森重昭さんと米兵被爆者の秘話

 

 

 

 

 

 

 『残された者の痛みに敵も味方もない』

 (森重昭さん)

 

 

 

アメリカのオバマ大統領は27日、現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問し、スピーチを行った。歴史的なスピーチの一部始終を最も近くで目に焼き付けたのは被爆者だった。スピーチを終えたオバマ大統領は被爆者に歩み寄った。

 

 日本被団協の代表委員・坪井直さん(91)。「核なき世界」の実現に向け一緒に取り組みましょうと固い握手を交わした。オバマ大統領から「ありがとう」と言葉をかけられたという。

 

 坪井直さん「時々広島にやって来て、いろいろな人に聞いたり見たり、それを重ねてくださいと早口で言った。するとまた握手が強くなった。人を思う心が強いのか。私が喜んで話をするたびにだんだん握手がすごくなった」

 

 大統領と言葉を交わしたもう一人の被爆者・森重昭さん(79)。広島で被爆した12人のアメリカ兵について40年近く調べてきた。こうした取り組みが評価され、立ち会うことになったとみられている。オバマ大統領は、感極まった森さんを受け止めた。

 

 森重昭さん「(Q:大統領の手は?)温かかった。今まで苦労に苦労を重ねた大変な思いをしたが、最高のもてなしをきょうはアメリカがしてくれた。夢のよう」

 

 謝罪よりも核のない世界を求めた被爆者たち。その思いが交差するまでに71年の歳月が流れた。広島に新たな歴史が刻まれる 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■原爆の悲しみ、国境超えて/犠牲米兵と被爆者描く映画 

 

 広島への原爆で被爆死した米兵捕虜12人と、彼らの身元特定に尽力した被爆者を描いたドキュメンタリー映画「ペーパー・ランタン(灯籠流し)」が完成した。人類初の核攻撃に、日米双方の人々が抱く悲しみを浮き彫りにする作品。

 

 「長い間、名もなく放置されていた。せめて遺族には知らせたかった」 

 映画が披露された東京・六本木の国際文化会館。映画の中の森重昭(もり・しげあき)さん(79)=広島市=が身元特定に取り組んだ理由を語る。被爆の痛みに国境はない-。そんな思いに打たれたような観客の表情が、スクリーンの青い光に照らされていた。

 

 捕虜らは1945年8月6日の原爆投下前の7月、広島県呉市付近の軍艦などを攻撃中に撃墜、拘束された米軍機の乗員ら。森さんは被爆の混乱で散逸した記録や関係者の証言を40年近く、丹念に集め続けた。

 

 約1時間の映画には遺族の感謝の言葉も。「『なぜやつらを助ける』と周囲から敵意を向けられる中」で調査してくれたと、爆撃機の銃撃手ラルフ・ニール氏の同名のおい。艦載機銃撃手ノーマン・ブリセット氏のめい、スーザンさんも原爆を落としたのは「私たちの方なのに」と涙した。

 

 8歳で被爆した森さんは「以前は(米国を)恨んでいたかもしれない」と取材に答えた。きのこ雲の空から人間の首が落ちてくるのを見た。おばは、いとこの目の前で生きたまま焼かれ、断末魔の声を上げたという。

 

 ただ「被爆で行方が分からなくなったままの子どもを弔う大勢の親の姿が忘れられない」と森さん。会社勤めの傍ら調査に打ち込む夫を支えてきた妻の佳代子(かよこ)さんは「残された者の痛みに敵も味方もない。そういう気持ちだったと思います」と説明する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1945年8月6日に広島に落とされた原子爆弾によって亡くなった犠牲者の中には、12人の米兵捕虜も含まれていた。アマチュア歴史家の森重昭さんは、40年以上を費やし、被爆米兵の遺族を探し当てた。アメリカのバリー・フレシェット監督が、その記録を『灯篭流し(Paper Lanterns)』にまとめた。

 

(参照:NIPPON.COM 知られざる日本の姿を発信)

http://www.nippon.com/ja/people/e00097/

   

森 重昭

1937年生まれ。アマチュア歴史家。広島原子爆弾を経験。2008年「原爆で死んだ米兵秘史」(光人社)を出版。広島で妻・佳代子と暮らし、2人の子供がいる。

 

 

バリー・フレシェット

1970年生まれ。1992年米ストーンヒル大学卒業。25年間、ボストンで広報の短編ビデオを初めとする制作の仕事に携わる。現在Connelly

Partnersでククリエイティブ・サービスのディレクターを務める。「灯篭流し(PaperLanterns)は、映画デビュー作。ボストン郊外ビレリカ(Billerica)で妻キャロラインと2人の子供と暮らす

 

 

あるアマチュア歴史家の執念

40年もの間、森重昭さんは、広島で原子爆弾の犠牲になった14万人余りの人々に含まれていた被爆米兵捕虜12人の記録の断片を紡ぎ合わせてきた。政府機関のおざなりな対応や、声をひそめたような批判にもかかわらずだ。

 

今年79歳になる森さんは、彼自身も被爆者だ。労を惜しまずに積み重ねてきた彼の偉業は、図らずも被爆米兵ノーマン・ブリセットの親友が自分の大叔父だという米国人映画監督の目に留まるまでは、ほとんど知られることはなかった。

 

「この真実を突き止める活動の軌跡は、人の心を動かさずにはいられないことは分かっていました」とバリー・フレシェット監督は言う。しかし、この映画が、かかわる人々の人生を根こそぎ変えることになるとはゆめゆめ思わなかった。

 

「森さんは、40年の歳月をかけて被爆米兵の謎を読み解いてきました。史実を大切にする彼にとっては、些細な細部の歴史的な発見が大変重要だったのです」と監督は語った。「12人の飛行士に敬意を表し、人々の記憶にとどめ、遺族に何が起こったかを伝えたかった。彼はそれをやり遂げたのです」

 

 

撃墜された米兵たち―その運命 

2人が出遭う運命は、フレシェット監督が生まれるずっと前、陸軍B24爆撃機―ロンサム・レディー号とタロア号―さらに2機の海軍戦闘機が、1945年7月末に日本の巡洋艦を爆撃中に撃ち落とされた時から、既に始まっていた。

 

撃墜された爆撃機の乗組員全員が生き残ったわけではないが、パラシュートで助かった13人は、至近都市である広島の中国憲兵隊司令部に護送された。その後、トーマス・カートライト中尉は、尋問のために東京に送られた。この運命のいたずらがカートライト中尉の命を救うことになる。  

  

1945年8月6日の朝8時15分に原爆が広島の空でさく裂したとき、米兵捕虜が拘留されていた憲兵隊司令部は、爆心地から400メートルも離れていなかった。

 

9人の米兵捕虜は、即死だったと言われている。シアトルのヒュー・アトキンソン軍曹だけは、奇跡的に原爆のさく裂の中生き残ったことが認められているが、翌日には放射線障害で亡くなったらしい。一方、ラルフ・ニール軍曹とノーマン・ブリセット三等兵曹の2人は、原爆が600メートル上空で炸裂する少し前に、尋問のため少し離れた市内の宇品(うじな)に連れて行かれた。とはいえ、2人も原爆の影響を免れることはできなかった。日本人の医者による手当てと治療の甲斐もなく、13日後に放射線障害により亡くなり、宇品憲兵隊員の手で埋葬された。

 

3日後、8月9日には、2つ目の原爆が長崎に落とされ、日本はついに8月15日に降伏した。

 

 

世界初の原爆、投下後の混乱 

終戦前後の混乱期、米軍部は広島で拘留されていた捕虜がどのようになったか知るよしもなかった。家族には行方不明だと伝えるのが精一杯だった。家族が生存の望みを諦めた後も、長い間の問い掛けに対しても、通り一遍の返答が続いた。そして1983年なってやっと米政府は、渋々と米兵捕虜が広島で原爆の犠牲になったことを認めた。

 

1945年当時8歳だった森さんも、故郷を飲み込んだ爆炎の中で九死に一生を得た。

 

「爆発時は、爆心地から2.5キロメートル北西の学校近くの丘にいました」と当時を思い出す。「爆風で小川に飛ばされ、気が付いたらきのこ雲の中にいたのです。あまりにも暗くて、10センチメートル前の自分の指先を見ようとしても真っ暗で見えないほどでした」

 

「さく裂は信じられない強さで、周りの家や、樹木、そこら中にあるものを空に向かって巻上げていったのです。地球が爆発したのかと思ったほどでした」と森さんは言った。

 

「自分が無事だったのは、まるで奇跡です」

 

戦後は、森さんも復興とともに彼自身の人生の再構築に励んだ。学校で特に歴史が得意で成績も抜きんでていたという森さんは、歴史学の教授になりたいという夢をもちながらも、大学卒業後は大手証券会社、その後、楽器メーカー・ヤマハを定年まで勤め上げた。リサーチには週末を当てたという。

 

 

アマチュア歴史家としての使命を見出す 

それでも森さんの歴史への飽くなき興味と研究への情熱がついえることは無かった。38歳の時、終戦間際に米戦闘機が伊陸(いかち)村(現在山口県柳井市)近くの山に墜落したと近所で耳にした。

 

「そこで、私は実際に墜落現場に行き、農夫たちに話を聞いてみたところ、みんなが墜落を知っていたました。そして墜落した現場に私を連れて行ってくれたのです」

 

森さんが現場で目にしたのは爆撃機「ロンサム・レディー号」の残骸だった。その後、何年もの研究を通じて、乗組員の詳細や、彼らが広島の憲兵隊司令部に連れて行かれたことを突き止めた。また、その後に撃ち落とされた米爆撃機の乗組員3人も、捕虜に加えられたことも判明した。

 

しかし森さんにとっては、名前を調べるだけでは十分ではなかった。できれば何とか遺族を探し出して、自分の突き止めた情報を伝えたいと思った。政府機関は、ほとんど当てにならなかったので、まず、亡くなった米兵のファミリーネームを探し出して、同姓の米国人を探すことからはじめた。当時の国際電電公社オペレーターの通訳を通じて、ワシントン州から、ファミリーネームの合致する人を探し始めた。

 

「しかし、調査は簡単ではありませんでした。私は、心臓が悪くて現地に行くことができず、米国は50州もあり、数千万もの人が住んでいるのですから」

 

「そして、死ぬまでに、何とかご遺族を探し出して、亡くなった米兵捕虜の写真と名前を平和祈念資料館に原爆犠牲者として登録しようと心に決めたのです」。

 

 

米兵捕虜の遺族とつながる

国際電話の請求書は月に7万円近くになることもあった。調査は難航を極めた。そんな時、ジェームズ・ライアンの兄、フランシス・ライアンに行き当たったのだ。

 

「被爆米兵の名前を初めて平和祈念資料館に登録できたときには、思わず涙が出ました」と森さんは当時を思い出した。「誰にも言われたわけでもないし、誰も手伝ってくれなかった。みんな上手くいかないと思っていたけれども、私は何としてもやり遂げようと思っていました」

 

フランシス・ライアンから出撃前の乗組員の写真を含む新たな情報を受け取り、ロンサム・レディ号元機長カートライト中尉を探し出すことができ、その後20年以上の友情をあたためた。カートライト氏が、昨年亡くなるまでに交わした手紙は、100通を超えるという。

 

「広島には、原爆で亡くなった人のために数十個の慰霊碑があるのですが、亡くなった米兵捕虜のためのものが一つもありませんでした」と森さんは言う。「私は、奇しくも生き残りました。ですから何としても、遺族を探し出して、愛する人の最後についてお伝えしようと、そう心に誓ったのです」。

 

1999年、森さんは、12人の被爆米兵捕虜の銅製記念碑を中国憲兵隊司令部の跡地に建てた。2012年の広島原爆記念日には、1945年に原爆投下を命じたハリー・トルーマン大統領の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルさんと一緒にこの記念碑を訪問し、献花をして弔意を表した。

  

徐々に森さんの努力は報われるようになり、メリーランド州の米国州立国会図書館の膨大な資料も含め、山のような資料から、遂に12人の被爆米兵の遺族全員を探し出した。

 

森さんは、広島で被爆した12人目の米兵を突き止め、目的が達成されたかのように思われるが、決して研究の手を休めたわけではない。今は、2度目に長崎に落とされた原爆の犠牲となった英国とオランダ捕虜の遺族の行方を捜している。

 

森さんの献身が映画監督の心を動かした 

被爆米兵ノーマン・ブリセットの遺族は、森さんがさまざまな情報を届けてくれたことに心から感謝している。ノーマンの学生時代からの親友エディ・シャンドネは、甥のバリー・フレシェット監督に、やっと60年前に何が起こったかが分り家族が喜んでいると伝えた。

 

フレシェット監督は、「遺族がまとめたノーマンの本を手にして、即座に引き込まれた」と言う。「この話は、広島で被爆した12人の米兵の物語です。しかし、私たちはほとんど何も知らない。そのことが私には何とも奇妙に思えたのです。だから、このストーリーを語らずにはいられなかったのです」と監督は言った。

 

監督は、2013年の春に初めて森さんに連絡をとった。そして翌年の2月には、本に書いてあることが本当か、自分の眼で確かめるために単身で来日した。

 

「森さんの家に行き、応接間に入ると、一人ひとりの乗組員に関する書類がピアノやコーヒーテーブルの上に、ところ狭しと置かれていました。森さんは、それぞれの乗組員について驚くほど正確にご存知でした。結婚しているかどうか、子供がいるか、出身地や搭乗していた機体の名前まで…。

その後、直観で、誰かがこの活動を伝えなくてはいけないと思ったのです」と監督は言った。

 

 

 「実際、まさか、マサチューセッツ州のローウェル(ノーマン・ブリセットの出身地)の住人よりノーマンのことを良く知っている人に日本で出会うなんて夢にも思いませんでした」

 

フレシェット監督は、この2年間、ドキュメンタリー・フィルムの制作に力を注ぎ、ノーマン・ブリセットの姪にあたるスーザン・ブリセット・アーキンスキーさんや、亡くなった叔父の名前を引き継いだ甥のラルフ・ニールさんと共に来日した。

 

遺族と森さんとの出会いは、当然のように感極まるものとなり、フレシェット監督の60分の映画『灯篭流し(Paper Lanterns)』のクライマックスとなった。映画は、それぞれの米兵とその遺族、そして彼らのバラバラとなったパズルのピースをつなぎ合わせた日本人の歴史家の物語となった。

 

「この3年間、この映画プロジェクトの制作は、はっきりいって楽ではありませんでした。でも、頑張った甲斐はありました」と監督は言った。「今や、遺族のみんなや関係者は、まるで一つの家族のようで、世界がとても小さく身近に感じられます。私にとって森さんの偉業を人々に知ってもらうことは、とても大切です。彼は、稀有な人なのです」

 

森さんは、映画の最後に語っている。「これが、戦争なのですよ。だから戦争をしてはいけないのです。戦争は絶対にしちゃいけないという結論を学びました。今後とも世界が平和であることを祈りましょう」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広島におけるオバマ大統領の演説は、まさに歴史に残るスピーチとなりました。

オバマ大統領だったからこそ実現した「広島訪問」の奇跡について考えています

 

アメリカ側が恐れた点は2点、1つは、国内の反発。2つ目は、被爆者からの謝罪要求です。

まず、国内世論の形成のため、アメリカ側はケリー国務長官の献花を実施、その上でオバマ大統領の訪問の際には、岩国基地で在日米軍の隊員たちに慰問を実施する細かい配慮をみせました

 

そして、被爆者、被爆者団体からは、「アメリカを恨んでなどいない」とはっきり伝え、ただただ感じてほしい、また未来志向の慰問を希望するメッセージを発しています

 

 

広島と長崎に投下された原爆は、広島がウラン235型原爆、長崎がプルトニウム型の原爆です。

両者は、実験のために落とされたと米国側の記録にあります。

すでに戦況は、完全に米国にあり、日本落城は目前であったわけです。

原爆投下は、軍事戦略上、まったくその必要がなかったことが、米国側の記録に明らかにされています。

けれど、その2発の原爆によって、広島で20万人、長崎で7万4千人の非武装の市民の犠牲者が出ています。

 

これは明らかな国際法違反の行為であり、そして神々が絶対にお赦しにならない人類の蛮行です。

原爆投下で、敗戦が早まって多くの人命が救われたっとするアメリカ側の見解はいかにも苦しいものです

大虐殺という言葉をつかえば、ナチスのホロコーストにも勝り、また終戦後もつづく放射線による影響を考えると、これ以上の悲劇はありません。

 

戦争は、ルールのある喧嘩です。

 

戦後、戦勝国側が、一方的に日本だけを裁いた「東京裁判」では、このルールを持ち出してA級、B級と罪をねつ造され、多くの軍人、政治家が投獄、そして死刑となりました。

 

判事11名の中ただ一人日本無罪を主張した唯一の国際法学者、パール判事は、「私は真実を真実と認め、正しき法を適用したにすぎない」とのべました。国際法に拠らず、事後法によって行われた東京裁判を戦勝国による「リンチと何ら変わらない復讐」とし、違法だと非難した彼の主張は、その後世界の識者に高く評価されています。

 

また、原爆投下にもふれ

1国が他国を征服し支配しようと準備する事は、最悪の犯罪であると云う事は、現在ではその通りかもしれない。しかし第2次世界大戦には、いやしくも強国である以上は、この様な企画や準備をしなかった国はなかったのである。どうして日本だけが犯罪になるのか、私には理解する事が出来ない。  検察側の掲げる日本の侵略行為の傍証は、歴史の偽造である。

 

かって欧米諸国がアジア諸国に対して行った行為こそ、まさに侵略そのものである。 東条が裁かれるのであれば、同様に原爆投下を指揮したアメリカのトルーマン大統領も裁かれるべきである。スターリンの条約破棄による対日戦参加も違法である。  

 

よって、被告達は、起訴事項全部について免除されなければならず、無罪と決定されなばならず、東条英機をはじめとするA級戦犯28名は全て無罪とすべしである。、絞首刑は不相当であると強く主張する。」

 

けれど、だからとって、恨みを根に持つという文化は、日本にはありません。

あれは戦争であった。けれど、大切なことは、平和です。誰よりも過酷な運命をいきた被爆者の皆様自身が、恨むこともなく、謝罪ももとめず、ただただ、感じてほしい、そして霊をとむらってほしいっとおっしゃられたことに深い道徳心を感じます

 

オバマ大統領はスピーチの中でこうのべられました

だからこそ私たちは広島に来るのです。それによって、私たちは、愛する人たちに思いをはせます。朝一番の子供たちの笑顔。食卓での配偶者との優しい触れ合い。親の心地よい抱擁。そうしたことを思い、そうしたかけがえのない瞬間が71年前のここにもあったのだと考えることができます。亡くなった方々は私たちと全く変わらない人たちでした」っと

 

終わった戦争をいつまでも根に持つのではなく、生き残った者は、いまと、そして未来を切り拓いていくことこそが大事と考えるのが日本人です。

 

 

オバマ大統領の広島でのスピーチの全文です

 

 

■オバマ氏演説全文

 

71年前、晴天の朝、空から死が降ってきて世界が変わりました。閃光(せんこう)と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示しました。

 

 私たちはなぜここ広島に来るのでしょうか。それほど遠くない過去に恐ろしい力が解き放たれたことを考えるために来ます。また、10万人を超える日本の男性、女性、子ども、多数の朝鮮半島出身者、12人の米国人捕虜の死者を悼むために来ます。その魂がもっと心の内を見て私たちは何者なのか、私たちはどのようになれるのか、振り返るよう語りかけてきます。

 

 広島を際立たせているのは戦争という事実ではありません。人間が作った道具は暴力的な紛争が古くから行われてきたことを教えてくれます。私たちの先祖は石から刃物を、木から槍(やり)を作ってきました。これらの道具はただ単に狩りをするためでなく、人間に対しても使われてきました。どの大陸においても文明の歴史は戦争に満ちています。食料不足や黄金への渇望、民族主義的、宗教的な熱狂から戦争が起こり、帝国が台頭し、衰退してきました。そして、人々は支配され、解放されてきました。その時々で数えきれない犠牲者が出て罪のない人々が苦しみ、犠牲者の名前は時とともに忘れ去られました。

 

 広島と長崎で残虐的な終わりを迎えた世界大戦は、最も豊かで強い国々の間で戦われました。その文明は世界にすばらしい都市や美術を生み出してきました。そして、思想家は正義や調和、真実という進んだ考えを見いだしてきました。しかし、最も単純な部族同士の紛争の原因のように、支配、征服を欲する本能という同じ根本から戦争は起きてきました。つまり、古いパターンが制約が働くことなく、新しい能力により増幅されてきました。ほんの数年間で6000万人が亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと全く変わらない人たちです。銃で撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、拘束され、飢餓に苦しみ、毒ガスにより、亡くなりました。

 

 世界にはこの戦争を記録している施設がたくさんあります。記念碑は勇ましさや英雄的な物語を伝え、墓地や収容所の跡は言い表せないほどの恐ろしい行為がなされたことを示しています。しかし、この空に上がったキノコ雲の姿は、最も明確に人類が抱える矛盾を想起させます。思想、想像、言語、道具作りなど、人類が自然界から離れ、自然を従わせることができると示す能力は、同時に、比類のない破壊力も生み出したのです。

 

 物質的な進歩や社会の革新が、どのくらいこうした真実を隠してしまっているでしょうか。私たちはどれだけ簡単に、暴力を崇高な理由によって正当化してしまっているでしょうか。すべての偉大な宗教は、愛や平和、公正さにいたる道を説いていますが、どの宗教も信仰の名のもとに人を殺す信者を抱えることを避けられません。

 

 国は犠牲や協力によって人々が団結するという物語を語り、台頭して偉大な成果を生みました。その同じ物語は、自分とは違う他者を虐げたり、非人間的に扱ったりすることに使われてきました。

 

 私たちは科学によって海を越えてコミュニケーションできますし、雲の上を飛ぶこともできます。病気の治療や宇宙の解明もできます。しかし、そうした発見が、効率的に人を殺す機械になり得るのです。

 近年の戦争は私たちにこうした真実を伝えています。広島も同じ真実を伝えています。技術のみの発展だけでなく、同様に人間社会が進歩しなければ、我々を破滅させる可能性があります。原子を分裂させた科学の革命は私たちに道徳的な進歩も要求しています。

 これが私たちが広島を訪れる理由です。

 

 この広島の中心に立つと、爆弾が投下された瞬間を想像させられます。混乱した子供たちが抱いた恐怖感を感じ、声にならない叫びを聞きます。むごたらしい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起こるかもしれない戦争による、罪のない犠牲者に思いをはせます。言葉だけでは、このような苦しみを表すことはできません。しかし、私たちは正面からこの歴史に向き合い、このような苦しみを再び繰り返さないためにできることを問う責任を共有してきました。

 

 いつの日か、証言をする被爆者の声を聞くことができなくなります。しかし、1945年8月6日朝の記憶は決して消してはいけません。その記憶があるからこそ、我々は現状に満足せず、道義的な想像力の向上が促され、変われるのです。

 あの運命の日以来、私たちは希望をもたらす選択を行ってきました。米国と日本は同盟を築いただけでなく、友情をはぐくんできました。それは戦争よりもはるかに人々にとって有益でした。

 

 欧州の国々は貿易と民主主義の結びつきによって戦場に代わって連合を作りました。抑圧された人々や国家は自由を勝ち取ってきました。国際社会は戦争を避け、そして核兵器を規制、削減し、最終的には廃絶することを求めた機構や条約を設けてきました。

 しかし、私たちが世界で目にする、すべての国家間の侵略行為やテロ行為、腐敗、残虐行為、そして抑圧は、私たちの仕事がまだ終わっていないことを示しています。

 

 私たちは悪を行う人類の能力をなくすことはできないかもしれません。だから、私たちが築いた国家や同盟は、私たち自身を守る手段を持たなければなりません。しかし、我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけません。私が生きているうちに、この目標を達成することはできないかもしれませんが、たゆまない努力で破滅の可能性を少なくすることはできます。

 

 私たちはこれらの核兵器をなくす道のりを描くことができます。私たちは新たな(核兵器の)拡散を止め、狂信者から核物質を守ることができます。これだけでは十分ではありません。なぜならば、原始的なライフルや「たる爆弾」ですら、非常に大きな規模での暴力をもたらせるからです。

 私たちは戦争自体に対する考え方を変えなければいけません。外交を通じて紛争を防ぎ、始まってしまった紛争を終わらせる努力をする。相互依存が深まっていることを、暴力的な競争ではなく、平和的な協力の名分にする。国家を、破壊する能力ではなく、何を築けるかで定義する。そして何よりまして、私たちは人類の一員としてお互いのつながりを再び想起しなければなりません。このつながりこそが我々を人類たるものにしているからです。

 

 私たちは過去の失敗を繰り返すよう遺伝子で決められているわけではありません。私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。子どもたちに違う方法を伝えることができます。共通する人間性を説明し、戦争が起こりにくく、残虐性が簡単には受け入れられないようにする物語です。被爆者の方たちの話から、それらが分かります。原爆を落とした爆撃機を操縦したパイロットを許した女性がいました。それは彼女が、自分が本当に嫌悪しているのは戦争そのものだと気付いたからです。広島で殺された米国人の家族を捜し出した男性がいました。なぜなら彼は、その米国人たちの喪失感は彼自身のものと同じだと確信していたからです。

 

 私の国の物語は(独立宣言の)簡単な言葉で始まります。「すべての人類は平等に創造され、創造主によって奪うことのできない権利を与えられている。それは生命、自由、幸福追求の権利である」。しかしその理想を実現することは、米国内や米国民の間であっても、決して簡単ではありません。しかし、その物語にあくまでも忠実であろうとすることに価値があります。それは努力しなくてはならない理想であり、大陸と海をまたぐ理想です。

 

 全ての人のかけがえのない価値です。全ての人命は貴重であるということです。私たちは一つの家族の一部であるという根源的で不可欠な考え方です。それが私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

 

 だからこそ私たちは広島に来るのです。それによって、私たちは、愛する人たちに思いをはせます。朝一番の子供たちの笑顔。食卓での配偶者との優しい触れ合い。親の心地よい抱擁。そうしたことを思い、そうしたかけがえのない瞬間が71年前のここにもあったのだと考えることができます。亡くなった方々は私たちと全く変わらない人たちでした。

 

 普通の方々はこうしたことを理解できると思います。彼らの誰もがこれ以上、戦争を望んでいません。むしろ科学の驚異を、命を奪うのではなく、もっと人生を豊かにすることに役立ててほしいと考えています。

 国家が選択をするとき、国家の指導者がこのシンプルな英知をかえりみて選択すれば、広島から教訓を得られたと言えるでしょう。

 世界はここで永遠に変わってしまいました。しかし、広島の子供たちは平和に日々を送っていくでしょう。なんと価値のあることでしょうか。それこそが守り、そして全ての子供たちに広げていく価値があることなのです。

 

 これこそが、私たちが選択できる未来です。広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりであるべきです。

 

 

 

 

 

 

 

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  ■著者 幡谷哲太郎(はたやてつたろう)氏 経歴

 

 茨城県水戸市生まれ。日本青年会議所「徳溢れる心醸成会議」に所属中に家訓づくりを始める。 家訓づくりを広める活動を「家訓ニスト」と命名し、全国160カ所以上、7,000人の受講者に対し、家訓づくりのセミナーを開催。セミナー後に、「家訓を作り、家族での唱和を実践した」という家庭の100%が、「家族に変化があった」と回答するなど、大きな変化を与えている。 セミナー開催数、受講者数、WEBアクセス数、いずれも日本一の実績(協会調べ)を誇り、自他ともに認める家訓づくりのスペシャリスト。現在は、明るい豊かな社会の実現のため、家訓ニスト協会(仮)を立ち上げ、ノーベル平和賞受賞をめざし活動を広げている。