敗者の品格 小栗忠順の最期の言葉

 

 

 

 

 

 

 

 『お静かに』

 (斬首を前に騒然となった聴衆にむけ放った 小栗忠順の最期の言葉)

 

 

 

小栗 忠順(おぐり ただまさ)

 

江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。

 

 

■明治の父といわれた敗者

 

安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。

 

徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村に隠遁。同年4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。

 

のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した

 

■小栗の評判 

 

大鳥圭介は、小栗について「小栗は、剽悍な人物で、議論の盛んにした。武芸には達したが、洋書を読みこなすまではいたらず、洋学者から話を聞いては、世界情勢に留意していた。私どもが、(小栗の屋敷へ)行くといつも世界情勢の事を聞くから、知っている事を話したが、記憶力は非常に強い人であった。」と証言した。

 

大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語った。大隈の妻である綾子は小栗の親族であり、小栗家に同居していた時期があった。大隈は時流を先読みして行動する小栗の姿勢について感化を受けていたといえる。

 

日露戦争の勝利後、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。

 

「三井財閥中興の祖」三野村利左衛門は、かつて小栗家で中間を務めた。三井組に入ったのは小栗との交流があったからこそである。慶応4年(1868年)以降に三井組が新政府へ資金援助を始めたのは、小栗の助言によるとする説もある。

 

小栗は1867年のパリ万博に際して「日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語っている。

 

小栗は独特な言語センスの持ち主であった。頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っている。一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とされる。

 

小栗は鉄砲や弓の名手でもあり、砲術及び弓術上覧にて、それぞれ皆中し、徳川家慶より褒美を賜っている。また、小栗所用と伝わる文久2年(1861)8月制作の《本小札五枚胴紺絲威具足》が、東京富士美術館に所蔵されている

 

 

■謎多き、その最期

 

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還。

翌慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。

 

慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する」という挟撃策を提案したとされ、後にこの策を聞いた大村益次郎は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と恐れた。実際、この時点において旧幕府軍は多数の予備兵力が残されていたが、慶喜はこの策を採用せず恭順論を受け入れた。

 

慶応4年3月初頭、小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っていた

 

同年閏4月4日、小栗は、官軍に捕縛され、閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、斬首された。享年42。

 

死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した。そして原が、「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだという。

 

 

小栗上野介忠順に対し新政府軍は何故、斬首という厳しい処分をしたのでしょう?

.

小栗は最後の将軍慶喜に信頼されて外国奉行や勘定奉行を要職を歴任して財政の建て直しや横須賀製鉄所の建設、日本初のフランス語学校を設立などに手腕を発揮しました。

小栗は鳥羽伏見の戦い後に主戦論者でしたが、主戦論者は小栗以外にも大勢いました。

小栗はその後罷免されて領地の上野の権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に一族とともに静かに暮らしていたところへ新政府軍が来て捕縛しろくに取り調べもせずに斬首しました

 

徳川慶喜や幕府閣僚、会津藩主の松平容保らは死罪になりませんでした。

新政府に最後まで抵抗し函館まで行って戦った榎本武揚・大鳥圭介等も死罪にはならず投獄され、その後に許されて明治政府に出仕しています

 

新選組の近藤勇が長州などの恨みを一身に受けて斬首されたのは分かるのですが、小栗上野介忠順に新政府によって斬首されるほどの罪や恨みがあったのでしょうか?

 

 

 

何の詮議も行われることなく、小栗上野介忠順は慶応4年(1868年)閏4月5日に家臣とともに烏川の河原で斬首されています。薩長の憎しみを受けた新撰組局長の近藤勇ですら捕縛された後、取り調べや尋問を受けたあと斬首されているくらいですから、小栗の斬首は奇異といわざるを得ません。

 

まず、明治政府は小栗忠順の功績を抹殺したかったのではないでしょうか。大隈重信は後に「小栗は謀殺される運命にあった。何故なら明治政府の近代化は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語っています。近代日本の建設に大きな役割を果たした横須賀造船所を創設した小栗忠順の功績を認めたくはなかったのでしょう。また小栗忠順は官軍との徹底抗戦を主張していましたが、勝海舟は幕府を平和のうちに滅亡させて徳川家を存続させたいと奔走していました。、ゆえにどうしても彼が邪魔だったので排除したかったなどの説があります。

小栗忠順という存在を否定したい明治政府、徳川家存続のため彼が邪魔だった勝海舟、薩摩藩邸焼き討ち事件などで小栗を恨む勤皇の志士たち、彼らは皆、何らかのコネクションによって結びついていたなど、小栗の処刑を願う人間は決して少なくなかったということになります。

 

また小栗が領地に莫大な埋蔵金を隠していたとする説が処刑当時から根強くあります。莫大な財宝・軍資金を秘匿したのは官軍と一戦交えようとの企てがあるのではないかという疑惑が処刑の理由ですが、埋蔵金にかかわる証拠は見つかっていませんし、当時逼迫していた幕府の金蔵に持ち出せる大金などあろうはずもなく、小栗の「理由なき処刑」を正当化するために流された流言蜚語だともいわれています。

 

■最期の言葉と小栗の名言

 

「お静かに」

自身の斬首の直前、口論を始めた村人と明治政府の役人たちに。

 

「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」

幕臣・鈴木重嶺(佐渡奉行)の「費用をかけて造船所を造っても成功する時分に、幕府はどうなっているかわからない」という言葉に答えたものである。

 

「一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」

福地源一郎「幕府衰亡論」より。「病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」どうせ治らない病だからといって薬を渡さないのは孝行息子のやることではない。ならば、幕府が滅びるまで自らの公務に専念して立ち働く者こそ、真の武士である。福地源一郎『幕末政治家』より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      大人気・家訓ブログが本になりました!

 

<新刊>口コミだけで7,000人以上が共感!

“家訓のスペシャリスト”の幡谷哲太郎氏が、

初めての書籍『世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方』を発売~叱らない、見守る子育ての極意を教えます~ 

 

■書籍概要

書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

  出版社: セルバ出版 価格 : 1,600円+税  

URL  http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063