石田光成 辞世の句

 

 

 

 

 

 

  

 

 

『筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり』

 

 

 

石田 三成(いしだ みつなり)

生誕:永禄3年(1560年)

死没:慶長5年10月1日(1600年11月6日)

 

安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者として知られている

 

 

 

 

 『大一大万大吉』

三成の紋

意味は「一人が万民(大)の為に、万民が一人の為に、さすれば世に幸福(吉)が訪れる」というもの

 

 

■見なおされる光成の人物像

 

歴史は勝者によって作られる。これまで光成の人物像について、計算高い、冷徹な武将として語られきました。しかし、近年、「あれ?光成いいやつじゃない?」との評が盛り上がっています

 

豊臣家に忠義をつくした生涯だけでなく、太閤検地や、軍役におけるロジスティックの差配の見事さなど、光成の優秀さを示す逸話は数多くあります。

 

旗印にもちいた 『大一大万大吉』。その意味は「一人が万民の為に、万民が一人の為に、さすれば世に幸福が訪れる」というものです。意訳すれば、「One for all,all for one.一人はみんなのために、みんなは一人のために」。

裏切り寝返りが当たり前の乱世にあって、光成のピュアすぎる人柄がつたわる旗印なのではないでしょうか?

 

 

■詳しく読み込む光成の半生 

 

(参照:敗者には敗者の歴史がある 【 あの人の人生を知ろう~石田 三成】 )

 http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic30.html

 

 出立

長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしていた。

その帰途、喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄って茶を所望した。対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめの茶を一杯に入れて出した。喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのんだ。次に小姓は、やや小さめの碗に、やや熱めにした茶をだした。秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出した。相手の様子を見て、その欲するものを出す、この心働きに感じいった秀吉は、その小姓を城に連れて帰り家来とした。この小姓が、その後累進し、五奉行の一人、石田三成となったのである

 

1582年(22歳)、信長が本能寺で自害。翌年、三成は秀吉VS柴田勝家の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」に参陣し一番槍を務めた。27歳で九州征伐、32歳で小田原攻めに従軍するなど、秀吉の天下統一事業を参謀としてサポートする。

 

三成は戦場で全くと言っていいほど武勲を挙げていない。それでも秀吉が側近として寵遇したのは、補給・輸送に腕を振るい(兵一人当たりの兵糧、弾薬を緻密に計算し輸送していた)、経済面での才能を高く評価していたからだった。三成は後の太閤検地の実施でも成果を挙げており、秀吉は有能な実務者は豪胆な武将以上に得難いと、彼に感服していた。1591年、三成は近江北部に所領を与えられ、31歳で城を持った(佐和山城、19万石)。

  

※秀吉は三成が4万石に加増された時、才気に富んだ三成がどんなに多くの人材を登用したのかワクワクして尋ねた。「あれから一人を登用しました」「たった一人だと!?」「島左近であります」。島左近は三成よりも20歳も年上の名将。「あの島左近がお前のような若僧に仕えるのか!?ありえん!」「私もそう思い、知行の半分、2万石で登用しました」「これは面白い。主君と従者が同じ知行など聞いたことがないわ」。秀吉はこの話に感心して、後日左近に高価な羽織を与え「どうか三成をよろしく頼む」とねぎらったという。三成が佐和山城主になった時、左近に加増を告げると「三成殿が50万石の大名と成られても、拙者は今の知行で充分なので、その加増はどうか部下達に」と断った。

 

※三成が検地で目覚しい働きをしたことから、秀吉が九州に33万石の領地を用意したところ、三成はこの破格の厚遇を断った。「私が九州の大名になってしまうと、大阪で行政を担当する者がいなくなります」。三成は個人の出世よりも、故郷・長浜が復興したように、国全体を活性化させることを重視していた。

 

1592年、秀吉の朝鮮出兵に対し、三成は無益さを訴えて最後まで反対していたが、秀吉はどうしても大陸を支配するといって聞く耳を持たず、ここに足掛け6年間の不毛な侵略戦争が始まった。日本軍は16万という大軍で力攻めをし、当初は優勢だったものの、やがて明の大援軍が介入して一気に戦況が悪化した。三成も渡航し最前線で戦い負傷する。翌年、明軍と和平を結ぶために休戦。明の講和使節を伴って帰国したが会談は決裂。1596年、再出兵。「補給線もズタズタに寸断されており、このままでは日本軍は全滅してしまう」。そのように三成が危惧していた矢先、秀吉があっけなく病没する(1598年8月)。三成はすぐさま全軍に朝鮮からの退却を指示した。

 

※最初の朝鮮出兵の撤退時に、三成と加藤清正は激しく対立した。即時撤兵を考える三成と、交渉を有利に運ぶ為にも最後に戦果を挙げるべきとする清正で口論になった。清正は戦線を無理に拡大して友軍まで窮地に追い込んでおり、勝手に“豊臣清正”と名乗るなど問題行動もあった。三成は日本にいる秀吉に“清正が和睦の邪魔をしている”と報告。怒った秀吉は清正を帰国させ謹慎処分にした。これを逆恨みした清正は「三成を一生許さぬ。たとえ切腹を申し付けられても仲直りなどできぬ」と激怒した。

 

秀吉の他界 

秀吉の忘れ形見・秀頼はまだ5歳。秀吉は他界する前、まだ幼い秀頼の将来を心配して、五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)に、秀頼への忠誠を誓約させた。そして、五大老と五奉行を合わせた十人衆の中から、前田利家と徳川家康をリーダー格に置き、両者の指揮のもとで合議制の政治を行なえと言い残した。秀吉の死を看取った三成は誓う。

  

1599年1月(39歳)。秀吉は特定の大名が大きくならないように、大名間の婚姻を厳禁していた。ところが秀吉の死からまだ半年も経っていないのに、家康はこれに背いて伊達政宗、福島正則らと私婚を結ぶ動きを見せた。この時は家康以外の十人衆が全員で問責して縁組を止めさせた。しかし、3月に家康と並ぶ実力者・前田利家が病没してしまい、これで一気に家康が権力を掌握し始める。利家が他界した夜、三成は以前から彼と対立していた加藤清正、福島正則ら武闘派の諸将に襲撃された。命は助かったものの、大阪城からは追い出され滋賀の居城で謹慎することになった。

 

そして運命の1600年。家康は天下取りに向けて本格的に動き出す。6月、家康は五大老の1人上杉景勝(会津)の討伐準備で江戸に入り、諸国から兵を集めた。7月11日、三成も水面下で反家康の行動を開始。まず最も親しい越前敦賀の大名・大谷吉継に挙兵計画を打ち明けた。吉継は「今の家康に勝てるわけがない」と忠告したが三成は「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせぬ」と譲らぬため、吉継は“三成は昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない”と腹をくくった。

 

※この大谷吉継はハンセン病を患っていたが、秀吉に「100万の兵を与えてみたい」と激賞された名将だった。当時の人々はこの病を感染病と誤解していたので、吉継は普段から顔や手を布で覆い隠していた。ある時、秀吉の茶会で吉継に茶碗が回った時、彼は飲む振りをして次に回すつもりが、傷口から膿みが茶に垂れてしまった。列席した武将達は絶句し、一同はすっかり青ざめてしまった。吉継は茶碗を隣に回せなくなり、場の空気は固まった。その時、三成が立ち上がる。「吉継!もうノドが渇いてこれ以上待ちきれぬ、早くまわせ!」と茶碗をもぎ取り、そのまま最後の一滴まで飲み干したのだ。石田三成とは、そういう男だ。

 

関ヶ原の戦いへ

 “家康を叩く”といっても家康軍8万に対し、三成には6千の兵士しかいない。しかも政治の中心から干されて1年以上が経っている。普通なら諦めるところだが、彼は筆一本にかけた。西国にはまだ五大老のうち毛利輝元・宇喜多秀家がいる。「家康公の行いは、太閤様に背き、秀頼様を見捨てるが如き行いである」三成は家康の非を訴え両者を説得し、挙兵の約束をとり付けた。また五奉行も長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行(自身を入れると四奉行)が味方になった。7月17日、二大老・四奉行の連署で、家康の罪科13ヵ条を記した檄文を全国の諸大名に送る。毛利輝元は西軍総大将として大阪城に入城した。これを受けて各地から続々と反家康勢力が大阪に結集し、その数は9万4千まで達した。既に数の上で1万余も家康側を上回っている。さらに東北の上杉軍3万6千を入れると13万になり、東軍をはるかに超える巨大戦力となる。「…勝った!」。西軍は手始めに伏見城、大津城を落とし、近畿一円をほぼ制圧した。

 

※西軍と東軍の戦闘は日本各地で行なわれており、東北で上杉(西)VS伊達・最上(東)、中山道で真田(西)VS徳川秀忠(東)、九州では黒田勢(東)が西軍諸勢力と戦っていた。

 

9月15日朝8時。ついに天下分け目の合戦が始まった。時に三成40歳、家康58歳。両陣営の最終的な布陣は、西軍8万5千、東軍7万5千。西軍は兵数で有利を保ったまま戦に突入できた。

 

  

まず東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多隊へ攻撃を開始。両陣営が一進一退を繰り返すなか、三成は山上に陣を張る西軍陣営に対し、「加勢せよ」と合図の“のろし”をあげるが、なぜか山から下りてこない。西軍で戦っているのは、親友の大谷吉継、文官の小西行長、大老・宇喜多の三隊という3万5千の兵だけ。どうもおかしい。そして正午、やっと小早川秀秋の大軍が参戦してきたと思ったら、なんと西軍に襲い掛かってきた!午後1時、勇戦していた大谷隊が持ちこたえられず全滅。吉継は自分の首を敵に晒されることを良しとせず、切腹の後に地中深く埋めるよう側近に命じた(今も発見されていない)。

 

小早川の寝返りがきっかけとなり、味方の裏切りに歯止めが利かなくなっていく。やがて宇喜多隊、小西隊が敗走し、とうとう残るは三成の本隊のみとなった。三成の家臣は四方から津波のように押し寄せてくる東軍を相手に、獅子奮迅の戦いぶりを見せたが、多勢に無勢、一人、また一人と、壮絶に散っていった。だが、これほど絶望的な状況でも、三成の家臣だけは誰も裏切らなかった。午後2時、死闘の果てに三成隊は全滅。ここに合戦は終わった。

※西軍総大将を引き受けたはずの毛利輝元は、大阪城に入ったまま関ヶ原にやって来ず、合戦では三成が総大将になるしかなかった。毛利はこともあろうに、家康の「戦闘に加わらなければ所領は保証する」という密約をのんでいたのだ…。

※三成軍の最期を歴史書『天元実記』はこう刻む「三成は武道に名誉ある者であれば、何をおいても召抱えた為に、関が原における石田家の兵の働き、死に様は尋常ではなかった」。

 

合戦3日後に居城の佐和山城も落城。城内にいた父兄、石田一族は自害した。西軍を裏切った小早川、脇坂らの武将は、早く武勲をあげようとして佐和山城に乗り込み、内部の質素さに驚いた。三成は約20万石の武将であるばかりでなく、秀吉に寵遇され、長く政権中枢に身を置いていたので、さぞかし城内は豪勢で、私財を貯えているだろうと東軍は思っていた。ところが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく、手水鉢は粗末な石。ある東軍の軍医は記す「佐和山城には金銀が少しもない。三成はそれらを貯えてはいなかった」。

※三成はよくこう語っていた「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」。

 

敗戦後、三成は伊吹山に独りで落ち延びたが、6日後、潜伏先の古橋村で捕縛された。9月24日、家康のもとへ護送される。縄で縛られた三成の姿を見て東軍の猛将・藤堂高虎が近づき、丁重に言った。「この度の合戦での石田隊の戦いぶり、敵ながら実にお見事でした。貴殿の目から見て我が隊に問題があれば、どうか御教授願いたい」「鉄砲隊を活かしきれてなかったようです。名のある指揮官を置けばあの鉄砲隊の威力は向上しましょう」。この助言に感謝した高虎は、以降、藤堂家の鉄砲頭には千石以上の家臣を当てることを家訓とした。

そして迎えた、家康との対面。最初に家康が声をかけた。「戦は時の運であり、昔からどんな名将でも負けることはある。恥にはあたらぬ」。三成は少しも臆することなく「承知。ただ天運が味方しなかっただけのことよ。さっさと首をはねられい」。「さすがは三成、やはり大将の器量がある。(命乞いをした)平宗盛とは大いに異なることよのう」。

 

関ヶ原から2週間が経った10月1日、三成は京の都を引き回された後、六条河原で処刑された。享年40歳。なぜ関ヶ原の戦場で自害せずに逃亡したのか問われた三成はこう答えた--「私はまだ再起するつもりだった」。

※三成は薩摩の島津義久と連携して九州からの巻き返しを図っていたという。

 

死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成。しかし、彼は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男だ。西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われてきたが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、敬意を示した敵将など、彼らは人格者としての三成の素晴らしさを身をもって語っている。何より、三成に人間的な魅力がなければ筆一本で東軍を上回る9万もの兵を2ヶ月で集められるわけがない。真に国土の繁栄を願い、自身の居城は極めて質素。敗者でなければ英雄になっていた男だった。

 

※三成が検地改革に取り組むまで、各地で長さ・体積の単位は異なっていたうえに、収穫高は各領主の申告制だったので不正が横行していた。三成は単位を統一し、家臣たちと直接農村に入って測量を行なった。この改革で全国の農業生産高が正確に把握できるようになり、長期的視野の農政が可能になった。単位の統一は経済・流通を大いに発展させた。

※三成は西軍内の裏切りに薄々感づいていた。合戦直前の手紙に「小早川が敵と内通し、敵は勇気づいているという」「毛利が出馬しないことを味方の諸将は不審がっている」「人の心、計りがたし」と記している。

※徳川光圀は三成をこう評している「石田三成を憎んではいけない。主君の為に義を心に持って行動したのだ。(徳川の)仇だからといって憎むのは誤りだ。君臣共によく心得るべし」。西郷隆盛はこの三成評に感銘を受けたいわれています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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