KOMATSUと日産の創設者 竹内明太郎の遺訓

 

 

 

 

 

   

 

「良品に国境なし 工業こそ富国の基」

竹内明太郎の遺訓

 

 

竹内 明太郎(たけうち めいたろう)

生誕:安政7年2月28日(1860年3月20日)

死没:昭和3年(1928年)3月23日)

 

現在の高知県宿毛市出身の明治・大正期の実業家・衆議院議員。吉田茂の兄。麻生太郎の大伯父にもあたる。

 

小松製作所(現・コマツ)、唐津鉄工所の創立者であり、日産自動車の前身の快進社等を設立し、さらに早稲田大学理工学部、高知県工業高等学校(現・高知県立高知工業高等学校)などを創設し、工業立国に尽力した。ちなみに国産第1号車のダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字である。

 

1915年、第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会(高知県郡部区)から出馬して当選、2期務めた。1928年3月25日、肺炎で死去した。享年68

 

 

 

■無冠の先駆者 竹内明太郎

 

(参照:風聞異説  コラム/筆者:松岡周平)

http://nobless.seesaa.net/article/106385704.html

 

  わが国初の純国産自動車が世に出たのはいまから94年前、大正3年(1914年)の大正博覧会に出品された「DAT(だっと)号」だと言われている。開発者は橋本増次郎という人物で、「DATSUN」(ダットサン)と名を変えてのちに日産自動車に引き継がれ、日本車の代名詞となる。

 

 さてこの「DAT号」という変わった名前、“脱兎のごとく”早く走るという意味と、もうひとつ重要な意味が隠されていた。3つのアルファベットが田健次郎、青山禄郎、竹内明太郎という3人の開発支援者の頭文字になっていたのだ。

 この竹内明太郎という人物、国産第1号車の開発に関わっただけではない。じつは世界第2位の建機メーカーに成長したコマツ(小松製作所)を創業し、早稲田大学理工学部そして高知工業高校を創設するなど技術者育成に情熱を傾け日本の工業技術発展に大きく貢献した土佐人なのである。大隈重信が「無名の英雄」と称えつづけた知られざる英傑の生きざまを紹介しよう。

 

 父の竹内綱は土佐藩の支藩、宿毛領の領主だった伊賀家の藩士で、明治維新後は板垣退助、後藤象二郎などと結んで自由党の結成に奔走し、自由民権運動で活躍。板垣が岐阜で遊説中に刺され、「板垣死すとも、自由は死せず」の名文句を吐いたとき、真っ先に駆け寄り胸に刺さった短刀を引き抜いたことでも知られる。

 

明治23年の第1回衆議院議員選挙で高知1区から出馬して民選後初の国会議員となり、その後は鉱山経営に乗り出すなど経済界でも活躍する。ちなみに吉田家に養子にやった五男、茂は昭和のワンマン宰相・吉田茂。明太郎の実の弟(異母弟)である。

 

 さてその明太郎、10歳のとき父綱が大阪府の小参事になったため一家は宿毛を離れ、14歳のとき綱の大蔵省勤務により上京して土佐出身の思想家、中江兆民の仏学塾に通うようになる。この兆民との出会いが、明太郎の後の生き方に大きな影響を与えたと考えられる。

 

 明太郎が成人してのち、父綱が竹内鉱業という鉱山会社を設立したことで、綱とともに本格的な経営者の道を歩みはじめる。明太郎の活躍はこのときからはじまる。

 

 経営を任された明太郎は最新の技術を積極的に導入し、茨城無煙炭鉱、佐賀県唐津の芳谷炭鉱、大夕張炭鉱、石川県小松の遊泉寺銅山など全国屈指の優良鉱山をもつ鉱山会社に成長させ、全盛期には三井や三菱と肩を並べるほどの勢いであった。だが明太郎は、政商として強大化するほかの財閥とはまったく別の方向に歩みはじめる。

 

 いくら優良な鉱山、炭鉱であっても埋蔵資源は有限でいつかは枯渇する。そうなれば地元住民は仕事を失い、地域経済は死んでしまう。それぞれの地に、地下資源に頼らずとも生きていける地場産業、とくに機械工業を興すべきだと明太郎は考えたのだ。

 

 当時の経営者としてはまさに慧眼と言えようが、じつは明太郎の先駆的な発想の背景にはある貴重な体験があった。明治33年(1900年)に渡欧してパリ万博を見学したとき、欧州諸国の驚くべき工業力に圧倒され、大きな衝撃を受けたのだ。工業化を急がねば、日本の発展は到底望めないし、やがて列強に呑み込まれてしまう。そう痛感した明太郎は帰国後、日本の工業化と人材育成にすべてのエネルギーを投入していく。そこには自らの鉱山会社の繁栄や蓄財などという卑小な発想は微塵もなく、日本という国の行く末のみを憂う幕末の志士さながらの使命感が彼をつき動かしていたのである。

 

 明太郎はさっそく、全国有数の銅山だった石川県小松の遊泉寺銅山に小松製作所を設立、油圧ショベルなどの建設機械や産業機械の世界トップメーカー「コマツ」の礎を築いていく。同時にこのころ、見込みのある社員を次々に海外留学させ先進技術を学ばせるとともに、私費で郷里高知に工科大学をつくる計画を進めていたのである。

 

 一方、早稲田大学を創立した大隈重信も同じころ、工業分野の人材育成のため理工学科の新設を目指していたが、資金面や人材面で難航し、実現が危ぶまれていた。それを知った明太郎は、自らの工科大計画をそっくり早稲田大学へ寄付することを申し入れる。当時日本最高峰だった海外留学組を惜しげもなく早稲田の教授陣として差し出し、そればかりか理工学科新設資金と長期にわたる運営資金すべてを明太郎は私費でまかなったのである。大隈が後々まで明太郎に感謝し、「無名の英雄」と称えつづけたのも頷けよう。

 

 だが明太郎の凄さはこれだけではない。早稲田大学理工学部創設のわずか2ヶ月後の明治41年6月、郷里高知に工業化の種を撒くべく私立高知工業学校(現県立高知工業高校)のための敷地2400坪余りを私費で購入する。尋常小学校を卒業したばかりの少年たちに工業教育をほどこすことを考えたのだ。既成の教育方針を否定し、全国初の5ヵ年制、完全にオリジナルなカリキュラムを組んで全国でも注目される優れた工業学校となり、県立となってからも多くの有為な人材を輩出する。明太郎は見事にその執念を実らせたのだった。

 

 このように数々の優れた仕事を残した明太郎だったが、最晩年は不遇だった。竹内鉱業が昭和恐慌のあおりを受け昭和3年に倒産。明太郎は借金返済のために無一文となり、過労がたたって病床に臥(ふ)せるようになる。

 

 失意の明太郎を見舞った側近の松本俊吉(小松製作所支配人)が、「不幸にも財政的には失敗されたが、あなたが為された事業はほとんど成功し、社会への貢献も非常に大きい。小松製作所だけでなく早稲田大学理工学部も高知工業学校もまことに順調です」と告げると、明太郎は静かに目を開けて、「まあ、そんなものだ。心配するな。自分もそのように思っている」と微笑んだという。その5日後、明太郎は息をひきとる。享年68。

 

 皮の煙草入れをポケットから取り出し、キセルをふかしながら社員と談笑するのが好きだった明太郎。そんな彼を、小松製作所支配人を務めた森本嘉一はこう振り返っている。

 「名声や金銭に頓着せず、衣食住は正しく生きるための方便としか考えていなかった。自分を高しとするような人は、それが学者、実業家、技術者、政治家であれ、大嫌いだった」(「沈黙の巨星」北國新聞社出版局)

 

 私利私欲を捨て国家、社会のため事を成そうなどという人間は、哀しいかな、いまや絶滅危惧種である。しかしわずか100年前、そのような人は少なからずいた。そのひとり竹内明太郎は、背筋のピンと伸びた見事な土佐人だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

株式会社小松製作所は、日本の建設機械・重機械のメーカー。

 

建設機械の日本でのシェアは1位。世界で2位。日本以外にも南北アメリカ、ヨーロッパ、CIS、中近東、アフリカ、東南アジア、オセアニア、中国にグループ企業を展開する。

  

日本経済新聞社が毎年行っている2006年度、2007年度の優れた会社ランキングでトヨタ自動車、キヤノンを抜き1位となった。なお、呼称としてカタカナ表記のコマツを用いている。英表記はKOMATSUである

 

 

売上高  :連結1兆9536億円(2014年3月期)  

従業員数:連結4万6730人

 

発祥 

1917年1月、石川県能美郡国府村(現・小松市)で銅山を経営していた竹内鉱業が自家用機械生産のため、小松鉄工所を開設したのが始まりである。また太平洋戦争中に日本海軍が米軍のブルドーザーを鹵獲、日本でも同じものを生産可能にする為、同社に送られて実用化の研究が始まったが、これが同社とブルドーザーの関わりの始まりである

 

1921年5月13日に小松鉄工所が竹内鉱業から分離独立、現在の登記社名である小松製作所に改称し発足した。当初は不況の煽りを受け細々と経営していたが、満州事変を境に業績が好転。各種工作機械をはじめ、トラクターやブルドーザーの国産化にも成功した。

 

企業イメージ 

堅実な経営で比較的財務体質の良い会社として知られ、投資家やエコノミストからの評価は高い。好悪含めて新聞雑誌の経済欄を飾ることも多い。斜陽産業などと言われた時期もあったが、建機業界が活況を帯びていることもあって、最近では成長企業として見られている。

 

日本のものつくりを代表する企業の一つでもある。建設機械にとって最も重要なエンジン、トランスミッション、油圧機器、アクスル、コントローラー等の電子制御部品を全て自社開発・生産できる。

 

石川県では地元に縁のある企業としては別格の存在で、特に小松市はコマツの企業城下町となっている。また、一般の人や子供たちが建設機械に対して親しみを持ってもらえるよう、2010年に閉鎖した小松工場跡地の「こまつの杜」内に「わくわくコマツ館」を開設。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■日産自動車

 

第二次世界大戦前は日産コンツェルンの一員であった。「日産」という名称は、当時グループの持株会社であった日本産業が由来となっている。

 

創業期より先進技術の吸収に積極的で、日産自動車は日本フォードや日本ゼネラル・モータースなみの大型乗用車を製造するため、1936年(昭和11年)にアメリカのグラハム・ペイジから設計図や設備などを購入し、また戦時中の技術的空白を埋めるため、1952年(昭和27年)にイギリスのオースチンと技術提携している。

 

1958年(昭和33年)には、当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発のダットサン・210型で出場して見事にクラス優勝を飾り、1960年(昭和35年)には業界初のデミング賞を受賞するなど、創業時より技術力の高さから「旗は日の丸、車はダットサン」、「技術の日産」として親しまれ、故障が少なく高速走行を得意としたことで医者の往診に愛用されたことから「医者のダットサン」としても親しまれた。

 

 

売上高 連結:10兆4825億2000万円(2014年3月期) 

営業利益 連結:4983億6500万円 (2014年3月期)

  

 

■初の国産自動車ダット号の誕生

 

橋本増治郎は明治8年、今の愛知県岡崎市に生まれた。東京高等工業学校(今の東京工業大学)機械科を卒業後、明治35年(1902年)、ニューヨーク州オーボーン市のマッキントッシュ会社で学んだ。帰国後、橋本は長崎県崎戸島の炭鉱に赴任を命じられた。当時、九州炭鉱汽船の社長は田健次郎(でんけんじろう)が務めており、竹内明太郎はその株主であった。

  

 橋本の崎戸島勤務中、不便な島の暮らしを心配した明太郎が、唐津から新鮮な野菜を届けるなど、二人は親密な交流をしている。このかん、橋本は田と明太郎に対して自動車製造にかける夢を語り、二人はそれを支援することとなる。

 

明治44年(1911年)、橋本を社長とする「快進社」が設立。今の豊島区東長崎に工場が建てられた。ガソリンエンジンによる初の国産自動車の試作が始まった。試作車が完成したのは大正3年(1914年)のことである。この年の3月に上野で開かれた大正博覧会に出展された国産第一号自動車は「DAT(ダット、脱兎)号」と名づけられた。橋本が「産みの親」と慕う田健次郎(D)、青山禄郎(A)、竹内明太郎(T)のイニシャルをとったものである。

 

 昭和7年(1932年)、ダット号の大量生産が始まるにあたり、DATの息子(Son)という意味で「DATSON(ダットサン)」と命名されたが、ソン(損)と発音されては困るので、Sun(太陽)の文字が使われることとなり、「DATSUN(ダットサン)」が誕生したというエピソードがある。

 

 快進社は「ダット自動車商会」、次いで「ダット自動車製造社」と名前を変え、これが今の日産自動車へと発展して行く。

 

日産自動車の発足へ

   「日産自動車」の前身は、2つの会社が始まりとなります。ひとつは明治44年に東京で設立された「快進社自働車工場」。ひとつは大正8年に大阪で設立された「実用自動車製造」。

 

いずれも自動車産業の創成期に誕生した会社でありますが、第一次世界大戦後の世界不況と関東大震災後の不況のあおりを受け、また、輸入車の攻勢もあり、経営状況は良くありませんでした。

 

大正15年。両社は合併し、「ダット自動車製造」が誕生する事になります。

しかし、その後、「戸畑鋳物(現在の日立金属)」の鮎川義介により会社の株式の大半が買われてしまいます。昭和8年。「戸畑鋳物」は「ダット自動車製造」を完全に吸収し、「自動車製造」として再スタートを切る事になります。これが現在の「日産自動車」の始まりとなります。

 

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コメント: 2
  • #1

    ダントツ (日曜日, 30 7月 2017 08:34)

    コマツ関係者であり、早稲田大学理工学部出身のものです。
    コマツの創設者である竹内明太郎が、いかに今の日本の工業の礎を築いたかとてもわかりやすく拝読させていただきました。
    現在、早稲田の理工キャンパスには竹内明太郎の銅像があります。在学当時はすごい人だなーくらいしか感じていませんでしたが、社会人になって初めて偉業のすごさを理解しました。
    私利私欲より日本の発展を案ずる思想は、今では何人が持っているでしょうか。

  • #2

    家訓ニスト (日曜日, 30 7月 2017 19:05)

    →ダントツさん

    メッセージありがとうございます。竹内さんの生涯をみると、偉業と、また産業人としての悲運を感じざる終えません。

    竹内さんに限らず、日本では、倒産は罪人扱いになってしまいます。会社は運悪く潰れたとしても、業績や半生はきっちり評価すべきだと思います❗

    もっと陽があたるといいですね✨