歌守800年 冷泉家の家訓

 

 

 

 

 「紅旗征戎、吾が事にあらず」

 (冷泉家 家訓)

  

 

冷泉家は公家御子左家の分家で藤原定家の孫の藤原為相の晩年の子が遺産の一部を相続して出来た家です。公家の中ではそれほど家格の高い家ではないものの。定家の子孫は分家の冷泉家以外は断絶したため和歌の家として一般に知られるようになりました。ちなみに冷泉家には上冷泉と下冷泉の二家があります。

 

明治維新のときに上冷泉家は飛鳥井家と共に京都に残るよう命じられ、又屋敷が公家町(現在の京都御苑)の外にあったため現存する唯一の公家屋敷として邸宅を今日まで残すことができました。そして京都に残ったことは戦争による火災や混乱の被害から国宝の名月記を始めとする貴重な文化財を守ることになり、そのため和歌の正倉院と呼ばれる家になりました。

 

おそらく日々の暮らしや御所言葉、年中行事など公家のしきたりを最もよく伝えている家です。

 

というか現在の公家で先祖伝来の家宝を守れているのは上冷泉家と近衛家くらいで多くの公家はサラリーマンしたりして普通に暮らしています。

公家らしい公家の家が冷泉家だけになってしまったため現在に残る公家の代表みたいな家になってしまいました

 

 

冷泉家は、藤原俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)・為家(ためいえ)3代が、相次いで勅撰和歌集の撰者となって以来、「歌の家」として存続してきました。

 

 歴代の当主は、和歌に関する様々な本を書写し、収集し、保存し、伝え続けてきました。明治時代には、ほとんどの公家が天皇に同行して東京に移り住む中、冷泉家は御所の守りや御文庫の保持のため京都に留まりました。そのため、冷泉邸は元の場所にほぼ完全な姿で保存されている唯一の近世公家住宅として重要文化財に指定されています。

 

 そして冷泉家は、平安の王朝文化を今に伝える和歌守(うたもり)として、公家の日常生活を彩ってきた多くの年中行事や作法に従った歌会などを今日まで受け継いでいるのです。

 

 

 

 

■冷泉家の家訓

 

冷泉家が戦国時代をどのようにくぐり抜けてきたのか、詳細は不明であるが、6代目為廣(ためひろ)、7代目為和(ためかず)の時代には御子左家の典籍類をうまく活用し、能登の畠山氏、駿河の今川氏に世話になったと言われている。9代目為満(ためみつ)は、天皇からの勅勘をこうむり、堺に追われるも、住吉大社の娘と結婚し、徳川家康の調停により、慶長11(1606)年に京の公家町に屋敷を賜ることができた。公家町に居を移した冷泉家は当主の若死にが続いたことで位が上がらず、当時典籍類が冷泉家から出ていったとも言われ、冷泉家の蔵は御文庫として役人が管理するものとなったそうである。この時、霊元天皇が御文庫の300点ほどの典籍類をお持ちになり、書写され、これが国歌大観の元となっているそうである。

 

時代の波をうまく乗り切ってきた冷泉家であるが、今日に至る事ができた大きなポイントは、江戸から明治への時期に京都へ残ったこと、すなわち東京に遷らなかったことである。京都御所の留守居役を仰せつかっていたこともあるが、京都から動こうとしなかったのは、冷泉家の家訓となっている定家の『明月記』にある「紅旗征戎わがことにあらず」という、文字通り、いわゆる権力争いに加わるな。和歌を詠む家、文学に専心しなさいということがあったのであろうと、考える。伝えるべきものを伝える、これに徹しきれば残れるのではないかと思っていると為人氏は話された。

 

「一流の二流」であること。冷泉家は、御子左家の中で一格下であったことで、権力争いに巻き込まれなかった。公家の家格でも、どうしても天皇と共に江戸へ行かなければならない上位の格ではなかった。これらが冷泉家が守るべきものを守り続けるために功を奏したわけである。「一流の二流」であることは、ものを伝えていく時には重要だと思っている、と続けられた。「一流の一流は時代とともに歩まなければならない。故に、時代が変わった時には対応しきれないという事が起こりうるのではないか…」と。そして、最後にもうひとつ。女性が強い家系であること…とお義母さまとのエピソード、奥さまのお話などをユーモラスに付け加えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■「和歌の宗家」として歴史を重ねた冷泉家の歩み

 

(参照:JBグループポータブルサイト) 

https://www.jbgroup.jp/link/interview/199-2.html 

 

「和歌の宗家」として歴史を重ねた冷泉家の歩み

冷泉為人氏

 

石黒 : 『明月記』には「紅旗征戎、吾が事にあらず」と記されています。王朝社会から武家社会に変わる激動の時代に、定家は歌人としての生き方をこの言葉で示したようにもとれます。定家を含め、冷泉家の前史には御子左家という藤原長家からの道のりがあります。そこから約1000年、冷泉家初代の為相からは730年ですか。大変長い歴史をお持ちですが、和歌の家として続いてきた背景には何があるのでしょう。

冷泉 : 実は「紅旗征戎、吾が事にあらず」の言葉は当家の家訓になっています。簡単に言いますと、政治や権力の争いに加わらず、文学に専心しなさいということです。御子左家は、定家の孫の代に京極家、二条家、冷泉家の三つに分かれます。京極家には、革新的な歌を詠む為兼という人が出て活躍しましたが、政治好きで、佐渡や高知に流されたあげく、帰らぬ人となり、家が絶えてしまいます。また御子左家の嫡流であった二条家も南北朝時代に政治闘争に巻き込まれて家を絶やします。御子左家に後妻で入った阿仏尼(『十六夜日記』の作者)の子どもが初代の冷泉為相ですが、彼は鎌倉幕府を頼って鎌倉で過ごしたため、京都の政争に巻き込まれずに済みました。

 

石黒 : 初めから、家訓が実践されていたわけですね。

冷泉 : その時代、勅撰集を選集する家であった御子左家の荘園や典籍類を、為相が相続したことが、和歌の家として続いた始まりです。もう一つは「一流の二流」であったことですね。

 

石黒 : 「一流の二流」とは、面白い言葉です。

冷泉 : 私が思うに、「一流の二流」は、ものを伝えていくという点で非常に良い位置にあります。「一流の一流」は、常に時代の先頭を走らなければならない。「一流の二流」は、「一流の一流」の後を見ながら、どの道を選ぶかを考えながら、進めるのではないでしょうか。二十代当主の為理という幕末から明治に活躍した冷泉家最後の公卿となる人がいます。この人は、明治天皇と共に東京には移らず、京都に残るという選択をしました。そして京都御所の留守居役を仰せつかいます。私はこのときも「一流の二流」だから京都に残ったのだと思います。

石黒 : そのお陰で、関東大震災にも、東京大空襲にも遭わずに済んだ。

冷泉 : 京都に残る選択が奏功し、御子左家の典籍類を現在に伝えることができたと思います。

 

石黒 : その典籍類を収めた蔵である御文庫の存在が大きいですね。京都が火に包まれた応仁の乱も乗り切ったのは凄いことです。

冷泉 : 典籍を移して難を逃れたようですが、詳しいところはわかりません。その後、江戸時代の初期、冷泉家の蔵が勅封されて武家の京都所司代と朝廷の武家伝奏らの管轄を受け、冷泉家が自分の蔵でありながら、典籍類も何もかも手をつけられない状況になったことがあります。十三代の為綱のときにようやく勅封が解かれるのですが、大変な経験をしたものですから、あとを継いだ為久は子の為村とともに御文庫を整理し、貴重な典籍類の複製をすべて作成しました。それも一字一句、行も違わないようにして作ったのです。そのような取り組みを通じて彼らは、和歌の道にもう一度精通するようになり、将軍家から豪商などまで多くの人に和歌を教えるようになっていきます。

 

石黒 : 冷泉家の中興の祖といわれる為村は、和歌の第一人者。全国に門人を広げて和歌の普及に努め、冷泉家の名声を新たにしたわけですね。

 

 

妙なる「和歌の力」を担ってきた型の文化

冷泉為人氏 × 石黒 和義

石黒 : 私たちは、日々の生活の中で和歌を意識することは少なくなりました。日本文化の中心に和歌という確固たるものがあったのは、江戸時代から明治の初めぐらいまででしょうか。そのように長い間にわったて和歌が詠われて来たのは、人々がこぞって、その力を信じていたからだと思います。紀貫之が『古今和歌集』の序に記していますね。

冷泉 : そうです。「仮名序」に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり」と出てきます。それほど古来より和歌の力は際立っていたのでしょう。

石黒 : 天と地を動かし死者の霊さえ感動させるとは、恐るべき力です。権力や武力ではなく、和歌が人を動かす。今こそ、このような力のある言葉が欲しいですね。

冷泉 : そこは日本の文化の根本ではないかと思います。私も近年はそういう型の文化が大事だと思うようになりました。型の文化を昇華したところに個人主義の本来の個が確立されるのではないか。現代の私たちが個人主義の個といっているのは、自分のわがままだけではないだろうかと思うのです。石黒社長はどう思われますか?

 

石黒 : そうですね。今は知識だけで判断し、いろいろな情報に惑わされて、自分を見失いがちです。何か、地に付いた軸になるものがないと、あまりにも喧しく目先のことに捉われて、落ち着きがないですね。

冷泉 : お茶の世界には「守破離」という言葉がありますね。型を踏襲して、それを破り、師匠から、型から離れていく。その過程を踏まえたときには、おのずから個性が生まれてくる。そういうものが型の文化の本質であると私は思うのです。ところが現代人は自分の思いを表現し、表白すれば、それだけで個性だと見る。勘違いもはなはだしいと思いますね。

 

石黒 : たしかに、本当の個性が確立されていないと、勢いに流されてしまいかねない。企業にも、欧米の考えが押し付けがましく入って来ましたが、それだけでいいのだろうか。グローバル化に対応するには、外に合わせるだけではなく、自分たちのものをしっかりと持って、対応しないと難しいと思います。

冷泉 : おっしゃる通りで、グローバルになればなるほど「私」がなければイエスもノーもないだろうと思います。

 

石黒 : IT社会になって、あらゆる情報が氾濫して飛び交っていますから、ますます方向性や自分をつかみにくくしている。私たちも、その道具を提供しているわけですから忸怩たる思いもありますが、まだまだ、社会全体が、それを道具としてうまく使いこなしていない。むしろ、振りまわされているようでは、元も子もないことになる。

冷泉 : 私は漢字学者の白川静先生から、情報の「情」の字は心だと教わったことがあります。また情報化時代の情報は、単にものが伝わるだけで心は伝わらない、そこが問題だと伺いました。そこまで掘り下げて、心を「リンク」させていくならば、結構なことです。

 

日本人の本質は多様なものを受け入れること

 

石黒 : 冷泉さんのご専門は近世の京都画壇ですね。

冷泉 : 専門は、江戸時代の安永・天明期。当時の京都画壇を研究しています。伊藤若冲、曾我蕭白、円山応挙、池大雅、与謝蕪村、松村呉春といった人たちです。研究してきて、京都の懐の深さが少しわかってきました。池大雅と与謝蕪村は文人画で、中国に倣いつつ日本固有の文人画になっている。これはもう南画と呼ぶべきと考えています。一方で、奇想の絵画として若冲と蕭白がおり、写生画では応挙と呉春がいます。それぞれ違う絵を描くという環境が京都に展開されていた。京都にはそれらすべてを認める、包含する文化的風土もあったのです。これは素晴らしいことです。多様なものを多様なかたちで認めていく。私はこれが日本人の本質的な調和させるということではないかとも思うのです。

石黒 : 多様であり、寛容といったところにつながりますね。ところで、奇想といわれた若冲、蕭白は、他と並び称されるほどの存在だったのでしょうか。海外で認められてから、あらためて評価があがったようなところもありますが。

冷泉 : 違いは当時の人たちもわかっていたと思います。『平安人物誌』というその当時活躍した画家が掲載された本がありますが、この人たちが出てきます。質は違っても京都では、彼らが認められていた証です。

 

石黒 : 京都もそうですが、江戸時代には、文化的に高度な部分がかなり地方にも普及していたと思いますね。長沢芦雪の作品にしても、地方に多く残されていますでしょう。

冷泉 : そう思いますね。絵の世界を見ても、与謝蕪村は多くの地方を回っていますが、土地ごとに俳諧の仲間がいました。また若冲に相国寺の大典がついていたように、学者のバックグラウンドもあって、教養のレベルは相当高かったと思います。

 

石黒 : その頃は、私たちが思っている以上に、全国に文化のネットワークが広がっていた。そして、今日まで生きた形で和歌の世界が脈々と伝えられ、その中心には「御文庫」が厳然として存在していると思いました。最後になりましたが、これからの抱負について、聞かせてください。

冷泉 : 心構えは確かにして、ふらふらしていてはいけないと思っています。皆様も何か大切な変わらないものを一つ見つけられたらいいと思いますね。私は、芭蕉の「不易流行」という言葉を取りあげて、よく話をします。変わらないものと変わるもの、それを見極めることが大事ですと。

石黒 : たしかに、いつの時代においても「不易流行」は重みのある言葉です。本日は、貴重なお話をありがとうございました 

 

 

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