ミツカン 家訓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

株式会社ミツカン(mizkan)は、調味料と納豆を主力製品とする株式会社ミツカングループ本社(非上場)傘下の大手食品メーカーである。愛知県半田市に本社を置く。

 

売上高:1696億円(2012年度)

従業員数:約2900名

 

江戸時代中期の1804年(文化元年)、中野又左衛門により尾張国知多郡半田村(現在の愛知県半田市)で酒造業として創業。以後、代々社長は「中野又左衛門」(四代目以降「中埜」)を名乗り、戸籍上の名前も変更している。

 

この地域でさかんな日本酒の製造後に残る酒粕を用いて酢を作り、米を用いた酢より安価であったため江戸庶民に寿司が普及する要因となった。

 

1887年(明治20年)、三本線に丸をつけたロゴを商標登録。なおロゴの三本線≡は、中埜家の家紋が由来であるが、酢の命でもある「味」「利き」「香り」の意味も持っており、下の丸○は「天下一円」を意味している。

 

昭和40年頃からは、ロゴを冠したミツカン酢の琺瑯看板が全国各地で取り付けられ、現在でも地方では残存している。1986年(昭和61年)には、日本唯一の酢の総合博物館として博物館「酢の里」を開館した。

 

1997年に朝日食品を買収して酢の発酵技術を使用した「金のつぶ」シリーズは、首位のタカノフーズ(おかめ納豆)に次ぐシェアを占めた。2009年には経営破綻したくめ・クオリティ・プロダクツの主力商品である「くめ納豆」の商品販売権等を買収し、ミツカンを通じて販売される。

 

なお、中埜家は同郷の盛田家とかつて人的関係があり、一時期ソニーの大株主に名を連ねていた。 家庭用の寿司酢はミツカンブランドが世界的に有名で、どこの国のスーパーでも入手することができる

 

 

■ミツカンの歴史

 

(参照:ミツカンHPより)  

http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/01.html

 

初代又左衛門は宝暦6年(1756年)に小栗喜左衛門家の長男として誕生した。半田村の有力な酒造家であった中野半左衛門家の幼い後継者の後見人として乞われ、養子に入ったのが、20歳の頃。以来、20余年にわたり半左衛門家の家業を守り続けた。

 

文化元年(1804年)、後継者の成長を見届け、正式に分家を許された又左衛門は、その年の秋、江戸に向けて旅立った。江戸に到着した又左衛門は、そこで当時流行のきざしを見せはじめていた“すし”に出あう。それは現在の“握りずし”の原型となった“半熟れ”(※)と呼ばれるものだった。

 

※"熟れずし”から"早ずし”へ移行する中間のすし。元々の“すし”は塩漬けにした魚を米飯に漬け、乳酸発酵させる熟れずしで一年以上かけて作っていた。一方、酢を一部加えて発酵を早めた押しずしの一種が"半熟れずし”である。

 

又左衛門は、現在のミツカングループの基となる中野又左衛門家を興し、酒造業のかたわら、酒粕を原料とした“粕酢”の製造をはじめていた。しかし、当時にあっては、酒造家が酢を造るということはまったく考えられないことだった。酒と酢は元来相性が悪く、酢のもとになる酢酸菌が酒をだめにしてしまうからだ。そんなリスクをあえて承知で、初代又左衛門は粕酢造りに取り組んでいた。江戸で“半熟れ”を食した又左衛門は、この“すし”には自分の造る“粕酢”の甘みや旨みが合うと確信。半田に帰ると、さっそく江戸での大量需要を見込んで、本格的な酢造りをスタートさせる。

 

 

酒で培われた知多の海運力と販売ルートを活かして、江戸に粕酢を送り込んだ。又左衛門の“粕酢”はやがて江戸で評判のすし屋でも使われるまでになっていった。“半熟れ”(後に早ずし)の流行という追い風を味方につけた初代又左衛門の強運と冒険をおそれぬフロンティア精神こそが、ミツカングループの原点といっても過言ではないだろう。

 

初代又左衛門は、文化13年(1816年)、酢の経営を25歳になった太蔵に譲り、“酢屋勘次郎”を名乗らせた。自らは“増倉屋三六”を名乗り酒造業に専念することになる。家督を譲るに際し、初代は、事業経営・家督の心構えを伝える八ヶ条の「言置」を定め、二代目に託した。「先祖、一族を含め、周囲の人々に支えられてこそ、家業が成り立つ」。そのメッセージは、今日に至るまで中埜家の家訓として生き続けている。

  

■ミツカンの家訓

 

八ヶ条の言置 

一、神仏を大切に信心せよ

一、先祖代々の年忌は怠りなく勤めよ

一、火の元はとくに気を付け醸造倉の釜や工場は必ず見て回るようにせよ

一、他人や召し使いに対しては無慈悲なことはけっしてしてはならぬ

一、夫婦はむつまじくせよ

一、半六家、本家(半左衛門家)をおろそかにしないように

一、親喜左衛門(小栗)家の相続はなんとか血縁を求めてもらいたい

一、自分と家内が生存中は年々二季大晦日に金七両二分宛小遣いとして渡してもらいたい

 

 

 

初代又左衛門は宝暦6年(1756)に小栗喜左衛門家の長男として誕生した。半田村の有力な酒造家であった中野半左衛門家の幼い後継者の後見人として乞われ、養子に入ったのが23歳の時。以来、20余年にわたり半左衛門家の家業を守り続けた。

 

 文化元年、後継者の成長を見届け、正式に分家を許された又左衛門は、その年の秋、江戸に向けて旅立った。江戸に到着した又左衛門は、そこで当時流行のきざしを見せはじめていた“すし”に出会う。それは現在の“握りずし”の原型となった“半熟れ”と呼ばれるものだった。

 

“半熟れ”とは“熟れずし”から“早ずし”へ移行する中間のすしのこと。元々の“すし”は塩漬けにした魚を米飯に漬け、乳酸発酵させる“熟れずし”で、一年以上かけて作っていた。一方、酢を一部加えて発酵を早めた押しずしの一種が“半熟れずし”である。

 

 又左衛門は、現在のミツカングループの基となる中野又左衛門家を興し、酒造業のかたわら、酒粕を原料とした“粕酢”の製造を始めた。しかし、当時にあっては、酒造家が酢を造るということはまったく考えられないことだった。酒と酢は元来相性が悪く、酢のもとになる酢酸菌が酒をだめにしてしまうからだ。そんなリスクをあえて承知で、初代又左衛門は粕酢造りに取り組んでいた。江戸で“半熟れ”を食した又左衛門は、この“すし”には自分の造る“粕酢”の甘みや旨みが合うと確信。半田に帰るとさっそく江戸での大量需要を見込んで、本格的な酢造りをスタートさせる。

 

 又左衛門は、知多の海運力と販売ルートを活かして、江戸に粕酢を送り込んだ。又左衛門の“粕酢”はやがて江戸で評判のすし屋でも使われるまでになっていった。“半熟れ”(後に早ずし)の流行という追い風を味方につけた初代又左衛門の強運と冒険を恐れぬフロンティア精神こそが、ミツカングループの原点になった。

 

 初代又左衛門は、文化8年(1811)養子入りした二代目太蔵に「酢屋勘次郎」を名乗らせた。そして文化13年には家督を太蔵に譲った。

 

 家督を譲るに際し、初代は事業経営・家督の心構えを伝える八カ条の「言置」を定め、二代目に託した。「先祖、一族を含め、周囲の人々に支えられてこそ、家業が成り立つ」。そのメッセージは、今日に至るまで中埜家の家訓として生き続けている。

 

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コメント: 1
  • #1

    池本のぶ子 (木曜日, 13 12月 2018 19:51)

    貴社製品が大好きです。以前以前、お酢に関して電話で質問した時に丁寧な説明を頂きました。その後キューピーに電話で質問しましたが、まったく返事になりませんでした。日頃からミツカン、買わせて頂いてます。