっと光を充てるべきです

 

 

世界は、日本の登場をまっている

16世紀の大航海時代、ヨーロッパ諸国は、世界で植民地の獲得合戦をはじめます。大勢の奴隷が商品として流通し、有色人種にとって不幸な時代がはじまります。人間を人間として扱わない、不健康な「経済」が世界中を席巻したのです。

しかし日本は、明治維新の混乱を速やかに収束させ植民地化の危機をのがれると、西欧の文化を貪欲にまなび、力をつけていきます。そして明治38年には日露戦争で強国ロシアを撃破。この戦いは、有色人種による初めての勝利となり、それまで虐げられてきた多くの民族に勇気を与える戦いになりました。また第二次世界大戦後は、焼土と化した国土から、奇跡の復興をとげ今日に至ります。

 

コロンブスの新大陸発見にも勝る日本の功績

日本の本当の評価とは、500年にわたって続いた白人国家による不当な支配を終わらした功績です。まず、日露戦争で、有色人種が白人にはじめて勝ち、つづいて大東亜戦争では、八紘一宇のスローガンのもと、民族の独立を掲げ奮闘するも敗戦。結果、日本は、国家存亡の危機を招くものの、その遺志をついだ多くの民族が独立を果たし、現代に至ります。

 

歴史は勝者によってつくられる。日本が世界史のなかで果たした役割はとてつもないものです。しかしその功績は、日本の活躍で割を食った西欧諸国によって握りつぶされています

 

石油も鉄もない日本の底力

2016年のリオ・オリンピック、陸上の100m×4のリレーで、日本は、銀メダルを獲得しました。この快挙の秘密は、日本のお家芸である「カイゼン」にあります。100mで10秒を切ることのできる選手がいない日本。しかしその不利を覆すため、バトントスを「カイゼン」し、並み居る強敵を打ち破りました。

 

1足す1は2ではない。知恵や努力をもってすれば、5にも、10にも「カイゼン」することができます。

世界有数の経済大国になった日本。東洋の小さな島国は、石油も鉄もない代わりに、人間という財産がありました。人間の能力は、無限です。そんな小さな島国の成功は、同じように資源に恵まれない国の人たちに、勇気を与えています。イギリスのBBC放送が行った世論調査で、日本が「世界に良い影響を与えている」国の第1位に輝いています。調査は、国際社会に影響を及ぼす16か国と欧州連合(EU)について、それぞれの国への評価を各国に聞いたものです。上位から、1位日本、2位 ドイツと続いています。

 

歴史をつくる家訓という文化

そんな「人間の力」を高める秘密として、日本には「家訓」という文化が根付いています。江戸時代、大名や、商家、農民まで、それぞれの家で、それぞれの歴史にちなんだ「家訓」がつくられ独自の文化をになってきました。

 

「家訓」は、長い人生の中で得た様々な体験を「教訓」として、子孫たちに託すものです。とくに商いや政治的な成功者たちは、子々孫々までの繁栄を願い「家訓」を遺し、その歩みを見守っています。どんな英雄でも、必ず寿命というものがあります。太平の世をつくった徳川家康も、「家訓」を遺した一人です。

  

織田信長、豊臣秀吉の成功と失敗をつぶさに見てきた徳川家康。260年後の子孫にあたる慶喜によって守られた家訓があえいました。では家康はどんな家訓を遺したのでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

織田がこね 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食うは徳川

戦国時代を制した男は、信長、秀吉でなく、徳川家康でした。1603年の江戸開府に始まり、1867年の大政奉還に至る265年に及ぶ徳川家の歴史は、世界史的に見ても類を見ない「長く平和な治世だった」と内外から高い評価を受けています。

 

歴史(失敗)に学んだ家康 家康は、歴史好きで有名でした。とくに、好んだ歴史書に鎌倉幕府の誕生の物語を記した「吾妻鏡」があります。この本には、天下人となった平清盛が、情けによって幼い源頼朝、義経の兄弟を助け、のちに成長した息子たちの活躍によって、平家が滅亡したことを記しています。

 

天下取りを成し遂げた家康。歴史に学んだ家康の最後の総仕上げは、秀吉の遺児・秀頼を抹殺することです。それは「平家の失敗」という教訓をいかす形で、大阪冬の陣、夏の陣で結実することになるのです。 天下を不動なものとした家康。その死に際しては、遺言として孫らに「歴史書」を形見分けしたことが知られています。こうした家康の姿勢に触発された孫のひとりに徳川光圀がいます。

 

水戸藩に託された「家訓」 

水戸黄門としても有名な名君は、祖父と同じよう歴史をまなび『大日本史』の編纂に着手。この本は、のちに明治維新の胎動を招く史書になっていくのです。 たとえ誰かに妬まれようと、大きな成功を勝ち取るためには、過去の事例に目を向け、そこから糧を得ることも大切です。

 

水戸徳川家「家訓」

徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ

 

子だくさんで有名だった家康。たくさんいる兄弟のなか、末っ子の十男の頼房に、出来たばかりの水戸藩を与え、あわせて「徳川家よりも、帝(天皇)を大事にせよ」との密命(家訓)を伝えます。また明文化さえされなかったものの、紀州、尾張と違い水戸藩からは、将軍を出さないことも言明しています。

 

この家訓には、2つの意味があったのではないでしょうか?1つは、政権内に「No」といえる反対勢力をつくっておく意味。もう一つの意味は、徳川家が滅ぼされた時のリスクヘッジの意味と推測されます。実際、将軍家で後継者をたてられない場合、水戸藩の歴代の藩主は、自らは候補者とならないかわりに、後継者選びで、イニティアシブを持ってきました。代表的な例では、五代将軍・綱吉を選任する際、当時水戸藩主であった光圀公が大きな影響力を示しました

 

天下人の失敗を教訓にかえ自らの政策に反映していったしたたかな男、徳川家康。歴史は、彼を戦国時代のさいごの勝者に選びました。 そんな家康が残した遺訓は、270年もの時間をへて、時代を動かしていくことになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである。もしもの時のためにお前に言っておく。」

※徳川斉昭(父)から、慶喜に渡された家訓

 

 

水戸藩とは?

水戸徳川家は、家康十男・徳川頼房を初代として始まります。一般に御三家といわれ、尾張、紀州と共に、将軍家を補佐する役目として設置されたといわれています。

 

二代目藩主となった光圀公は名君として誉れがたかく、のちに浪曲となり「水戸黄門漫遊記」として全国で人気を博しました。光圀公は藩内で数々の実績をあげる一方、日本には歴史を現した史書がないことをなげき、「大日本史」編纂に着手します。この編纂は、250年に渡って続けられ、全巻が完成したのはなんと明治時代。そしてその過程で、日本中の学者や文献が水戸に集うこととなり、「水戸学」といわれた一派を形成していきました。

 

この「水戸学」の根本は、万世一系の天皇家の歴史を明らかにするものであり、また江戸時代のテキストともいえる「朱子学」ともあいなり幕末には「尊王攘夷」の旗頭になっていきます。藤田東湖や会沢のもとには、全国の志士が集い、とくに西郷隆盛や、吉田松陰は、水戸学に傾注していたといわれています。

 

9代藩主斉昭の子で一橋徳川家に養子に入った慶喜が15代将軍となることによって、江戸幕府最後の将軍を出すこととなった。水戸家は親藩の御三家であると同時に、水戸学を奉じる勤皇家として知られており、「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる

 

しかし、実学を重んじる水戸学は、一部の藩士の暴走をうみ、安政の大獄への反感もあって、当時の大老、井伊を殺害します。俗にいう「桜田門外の変」です。その後、歴史はおおきなうねりを迎え、斉昭の子、徳川慶喜が将軍職となるころには、水戸藩内は、路線対立が顕著となり、内戦状態に陥ります。明治維新、そして新政府内に大きな影響を与えることもなく、歴史のなかの役割をおえました。

 

水戸が魁(さきがけ)と言われるのは、こうした歴史の端をひらいた功績からです。

司馬遼太郎は、桜田門外の変を「テロは、歴史をかえないが、唯一桜田門外の変だけは、歴史をかえたテロとなった」っと語っています。

 

画像は、茨城の銘酒「菊盛」。酒名は、藤田東湖ら幕末の志士に愛されたことから皇室(菊)が栄えることを願い命名されたものです。 「尊王」の思想が根付く街、水戸。長州史観の中で埋没しがちな水戸藩の功績を改めて検証します

 

日本一の大学 弘道館を建設

下級武士の登用や新田開発、殖産興業などを推し進め、藩校「弘道館」を開校し、農村部には郷校を開いて次世代の教育にも努めます。水戸市にいまも残る「弘道館」は国の特別史跡で、正庁や正門、至善堂は国の重要文化財となり、2015年には日本遺産に認定されました。

この弘道館は、大きさ、講師陣ともに日本一の規模であり、全国の志士たちの憧れの学校でした。長州藩の吉田松陰もそんな一人です。そして、弘道館で学んだ最高の人材が、斉昭公の息子・慶喜です。慶喜という天才を生むため弘道館がたてれたといっても過言ではありません。

  

斉昭は、聡明さをます慶喜を一橋家に養子に出します。これは、水戸藩の宿命である「将軍を出さない」というルールの盲点をつぐ作戦でした。斉昭は、その後、幕政改革のため息子、慶喜をおしたてていきますが、一橋派は敗れます。その後、主流派となった大老・井伊直弼は、反対派に対し数々の弾圧を加えます(安政の大獄)

 

この間、日本をとりまく環境は激変していきます。外国勢力の干渉は増し、国内は混乱。国の行く末をあんじた孝明天皇は、「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を示し、水戸藩を中心に幕政の立て直しをもとめます。しかしこの密勅は、幕府を無視して水戸藩へ下されたもので、 この一件で、直弼はさらに激怒し、斉昭公は水戸で永蟄居(死ぬまで謹慎)を命じられ失意の中で生涯をおえていきます。(「安政の大獄」)

 

しかし時代は、斉昭の死後、一橋家の養子となっていた慶喜が将軍となり、さらに大きなうねりを迎えていくのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偉大な敗者・徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生し、以後、一橋家に養子にだされたあと、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)に任じられる。江戸幕府最後の将軍であり、また水戸徳川家にとっても、最初にして最後の将軍となりました。 幕府の最後の切り札として登場した慶喜。しかし父・斉昭より天皇を崇拝することを家訓として授けられた慶喜は、偽の勅を操り、天皇を担ぎあげ倒幕をせまる官軍と全面対決することなく大政奉還を実施し、270年の江戸幕府はこうして幕を閉じました。

 

 斉昭:「水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである」

 

 生涯、江戸城を出ることもなかった操り人形のような江戸末期の歴代将軍の中で、これだけドラマティックに、そして業績を残した政治家はいません。政治の面では、政権を朝廷に返上した大政奉還の実現の際には、弁舌はげしく、多くの諸公、公家たちを相手に孤軍奮闘した記録が残されています。殖産興業の面でも、慶喜がつくらせた横須賀にのこる舟を建造するドック等は、明治から大正、昭和と、多くの舟の建造をし日本の豊かさを支えました。

 

また、意外なところでは、石川島播磨重工業も、慶喜公由来の会社です。 これだけ優秀な慶喜が、戦わずして負けたことにあなたは疑問を感じませんか? そもそも、慶喜の世界史以上稀な、見事な敗戦がなくして、明治維新も、日本の繁栄もなかったことをあなたは御存知でしょうか?

 

当時の世界情勢は、西欧列強と言われた白人による植民地政策の最盛期の時代です。世界の国々の独立が奪われ、完全な形で独立を保ったのは、200余国のなかで、タイと日本だけという状況でした。 白人による植民地政策は、狡猾で、また心理をついたものです。まず宣教師をおくりキリスト教を布教させます。この点では、秀吉、家康による布教禁止のおかげで先兵のおくりこまれる危機を脱していたのは幸運でした。次に行う戦術は、内戦です。つまり国内の勢力同士を戦わせ弱体化させるのです。植民地化の際、目立った戦もないままなし崩し的に併合されていったのは、この内戦による疲労をまっていたからです。白人様は、とにかくずるい(*_*)

 

しかし、日本の場合、イギリス、フランス、ロシアにアメリカ。各国が入り乱れ各勢力に分かれ内戦になるのを待っていたのに、慶喜公の見事な退却と、徹底した新政府側への恭順の姿勢のすえ、新政府側、徳川側消耗することなく政権が引き渡されます。軍隊だけではありません。庶民、農民、豊かな大地が荒れることなく、次の時代に引き継がれたのです! 家訓をしらない歴史家たちは、慶喜の選択を、弱腰とも批判します。また徳川側に十分な戦力が整っていなかった?というのも間違いで、鳥羽伏見の戦いの時点では、西欧式の軍隊も導入し、最新式の大砲をそなえた軍艦まで所有し、新政府と徳川側の戦力差はなかったものと言われています。 しかし、慶喜は戦わなかった。 そのことで、生涯、弱腰といわれ、そしていまなお、慶喜を批判する人。あるいは、無能の将軍との辱めをうけています。

 

負けて勝つ慶喜の慧眼

慶喜は悠久の日本の歴史のなかで、負けて勝ったのです。つまり内戦に突入しなかったことで、西欧列強からの干渉を抑えたのです。徳川家は負け日本が勝った。それ以上の勝利があるのでしょうか? 戦の中で、どう負けるか?が一番難しい判断です。秀吉は負け戦のしんがり(退却時の最後の一団)をつとめ、信長の信頼を勝ち取り、百姓の身分から、天下取りをする足がかりを築きました。同じように、慶喜は激動の時代のしんがりをつとめ、今に続く日本の繁栄をもたらしました。

 

 そんな慶喜を育てたものが、水戸徳川家の家訓と、藩校・弘道館。そして水戸の風土であると家訓ニストは断言します そして、偽勅をあやつるズルい新政府軍より、皇室への尊崇の念があったことも事実です。 勝者によって歴史がつくられる。しかしそろそろ、慶喜公、斉昭公の名誉回復と、その偉大な功績を議論すべき時がきているのではないでしょうか?

 

歴史は勝者によって作られるもの

通説とされる「歴史」は、勝者によってねつ造された都合のいい歴史です。 たとえば、大東亜戦争後のGHQによる言論統制。戦後70年でようやくその嘘と向き合うムードになっています。近年では、原子力をめぐる報道でも、さまざまなデマや、意図的に隠された情報が問題になりました。 「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。 最後に慶喜と天皇家にまつわるエピソードを1つ紹介させていただきます。 維新後、普通の感覚でいうと旧政権のトップであった慶喜が蟄居とはいえ存命していたのは、今の国際情勢から判断しても異例のことです。21世紀になってもアメリカ様は、フセインを殺し、ビルラディンも法廷にかけることなく銃殺しています。これは、明治天皇からの特別な計らいがあったのかな?と家訓二ストは考えます。

 

慶喜は、77歳まで生き、歴代将軍の中で一番の長寿をまっとうしています。慶喜の敵方であった志士の面々と比べると西南戦争で散った西郷隆盛、暗殺にあった大久保利通、伊藤博文も、テロリストによって殺害されました。慶喜は、偉大な敗者となり、表舞台から去りながらも、自分を捨て、なおかつ最後は、勝ったのかもしれません。 明治天皇と慶喜は、明治末期に会食の機会がもたれ、かつての居城、江戸城跡にたつ皇居にて面会された記録がのこっています。また、貴族として最も、位の高い公爵を授けていることから、明治天皇より特別な計らいがあったことは、言うまでもありません。そして、驚くべきことに、慶喜の孫は、昭和天皇の御兄弟にとつぎ、また尾張徳川家からは侍従長を輩出、一番近い側近として、天皇家を支えていったのでした・・・

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。 そして、「正義」の人、慶喜は正義よりも、尊い「大義」に生きた人生だったのかもしれません。30歳で就任した将軍職をわずか1年間で瓦解させ270年の徳川政権を店じまい。そして残りの44年間を晴耕雨読の日々で過ごした人生は、見事としか言いようがありません! 温故知新。古きを訪ねて新しきをしる。あなたは、このブログで何を感じたでしょうか? そして、あなたは誰に、何を残し、何を渡しますか? 歴史の裏に家訓あり。 そんな歴史の1ページも、あなたが遺す家訓から始まるかもしれません・・・ 

 

■植民地化を防いだ偉大な敗者

天下人となった家康は、十男の頼房に「天皇を守る」との家訓を託しています

  

斉昭:「水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである」

 

歴史の皮肉は、そんな天皇を第一に考える慶喜が、徳川家のトップ(将軍)になった点です。

 

幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられる活躍をみせます。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒されていました。

 

しかし、尊皇を一義に考える慶喜公は、錦の御旗をかかげる新政府側と、全面対決することなく、270年に渡る徳川幕府を終演させました。鳥羽・伏見の戦い後の「敵前逃亡」など惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて大河ドラマの放送などもあり、再評価する動きもみられます。

 

家康がのこした密命は、半分は当たり、半分は外れました。

天皇家を第一に考えた水戸家によって、徳川家はかろうじて生き残り、そして、将軍にしてはいけない水戸家を将軍にすえたことで、幕府の政治は終焉したのです。

 

勝ち戦よりも、負け戦の締めくくりの方が100倍難しいもの。

家康の再来と言われた慶喜だったからこそ、300年の歴史に終止符を打てたのではないでしょうか?明治というまぶしい時代をつくった陰には、偉大な敗者、慶喜がいたことを忘れてはいけません。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■コロンブス以来の大事件! 「日露戦争勝利」の意義

 

(参照:日本人の覚醒)

http://kabukachan.exblog.jp/19062401/

 

20世紀に入る頃の白人による植民地支配は、熾烈をきわめ、地球上にある陸地は、ほぼ全てを白人が支配した状況になっていて、最後の最後に残っていたのは、極東の日本だけでした。 

 

日本を植民地にすれば、白人による世界支配は完了だったと指摘する声があります。日露戦争を契機に、圧政に苦しんだ世界の国々は次々と独立を果たしていきます。世界史に分水嶺があるとするならば、1つはコロンブスによる新大陸の発見、そしてその流れを変えたもう1つの峰は、日露戦争の勝利、すなわち有色人種による初めての勝利であったと断言できます

  

ひどすぎる白人の植民地支配

コロンブスの新大陸発見以後、西欧列強はこぞって植民地をひろげていきます。農奴となった現地の国々では、教育の機会をうばわれ、自立のための施策は握りつぶされます。不幸な歴史は、数百年と続き、支配される有色人種たちには、その出口は一向にみえない時代がありました。

 

イギリスと清(いまの中国)によるアヘン戦争では、紅茶の原料となるお茶の葉を購入していたイギリスが、貿易赤字の解消のため、アヘンを売りつけます。中国側は、当然これに怒ります。この抗議は、戦争となり、結果、戦争に負けた中国は、香港をイギリスに奪われ、またアヘンの販売も公式に認めさせるに至ります。っていうかメチャメチャ(*_*) 

 

植民地化された国々では、当たり前のように人権や財産、そして民族のプライドを奪われていきます。南アメリカでのスペインによる植民地支配は、卑劣を極めるものでした、数億ともいわれる徹底的な搾取と殺戮を基本とし、人口が足りなくなるとアフリカから奴隷を補充するという鬼畜ぶり、のちに殺しすぎるとプランテーションの運営に支障がでることから、生かさず殺さずという施策がとられるようになります。

 

そんな不幸な時代をかえる分水嶺となったのが「日露戦争」です。「分水嶺」とは、山の頂で、雨水が異なる水系に分かれる場所のことをさし、転じて、物事の方向性が 決まる分かれ目のたとえです。水の流れは1滴、2滴でも植民地時代を終わりをつげる大河の一滴は、「日露戦争」であり、またとどめをさしたのが、大東亜戦争だったのです。

 

 

白人国家 VS 非白人国家」での非白人国家の最初の勝利 

欧米列強に浸食されていたアジア・アフリカ諸国では、「どう転んだ所で、欧米列強にはかなわない」と無気力状態に陥っていました。そこへ、最近までチョンマゲを結っていた極東の小さな島国が、欧米列強の一大国・ロシアに勝利したと言うビッグ・ニュースが飛び込みます。

 

このニュースによって、日本はアジア・アフリカ諸国の「希望の星」になったと同時に、それまで欧米列強には敵わないと諦めていたアジア・アフリカ諸国に「独立」と言う希望を抱かせたのです。この希望は多くの人々に強烈なインパクトを残しフィンランドでは、「トーゴー・ビール」が発売されるほどでした。

 

「コロンブス以来の大事件」

有色人種の国家が最強の白人国家を倒した…事実、日露戦争の敗北から十二年後、ロシアの王朝は革命によって倒れた。これも日本に負けなかったら、事情は変わっていたであろう…という事実であり、世界史の大きな流れからすれば、コロンブス以来の歴史的大事件となりました。

 

コロンブスの新大陸の発見が世界史上の大事件であったことを認めない人はいないはずです。新大陸の発見後、大航海時代がおこり、白人が有色人種の土地にやってきては、それを植民地にするという時代がはじまります。世界史的には、アメリカの独立戦争(1775~83年)も、大きなトピックスですが、あくまで同じ文脈にそうことになります。それは小さな出来事に過ぎないのではないでしょうか?

 

アメリカが独立しようと、イギリスという国の植民地になろうと、それはあくまで白人同士の内輪もめであって、「世界史」全体からすれば、どちらに転んでもいい話です。インディアンたちにとって、アメリカ大陸の支配者が誰であろうと、白人であるかぎりは状況は変わらない。白人の植民地支配のほうが、ずっと大きな問題です。

 

日露戦争での日本の勝利がなかったら、この白人優位の世界史の流れは、21世紀になっても、あるいは、22世紀になっても変わらなかったかもでしれません。ところが、日露戦争での日本の勝利が分水嶺となり、コロンブス以来400年ぶりに、世界の歴史の大きな流れが変わりました。

 

当時の日本は、まだ近代化したばかりで、力の強い国ではありませんでした。ロシアより、ずっと力の弱い国です。お金も軍隊の力も、ロシアのほうが約十倍も上回るなか、少ない資源を有効に活用し、智慧をしぼり、奇跡ともいえる勝利を実現したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

作家・司馬遼太郎は、維新や革命を成就させるためには、3つのSTEPがあると説いています。まず、思想家が警鐘を鳴らし、次いで革命家が奔走する。彼らの大半は早逝するが、生き残った実務家が新体制を仕上げます。いうまでもなく、思想家は松陰であり、革命家は竜馬です。そして最後に登場するのが革命の果実を受け取るものです。

 

英雄は、早死にし、いつのまにか偉くなった凡才たちが我が物顔で社会を支配する。

革命とはいつもそんなものなのかもしれません。そして、革命によって果実を受け取ったもの、それが長州閥といわれる人物ではないでwようか?

 

ここで、明治維新のおさらいをします。

 

1853(嘉永6)  ペリーが浦賀に来航

1854(嘉永7)  日米和親条約

1858(安政5)  日米修好通商条約/安政の大獄

1860(安政7) 桜田門外の変 伊直弼暗殺

1863(文久3)  浪士組(のちの新撰組)が結成

1864(元治元) 新撰組による池田屋事件/蛤御門の変第1次長州征討 薩長同盟

1866(慶応2)  薩長同盟が結ばれる

1867(慶応3)  坂本竜馬、新政府綱領八策を起草/討幕の密勅 岩倉具視

          徳川慶喜 大政奉還

1868(慶応4)  鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争

          江戸城無血開城 

明治

1869(明治2)  東京に遷都 明治維新

1871(明治4)  廃藩置県

 

 

異例の大ヒット「明治維新という過ち」

原田伊織氏の「明治維新の過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」という本が出版され話題になっています

  

当たり前のことですが、明治維新とは「革命」でありクーデターす。明治維新を成し遂げたのは、薩摩藩や長州藩、それに土佐藩など地方の下級武士であり、当初、維新をリードしていた薩摩藩、長州藩のお殿様でさえ、最後はハシゴを外される形で、表舞台から退場させられる劇的な変化でした。代表的な人物には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)。ほかにも、テレビドラマに再三登場する坂本龍馬や、新撰組の近藤など、多士済々の面々が活躍した時代でした。

 

日本の幕末から明治初期の動乱の間、西欧諸国はは、幕府側と倒幕側の両方に武器を提供して大儲けを狙っていました。つまりどちらが勝っても彼らが利益を手にし、支配権を握る分断統治の仕組みです。 このように欧米人の存在も含めて明治維新を見直すと、明治維新とは日本の下級武士たちに起こさせたテロ、クーデター(倒幕)であった性格を持つことがはっきりと見えてきます。

    

私たちが知っている明治維新は、官軍の創作にすぎない 

歴史というものは勝者が作り上げるものであり、そこには多かれ少なかれ嘘や捏造が紛れ込んでいるという考え方がある。しかもその多くが、薩長政権による創作であるとしたらどうだろう。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が描くような吉田松陰や門下生による幕末・明治維新は、本当に存在したのだろうか。松陰や門下生の活躍を描いた司馬遼太郎「世に棲む日々」を読むと、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作たちがやったことは、現在でいうならテロである。異国船での密航、英国公使の暗殺未遂、英国公使官の焼き討ち、幕府老中の暗殺計画などは間違いなくテロである。司馬遼太郎は、それらを「革命」という言葉で誤魔化しているが、果たしてそれは正しい歴史認識なのでしょうか

 

  

官軍教育が教える明治維新とは 

原田氏はまず、薩長政権が作り上げた「明治維新」とは何かを提示する。長く鎖国が続き、封建体制のまま停滞していた日本を、欧米の列強による植民地化から防ぎ、大いなる近代化をもたらした革命。その立役者が薩長土肥の下級武士を中心とした「志士」たちだった。

 

長州の桂小五郎、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文、井上馨、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬、板垣退助、後藤象二郎、肥前の大隈重信、江藤新平などである。彼らは幕府や佐幕派の勢力の弾圧に屈せず、「戊辰戦争」に勝利して、討幕を成し遂げ、日本はようやく近代化への道を進み、今日の繁栄があるのだ。それが、著者が教えられた「官軍の歴史」である。

 

 

 

■「まだ早い」 270年間つづいた毛利家の秘密の儀式

長州藩は、鎌倉時代末期から続く名門であり、戦国時代には、中国地方最大の勢力となる。しかし1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となり、敗戦後、周防国・長門国の2ヶ国に減封。しかし、江戸時代を通じ度重なる幕府からの嫌がらせに耐え、藩の隆盛をたもち、ついに江戸時代末期には長州藩から数々の優秀な志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。

 

司馬遼太郎の著作には、毛利藩の反骨心を示す逸話を記しています。その逸話とは、江戸時代の270年間、毛利家にはある秘密の儀式です。

 

新年を祝う宴の席、家臣は殿さまを前にかしこまりながらも、次のような言葉をかけます。

 

家臣:「今年は倒幕の機は如何に?

藩主:「まだはやい

 

毛利家が率いる長州藩は、江戸代末期、長州征伐等により幕府から圧迫を受けたが、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎等の有能な人材を輩出し、明治維新を成就させています。その背景には、関ケ原の戦いの後の苦難を忘れず、270年にわたって雌伏の時をすごし、討幕を成就させた毛利藩の恐ろしい「執念」を感じないでしょうか?

 

表だっての家訓には、「天下を狙わず」とありながらも、新年の会では、「時期尚早」(まだ早い)との討幕の遺志を確認するしたたかさが素敵です。

 

家訓の中には、毛利藩の「討幕」や、水戸藩の「主は天皇家」など、口伝による秘伝の家訓も存在します。文書では確認できない資料であっても、その後の藩の歩みをみれば、秘伝の家訓がいかに藩の命運を分けていったかが分かる事実です。 

 

腹が減っては戦はできない

270年の太平の世の間、伊達正宗がきずいた仙台藩や、上杉謙信に由来がある上杉家など多くの雄藩は、藩を保つのがいっぱいいっぱいで、没落していきます。しかし、西国にとどまった長州藩、そして薩摩藩は、関ケ原の恨みを忘れず藩の財政を健全化し、銭をたくわえ、倒幕の時を待っていたのでした

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

■大日本帝国は、長州幕府だった!?

 

明治維新後、日本の総理大臣には、初代伊藤博文からはじまり、安部総理まで計8人が歴任しています。その数はダントツで、明治維新の中心となった長州藩が、維新後の政界に多く出世していったことによるとされています。そのことをさして大日本帝国は、長州幕府だったっと揶揄する声も聞こえるほどです。

  

歴史は勝者がつくる 

幕末維新の歴史が語られる際には、明治維新を達成した薩摩・長州藩は勝つべくして勝った善玉で、政権の座から退いた徳川方は負けるべくして負けた悪玉という予定調和のストーリーが展開されてきました。だが、それは勝者側の言い分に基づく歴史像に過ぎないのではないでしょうか?こうした勝者によってつくられた一方的な歴史のとらえかたを「長州史観」と表現されるようになりました。 

 

歴史は勝者によって作られるもの。つまり今、通説とされる「歴史」は、勝者によってねつ造された都合のいい歴史です。

たとえば、大東亜戦争後のGHQによる言論統制。戦後70年でようやくその嘘と向き合うムードになっています。近年では、原子力をめぐる報道でも、さまざまなデマや、意図的に隠された情報が問題になりました。

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。 明治維新後、政権をとった薩摩長州を中心にした新政府は、西欧列強に対抗するため、様々な施策を打ち出しました。全体として、その業績は素晴らしいものでしたが、全部が全部良かったのか?といえば、違います。

 

新政権をになった長州史観にとって、旧政権となる江戸時代は、暗い時代でいる方が都合がいいものです。農民は搾取され、政治は腐敗していたと、いまだに教科書にはそんな記述がのっています。しかし、農民の暮らしぶりは江戸時代の方が豊かだったとのデータや、汚職は、江戸時代の方がよっぽどかわいいものだということが常識になりつつあります。

 

汚職天国? ズブズブ長州閥 

江戸幕府を倒し発足した明治新政府は、そのスタート直後から腐敗していきます。まず、明治の汚職事件を代表する有名な事件、「山城屋和助事件」を紹介します。これは当時明治新政府の陸軍卿の職に就いていた長州藩出身の山県有朋が関連した汚職事件です。なんと、この山縣、第3代、9代の内閣総理大臣に指名されている御大です(*_*)

 

長州出身の御用商人となった山城屋。山縣のとりはからいで、軍需品の納入を一手に引き受け、莫大な利益を得ていきます。山県もその見返りとして、山城屋から多額の賄賂をせしめます。その後、スキャンダルに見舞われた山城屋は、山県に罪が及ぶのを恐れ、証拠書類を一切焼き捨てて、自殺をします。

 

山城屋の自殺により、事件の真相は闇に葬られた形となってしまい、山県は罪に問われることはありませんでした。 

 

また同じく長州閥の井上馨は、維新後、南部藩の御用商人が管理していた銅山を没収。これだけを取ってもヒドイ話なのですが、その後裏から手をまわし、払い下げ、結局最後に井上はその銅山を私有化しようとしたのです。この事件では、当時司法卿であった江藤新平が徹底的に調査を進め、井上の逮捕寸前まで事は進んだのですが、結局、長州藩閥の力で井上の罪はうやむやにされてしまったのです。

 

明治も落ち着いた頃、幕閣側にありながらも新政府に協力していた山岡鉄舟は、勲三等に叙せられたが、これを拒否してます。その際、勲章を持参した井上馨に、

お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったそうです

 

明治維新の功労者、吉田松陰や高杉晋作は、若くして命をたっています。一方、20代でなくなった高杉と、一才違いの山縣は、汚職に手をそめ、最後は元老として政治の世界に君臨しつづけました。そもそも中世から500年にわたりその名をとどろかせた毛利家も、明治維新では、いつのまにか家臣たちに乗っ取られる形で、政治の表舞台からフェードアウトしていきます。勝者であるはずの、毛利藩の殿さまにして、この仕打ち、明治維新という革命は、誰が勝者で、誰が敗者か、そして誰が英雄で、誰が罪人か・・・

 

長州史観を卒業しない限り、本当の意味での維新は終わらないのかもしれません。

 

 ■もうひとつの「まだ早い」

戊辰戦争で、遺恨をのこす長州と、会津。維新後160年たってもその恨みは晴れないといいます。

 

司馬遼太郎さんの著作には、会津青年会議所が、萩の青年会議所より、友好LOM締結申し入れがあったものを、これを拒絶し、地元から喝采をうけたとの記述がありました。 曰く「まだ早い!」 っと

 

 歴史は教科書の中でなく、息吹として人々のなかに眠るもの、家訓ニストは、これが文化だとおもいます。 さて、維新を巡って残る長州と、会津の「まだ早い」の逸話。 平成25年、司馬さんの著作以降、進展があったのか、日本JCの全体会議の機会を活かし、会津JCのメンバーさんに伺ってみました。 司馬遼太郎さんの取材から、30年がたち、友好LOMの進展があったのか?その後経過は、再び萩JCから、友好LOMの打診があったものの・・・ 曰く「まだ早い!」 っと一蹴したそうです。

 

会津JCは、圧倒的に偉い! 家訓ニストが暮らす水戸も、薩長にしてやられ、尊皇の地だったはずが朝敵の汚名をうけた屈辱の歴史をもっています。 他の地域の皆様にとってはどうでもいいことかもしれませんが、誇るべき地域の文化は、建物や絵だけでなく、歴史に裏付けられた「ひと」だと確信しています。

 

100年、1000年たっても、「まだ早い!」といえる文化を釀成するもの、それが家訓です。 会津藩には、ならぬものはならぬで有名な、「什の掟」に加え、初代・保科正之から伝わる家訓、そして宿敵・長州にも、毛利家の家訓が残っています。 あなたが伝えたいものはなんですか?  絶対と思っている価値観さえ、時代の中では、たゆたうもの。絶対に、守らなければならないものをあなたは、自分の言葉で語れるでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

「 大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。

  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」

(会津藩 家訓より)

 

  

松平 容保(まつだいら かたもり) 

生誕:天保6年12月29日(1836年2月15日)

死没:明治26年(1893年)12月5日

 

幕末の大名。陸奥国会津藩の第9代藩主。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である

 

『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意した。

 

京都守護職に就任した容保は、12月に会津藩兵を率いて上洛した。そして、孝明天皇に拝謁して朝廷との交渉を行い、また配下の新選組などを使い、上洛した14代将軍・徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたった。会津藩は幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕府的な活動をする尊王攘夷派と敵対する。八月十八日の政変では長州藩の勢力排除に動き、孝明天皇から容保の働きを賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜された(詳細は後述)。容保はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。

 

 

■孝明天皇からの信頼と、崩御からの突然の朝敵・・・

 現代では、天皇陛下のお姿をテレビをつうじ拝見することができます。また園遊会の席など国民と気軽におはなしをされる姿に親しみを感じる国民も多いのではないでしょうか?

 

しかし、江戸時代までの歴代の天皇さまは、御所から出ることもなく、その肉声や、直接お会いする機会がないのが普通でした。容保公は、そんな時代の天皇さまの信頼を得、また宸翰(天皇直筆の手紙)を受け取る人徳は、計り知れないものがあります。

 

明治維新という激流の中の、ババひきで、最後のババを引いたのが容保です。孝明天皇からの厚い信頼から、京の治安をまもる大義に挑み、新撰組の結成を援助。結果、討伐の対象となった長州、薩摩の藩士たちの恨みをかうことになったのです。

 

明治維新のしめくくり、歴史上では、暗殺との噂もたった孝明天皇の突然の死で、忠義に生きた容保は、一転、朝敵とされ、徳川家の瓦解、戊辰戦争、そして会津藩の悲劇とつながっていきます。

 

会津は幕末は官軍でした。明治天皇の前の孝明天皇は容保を厚く信頼していました。それが明治維新で賊軍とされたのです。

まだ幼少であった明治天皇が、倒幕の勅命を下したっというのも、薩長にとって都合の良すぎる歴史です。固定概念をすて、まっさらに史実だけをみれば、天皇の名をかたり、政敵を排除した新政府のやり口が見えてきます。

 

明治維新を起こした薩摩以外の尊皇攘夷派の藩や浪士にとっては、京都でっ彼らから天皇を守護してきた会津藩は仇以外の何者でもありませんでした。

賊軍とされ敗れ去った容保は、恭順に転じ、自らの先祖にあたる家康公を弔う東照宮の宮司として生涯をおえました。

 

 

■会津と長州を表す、2つのエピソード 

歴史は、伝えるものだけなく、伝える側の覚悟を求められるものです。 司馬遼太郎さんの著作から、会津と長州を表す、2つの「まだ早いっ!」っと唸る、そんな逸話を紹介させていただきます。

  

長州の場合

1つ目は、長州毛利藩の秘密の儀式。新年が始まるとご家老が、お殿様に訪ねます。

 

家老:「殿、今年はいかがなさいましょう?」 

殿 :「まだ早い」

  

関ケ原の合戦から、幕末までの270年間、この儀式は続き、毛利家の雪辱を忘れないよう、そして倒幕のチャンスをひたすら待っていたという逸話です。実際、長州藩は、倒幕を成し遂げました。 

 

会津の場合 

会津JCさんが、萩JCさんからの友好LOM締結の打診を断り、地元から喝采をうけたとの記述がありました。 

 

曰く「まだ早い!」 

 

長州藩からは、関ケ原の戦いから270年守り続けた秘密の儀式。一方で会津藩からは明治維新から、 150年をへてなお、戊辰戦争の宿敵を許さない会津気質。歴史は教科書の中でなく息吹として人々のなかに眠るもの、家訓ニストは、これが文化だとおもいます。 

 

平成25年、司馬さんの著作以降、進展があったのか、日本JCの全体会議の機会を活かし、会津JCのメンバーさんに伺ってみました。司馬遼太郎さんの取材から、30年がたち、友好LOMの進展があったのか?その後経過は、再び萩JCから、友好LOMの打診があったものの・・・

  

曰く「まだ早い!」っと一蹴したそうです。

 

会津JCは、圧倒的に偉い! 家訓ニストが暮らす水戸も、薩長にしてやられ、尊皇の地だったはずが朝敵の汚名をうけた屈辱の歴史をもっています。

  

他の地域の皆様にとってはどうでもいいことかもしれませんが、誇るべき地域の文化は、建物や絵だけでなく、歴史に裏付けられた「ひと」だと確信しています。100年、1000年たっても、「まだ早い!」といえる文化を釀成するもの、それが家訓です。

 

会津藩には、ならぬものはならぬで有名な、「什の掟」に加え、初代・保科正之から伝わる家訓、そして宿敵・長州にも、毛利家の家訓が残っています。

 

あなたが伝えたいものはなんですか? 

絶対と思っている価値観さえ、時代の中では、たゆたうもの。絶対に、守らなければならないものをあなたは、自分の言葉で語れるでしょうか?

 

 

■本当の朝敵は誰?

京都守護職として孝明天皇から絶大な信頼を受けていた容保は、孝明天皇から宸翰(しんかん)(天皇直筆の書)を下賜されていました。

これは会津藩が朝廷の信頼を受けてたことの証であり、維新政府の意思と孝明天皇の意思(佐幕)が逆であったことの証明でもありました。

 

結局、容保の生存中に公にする機会は無く、死後10年を経てようやく日の目を見ました。この頃は西南戦争を経て政府中枢にも東北出身の政治家が実験を持った時期(岩手出身の原敬の入閣など)でもあり、戊辰戦争に対する政府内評価も変った時期でした。

 

容保公は、宸翰(しんかん)(天皇直筆の書)の存在を家族にもつげずその生涯をおえました。明治維新中から、どの場面でも、朝敵を免れるチャンスがあったはずですが、一切の言い訳もせず、孝明天皇から文書を秘匿するように言われた約束を守り、忠義のなかでその生涯を閉じています。

 

こんなカッコいい人っていますか!?

 

会津人の気質をつくった藩校・日新館の見学コースの最後に、唐突に、今上天皇のご家族の家系図が展示してあります。

そこには、秋篠宮さまのお名前と、紀子さまの名前が記してあります。実は、紀子さまのご実家、川島家は、会津藩士の血統なのです。

 

とくに明文化もされていない家系図の展示の中で、維新後150年にわたって苦渋をなめてきた会津の人々の静かな願いを感じてしまいました・・・ 

 

歴史の評価は、その時々に変わるものです。明治維新の空気では、会津は朝敵でなくてはいけませんでした。

そして21世紀。歴史の中にかかったバイアスをのぞけば、誰が朝敵であってかは明白です。

少なくとも、会津藩ではないのは確実です。そして、一方的に会津を敵役に仕立て上げた長州の輩が、大東亜戦争の伏線をひき、皇国の滅亡の危機を招いたことを忘れてはいけません。っていうか、現総理大臣の安部総理も、長州ですね(ー_ー)!!