長宗我部 家訓

 

 

 

 

  

 

 

 長宗我部家の家訓

「勝負は鞘のなかにあり」

 意:剣を抜かずにまず知略で勝負すること

 

 

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか) 

戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。

 

土佐統一を果たした年、37歳の若さで「雪蹊恕三(雪渓如三)」と法号を称している。「雪蹊」には徳のある人物には多くの人が自然に帰服してくる、そして「恕三」には広く大きな心で事に処せば、前途に万物が生じるという意味が込められているという。 家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされる 讃岐国の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、半分は残してやれと命令した。領民は元親に深く感謝したという。

 

豊臣政権下での逸話

豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。

秀吉が聚楽第で宴会を開いた時、秀吉に「今から四国の覇者を望むか。それとも天下に心を賭けたるか」と質問されると、「天下に心を賭け候」と答えた。 すると秀吉は、「貴殿の器量で、天下への望みはかなうまい」と返すが、「私は悪しき時代に生まれきて、天下の主になり損じて候」と返した。秀吉は笑いながら「それはどういう意味か?」と尋ねた。すると元親は「他の人の天下であれば、恐らく天下を取れると思いますが、殿下(秀吉)の世に生まれ合わせ、その望みを失ったので、悪い世に生まれたと申したのです」と言った。それを聞いた秀吉は笑い転げて上機嫌で、「元親殿に茶湯を所望しよう」と言って、元親は喜んで千利休と打ち合わせて準備をしたという(『土佐物語』)。

 

政治は血のでない戦争との言葉があるとおり、元親の嫌らしいまでの忠臣ぶりが目立ちます。「勝負は鞘の中できまる」の家訓のとおり、平安時代から続く、長宗我部氏の「おべっか」(ごますり)は、尾張の百姓・秀吉を骨抜きにしていったエピソードが並びます^^

 

 

長宗我部盛親

 

戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親が有名 戦国時代に入って勢力を広げ、長宗我部元親の代で他の豪族をしたがえ土佐を統一。その後も勢力を伸ばし、ほぼ四国統一まで漕ぎ着ける。しかしながら、羽柴秀吉の四国征伐の前に敗れ、土佐一国に減封され豊臣政権に臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦する。 子・長宗我部盛親の代で関ヶ原の戦いに西軍として参戦・敗北し改易。

 

その後、盛親が大坂の陣で大坂方に味方、敗死したことにより、嫡流は断絶した。他家に仕えるか帰農した長宗我部子孫が、現在に残っている 司馬遼太郎さんが長宗我部元親の一代記を書いた「夏草の賦」は、最後の一文に、「大坂夏の陣の結果、長曾我部家はあとかたもなくなり、歴史から消え た。」と書いて、この小説を終わっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 長宗我部家とは

 

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた

 

土佐国長岡郡によった国人の一族で、土佐国の七豪族(土佐七雄)の一つに数えられた。

 

戦国時代に入って勢力を広げ、長宗我部元親の代で他の豪族を討滅・臣従化して勢力を広げて戦国大名に成長し、土佐一条氏を滅ぼし土佐を統一する。その後も勢力を伸ばし、ほぼ四国統一までこぎ着ける。しかしながら、羽柴秀吉の四国征伐の前に敗れ、土佐一国に減封され豊臣政権に臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と転戦する。

 

子・長宗我部盛親の代で関ヶ原の戦いに西軍として参戦・敗北し改易される。その後、盛親が大坂の陣で大坂方に味方して、敗死したことにより、嫡流は断絶した。他家に仕えるか帰農した長宗我部子孫が、現在に残っている

 

盛親は、慶長19年(1614年)から同慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣方に与したが、豊臣方が敗れたため、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた。長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫である島親典(後述)が土佐藩に下級藩士として仕えた。断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっているが、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられていた。再び長宗我部を名乗ったのは明治維新後である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂本龍馬を生んだ激烈な差別

 

長宗我部氏のおとりつぶしの後、空白となった土佐城には、山内一豊が入城し、国を治めることとなりました。しかし、その支配を快しとしない多くの旧臣たちが反発。一豊も、懐柔策をとらず武力で制圧したため、一種の内乱状態に陥りました。その後、反乱を制圧した一豊と、一豊と部下たちは、長宗我部の旧臣を「郷士」。自分たちを「上士」と区別し、差別政策をひくのでした。

 

上士と郷士の身分差別は徹底したもので、同じ藩士でも高知城下に住む上士は、郷士を差別し、その差別はなんと250年も続きます。幕末を迎える頃には、上士と郷士とは、顔かたちが異なっていたと言われるほどの違いを生みました。

 

山内氏が連れてきた家臣を上士とよび、長宗我部時代からの武士を郷士と呼びます。当時の差別の一端を紹介します。

・下士たちは郭中に住むのを禁止、老若男女病弱問わず日傘や下駄を禁止。

・衣服の質も差をつけ、雨の日にでも上士の前では土下座しろ

・上士の行事には絶対参加。例え親が死んでも休みは与えない

・上士に郷士からの無礼があれば切り捨て御免も認める

 

作家の司馬遼太郎さんは、「龍馬は、土佐の風土が育て、西郷は、薩摩の風土でしか生まれなかった」と指摘しています。自由闊達で知られた龍馬を生んだ土壌には、激烈な差別への反発があったのです。

 

長宗我部の呪い

長宗我部氏に伝わる家訓は「勝負は鞘(さや)の中にあり」というもの。関ヶ原の戦いで、うっかり名刀を抜いてしまった長宗我部氏は、家康によっておとり潰しになっています。その後、空白となった土佐に入城したのは、山内一豊でした。長宗我部家の武士たちは、城にたてこもり最後まで激しく抵抗します。この抵抗を武力で鎮圧した山内氏は、以後みせしめのため、抵抗した長宗我部氏の家臣たちを数百年にわたって差別をしたのです。

 

明治維新と土佐藩

殿様が、家訓を守れず、関ヶ原の戦いで西軍についたのが運のつき、その後200年に渡っていわれなき差別をうけることとなった土佐の侍たちですが、「薩長土肥」と呼ばれた藩閥政治の一翼を担うこととなりました。後藤象二郎や板垣退助、岩崎弥太郎、坂本龍馬や中岡慎太郎など多彩な人材を輩出しています。

 

とくに坂本竜馬の存在は特質すべきものがあります。実は龍馬は、差別をされた「郷士」の身分であり、さらにいえば、商人の息子でもありました。これは、生活苦に陥った郷士たちが、侍の身分を金銭で譲渡したことに由来します。

 

商人の世界では、大切なのは家柄ではなく自らの才能です。固定化された身分制度のあった江戸時代において、龍馬は土佐でしか侍になれなかったかもしれません。司馬遼太郎さんのいう「龍馬は、土佐の風土が育て、西郷は、薩摩の風土でしか生まれなかった」というメッセージの裏には関ヶ原から続く様々な物語が隠れています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  ■著者 幡谷哲太郎(はたやてつたろう)氏 経歴

 

 茨城県水戸市生まれ。日本青年会議所「徳溢れる心醸成会議」に所属中に家訓づくりを始める。 家訓づくりを広める活動を「家訓ニスト」と命名し、全国160カ所以上、7,000人の受講者に対し、家訓づくりのセミナーを開催。セミナー後に、「家訓を作り、家族での唱和を実践した」という家庭の100%が、「家族に変化があった」と回答するなど、大きな変化を与えている。 セミナー開催数、受講者数、WEBアクセス数、いずれも日本一の実績(協会調べ)を誇り、自他ともに認める家訓づくりのスペシャリスト。現在は、明るい豊かな社会の実現のため、家訓ニスト協会(仮)を立ち上げ、ノーベル平和賞受賞をめざし活動を広げている。