老舗和菓子 塩瀬総本家 家訓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『材料落とすな、割り守れ』 

塩瀬総本家 家訓

 

材料落とすなというのは、質を落とすなと言う意味。割りというのは配合

 

塩瀬総本家の初代林浄因は宋の人で貞和5年(1349)中国より来日し、奈良に住み、饅頭を製し宮中に献上しました。

これが日本の饅頭の元祖と云われております。

 

室町時代、後土御門天皇より「五七の桐」の御紋を拝領し、後水尾天皇より「塩瀬山城大掾」の名を許され、又足利義政公より「日本第一番本饅頭所」の直筆の看板を贈られました。

この栄誉ある「塩瀬」を屋号とし、660余年奈良、京都、江戸(東京)と居を変えましたが、その味と技は絶やすことなく伝承して参りました。

 

 

■大河ドラマより古い 塩瀬総本家の歴史

 

塩瀬の歴史は、660年ほど前に遡ります。貞和5(1349)年、宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。

林淨因は暮らしの居を奈良に構え、お饅頭を作って売り出しました。これが、塩瀬の歴史の始まりです

 

当時、禅宗寺院は宗教学問の場だけでなく、上流階級の社交場として使われていました。淨因のお饅頭は、肉食が許されない僧侶のために、小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸し上げたもので、その画期的な甘味は寺院に集う上流階級に大評判となりました。

 

その後、饅頭屋は、林淨因の子孫が受け継ぎ、奈良・林家と京都・林家に別れて営業することになります。

 

1467(応仁元)年の応仁の乱。応仁の乱は京都を焼け野原にしました。戦乱を避けて京都を離れた林家は、親戚関係であった豪族・塩瀬家を頼って三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)に住み、姓を「塩瀬」に改めました。

 

再び京都に移った塩瀬は大繁盛、塩瀬があった烏丸三条通り下ルのあたりは当時、饅頭屋町と呼ばれました。この頃、8代室町将軍の足利義政より「日本第一番本饅頭所林氏塩瀬」の看板を授かり、時の帝、後土御門天皇からは「五七の桐」の御紋を拝領しました。

 

それから100年後、時は“国盗り物語”の時代。塩瀬のお饅頭は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康に愛好されます。関が原の戦いで勝利をおさめた徳川家康の江戸開府に時代を同じくして、京都での繁盛も続く中、塩瀬の源譽宋需という者が江戸に移り、商売を始めました。

 

塩瀬と家康との関わりは、天正3(1575)年の長篠の合戦にて、七代目林宗二が「本饅頭」を献上した頃から始まります。元和元(1615)年の大坂夏の陣、家康は大坂方の将・真田幸村に攻めたてられて、あやうく一命を落とす瀬戸際がありました。そのとき、わずかな手勢を引き連れ逃げ込んだところが、林浄因が居を構えていた林神社でした。戦いの後、家康は林神社に鎧一領を贈りました。

 

代々「塩瀬」を家号として製菓につとめ、明治初年からは宮内省御用を勤めることになりました。戦後は、ブライダルの引き菓子として、そして現在さまざまなデパートに出店し、全国の皆様から多大なるご愛顧をいただいております。長い歴史を誇る塩瀬の暖簾は、今日もなお熟練した菓子職人が技と心で伝えています。

 

 

 ■「まんじゅう」の誕生の物語

 

塩瀬の始祖・林淨因は、主に寺院を対象に、奈良でお饅頭商いを始めました。淨因は、中国で肉を詰めて食べる「饅頭(マントゥ)」にヒントを得て、肉食が許されない僧侶のために、小豆を煮つめ、甘葛の甘味と塩味を加えて餡を作り、これを皮に包んで蒸し上げました。お饅頭の、ふわふわとした皮の柔らかさ、小豆餡のほのかな甘さが、寺院に集う上流階級に大評判となりました。

 

当時、日本の甘味には干柿や栗の焼いたもの、お餅に小豆の呉汁をつけるお汁粉の元祖のようなものしかありませんでしたので、画期的なお菓子の誕生ということになりました。日本人は昔から豆類を多く摂取し、小豆好きであったことから、餡饅頭は好評を博したのだと考えられます。

 

淨因のお饅頭は、後村上天皇に献上されるまでになります。天皇はお饅頭を大変喜んで淨因を寵遇し、宮女を賜りました。当時、一商人が宮女を下賜されるということは、特別の栄誉でありました。結婚に際し、淨因は紅白饅頭を諸方に贈り、子孫繁栄を願って大きな石の下に埋めました。これが「饅頭塚」として、林淨因が祀られている林神社に残されています。今日、嫁入りや祝い事に紅白饅頭を配る習慣は、ここより出ているものです。

 

それから幾代か経て、商いの場は京都に移ります。林淨因の子孫、紹絆は、中国で製菓を修得後日本に帰り、中国の宮廷菓子に学び、山芋をこねて作る「薯蕷饅頭」を売り出しました。この「薯蕷饅頭」が現代塩瀬に伝わるお饅頭の元となりました。

 

時代は下り、天正3(1575)年の長篠の合戦。鉄砲の連射を駆使した織田・徳川連合軍が、戦国一の騎馬軍団を擁する武田勝頼を撃退した戦いです。家康出陣の際、塩瀬の七代目林宗二が「本饅頭」を献上しました。「本饅頭」とは、大納言が入った小豆餡を薄い皮で包み、丁寧に蒸しあげた、林宗二考案の品です。家康は、本饅頭を兜に盛って軍神に供え、戦勝を祈願しました。この逸話から、本饅頭を「兜饅頭」とも呼びます。この「本饅頭」は、現在も昔と変わらない製法でお作りしている歴史的趣の深い、塩瀬自慢のお饅頭です。塩瀬は将軍家からも、宮中からも愛され、その繁盛は続きます。

 

明治時代には、宮内省御用を勤め、今日に至ります。塩瀬饅頭は、大和芋の皮をむき、摩り下ろすところから始まります。職人の手による手作業です。耳たぶより少し柔らかい固さの皮に、餡を入れて蒸し上げると、本当に上品なお饅頭が出来上がるのです。 

 

 

 ■老舗和菓子屋の家訓

 

「塩瀬」の家訓は『材料落とすな、割り守れ

 

材料落とすなというのは、質を落とすなと言う意味。割りというのは配合。

「塩瀬」では小豆を産地直送で使っています。

米にも新米、古米、古古米とあるように、小豆も1年もの、2年もの、3年ものがあります。これが、小豆屋から買うと、1年ものに昔のをちょっと混ぜて売ってくる。これだと良い物が出来ないので、産地に出向いて、見て、直接買ってくるそうです。

 

日本における饅頭には、もう一つの系統があります。

鎌倉時代仁治2年(1241年)、宋から帰国した臨済宗東福寺を開いた禅僧聖一国師弁円が宋からの帰り道に博多の茶店に立ち寄りました。

 

聖一国師は茶店の主人である栗波吉右衛門に歓待されたお礼として小麦粉をこねて甘酒をいれて発酵させて饅頭をつくる製法を教えます。

のちに茶店の主人は「虎屋」を名乗ってこの饅頭を売り出します。これが「虎屋」酒饅頭の起源です。

 

日本の饅頭も天下分け目の関が原の戦いでは「虎屋」は石田光成方、「塩瀬」は徳川方につきました。

後に、塩瀬は江戸に徳川家と共に移り、虎屋は京都に残ります。ちなみに「虎屋」の家訓は「家訓がない家訓」。時代にあわせ、当主が工夫しろ!という意味だと言われています。

 

時代の流れに巻き込まれながらも、饅頭は店に伝わる家訓をひたすら守って日本の食文化を今日に伝えています。

 

ビジネス原点。見習うは老舗の家訓にあるようです

 

 

  

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