小林一三 阪急グループ創始者 「遺訓」

 

 

 

 

 

 

 

  『清く、正しく、美しく』

 (小林一三 遺訓)

 

 

 

小林 一三(こばやし いちぞう)

生誕:1873年(明治6年)1月3日

死没:1957年(昭和32年)1月25日)

 

日本の実業家、政治家。

阪急電鉄や、東宝を創業。とくに宝塚歌劇団の結成にかかわり宝塚の父といわれる。子孫に、プロテニスプレイヤーの松岡修三がいる。(※松岡の兄は映画会社・東宝の社長)

 

 

■乗客は鉄道が創造する

 

本業を発展させながら、情報、レジャー、文化というコンセプトを次々に生み出し、グループ全体の付加価値を高める―。情報文化産業の生みの親が小林一三だ。今も根強い人気を誇る「宝塚歌劇団」、日本のハリウッドを目指した「東宝映画」、新聞社を巻き込んだ「夏の高校野球」といったイベントを考案し、ビジネスとして発展・成長させた天才的起業家である。

 

阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道をはじめ、交通、住宅地経営の不動産業、阪急百貨店の小売業、東宝・宝塚歌劇団・阪急ブレーブスの興行業など、阪急東宝グループを成す数多くの事業を興したことで知られる。

 

小林は「乗客は電車が創造する」との言葉を遺しており、沿線の地域開発により人口が増加し、その住民の需要を満たすことに商機を見出していた。彼が起こした事業は多岐に及ぶがいずれもこの動線を捉えたものであり、これは日本の私鉄経営モデルの祖として後に他が倣うところとなった。また小林は事業に取り組むに当たっては実に細かい点にまで顧客志向の注意と配慮を行っており、商品開発に独特の才覚があったことが著作や評伝から窺われる。

 

阪急東宝グループの各事業での成功により財界で重きをなすに至り、グループ以外にも東京電燈の経営に参画したり、国政で商工大臣、無任所の国務大臣を務めるなど、財界の重鎮としても活躍した。

  

サラリーマン生活をへて、阪急電鉄の経営を託された小林は、斬新(ざんしん)なアイデアで都市づくりに挑んだ。その一つが日本初の「ターミナル・デパート構想」。駅を商業施設と一体化させる事業は前例がなく、周囲では反対の声も聞かれたが、「素人だからこそ玄人では気づかない商機が分かる」と譲らず、事業を推進。その後、日本各地に広がった駅ビルを商業施設として活用し、まちづくりの中核に位置づける構想は小林のアイデアである。

 

 今も高い人気を博す宝塚歌劇団も小林が生み出した。三越少年音楽隊を範に、宝塚新温泉にあった温水プールの跡地利用の一環として考案。温泉場の余興に―との発想から始まった。現在も宝塚歌劇団に受け継がれるモットー「清く・正しく・美しく」は小林の遺訓。「宝塚歌劇の父」という顔も持つ。

 

 ダイエー創業者で多角的事業家であった中内功が全盛期、こんな話をしている。「わたしなんかがいくら頑張っても、しょせん、小林一三の掌(たなごころ)の上ですわ」。最大の賛辞であろう。

 

■一三の名言集

 

誰にも夢がある。それはたとえ小さくともその夢がふくらみ花を咲かせ、立派に実るのを見るのは楽しい。

 

事業成功の神髄は、と問われたならば、何事も軽率に着手しないことと答えます。着手するまでに十分考え、いわゆるバカの念押しをやってみることが大切です。そのかわり着手したら猛然として進むことは当然です。

  

サラリーマンとして成功したければ、まずサラリーマン根性を捨てることだ。 

 

適材を適所に置くということは、口では簡単に言うが、そんなに適材がゴロゴロ転がっているものではない。責任を持たせて、どしどし仕事をさせるのが一番だ。ときどき、「馬鹿者!」と頭から小言を言ったり、尻をひっぱたいたりしているうちに、若い人はなんでもできるように育っていく。私はその主義を実行している。

 

すべての事業の対象は大衆であり、どんな仕事の末端も大衆につながっている。

   

金がないから何もできなという人間は、金があっても何もできない人間である。

 

自分の長所を磨くことを忘れて、無理からに常識にのみよる行動をとる若い平凡人が多すぎて困る。

  

はじめて会社に勤めると、誰しもいちばん最初に交際するのは感じのよい人です。しかし、私はこれには反対で、まず感じの悪い人に勇敢にぶつかっていくことです。こういう人は打ち解けると、感じのいい人よりむしろ親切で、本当の味方になってくれるものです。

  

百歩先の見えるものは、狂人あつかいにされる。五十歩先の見えるものは、多くは犠牲者となる。十歩先の見えるものが、成功者である。現在が見えぬのは、落伍者である。

 

サラリーマンに限らず、社会生活において成功するには、その道でエキスパートになる事だ。ある一つの事について、どうしてもその人でなければならないという人間になることだ。

 

今日の若い人々は学校を出て就職する時、名の通った大会社に入りたがるが大会社に入れば一生楽に暮らせるわけではない。どこでも激しい生存競争はある。偉そうに振舞えても単なる機構の一部の上で踊っているかかしに過ぎぬ。中小企業に進んで就職する方がよほど身のためになる。中小企業で仕事をするということは、その目的がサラリーマンになることではない。将来独立自営の主になるのが目的なので、仕事はその見習いが主になる。したがってサラリーマン希望で入ったら大いに当てが外れるだろう。むしろ月給はいらない、手に職を与えてもらう、その道の専門家に生き方を教わる心構えで入らなければならない。

 

新しい仕事をするときは人に知ってもらうことが何より大切なことだ。いくら先見あるアイデアでも、人に知ってもらわないとその価値を発揮することはできない。だが並のやり方だと広く人に知ってもらうことはできない。

 

人に頼り、人に期待するのが一番いけない。

 

乗る人がいなくて赤字になるなら、乗る客を作り出せばよい。それには沿線に人の集まる場所を作ればいいのだ。

 

成功の道は信用を得ることである。どんなに才能や手腕があっても、平凡なことを忠実に実行できないような若者は将来の見込みはない。

 

人生に勝利するには、何より勝つ心がけが必要である。人が八時間働くなら、十五時間働く気概、人がうまいものを食べているときには、自分はうまいものを食べないだけの度胸がなければいけない。

 

出世の道は信用を得ることである。

1.正直でなければならぬ。あの人には気を許すことができないと言われるようでは、信用は得られぬ。

2.礼儀を知っていなければならぬ。粗暴な言辞、荒っぽい動作では、これまた信用は得られない。

3.ものごとを迅速、正確に処理する能力がなければならぬ。頼まれた仕事を催促されるようでは、やはり信用が得られない。

 

自分の持つ長所を確信することである。確固たる思想を飽くまでも維持することである。訓練式タイプ型のみに憧れず、何人も持つ自分自身の長所を顧みて、それに磨きをかける人の多からんことを切に希望する。

 

下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小林一三は、朝ドラのモデル?

 

(参照:BUSHOO!JAPAN) 

https://bushoojapan.com/scandal/2017/10/10/104899

  

画像は、NHKの朝ドラ『わろてんか』で注目の伊能栞(高橋一生さん)。今、最も旬の俳優である高橋一生さんがキャスティングされた時点でざわめきが起き、放送前から「伊能栞(しおり)のモデルは誰なのか?」と話題になっておりました。

 

伊能の事業に関するモデルは小林一三(いちぞう)と目されています。

関西産業界においてレジェンドとも言える経済界の巨人であり、芸能関係にもビジネスを広げたヤリ手です。

 

宝塚を生んだ実業家

1907年(明治40年)、一三は妻子を連れて大阪に向かいました。この頃、日露戦争後の好景気バブルがはじけ、恐慌が始まっておりました。もはや証券会社設立どころではなく、妻子を抱えて失業者となってしまった一三。そこに「阪鶴鉄道」監査役を務めてはどうか?という誘いが舞い込みます。

 

一も二もなく、これに応じた一三。「阪鶴鉄道」は国有化されて解散することとなり、一三は清算から関わりました。国有化で解散することになった「阪鶴鉄道」の関係者は、「箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)」を設立しようと計画していました。

 

しかし、恐慌でそれどころではなくなり、早い内に断念したほうがよいという意見が出るほど、経済環境は悪化。一三はここである計画を思いつきます。「住宅地も買い占めて、開通後に売れば利益が出るのではないか?」

 

鉄道の沿線には、理想的な住宅地が広がっており、しかも土地は安い。一三は「箕面有馬電気軌道」を何としても設立しようと決めます。さらに、周囲の勧めによってこの経営責任者となる決意も固めました。

 

こうして一三の独創的な鉄道事業が幕を開けたのです。「あんな田舎に鉄道引いてどないしますのや」 

そんな風に陰口も叩かれていた「箕面有馬電気軌道」。沿線の土地を賑やかなものとし、乗客を増加させることは死活問題でした。一三は住宅をローンで売り出す等工夫を凝らしていましたが、もっと素早い手段が求められます。

 

アイディアマンの面目躍如

通勤客だけではなく、沿線の目的地に人を運ぶのならば、何か娯楽施設を作ればよいのではないだろうか?一三はそう考え、まず「箕面動物園」を開業。当時としては日本一の規模を誇る動物園でした。関西では京都にしか動物園がなかったため、かなり話題となって来場者も上々……。しかしだんだんと減り始め、わずか六年目に閉園となりました。

 

箕面で失敗した一三は、開発費を宝塚に絞ることにしました。

 

彼が考えたのが、温泉型リゾート施設「宝塚新温泉」。宝塚には昔から温泉がありましたが、そうした伝統的な施設だけではなく、大理石やシャンデリアで飾り立てたリゾート施設を作ることにしたのです。当時東洋一と呼ばれた歌劇場、ダンスホール、ホテル、スポーツ施設、ゴルフ場。まさに究極のリゾート施設です。

 

1923年(大正12年)には大火災に見舞われるものの、一三はくじけません。それどころか、これをリニューアルの好機ととらえました。翌年には「宝塚大劇場」がオープン。日本だけではなく、世界各地から名優が招待され、華々しい上演が連日行われたのでした。 

 

そして、いよいよあの宝塚が誕生することとなるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意外な宝塚の誕生秘話 

リゾート施設に併設した大プール。しかし、このプール、温浴の機能がなく夏でも凍えるような寒さとなってしまい完全に企画倒れとなります。早々に、プールの閉鎖をきめるものの、それからがアイデアマン・一三の真骨頂。水を抜いて水槽を客席に、脱衣場を舞台として改造し、そこで少女らに唱歌を歌わせ、劇を演じさせたのです

 

。温泉に入る人なら誰でも無料で見られる少女歌劇は、日を追うごとに評判を呼び、2カ月間の処女公演は連日大入り満員。これがその後、100年続く「宝塚歌劇」の始まりになるのだから、世の中は面白いものです。

 

一三の遺訓である「清く、正しく、美しく」は、その後、宝塚歌劇団のモットーとなり、今も多くのファンを魅了し続けています。

 

 

   

 

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■書籍概要

書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

  出版社: セルバ出版 価格 : 1,600円+税

 

URL  http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063