大正天皇と大正デモクラシー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大正天皇(たいしょうてんのう)

生誕:1879年(明治12年)8月31日

死没:1926年(大正15年)12月25日

 

日本の第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。 

 

大正(たいしょう)とは、明治と昭和の間にある日本の元号。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日までの期間。

 

大正デモクラシーの影響で議会制民主主義的な面が最も機能していた政治安定期として見られることが多い。第二次世界大戦前の日本における転換期に当たる。 

 

 

■大正天皇の御世

 

参照:竹田恒泰 皇室のきょうかしょ) 

http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu232.html

 

 明治天皇は政務に打ち込まれるあまり、家族との会話はほとんどなく、一家との写真も残されていません。明治天皇の孫にあたる秩父宮(ちちぶのみや)は、年に三回ほど拝謁の機会があるも、一度も祖父の肉声は聞いたことがないと回想していらっしゃいます。

 

 それに対して、大正天皇は家族との時間を大切になさいました。皇太子時代には子供たちと食事・鬼ごっこ・将棋・映画鑑賞などをされる機会が多く、そのほか家族との逸話が多く伝えられ、子供たちの手をお引きになる写真も残されています。言葉数少ない厳格な明治天皇と違い、大正天皇は親しみやすい天皇であらせられたように思います。

 

 また、明治天皇の巡幸では、少数の者しか会話を交わすことができず、その会話ですら天皇からの御下問は稀だったといいます。対して大正天皇は、身分に関わりなく積極的にお声をおかけになりました。皇太子時代の京都帝国大学付属病院への行啓では、二人の患者に直接お声をおかけになり、病状などについてお尋ねになったことや、また福岡県知事との会談でタバコを差し出されたという逸話があります。当時これは衝撃的なことでした。

 

 皇太子時代には全国規模の巡啓が行われたため「顔の見えない天皇」に対して、「顔の見える皇太子」として国民に親しまれたのです。

 

 皇太子時代には全国を飛び回られたものの、即位以降体調が不安定になられました。早くも大正四年(一九一五)頃には体の動きが不自由になられ、六年後には裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任され、天皇の職務を代行されることになったのです。皇太子が摂政に就任され、大正天皇は療養生活に入られるも病状は回復せず、満四十七歳にして崩御となりました。

 

 大正天皇の在位中、日本は国際連盟の設立に際し、仏英伊とともに常任理事国になりました。この時、我が国はアメリカを含めた五大国の一員に加わったことになります。

 

 大正天皇の治世は日本が第一次世界大戦に参戦するなど内外ともに厳しい時代で、親しみやすい天皇よりも、厳格な天皇が求められた時代でした。そのため、見習うべき天皇は大正天皇ではなく明治天皇であるとされ、大東亜戦争終結までの間、大正天皇は時代から封印される存在になったのは歴史の皮肉ではないでしょうか。

 しかし、大正天皇には家族を大切にされる、親しみやすい現在の皇室の原型を見出すことができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

平安時代から続く因習のつづく皇室にあって、大正天皇は、新しい時代をいきた皇族となりました

その特徴は、マイホーム主義。それまでの時代では、たとえ親子であっても一緒に生活することもなく、たくさんの慣習のなかでがんじがらめの生活を余儀なくされるのが通例でした

 

しかし大正天皇様は、家族とのつながりを大事にするアットホームな一面をみせました。

 

明治と昭和と、激動の時代に挟まれ、やもすると印象が薄い「大正時代」ですが、その実は、人々が自由を謳歌し、また衣食住の近代化がすすみ、生活が豊かになっていく転換点となった時代でした

そんな時代を象徴する大正天皇様のエピソードを紹介します

  

■大正天皇のお人なり

 

 元祖イクメン?

まだまだとはいえ、近年、男性が育児をすることが語られ、仕事より子供を優先して生活することも重要視されるようになってきましたが、以前は「子育ては女がするもの」「男は外で働くもの」という意識が根強かった日本。

 

そんな意識がもっともっと強かった時代に、時々たしなめられながらも生涯家庭を大切にしていた男性がいることはご存知ですか?

 

明治以降で初めての一夫一妻制を採った大正天皇です。 

 

幼少の頃は歳の近い兄弟もおらず、教育の為幼くして養子に出された大正天皇は家族と過ごす時間がほとんどなかったと言われています。 

 

古くは、御簾(みす)のうちに隠れていた天皇陛下の言葉。明治天皇時代以降、天皇陛下が皇居以外に出向くことも増え「天皇陛下の言葉」がより多くの人に知られることが増えてきました。

 

その為、「姿を見られる機会が増えても神聖な存在であり続けなくてはいけない」「言動にも細心の注意を」と考えた父「明治天皇」。父とは全く真逆の道を歩んだ大正天皇。即位前の皇太子時代から気さくで、行啓(天皇以外の皇族のお出かけ)先でも庶民に親しく話しかけていたのです。

 

上記の前提があるため、お付きの人は「身分にふさわしくない」と止めることが多かったようですが、父である明治天皇や公的に母とされていた昭憲皇太后がきつく止めた形跡はありません。多少はたしなめられていたようですが。 

 

 マイホームパパとして

皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇でした 

 

妻である貞明皇后はもちろん、後の昭和天皇をはじめとしたお子様方とも一緒に遊んだり歌ったりと触れ合いを大切にされていました。

 

ちょくちょく子供達の様子をうかがいに立ち寄っている。毎週水・土曜日に親子で夕食をするなど、ワインが好きでグラスが空くと子供達に注ぐよう誘っている。晩餐が終わると団欒をたのしんだ。母宮のピアノ伴奏で、学校唱歌や軍歌を歌った。 

 

威厳のある父親像を求める人が多かった時代にとてもほのぼのとしたエピソードがたくさん残る大正天皇。水曜日と土曜日に家族で夕食を食べるなんて、現代でもなかなか難しいことかもしれません。

 

 

 ランドセルを発祥させた人物でもある 

当時皇太子であった大正天皇の学習院初等科入学の際、伊藤博文が祝い品として帝国陸軍の将校背嚢に倣った鞄を献上、それがきっかけで世間に徐々に浸透して今のような形になったとされる。

 

当時のランドセルは今のリュックサックに近いものでしたが、現在のようなしっかりとした箱型ランドセルの誕生は早く、学習院で“ランセル”が採用された2年後の明治20年、時の内閣総理大臣、伊藤博文が大正天皇の学習院入学を祝して特注で作らせたものを献上したのがその始まりとされています。

 

 

日本に桜並木を広げるキッカケになったのも大正天皇 

江戸時代以前から好まれていた花ですが、大正天皇と貞明皇后のご結婚時に全国へ大量に植樹されており、桜並木の由来を調べてみたらそのタイミングだった、なんてことがよくあります。 

 

有名どころだと、山形県の”最上川堤防千本桜”や新潟県の”加治川堤桜”などです。 

 

 

家庭や子供と過ごす時間を大切にし、友人も大切に想う 

明治44年11月、大正天皇がまだ皇太子であった頃に、兵庫県武庫川に演習見学に行ったときのこと。いつものようにお付きの者がたくさん付いてまわって日程をこなしていたのだが、不意に学習院時代の旧友、桜井忠胤の家を訪れた。

 

予定にはないことだったが、どうせ兵庫県まで行くなら友達の家を訪れたいと前々からお考えであったのだろう。びっくりしたのは桜井で、突然訪れた皇太子にひれ伏し、「今回は恐れ多き光栄を賜り誠に恐縮に存じ奉る」と言うのが精一杯だった。

 

それはそうだろう。皇太子がいらっしゃるというのに何のお出迎え、おもてなしの準備もできていなかったのだ。しかしそれが大正天皇の狙いだった。自分のために豪勢な準備をされた上で会うのではなく、自然体な形で会いたかったのだ。だからこそ、秘密裏にしていたのだ。

 

「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにして呉れ、そう慇懃では困る」。

 

「桜井、今日は恐慌だなどは一切よせよ、お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか、今は此処に住んで何をしているか、どうも騒がしたなア桜井、又来るよ」

 

そう言って、旧友の家を後にした。窮屈な「業務日程」の中での、ほんの一瞬の楽しい時間であった。

 

仕事に励みつつも、家庭を大切にし、育児も手伝ってくれて友人のことも忘れない。まさに現代の理想の男性像に近いと思ってしまった筆者です。「仕事」「家庭」「育児」「友人」全てを大切にするなんて、なかなかできません。 

 

明治と昭和に挟まれた穏やかな時代「大正」 

 

近代革命と侵略戦争に明け暮れた「明治」と、無謀な戦争と敗戦そして急速な経済発展と大変革のあった「昭和」の間に挟まれた「大正時代」は比較的に穏やかな時代でした。アメリカ映画の流入で、都会の一部だけでしたが、洋風文化にあこがれ、それを模倣した服装が流行しました。

 

「モガモボ(モダンガール・モダンボーイ)」がそれです。後世になって「大正ロマン」と呼ばれました。

  

家庭を大切に、家族を大切に。そしてもちろん、仕事や友人も大切に。イクメンやマイホームパパが世界中に増えたら、穏やかな時代がやってくるのではないかと思えました。

 

「最近はイクメンとか言って子育てする男が増えている」なんて、ちょっと批判的な目を向ける人がいたら「最近じゃなくて大正時代からいましたよ」と教えてあげたいですね。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大正(たいしょう)とは、明治と昭和の間にある日本の元号。大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日から1926年(大正15年)12月25日までの期間。

 

大正デモクラシーの影響で議会制民主主義的な面が最も機能していた政治安定期として見られることが多い。第二次世界大戦前の日本における転換期に当たる。

 

 

■大正という時代

 

大正時代には、町の様子も変化を遂げ、町から街が形成されていきます。東京では丸の内や大手町に、エレベーターがついたビルディングの建設が相次いで、一大オフィス街へと形を変えていきます。それまでは農村だった渋谷や世田谷に下町で焼け出された人々が移住し、単なる盛り場だった新宿や渋谷が副都心へと姿を変えていきます。

 

大阪では非常に数多くの私鉄網が完成し、とりわけ阪神急行電鉄の巧みな経営術で、住宅衛星都市郡が大阪平野に出現しました。東京帝大を卒業した半数の就職先が民間企業になり、『サラリーマン』が大衆の主人公となります。明治時代まで呉服屋であった老舗が、次々と百貨店に姿を買え、銀座はデパート街へと変っていきます。大正時代最後の年には、神宮外苑野球場ができ、東京六大学野球の勢いが益々盛んになります。

 

 

世の中の変化 

新聞の部数も数多くなり、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞が100万部を突破して東京に進出し、読売新聞も対抗して成長を果たします。朝日、毎日、読売という今日の三大紙の基礎が、こうして大正時代に築かれました。

 

都市交通の桧舞台に自動車がのしあがり、円タクなども登場して、陸運手段として、旅客・貨物を問わず、大きな地位を占めるようになります。

 

食文化では洋食が広まり、『カフェ』や『レストラン』が急成長を遂げ、飲食店のあり方が新しいものへとなっていきます。庶民の食卓に縁のなかった洋食ですが、コロッケの登場によって庶民の食卓にも変化が現れます。欧米式の美容室やダンスホールなども都市部においては珍しいものではなくなりつつありました。男性の服装も、和装から洋装へと変化します。一方、地方の農村や漁村では、こうした近代的な恩恵を受けることができず、都市部との差が出てしまったのも大正時代の特徴と言えるでしょう。

  

 

活動写真 

活動写真とは、現在でいう映画です。初めて活動写真が公開されたのは明治時代ですが、大正時代に入り、こうした娯楽が徐々に充実していきます。電気館という洋画の封切り館として親しまれていたこの映画館では、喜劇王チャーリー・チャップリンの短編2巻物が始めて上映されて評判になり、翌年から次々と作品が輸入され、チャップリンの人気が決定的なものになりました。上映中はもちろん無照明で、館内は異様な暗さに包まれていました。遅れて入場した観客には、女給が懐中電灯を片手に手を引いて席まで案内していました。これは『手引き』と呼ばれていました。

 

ラジオ 

大正時代には、日本で始めてラジオ放送がされました。1,925年3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(現在のNHK東京放送局)が、京田武男アナウンサーによる第一声が、東京・芝浦の東京高等工芸学校に設けられた仮送信所から流されました。

 

『アーアー。聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始いたします。』

 

この一言からラジオ放送がはじまりました。当時のラジオは探り式鉱石受信機がほとんどだったので、最初の『アーアー』の間に、聞いている側が鉱石の針先を一番聞きやすい部分に合わせるための配慮だったと言われています。出力が弱かったために、東京市内でしかよく聞こえなかったようです。大阪放送局では6月1日から仮放送を開始し、名古屋放送局では7月15日に開始しています。

 

 

第一次世界大戦

1,914年から1,918年にかけて世界規模の大戦争が行われました。ヨーロッパが主戦場となり、世界の大多数の国が参戦した戦争です。第二次世界大戦が勃発するまでは、第一次世界大戦を大戦争・欧州大戦などと呼んでいました。

 

関東大震災

日本の歴史上で、首都を襲った大地震として、月日がたった今もなお語り継がれている関東大震災。現在でも関東大震災の再来が恐れられています。同時に訪れていた台風の影響で風も強く、大火災も発生して、その被害たるや膨大なものになりました。 

 

死者・行方不明者:14万2,800人(後に10万5,000人余と見られるようになっています)

 

•負傷者:10万3,733人

•避難人数:190万人以上

•家屋全壊:12万8,266戸

•家屋半壊:12万6,233戸

•家屋焼失:44万7,128戸(全半壊後の焼失を含む)

 

東京の主な建造物の被害としては、大正時代に始めてエレベーターが設置された12階建ての凌雲閣が大破し、建設途中だった丸の内の内外ビルディングが損壊、大蔵省や文部省、内務省、外務省、警視庁などの官公庁や、帝国劇場、三越日本橋支店などの文化・商業施設の多くが焼けてしまいました。東京帝国大学図書館など、書籍を扱っている建造物も数多く焼失し、貴重な書籍群が失われました。

 

 

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著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

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