岡倉天心

 

 

 

 

 

 

 「芸術は無窮を追え」

 

 

 

岡倉 天心(おかくら てんしん)

生誕:1863年2月14日(文久2年12月26日)

死没:1913年(大正2年)9月2日)

 

明治時代の思想家、文人、哲学者。東京藝術大学の前身である東京美術学校設立に尽力。日本美術院の創設者。ボストン美術館東洋部長。貿易商の福井藩士の家庭に生まれ、東京開成所(現:東京大学)に入学。政治学、理財学を学ぶ。幼少期から英語に親しんでいたのをきっかけに東京開成所在学中に講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、美術品収集と日本美術の調査を行い美術の道に入る

 

 

■絵筆をもたない天才アーティスト

 

明治時代、西洋化の荒波に逆らい、日本独自の美を目指して美術界をけん引した岡倉天心。横山大観をはじめ菱田春草、下村観山などそうそうたる画家たちを育て上げ、“近代日本画”を打ちたてた。

師の天心と弟子たちは固い絆で結ばれていた。天心が東京美術学校校長の座を追われた時には、一緒に学校を去って、日本美術院を立ち上げた。その美術院が経営難から茨城県五浦に“都落ち”した時には、天心と一緒にこの不便な地に移住した。「人の型を踏むな」「芸術は無窮を追え」と独創性を求めた天心。弟子たちはその言葉を座右の銘とした。

 

■名言集

 

歴史の中に未来の秘密がある。我々は、我々の歴史の中に、我々の未来の秘密が横たわっているということを本能的に知る。変化こそ唯一の永遠である。

  

美しく生きてきた者だけが美しく死ぬことができる。

  

内からの勝利か、さもなくば外からの圧倒的な死か。

  

古いものが解体されて初めて、再創造は可能となる。

 

どんな木も、もともとその種に含まれた力以上に大きくなることはできない。生きるということは常に自分自身に立ち戻るということなのだ。 

 

ある時代なり流派なりの凡庸な産物をいくらたくさん集めるよりも、ただひとつの傑作に接する方がより多くのことを教えてくれる。

  

日々の暮らしぶり、そのなにげない仕草のうちに、内心の動きはあらわれる。

 

偉大な思想で簡単に説くことのできるものなどありはしない。 

 

自分で偉大だとうぬぼれているものが実はちっぽけなものにすぎないことがわからない者は、ちっぽけと軽んじている他人のものが実は偉大なものであることを見過ごしがちである。

  

宗教は未来を後ろ盾としているが、芸術では現在こそが永遠なのである。

  

強力な思想というものは同時代の思想を論破するとともに、これに続く時代の動きを支配するものだ。

  

面白いのは行為そのものではなくて、その行為にいたる経過だ。

  

絵に良い絵と悪い絵があるように茶にも良い茶と悪い茶があるのだ。しかし、完璧な茶をたてる唯一これだけというやりかたがあるわけではない。

  

人生にせよ、芸術にせよ、これからさらに成長していく可能性があればこそ生き生きしたものとなるのだ。

 

本当に重要なのは完成そのものではなく、完成することだ。 

 

昔の賢者たちは決して体系的な形で教えを語ったりしなかった。彼らは好んで逆説的な言い方をしたが、それは生半可な理解を恐れたからである。また、わざと愚か者のように語ることによって、聞く者に悟らせるようにしむけたりもした。 

 

どの時代をとってみても、芸術が最終的に完成した型としてあらわれるというようなことはない。芸術とは絶えざる成長であり、年代ごとに区分できるようなものではないのだ。 

 

原始人は、思いを寄せる乙女に初めて花束を捧げた時、獣でなくなったのだ。自然界の粗野な本能性を脱して人間となったのである。無用なものの微妙な有用性を知った時、彼は芸術家となった。 

 

同時代の芸術こそは、真に私たちの芸術なのであり、私たち自身の反映なのだ。それを断罪することは、私たち自身を断罪することにほかならない。私たちは、今の時代には芸術が存在しないと嘆くが、そうだとすれば、その責任は誰にあるのか。 

 

自己中心的な虚栄というものは、芸術家、鑑賞者いずれの側であっても、共感を育むうえで致命的な障害となるのである。 

 

現代の芸術家は、技術に溺れるあまり、滅多に自身を超えるということがない。 

 

洋の東西を問わず、巨匠たちは、観客を自分の秘密にひきずりこむ手段として暗示の価値を忘れることはなかった。それに比べ、今日あふれている凡作のよそよそしいことはどうだ。傑作には、人の心の温かな流れが感じられるのに対して、凡作には、ただ、形ばかりの表現しか見当たらない。 

 

芸術鑑賞に必要なのは心と心が共感し、通い合うことだが、そのためには、たがいに謙譲の気持ちを持ち合わねばならない。鑑賞者は作者の言わんとするところを受け止めるのにふさわしい態度を養わねばならないし、作者の方は自分のメッセージをどう伝えるのか心得ていなければならない。 

 

私たちの心は、芸術家によって彩られるカンバスであり、その絵の具となるのが私たちの感情で、明暗となるのが私たちの喜びの光であったり、悲しみの影であったりするのだ。傑作は私たち自身であり、私たち自身は傑作であるのだ。 

 

私たちは大抵の場合、あまりにでしゃばり過ぎであり、いくらうぬぼれが強いといっても、これ以上自分を眺めて悦に入るというのは単調退屈でしかない。 

 

いくつもの音楽を同時にきくことができないように、美というものは、なんらかの中心となる要素に集中して初めて本当に理解することができるのだ。 

 

伝統や定式につき従っているだけでは、建築における個人性の表現に足かせをはめてしまうことになる。ギリシャ人が偉大であったのは、けっして昔に頼ろうとしなかったからだと言われているではないか。

  

芸術は、その時代の暮らしにぴったりとしたものであって初めて本当に理解されるものなのだ。けっして後世の評価を無視してよいというわけではないが、それよりまず現在を十分に楽しまねばならない。 

 

永遠とは、物質ではなく、精神にしか見出すことのできないものであって、こうした簡素な建物(茶室、数寄屋)はその精神のあらわれなのであり、そうであればこそ、洗練をきわめたほのかな輝きを帯びて、かくも美しいのだ。

  

物事のバランスを保ち、自分の位置は確保しながら他人にも譲るというのがこの世のドラマを成功させる秘訣なのだ。自分の役割を的確に演じるためにはドラマの全体を知っていなければならない。個人ということを考える時には、この全体のことを決して見失わないようにしなければいけないのだ。

 

道教は儒教や仏教とはちがって、なげかわしいこの世の暮らしのうちにも美を見出そうとするのだ。酢の味見をする3人の者という宋のたとえ話は、見事に、これら3つの思想の特質を浮き彫りにしている。釈迦と孔子と老子の3人が酢の壺――人生の象徴――の前に立って、それぞれ指を浸しては味見していたが、実際家の孔子は酸っぱいと言い、仏陀は苦いと言い、老子ひとりが甘いと言ったというのである。

  

教育とは、強固な幻想を維持するために一種の無知を奨励するものにほかならない。人は真に徳のある人間として教育されるのではなく、ただ、きまりに外れないよう振る舞うことを教えられるだけなのである。

 

孔子は言っている、「人は隠したりするものだろうか」と。私たちには隠さねばならないような偉大なものなどないので、些細な事柄にも自分をあらわにしがちになるのだろう。

 

日本がこの平和でおだやかな(茶道という)技芸にふけっていた間は、西洋人は日本のことを野蛮な未開国だとみなしてきたものである。それが、近頃になって日本が満州を戦場にして敵の皆殺しに乗り出すと(日露戦争)、日本は文明国になったというのである。近年、侍の掟――日本の武士が進んで自分の命を捧げる「死の術」――については盛んに論じられるようになってきたが、「生の術」を説く茶道についてはほとんど注意が払われていない。無理解もはなはだしいが、やむをえない。戦争という恐ろしい栄光によらねば文明国と認められないというのであれば、甘んじて野蛮国にとどまることにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■廃仏毀釈の荒波から美術品を救う

 

大勢の観光客が訪れる古都・奈良。出迎えるのは1000年以上のときを経て今に伝わる仏像の数々。しかし今から140年前、それらの寺や仏像は消滅の危機に瀕していた。きっかけは明治維新の最中に起きた仏教排斥運動、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)。仏像は壊され、薪として燃やされてしまう。仏像を救おうと立ち上がったのが近代日本美術の発展に多大な功績を残した岡倉天心でした

 

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、本人の手で日本文化を破壊した最悪の蛮行です。1868年、明治維新の直後に神仏分離令が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊されました。約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上あった寺は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われた。地方の行政官は中央政府に手柄(成果)を報告して出世しようと廃寺の数を競ったといわれています。対して議論もされず発せられた1枚の命令書が、何百年と日本の風土と溶け合ってきた仏教の命脈をたったのです。

 

つい先日まで信仰をもって大切に扱ってきたものを、ああも簡単に焼き捨て、破壊する事が出来るものなのでしょうか。それこそ、西洋文化以外は価値など無いとする過激な意見を持つ者すら出てきたとの事。こうした意見は、現代に生きる若者ならまだしも、仏教の影響力が現代よりはるかに強かったであろう当時ですら起きていた事に驚きます

 

急激な西欧化を批判した天心は、文部官僚として10年間で21万件もの仏像や文化財を調査、文化財保護の法律を作るよう訴えるなど、その保護に力を尽くします。

その一番の功績は、法隆寺夢殿に安置されてきた聖徳太子立像の調査です。

 

「文化財保護」という理念を定着させたのも、かの岡倉天心の功績でした。

仏像等長年に渡り信仰の対象として大切に奉納されるだけでなく、我々の目を癒してくれる高い芸術性を持つ事から、廃仏毀釈によって痛んだ仏像達の修理をどのように行うべきか大変悩んだそうです。そして、後の修復技術が向上した際に、容易く修復部分を取り外せて、より完成度の高い修復を行えるように配慮した現状維持修理法を編み出しました。そもそも、天心がその必要性を唱える以前は、その概念すら日本には存在しなかったとも言われています・

 

天心は次のような言葉をのこされています 

昔から日本には外国からの思想が殺到してきたが、日本人は伝統を尊重し、自らの個性を大切にしてきた。」

われわれは今後もさらに西欧化していこうとしているが、世界から尊敬を得るには、われわれ自身の理想に忠実であることを忘れてはならない。」

 

国際化が益々進む現代においては積極的に異文化を理解しようとする必要もあろうかと思います。また、そうする事で新しい世界が開けていくものだと思います。しかし、そんな時代だからこそ、自らのルーツというものも大切に守っていきたいものです。

 

 

■フェノロサの通訳としての活躍

 

アーネスト・F・フェノロサ。米国の日本美術研究家。マサチューセッツ州セーラム(現ダンバース)出身。日本に黒船が来航した1853年に生まれる。ハーバード大学に入学して哲学を学び、4年後に首席で卒業し、その頃から徐々に絵画に興味を持ち始め、24歳でボストン美術館に新設された絵画学校に入学する。

1878年(25歳)父が世間に馴染めずに自殺。両親を失って放心状態の彼の耳に入ったのが、ハーバード大に出された東大の求人情報だった。


フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と記した。彼は古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅した。

やがて彼はショックを受ける。日本人が日本美術を大切にしていないことに。明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える“芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。写楽、北斎、歌麿の名画に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。

特に最悪の状況だったのが仏像・仏画。明治天皇や神道に“権威”を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄されていた。また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められていた。財政難の地方では最初から寺領を狙って廃寺が行なわれるケースも多々あった。


   『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時にすべての僧が神官に転職させられ、せっかく戦国時代の兵火から復興した伽藍を再び破壊し、三重塔や五重塔が250円で売りに出された。また塀が取り払われ境内は鹿が遊ぶ奈良公園となり、最終的には誰もいない無住の荒れ寺となってしまった。五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事を恐れて阻止したという。また、別の寺では政府役人の前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染みた暴力に晒された。

フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がります。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴らしいかを事あるごとに熱弁した。フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始します。

1884年(31歳)、政府の宝物調査団に任命され、文部省職員となっていた岡倉天心と、再び奈良や京都の古社寺を歴訪する。この調査の最大の目的は法隆寺・夢殿の開扉。内部には千年前の創建時から『救世(くせ)観音像』(等身大の聖徳太子像)があるものの、住職でさえ見ることができない“絶対秘仏”だった。法隆寺の僧侶達は、「開扉すると地震が襲いこの世が滅びます」と抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫った。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、僧侶達は恐怖のあまり皆逃げていった。観音像は布でグルグル巻きにされている。

フェノロサは記す--「長年使用されなかった鍵が、錠前の中で音を立てた時の感激は、何時までも忘れることが出来ない。厨子(仏像のお堂)の扉を開くと、木綿の布を包帯のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。布は約450mもあり、これを解きほぐすだけでも容易ではない。ついに巻きつけてある最後の覆いがハラリと落ちると、この驚嘆すべき世界に比類のない彫像は、数世紀を経て我々の眼前に姿を現したのである」。救世観音は穏やかに微笑んでいた!立ち会った者はその美しさに驚嘆し声を失う。世界は滅ばなかった。


※現在、春と秋に救世観音が特別公開されるのはフェノロサのおかげ!
この年、彼は有志を募って「鑑画(かんが)会」を結成。会の主旨は「あらゆる方法を駆使して日本美術を復活させる」こと。“昔は良かった”という骨董品の研究ではなく、伝統にのっとった上で、新時代の日本美術を生み出そうとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

■EU誕生にも影響をおよぼした「大アジア主義」

  

「大アジア主義」とは、欧米列強のアジア侵略に抵抗するため,アジア諸民族は日本を盟主として団結すべきであるという考え方。明治初期以来,種々の視角から展開された。岡倉天心も、その著書のなかで、Asia is One(アジアは1つ)と訴え、アジアの独立を訴えました。

 

Asia is One は、アジア主義者を鼓舞しただけではない。あるヨーロッパ人の心を大きく動かしていきます。それがカレルギー伯爵です。

かつて、日本には、大アジア主義という大思想が脈打っていた。
日本が、列強の植民地支配を断ち切って、南アジア諸国の独立を援けたのも、その思想にもとづいています。

岡倉天心の思考は、日本美術の再興にとどまらず、その哲学を飛躍させ、東洋的価値観や自由民権思想を源流とする大アジア主義の発想にいきつきます。

 

カレルギーは、EUの構想を生み出しますが、それはもともと、大東亜共栄圏思想の元となった岡倉天心の「アジアは一つ」という大アジア主義にヒントを得たものでした。さらに彼は、大東亜共栄圏を生み出そうとする日本の奮闘を見聞きし、その「刺激的伝播」を受けて、EUの創設を着想したと語っています。EUは、ヨーロッパ版の「大東亜共栄圏」なのです。

 

カレルギー伯とは、リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー。オーストアの伯爵家の二男で、東京生まれの国際的政治活動家。(※母・光子は確認できる国際結婚第一号の女傑です。)

 

このパン・ヨーロッパ主義を提唱し、それは後世の欧州連合構想の先駆けとなりました。そのため欧州連合の父の一人に数えられる。

 

 

欧州連合(European Union) 

 EU。1993年11月、それまでのEC加盟12ヶ国(ベルギー、デンマーク、フランス、ドイツ、イギリス、ギリシャ、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ポルトガル、スペイン)により批准されたヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)の発効によって発足。ヨーロッパの政治経済の統合を目指し、加盟国間の相互協力を強化することを目的として設立された超国家機構。1995年にオーストリア、スウェーデン、フィンランドが、2004年にはポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、エストニア、ラトビア、リトアニア、キプロス、マルタ

が加盟し、現在の加盟国は25ヶ国。本部はベルギーのブリュッセル。

 

かつてヨーロッパといえば、古代から近代に至るまで戦乱にあけくれた地でした。

 ヨーロッパは多くの国が集中して存在している地域です。しかし、国境線をはさんで紛争や戦争が絶えず、第一次世界大戦も、第二次世界大戦もこの地で勃発しました。

 

しかし戦後、状況は一変しました。そこはヨーロッパ史上かつてない平和と繁栄の地となったのです。それは国々の間に、強い連帯が生まれたからです。今日、ヨーロッパには、EUすなわちヨーロッパ連合というものがつくられています。これは、経済の結びつきをはかったかつてのヨーロッパ経済共同体(EC)を、さらに発展させたものです。

 

今日では、共通の通貨(ユーロ)も発行され、人々は国境を越えて自由に行き来し、また経済活動、人々との交流ができるようになっています。そのためにヨーロッパはかつてなく発展し、繁栄するようになっているのです。EU=ヨーロッパ連合は、民族も言語も違う国々が連合体をつくり、共栄を目指したものです。このような国家の連帯、統合は、ヨーロッパ史上また人類史上、画期的なものといってよいでしょう。

そして、その着想の原点に、岡倉天心の訴えた「大アジア主義」の理想があったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

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 ■著者 幡谷哲太郎(はたやてつたろう)氏 経歴

茨城県水戸市生まれ。日本青年会議所「徳溢れる心醸成会議」に所属中に家訓づくりを始める。

家訓づくりを広める活動を「家訓ニスト」と命名し、全国160カ所以上、7,000人の受講者に対し、家訓づくりのセミナーを開催。セミナー後に、「家訓を作り、家族での唱和を実践した」という家庭の100%が、「家族に変化があった」と回答するなど、大きな変化を与えている。

セミナー開催数、受講者数、WEBアクセス数、いずれも日本一の実績(協会調べ)を誇り、自他ともに認める家訓づくりのスペシャリスト。現在は、明るい豊かな社会の実現のため、家訓ニスト協会(仮)を立ち上げ、ノーベル平和賞受賞をめざし活動を広げている。