菅原道真 辞世の句

 

 

 

 

 

 

 

「東風吹かば匂い起こせよ梅の花

主なしとて春なわすれそ」

(菅原道真の辞世の句)

 

 

 

菅原道真(すがわら の みちざね)

生誕:承和12年6月25日(845年8月1日)

死没:延喜3年2月25日(903年3月26日)

 

日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。

 

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■最恐の怨霊から、学問の神様へ

 

(参照:BizCollege) 

http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/tonomura_miki/110400005/?P=10

 

 ハメられた菅原道真、怨霊と化す

 

 菅原道真は学者でもありましたが、平安時代の政治家としても活躍していました。しかも、宇多天皇に重用されて寛平の治を支え、醍醐朝では最高機関の太政官のひとつ、右大臣にまで上り詰めたスゴイ政治家だったのです。

 

 しかし、当時の左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ=主人に悪い告げ口をすること)をされたことで、九州の太宰府へ左遷されてしまいました。この左遷はほとんど流罪といってもいいほど悲惨なものでした。きっと多くの人々が心を痛めたことでしょう。道真の無念さがにじむうたや伝説が今に語り継がれています。

 

 「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

 

 このうたは、道真が京を旅立つときに詠んだものとして有名です。

 

 また、京から太宰府へ行く道真を追って、邸宅に植えられていた梅が飛んでいったという伝説が語り継がれています。「飛梅」という言葉はこの伝説から生まれ、その梅は太宰府に根付いたそうです。現在も太宰府天満宮の神木として親しまれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日この世を去りました。この時道真は遺言をし、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれ、と言い残しました。これは味酒安行によって実行され、彼は2年後その墓の所に小さな祠廟を建て、稀代の宰相の霊をなぐさめました。

  

この梅の木は道真が亡くなると主を慕って九州まで飛んできて、道真の墓の側に移ったといい、これを「飛梅」といいます。その何世代か後の梅の木が今もその地太宰府天満宮に残っています。

 

さて道真が追われた後、都では異変が相次ぎます。まず道真追放の主役を演じた藤原時平が延喜9年4月に39歳の若さで死去、4年後には右大臣源光も亡くなります。また宇多上皇を皇居に入れなかった藤原菅根も変死。更に延喜23年3月には時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去、追い討ちを掛けるように2年後にはその保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い新皇太子慶頼王まで亡くなってしまいます。

 

これを世の人々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っているのだと噂します。醍醐天皇も恐くなって道真を右大臣に戻す詔を出したりしますが、怪異は収まる気配がありません。

 

 そしてとうとう延長8年(930)の6月26日、内裏に落雷があって大納言藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡するという事件が起きます。醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいました。世の人は道真公は雷神になられたのであろうと口々にいいました。

 

 

■道真の怨霊を鎮めよ!朝廷が奔走 

 

かくして道真の怨霊が異変を起こしていると信じ込んだ朝廷は、道真の怨霊を鎮めることに奔走しました。

まずは道真の罪をゆるして贈位を行い、子どもたちも京に呼び返され、職位を右大臣に復し、正二位という高位を贈りました。

 

 そして雷で多くの死傷者が出たことから、火雷天神が祭られていた京都の北野に「北野天満宮」を建立して道真の怨霊を鎮めようとします。また、道真に「天満大自在天神」という神様の御意を贈ったことから「天神さま」と呼ばれるようになって、道真が埋葬された場所には「太宰府天満宮」が建立されたそうです。

 

 さらにその後百年ほど、全国で大災害が起こるたびに道真のタタリとして恐れられたというのです。史料には、そのたびに道真の怨霊を鎮めるために「天神さま」を祭る神社が建てられるようになったと記されています。

 

  

■怨霊から学問の神様へ

 

恨みを抱いて死んだ人間が、怨霊として人々を悩ます。これを「怨霊信仰」といい、菅原道真や、崇徳天皇。そして大国主の命などがその代表例として知られています。

この怨霊信仰には1つのルールがあり、怨霊の荒ぶる魂を丁寧に奉ることで、怨霊は守り神となるとするものです。

関東の独立を夢見て討伐された平将門は、その後、神田明神にまつられる江戸の守り神となりました。道真公も、怨霊から学問の神様となり、庶民に愛されていくこととなるのです。

 

 

流れを変えた足利尊氏。秀吉は「北野大茶会」を実施

 

 しかしその後、道真は「善神」となります。きっかけを作ったのは足利尊氏でした。北野天満宮の御師職の祖(参拝者を案内したり世話する職の祖)とされる禅陽(ぜんよう)が尊氏に従って、建武3年(1336年)3月の「筑前多々良浜合戦」の際に祈祷を行い、以降勝利を遂げたのです。

 

 その後、足利将軍家と北野天満宮は密接な関係をもちました。そんな中で次第に怨霊よりも「儒家の神」「詩文の神」のイメージが濃くなっていき、北野天満宮の境内には連歌会所がつくられ、毎月連歌会が催されたそうです。そのうち室町時代における連歌の中心地となり、戦国時代には秀吉が「北野大茶会」を開きました。このときはすでに、文化芸能の中心地になっていたのです。

 

 江戸時代になると、そんな道真に関する伝記が数多くつくられるようになりました。代表とされるのは江戸時代後期の「管家瑞応録」で、道真の実績がまとめられており、その後の天神信仰に大きな影響を及ぼしたそうです。

 

 さらに、江戸時代に発達した浄瑠璃や狂言、歌舞伎など様々な芸能が、道真を題材に取り上げたことで、「学問の神様」としてのイメージを確立していきました。