明智光秀 辞世の句

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明智光秀 辞世の句

逆順無二の門 大道は心源に徹す

 五十五年の夢 覚来(さ)めて一元に帰す

 

 

 

たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。彼も我もひとしき武門。

武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。

その大道は我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。

とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。

しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。

 

 

明智 光秀(あけち みつひで)

生誕:享禄元年(1528年)

死没:天正10年6月13日(1582年7月2日)

 

 

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

 

戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして信長を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れた。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したもとされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。

 

本姓は源氏で、家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。

 

 

 

 

光秀の謎 

明智光秀は、有能な武将であり、政治家であり、文化人であり、建築家であった。それも、どの分野においても一流といわれる才能を示す。豊臣秀吉などは、明智光秀をライバルとしていたようである。織田信長も明智光秀を大変信頼していたようである。その明智光秀が織田信長に反乱をおこした理由については、いまだに分かっていない。ただ、織田信長はあのとおりの人であり、家臣として働くには難しい一面があった。あの陽気(ようき)な豊臣秀吉さえも織田信長には、気苦労をしたらしい。繊細(せんさい)でまじめすぎる明智光秀とっては、織田信長の行動にはついていけない面があったのではないだろうか。明智光秀は精神的に追いつめられていたのかもしれない。

 

明智光秀には四十歳前の過去がない。実はかき消されたかのように無いという不思議があります

 

明智光秀が歴史の表舞台に立つのは信長の家臣になってから。40歳で信長に仕え始めて2年目で、織田家生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けるまでになりました。信長からはかなりの評価を受けていたようです

 

 明智光秀の出自は定かではありません。斉藤道三の息子、義龍によって一族を滅ぼされ、諸国を放浪しながら様々な知識を身につけたといわれています。

 

はじめは斎藤道三に仕え、一族が滅ぼされた後は越前の朝倉義景に仕えていたようです。その後、朝倉を頼ってきた足利義昭の使いとして信長との出会いを果たしたというのが通説のようです。

 

しかし、それの書かれた「明智軍記」なる資料は誤謬多く、全く信用できないことが知られている。

その前半生を語る信憑性のある資料はほとんどなく、謎に包まれている。

 

明智光秀は出自があやふやとは言え、歴史の表舞台に登場した時には一流の文化人で、室町幕府や朝廷にコネがあった人物。武将としても為政者としても優秀な聡明な人物で(故に信長から破格の待遇を受けている)、間違っても私怨を晴らすために主君を討つようなことはしない人物と言われている。

 

 

 

『フロイス日本史』中には、 次のような記載があります。

「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」

「裏切りや密会を好む」

「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」

「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」

「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」

「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」

「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」

「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」

「刑を科するに残酷」

「独裁的でもあった」

「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」

「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■本能寺の変から、秀吉の中国の大返し。そして山崎の戦いへ 

 

(参照:京阪奈ぶらり散歩) 

http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/aketimituhide.htm

 

 

天正十年(1582年)

 

6月1日

尾張の小さな大名から成りあがった織田信長の天下統一は目前に迫っていました。

 

その頃信長は、北陸は柴田勝家、関東は滝川一益、中国は羽柴(豊臣)秀吉といった具合に,有能な人材を大将として派遣し、各地の平定に当たらせていました。

 

ちょうど備中(岡山)の高松城を攻めていた秀吉でしたが、その高松城を助けようと、毛利方が総力を挙げて出陣してきました。

 

その事を知った信長は自ら出陣すべく、この日安土から京都に入り、わずかな供の者だけをつれて、いつも宿泊している本能寺にいました。

真ん中の部分が信長の勢力圏

一方の明智光秀は、そんな信長出陣の戦陣を命じられ、丹波・亀山で1万6千の兵を揃え、一足先に中国へ向けて出陣しました。

 

6月2日

しかし光秀軍は、途中で方向を変え桂川を渡り、早朝に京都に侵入します。

「敵は西にあらず、敵は本能寺にあり!」前代未聞のクーデターです。

 

本能寺を取り囲む光秀の軍勢・・・やがて、外の騒がしさに気付いた信長は、「これは謀反か?いったい誰が?」

外にうごめく旗差物を見た森蘭丸が「明智勢かと思われます」と答える、信長は「是非に及ばず」と一言吐き捨てます。

 

光秀なら万全の体制をとっているだろうから、もう助かる道はないだろう・・・という事ですが、すぐに信長は弓を取って応戦します。

 

しかし、当然ながら、人数の違いによって勝ち目はありません。

やがて、屋敷は炎に包まれ、信長は自害します。

 

6月3日

信長の首を探すのに手間取っていた光秀。

首はあきらめてとにかく、主だった重臣たちが、みな遠方で敵と戦っている間に畿内の制圧にとりかかる事にします。

 

この日の夜、備中高松城を水攻めにし、孤立させる作戦をとっていた秀吉のもとへ、『信長死亡』のニュースが飛び込んで来るのです。

ここまで、知らせが早かったのは、実は光秀が出した毛利への密書が、道を間違えた使者によって秀吉のもとへ届けられてしまったからでした。

 

秀吉に絶好のチャンスが転がり込んできました。

毛利方に信長の死を知られないために、この日のうちに山陽道の交通を遮断します。

 

6月4日

この日の早朝に、秀吉は毛利方に休戦協定の使いを出します。

信長の率いる大軍がやってくる前に、なんとかこの高松城の一件を解決したいと思っていた毛利方は、高松城主・清水宗治の切腹と、備中・美作(みまさか)・伯耆(ほうき)の三国を譲る事で、あっさりと休戦に応じました。

 

城主・宗治は切腹し、高松城は開放され、秀吉の家来が城主として高松城に入ります。

 

6月5日

織田家一番の重臣・柴田勝家や徳川家康より先に信長の弔い合戦をやらなければ、トップには立てません。

こうなったら、一刻もはやく陣をかたずけて、畿内に戻りたい秀吉ですが、毛利軍の撤退を見るまでは平静を装わなくてはなりません。

 

この間に秀吉は、「信長公は生きている」との嘘の情報を流し、織田家の中でも光秀寄りの武将やライバルたちの動きを遅らせようとたくらんでいます。

 

一方の光秀には大きな誤算がありました。

鬼のように恐ろしい神仏をも恐れぬ信長を討ってしまえば、古い伝統を重んじる武将や、寺院が味方に着いてくれると思い込んでいたのに、あてにしていた組下の大名たちも離れていきます。

 

親類の細川藤孝も、やってはきませんでした。

 

このページの先頭へ戻る

光秀の誤算・秀吉の中国大返し

 

6月6日

夕方、毛利軍の撤退を確認した秀吉は、毛利軍の急な反撃に備えて、宇喜多秀家を岡山城に残し、さっそく出発します。

 

その頃には、腹心・黒田官兵衛の手配で、秀吉の居城・姫路城までの道筋には、松明・炊き出し・替え馬などが抜かりなく準備されていました。

 

この日の夜のうちに約12㎞を移動し、亀山城に到着します。

 

6月7日

早朝から出発した秀吉軍。

 

悪天候のために付近の川が氾濫する中、主君の仇討ちという大義名分を掲げて己のチャンスをモノにしようとする秀吉に自分のチャンスでもあると確信した家臣たちが一丸となってそのスピードを速めます。

 

この日のうちに驚異的なスピードで約80㎞を制覇し、姫路城に到着します。

 

姫路城に入った秀吉はここで一旦休憩をとる事にします。

 

この姫路城での休憩の時に、秀吉が「今度は大バクチを打ってみせよう」と語り、官兵衛が「大バクチお打ちなされ」と返す、名場面が繰り広げられます。

 

光秀軍との合戦に籠城戦はとらず、生死をかけてとことん打って出る決意を固めた瞬間でした。

 

 

6月8日 光秀軍、味方探しと畿内平定に奔走。秀吉軍休憩。

 

6月9日 浅野長政を留守居役にして早朝に秀吉は、1万5千の兵を率いて姫路を出立します。

 

6月10日 光秀に、「秀吉軍がまもなく尼崎に到着する」との知らせが届きます。

光秀にとっては、最大の誤算でした。

 

一番警戒していたのは、北陸の柴田勝家、次に徳川家康。

それでも、早くても1ヶ月くらいはかかるだろう・・・と踏んでいたのに、まさか200キロも離れた遠方で毛利と戦っている秀吉が、こんなにも早く帰ってくるとは・・・。

 

畿内の主要部を支配して、毛利と手を組んで・・・という青写真がみごと白紙に戻されてしまいました。

光秀はあわてて近江(滋賀)を出て、京都に向かいます。

 

6月11日

この日、光秀は洞ヶ峠に登り、陣を張ります。

秀吉軍は、昼前頃に尼崎に到着。

  

6月12日

秀吉の呼びかけに答えて、池田恒興(つねおき・有岡城主)・中川清秀(茨木城主)・高山右近(高槻城主)など、摂津衆の武将たちが参加。

 

この日のうちに20㎞進んで、富田(とんだ)に陣をはるうち、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)らも参戦し、秀吉軍は4万の大軍に膨れあがります。

 

一方の光秀の呼びかけに答える武将はなく、自分の組下であった摂津衆たちもが秀吉軍に加わった事を知り、空しく洞ヶ峠を下りました。

 

しかし、嘆いてばかりはいられません。

さっそく、光秀は直属軍を、天王山の東側に南へ向いて扇形に配置します。

当時は淀川の幅が現在よりも広く、しかもまわりが湿地帯で、大きな沼もありました。

 

天王山と淀川の間がたいへん狭かったので、ここを通って南からやってくるであろう秀吉軍を一軍一軍撃破する作戦だったのです。

 

6月13日

雌雄を決する天王山・山崎の合戦

 

この日には、秀吉軍の先方である中川清秀、高山右近が、天王山と淀川の間を抜け前へ出て陣を敷きました。

 

その後に、羽柴秀長が続きます。

 

雨雲に覆われ、しとしと雨が降る中、午後4時過ぎた頃、光秀側からの秀吉の先方・高山右近、中川清秀への攻撃で、決戦の火蓋は切って落とされました。

 

しかし、戦いは光秀の思惑通りには進みませんでした。

 

津田・斉藤軍が高山・中川軍をなかなか崩せないでいる時、池田軍が淀川沿いをすり抜け、東側から伊勢・諏訪衆を攻撃し始めます。

たちまち、伊勢・諏訪衆は苦戦を強いられます。

 

その間に、秀吉本隊の大軍が、天王山と淀川の間の狭い場所を抜け、天王山の東側に到着しました。

合戦が始まって1時間ほどの事でした。

 

秀吉軍の全軍が、広い場所に出てしまえば、もう後は数の問題。

数では、光秀側に勝ち目はありませんでした。

 

日暮れとともに闇に包まれた戦場から、その闇にまぎれて光秀は、戦場の北側に位置する勝龍寺城へ逃げ込みました。

 

勝利した秀吉は、たからかにかちどきをあげ、天王山に登って周囲を見下ろしたと言います。

わずか3時間の戦いでした。

 

 

6月13日

明智光秀の最期

光秀が逃げ込んだ勝龍寺城は、平城でとても秀吉の大軍を押さえきれる大きさの物ではありませんでした。

 

光秀は夜がふけるのを待って、少数の供の者とともに、居城である近江の坂本城に落ち延びようと出発しました。

 

そして、一行が山科・小栗栖(おぐるす)に差し掛かった時、突然藪の中から竹槍が突き出されました。

竹槍は、落ち武者狩りにかりだされた近くの土民たちのものでした。

 

何とか供の者が応戦し、その場を切り抜けますが、少し進んだ時、突然、光秀が馬から落ちてしまいます。

 

見ると光秀の脇腹から溢れんばかりの血がしたたり落ちてきます。

傷は思ったよりも深く、光秀は「もはや、これまでだ」と、力なく言いました。

 

馬から下りた光秀は切腹し、家臣が介錯し、その首は秀吉に見つからないように、藪の中に深く埋められました。

本能寺で信長を襲撃してから十一日め、光秀、五十五歳の夏でした。

 

 

■光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?

 

本能寺の変は、戦国時代の中でも屈指の名場面です。

この時代のドラマで、この事件をはずして描かれる事は、まぁ、ありえません。

・・・にも、かかわらず、光秀の動機・・・となると、まったく答えがないのが現状です。

 

まず、よく言われるのは、『怨恨説』。

信長の度重なるイジメや暴言に、多くの人の前で恥ずかしい思いをさせられた事が積もり積もってとうとう堪忍袋の緒が切れた・・・という物です。

 

しかし、考えてみれば、信長の暴言は光秀だけに浴びせられているものではありません。

信長はいつも、家臣全員にそのような態度をとっていたわけですし、そんな家臣たちの中では、光秀は彼のお気に入りだったはずです。

 

信長の重臣として思いつくのは、柴田勝家、丹波長秀、羽柴秀吉、滝川一益、そして明智光秀。

この5人の中で、家臣になったのは光秀が1番後です、・・・にもかかわらず、城をもらったのは、光秀が一番最初であり、石高も1番大きいのです。

四人抜きの大出世です。

 

日頃、家臣の話をする時も、信長は、自分の優秀な家臣として一番最初に光秀の名前をあげていました。

そんな、光秀が「信長公は、自分がお嫌いなのだ・・・」悩む・・・というのは、ちょっと考え難い気がします。

 

次に考えられるのは『野望説』。

信長うんぬんより、とにかく天下を取りたかった・・・という考えです。

 

たしかに、本能寺に宿泊中の信長は守りが手薄でしたから、狙うには絶好のチャンスだったかも知れません。

変の数日前に、光秀が連歌の会で詠んだとされる歌・・・

 

♪ときは今 あめが下しる 五月(さつき)かな♪

 

これが、天下を取る時が来た・・・という意味に解釈できるそうなのですが

 

 

次に、『不安説』。

先程も書いたように、信長の家臣の中で光秀がトップだったところに、秀吉がひしひしと迫ってきて、その地位をおびやかし、ついには逆転してしまった事に不安を感じた・・・というものですが、これも、不安というものを急に感じる・・・という事はありえないので、やはり事前の準備はできたはずですよね。

 

いずれにしても、あまりにも不可解な光秀の行動に謎が謎を呼び、最後には『光秀ノイローゼ説』なる、理由も何も関係なくやっちゃった~的な考え方まであります。

 

そこで、登場するのが、『黒幕説』です。

もし、、誰か黒幕がいて、その人の命令で変を起こした・・・、しかも、その場合だと、すぐに織田家の家臣に反感を買うのが目に見えているのに、無謀な戦いに応じるとは考え難いので、当然その黒幕の保護のもとでこの先も生き続けている・・・光秀は山崎の合戦の後、死んではいないんじゃないか?という考え方です。

 

 

明智光秀、生存説

 

上記のとおり、光秀は山崎の合戦の後、山科で土民の竹槍で命を落とし、俗に『三日天下』と言われる事になるわけですが、これだけの武将が名もなき土民に殺され、しかも、家臣が「見つからないように・・・」と苦心して隠した光秀の首があっさりと、これまた名もなき農民によって発見され、秀吉のもとへ届けられる・・・とても奇妙な結末です。

 

もし、本当に光秀が死んでいて、その首をそこらへんを歩いている農民が発見したのが事実だとすれば、逆にその首はわざと光秀が死んだように見せかけるための別人の物・・・というほうが納得できます。

 

光秀のお墓と称される物もいくつかありますが、いずれも骨は埋葬されていません。

動機の不明さと、死亡時の不明さが相まって、黒幕説=生存説がささやかれるようになったのです。

 

黒幕となると、まず、気になるのは、『足利義昭・黒幕説』。

本能寺の変の後に、光秀は小早川隆景(たかかげ)に手紙を送っています。

その手紙には、「義昭公が信長に追い落とされた無念のために信長を討った」と書いてあったというのです。

 

足利義昭は室町幕府最後の将軍です。

力が無くなった足利を信長が盛り立てて最後の15代将軍になりますが、将軍とは名ばかりで、実際には信長が仕切っている現状に不満を抱いて、信長に反抗し、結果的に追放されてしまいます。

 

光秀は、もともとこの義昭に仕えていた人、「義昭が15代将軍になるのに力を貸してやってほしい」と信長と義昭を結びつけたのも、光秀です。

信長の家臣となっても、まだ義昭とつながっていたとしても不思議ではありません。

光秀にとっては、最後の最後まで、主君は義昭だったのかも知れません。

 

もし、義昭のために光秀が刺客的な意味で変を起こしたのだとしたら、義昭は、散々信長に痛めつけられていた公家や町衆とのつながりがあった事から、公家や貴族の保護のもと、余生を送ったと考えられます。

 

『羽柴秀吉・黒幕説』というのも、あります。

本能寺の変後の行動が、あまりにもすばやい事。

事前に、変の事をわかっていなければ、中国大返しの時の道筋のダンドリなどは不可能だというのです。

 

しかも、中国攻めに信長の出陣を要請したのは、他ならぬ秀吉です。

信長が中国攻めに出陣する事になったからこそ、京都へ行き、本能寺へ泊まったのですから、そこに謀反のチャンスができた・・・とも言えるわけです。

 

ただ、この場合だと光秀と秀吉の間に密約が取り交わされていたかどうかが気になる所です。

 

密約が交わされていたとすれば、光秀は秀吉の保護のもと命永らえる事になりますが、秀吉が自分の描いたシナリオ通りになるように誘導して、光秀が知らないうちにそのシナリオ通りの行動をとったのだとしたらたら、山崎の合戦の後、本当に始末されている・・・となるのです。

 

残念ながら、そこんとこは謎に包まれています。

 

 

光秀=天海説

 

もう一つ仮説があります。

徳川時代に大活躍する謎の僧・天海が光秀と同一人物ではないのか?という節です。

 

光秀の前半生は謎に満ちています。

歴史に登場するのは、信長の家臣になる時からで、その時に足利義昭に仕えていた・・・という事を語られるだけで、それ以外の経歴は不明です。

 

そして、この天海という僧も、前半生がまったく不明なのです。

天海がいきなり登場するのは、信長が死んでからずっと後の事、秀吉も死に、関が原の合戦も終わったその後、徳川家康の相談役・ブレーンのような形で登場します。

 

大坂冬の陣・夏の陣のきっかけとなる、あの京都・方広寺の鐘の一件。

 

あの鐘に書かれてある文字に因縁をつけて、挙兵のきっかけを作ればいい・・・と提案したのが天海なのです。

この時、天海はすでに80歳を越えていたと言う事ですが、たしかに光秀が生きていれば、それくらいの年齢ではあります。

 

そもそも、家康に始めて会った時、天海はすでに高齢であったそうで、その後、天海は二代将軍・秀忠、三代将軍・家光にも仕え、現在の江戸の町を設計したのもこの人だと言われ、徳川家では、他に類を見ない強固な権力を握っています。

方広寺の鐘の一件に

 

 

光秀=天海だとすると、当然本能寺の変の一件は『家康黒幕説』という事になります。

家康が本当に尊敬していた戦国武将は武田信玄だったと言われています。

 

信長に仕えていた頃は、大きな信長の権力に対してまだ、「自分はその時ではないと」考え、気持ちを抑えながら仕えていた、という事になるのです。

妻と息子を信長の命令で殺さなければならなかった事も、家康の心には深く刻まれたはずです。

 

光秀と家康が手を組んで、どちらかチャンスのあったほうが信長を討ち、残ったほうが討ったほうを助け保護するという契約をかわしていたのかもしません。

 

光秀=天海説の根拠はいくつかあります。

天海の謚号(死んだあとにおくる名前)は『慈眼大師(じげんだいし)』というらしいのですが、光秀の居城があった京都は北桑郡周山村にある『慈眼寺』というお寺には、光秀の木像と位牌が安置されているのだそうです。

 

また天海は生前、川越にある喜多院の再興に力を注いだ人なのですが、その死後、3代将軍・家光が天海の事を思い、そのお寺の境内に慈眼堂というお堂を建てるのですが、あの春日局がそこへしばしば通っていたという記録が残っています。

 

春日局と言えば、光秀の姪である事は史実の通りですが、本来なら謀反人である光秀の親類を、将来将軍となる孫の乳母にする事もずいぶん不思議な事です。

この事は、家康が光秀の事を主君(信長)を討った謀反人だとは思っていなかった証拠とも言えますが、実はもっとスゴイ話が・・・

 

そもそも、家光の母とされる2代将軍・秀忠の正室は、家光が生まれる8ヶ月前に女の子を出産しています。

もし、その後すぐ家光を生んでいたとしたら、当時としてはかなりの早産。

けっこう大変だったはずで、それなら絶対に記録か何かに残っているはずですが、そんな記録はありません。

 

逆に実は、家光は春日局と家康の間に生まれた子供である事が、徳川家の記録に残っているのです。

その記録には『御腹(出産した人) 春日局』とはっきり書かれています。

 

しかし、いくら家康が謀反人とは思っていなくても、世間的には光秀は謀反人ですから、その謀反人の親類が母親ではマズイので正式発表では正室の子で長男・・・という事にしたというのです。

たしかに、単なる乳母なら春日局が大奥であれだけの権力を握れるはずはありませんから、納得がいくのもたしかです。

 

でも、もしそれらが本当だとすると3代将軍・家光の時代・・・将軍が家光、ブレーンが天海(光秀)、大奥が春日局(姪)、という事になって実に楽しい。

これは、もう徳川幕府じゃなくて明智幕府・・・って事になってしまうわけで、まさに歴史が根底からくつがえされる事になります。

ただし、あくまで仮設ですが・・・心躍る推理ですね。

 

 

 

 

 

 ■ご購入はこちら 

大人気・家訓ブログが本になりました!

 書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

発売日: 2015年6月1日

出版社: セルバ出版

価格 : 1,600円+税

 

URL  : http://www.amazon.co.jp/dp/4863672063