京都の老舗 半兵衛麩の家訓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初代 半兵衛 元禄2年(1689年) 玉置山より御所の大膳方として京に来て、宮中の料理人を務めていた玉置半兵衛が宮中で覚えた製麸の技術を生かし、京の町で麸屋を創業。 屋号を「萬屋(よろずや)」とする。

 

三代目 三十郎 江戸時代後期、 石田梅岩の思想「石門心学」を学び「宗心」の名を頂き、自らも講を開く。 家訓「先義後利」を確立

 

半兵衛麸の京麸(登録商標)は、伝統文化と研ぎ澄まされた巧みの技に育まれ受け継がれてきた京都を代表する名産品のひとつです。 半兵衛麸は、麸を通じて京都・日本の伝統的な食文化を発信し、 次世代に継承することを使命としています

 

(参照:半兵衛麩HP 

http://www.hanbey.co.jp/store/head/02.html

 

 

■麸の歴史 

 

 麸、ゆばは室町時代に中国より伝わり、京都の寺院や宮中で育まれた日本の伝統食材です。 近年では、植物性たんぱく質を豊富に含む低カロリー食材として改めて注目を浴び、 京料理だけでなく幅広いジャンルの料理の素材として認知されています。 

 

麸の伝来 麸は、室町時代に明との間で行っていた勘合貿易に伴い、中国へ渡った修行僧によって伝えられました。 当時の麸は、石臼で挽いた粗い「挽き割り小麦」を水で練ってこね、水の中で洗い、澱粉と分離させた「小麦たんぱく」 のことを指しました。当時、小麦のことを「麺(めん)」と呼んでいたことから、強い粘りとコシがある小麦たんぱくは「麺(めん)の筋」という意味の「麺筋(めんちん)」と呼ばれていました。 当時、肉食を口にしないなどの厳しい戒律の禅僧にとって、麸は豆腐や湯葉と同じく貴重な栄養たんぱく源とされ、寺院の中で育まれました。ですが、当時は小麦の作付け量は少なく、挽き割り小麦は高価で、一般には口にする事は出来ず、宮中や僧堂で特別な時にのみ食されるものでした。

 

 

■半兵衛麩 家訓 

半兵衛麸は元禄二年(1689年)創業の京の麸屋です。

創業以来、水と素材と技にこだわり、

伝統の味を守り続けています。

  

先義後利

 

江戸時代中期、御所の大膳亮(食事を掌る職)を務めた

玉置半兵衛は、当時まだ寺院や宮中でしか食されることのなかった貴重な食材「麸」の製法を学び、京の町で「萬屋(よろずや)半兵衛」として商いを始めました。

これが元禄二年(1689年)、初代が20歳の頃のことです。

以来、材料にこだわり、時代の変化とともに麸を発展させながら、丹精を込めて伝統の味わいと技を守り続けています。

時代が変わっても麸屋の生業とともに、現在の11代目当主まで守り続けてきたのは「先義後利(せんぎこうり)=義を先にして利を後とする者は栄える」の家訓です。

「義」とは、正しい人の道のこと、「利」とは人の強欲のことを指します。金銭欲や出世欲によって商いをすると、「人をだましてまで儲けよう」という間違った道に進み、破滅してしまいます。そうではなく人様のお役に立つ商売をし、それによって得た利益を世の中の為に使う。それが正しい商いの道として半兵衛麸の基本姿勢となっています。

 

 

不易流行

 

先義後利と並び、もう一つの家訓として受け継いできたのは「不易流行」です。

「不易」とは変わらないもの、「流行」とは移り変わるもののことです。半兵衛麸は、ご先祖から代々受け継がれてきた大切な教えや考え方は決して変えることなく守り続け、美味しい麸とゆばを通じて社会に貢献することを使命とし、次代に受け継いでいきます。

その一方で、新しい技術の研究や、現代のニーズに合わせた商品開発に励み、常に「お客様にとってお役にたつ存在」であり続けるよう革新を続けています。

 

 

石門心学

 

こうした考え方は、江戸時代に商人哲学「石門心学」を唱えた石田梅岩(いしだばいがん)の影響を強く受けています。

正直、倹約、勤勉などを分かりやすく説き、商いの利潤は武士の俸禄と同じく正当に請求できるものという石門心学の教えに、三代目の三十郎は深く傾倒し、石田梅岩の弟子である杉浦宗恒(そうこう)に師事しました。

自らも雅号「宗心」をもらい、二人の娘にも「梅」「岩」と名付けるほどの気の入れようで、彼が発した正直な商いを説く「ご先祖の教え」は、代々当主に受け継がれています

 

 

 

 

 

  

 

 

 

■信じる者が横につくと「儲かる」~京都の老舗の半兵衛麸の言い伝えと「石門心学」

 

(参照: 言霊・楽習社(がくしゅうしゃ) ~心豊かに、言葉を生み、人生を潤す~  

http://kuwadong.blog34.fc2.com/blog-entry-2560.html

 

 

京都に江戸時代の元禄二年(1689年)に創業した半兵衛麸(はんべいふ)という麩とゆばを専門に製造販売している老舗がある。

 

創業して330年以上経つが、創業以来、材料にこだわり、時代の変化とともに麸を発展させながら、丹精を込めて伝統の味わいと技を守り続けている。

 

麸・ゆばは、京都の寺院や宮中で育まれた日本の伝統食材で半兵衛麸は300年以上にわたり寺院本山や料亭などに納品してきた。

 

昨今は、植物性たんぱく質と食物繊維が豊富な麸は低カロリーで自然の食材だけを用いた健康的な食品としても注目され、美容と健康に意識の高い層やマクロビオティックの実践者からも好まれる食品となっている。

 

伝統の味と技を守りつつ、時代の変化に対応して、バターやき麸のホットチョコレートなど様々な麸を用いたスイーツを開発していている。

 

その半兵衛麸が大きな危機に陥ったのは十代目の玉置家の四郎之助の時であった。

 

昭和の戦前、四郎之助は名古屋に支店を出し、大阪に料亭を出すなど業務を拡大していたが、第2次世界大戦の中、1941年(昭和16年)に戦争に伴う食糧管理法により麸の原料である小麦が統制品となりさらに鉄製の釜や機械などが軍需用に供出させられて事業の継続が困難になった。

 

終戦直後の物不足の中、隠れて小麦粉を仕入れて麸を売るヤミの麩屋が現れたりしたが、「闇市の小麦を使用しては麸に失礼」と休業していた四郎之助は「うちは真面目な麩屋であり、汚点をつけてはいけない」とヤミ商売に手をつけることはなかった。書画骨董などを売ってしのいでいたが、困窮していった。

 

1952年(昭和27年)に食糧管理法の撤廃が撤廃され、その翌年に十一代目 の辰次が事業を再開。ヤミ製品があふれるなか品質重視を掲げ、また、戦後は食生活の大きな変化で麩が使われる味噌汁が作られることも少なくなり、麩への需要が減る中、高級スーパーや百貨店への販路を拡大して、事業を続けてきた。

 

終戦直後、苦しい中でもヤミ商売に手を出さなかった半兵衛麸であるが、半兵衛麸を受け継いできた玉置家の家訓に「先義後利( せんぎごり )」がある。

 

これは、中国の戦国時代の思想家・儒学者である荀子(じゅんし、紀元前313年? ~ 紀元前238年?)の「先義而後利者栄(義を先にして利を後にする者は栄あり)」という言葉に由来するものであるが、

 

その「先義後利( せんぎごり )」が半兵衛麸を受け継いできた玉置家の家訓になったのは江戸時代後期の三代目の三十郎の時である。

 

三十郎は、江戸時代中期の思想家で商人の倫理を説いた石田梅岩の思想「石門心学(せきもんしんがく)」を学び、「先義後利( せんぎごり )」を確立したのであった。

 

石田梅岩(1685年 - 1744年)は儒教や仏教、日本古来の神道の思想を取り入れて「石門心学」を確立。

 

ちょうど元禄のバブル経済が崩壊した直後、有力商人が相次いで追放・財産没収され、士農工商の身分制度で身分が低くされた商人の営利活動が憎むべきものとされていた時代に石田梅岩は買い手に満足してもらえるようなモノを売って得た利は商人の道であり商いの利潤は武士の俸禄と同じく正当なものであると説き、石田梅岩がいた京都の商人たちに強く支持された。

 

石田梅岩は商人が

「仁(他人を思いやる心)」

「義(人としての正しい心)」

「礼(相手を敬う心)」

「智(知恵を商品に生かす心)」

 

という4つの心を備えれば、お客様の「信(信用・信頼)」となって商売はますます繁盛すると説いている。また、自分が儲かり、相手が損をするのは本当の商売ではない。品物(商品)には常に心を込めて気を配ってお客さんに納得して喜んで買ってもらうことで、適正な利潤を得ることができ、「福を得て、万人の心を案ずることができる」とも説いている。

 

この石田梅岩の思想の影響を受けたのが明治時代の現代の様々な大企業の起業を手掛けた渋沢栄一であり、その渋沢の影響を受けたのがパナソニックの創業者である松下幸之助であり、その松下幸之助の影響を受けたのが京セラの創業者の稲盛和夫であるとされている。

 

そのように時代を越えて創業者達の思想に影響を残している「石門心学」の心を受け継いで「先義後利( せんぎごり )」を家訓にしてきた老舗の半兵衛麸の玉置家であるが、その玉置家に先祖代々からの言い伝えに次のようなものがある。

 

「言う」という言葉に「人=にん偏」が付くと「信じる」という言葉になる。

信じる者が横につくと「儲かる」になる。

つまり「商売の基礎は"信者"」をつくること。

 

初めから儲けることを考えて事業をすると、失敗する。

お客さんから信じてもらうように努力すること、それが、儲かることにつながるということである。

 

半兵衛麸では、国内に守り手がおらず海外に流出していく貴重な文化財を保護しようとしており、本店の一角に展示して、次世代に伝えていこうとしている。

また、伝統的な食文化の素晴らしさを後世まで広く伝えたいという願いから古いお弁当箱を多数展示している

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■「あんなぁ よおぅききや」聞きや 一言一句もらさず聞きや

 

~半兵衛麩と家訓のエッセー~(HPより)

 

父は明治二十五年、麸屋の息子として生まれ、麩一筋で生きてきた人でした。

 

五十代の一番脂の乗り切る時の昭和十六年に戦争が始まり、麩の原料小麦が統制品になったため、

麩を作ることができない時期が十年ほどありました。

 

戦争は、問屋町市場で大勢の職人さんを使って麩を作る商いを盛大に行い、名古屋に支店を出し、

大阪に麩を主とした料亭を始めたりしておりました。

しかし、戦争が始まり、食糧難で原料の小麦粉が入らないため、全く商いができなくなりました。

戦後は超インフレで、一枚ずつ身ぐるみを剥いでいく売り食いの、いわゆる『竹の子生活』の

暮らしで、「道具や物を売っても、ひと月暮らせる心算(つもり)が三日で無くなるほどの

インフレで大変だった」と母はこぼしておりました。

 

「こんな世の中が無茶苦茶になり、人間同士が殺し合うて大勢の命を奪い、家族を泣かせるような

戦争をしよって、馬鹿なやつがいたもんや」

「闇の麩を作れば儲かるのはわかっているけど、ご先祖さんが大切にしてきた麩を闇で作ることは、

申し訳なくてできひん。このまま馬鹿正直な麸屋のままでええ」

 

父が犯罪になる闇の麩を作ることができない一徹者だったのは、代々のご先祖さまの血や、家訓の

「先義後利」(せんぎごり)の教えがそうさせたのかもしれません。

昭和二十七年、統制が解除になり自由に麩が作れるようになりましたが、戦中に鉄の供出で機械や

焼き釜を正直に出したため、すぐに麸屋を再開することができないありさまでした。

生活の為にすべての財産を無くした痛手は大きく、病に倒れた父は、自分の代で商いを立て直す

のを諦めていたようでした。

 

一縷の望みを、次の代の私に託したのでしょうか、父と二人になった時、その場の状況に合わせて、

商人の心構えや、人間の生き方、命の尊さなどを子供の私にもよくわかるようにいろんな話をして

くれました。

 

幼い頃に聞いた父の話も長い間忘れていましたが、最近、改めてその頃のことを思い出しますと、

次々とその時の情景や言葉が思い浮かんでくるのが不思議です。

約二十年余り、毎日のように話してくれた父の教えを書き始めますと、切りがないほどあります。

 

話している途中に、肝心なところになると、父は口癖のようにこの言葉が出てきます。

 

「あんなぁ よおぅききや」

聞きや 一言一句もらさず聞きや

聴きや よく聴いて覚えておきや

利きや 役に立つように気を利かしや

効きや 立派な効果を期待してるよ

 

父はどの『ききや』を指していたのか、どれもみんな、大切な『ききや』だと思います。

いろいろと話してくれた父に感謝し、頭の中にじっくりと入るような話し方を思い出しながら、

書くことにいたします。

 

                                      玉置 半兵衛

 

  

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