明治天皇の御生涯

 「天皇とは何ですか」という質問に一言で答えるとしたら「祈る存在」です。何を祈っているかといえば、国民一人ひとりの幸せです。

 竹田恒泰(明治天皇の玄孫)

 

 

明治天皇(めいじてんのう)

生誕:1852年11月3日(嘉永5年9月22日)

死没:1912年(明治45年)7月30日)

 

日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は、永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。その盛名により明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝 (Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。

 

皇女の証言では、「記憶力が抜群で、書類には必ず目を通したあと朱筆で疑問点を書きいれ、内容をすべて暗記して次の書類と違いがあると必ず注意し、よく前言との違いで叱責された伊藤博文はごまかしが効かないと困っていた」と記しています。

 

日本酒を好み、夜は女官たちと楽しそうに宴会をすることが多く、晩年は健康のためにワインなどを飲んでいました。また当時の最新の技術であったレコードをよくかけ、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいたそうです。

  

明治天皇の玄孫であり、評論家としての活動している竹田氏は、著作のなかで、「日本は世界最古の民主主義国家である」と持論を展開しています。ヨーロッパ諸国が、多くの血をながし、ようやく手に入れた「民主主義」ですが、日本では、1000年以上前に、日本式の民主主義を完成させていました。

 

民主主義の定義の1つに、「君臨すれど統治せず」なる一文があります。歴代の天皇さまは、国の統合の象徴として、実権をその時々のリーダーにゆだねてきました。平安時代には、藤原氏がその任をにない、鎌倉時代には源氏、江戸時代は徳川家が政治をつかさどっています。そして、明治以降は、選挙で選ばれた総理大臣が、その役を演じてきました。

 

西欧列強が、植民地をひろげることに血眼になっていた19世紀の世界にあって、植民地化を防いだ日本。その中心には、権威(徳)で日本を収める明治天皇さまの大御心が、ありました。ヨーロッパのわずか10数か国が世界中を支配をした暗黒の時代にあって、日本の存在は奇跡の存在でした。明治天皇さまの存在もまた、日本だけでなく、世界史にとっても奇跡の存在なのです。

 

 

日本文化の守護神として

無類の刀剣愛好家としても知られていた明治天皇様。明治14年の東北巡幸では、上杉家に立ち寄り休憩した際、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になる余り、翌日の予定を取り止めてしまったほどです。以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、重要刀剣の散逸が防がれることとなりました。

 

急速に西洋化がすすみ、猫も杓子も、西欧のものがもてはやされる中、明治天皇は、変えるべきは変え、しかし一方では日本古来の文化の保全のため様々な施策を実施されました。文化の「ぶ」もない薩長の藩閥政治がつづくなか、細かい心遣いをみせています。天下の愚策として有名は廃仏毀釈については、「そんな話は聞いていない」とストップをかけ、また存続があやぶまれた大相撲についても、チョンマゲを許可し、いまも興業がつづく道筋をつけています。

 

一方では、奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでし、新しい食生活のあり方を国民に示しています。散髪脱刀令が出された後の明治6年、明治天皇が西洋風に断髪したことで、国民も同様にする者が増えたといわれています。和歌をこよなくあいし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示されました

 

現在、インバウンドブームがおき、多くの海外旅行客が日本を訪れています。日本の魅力は、近代的な都市でありながら、一方では、伝統が根付いている点です。こうした日本の魅力を守り育てたのも、また明治天皇さまの遺徳に違いありません。

 

暗殺者にもそそがれる慈悲の心

明治天皇さま自身が、暗殺のターゲットとなった「大逆事件」が起こった際には、犯人である幸徳秋水が逮捕され際、明治天皇さまは、「処罰せぬように」と仰せられ、大臣が3度も御裁可のために伺うも、これをお許しになりませんでした。しかし、4度目に御裁可を仰いだところ、憲法や法律の規定ないで、「出来るだけ罰を軽くするように」と仰せられた上で、御裁可になられました。そして、陛下は、紫宸殿において、御製を御詠みになられます。

 

罪あらば我を咎めよ天津神 民は己の生みし子なれば

出来るだけ寛大な処置をとるようにと、願われたのでした。ここで、明治天皇は、国民を自ら産んだと表現されています。自分の命を奪う敵にも寛大な処置をもとめるばかりか、国民の不始末をわが子の不始末のごとく感じ、なげく様が伝わるメッセージなのではないでしょうか?

 

時代をこえる明治天皇の大御心

1890年、トルコの軍艦エルトゥールル号が、和歌山県熊野灘で遭難、587名が死亡する事故が起きました。近隣の住民の決死の救出劇も実らず生存者は、69名という大参事がおこります。この惨事を聞いた明治天皇は、国家として出来る最大限の援助を生存者に尽くし、無地に遠方のトルコ国まで送り届けました。この日本の対応について、トルコでは今だに学校の教科書で伝えられているそうです。

 

1985年、イラン・イラク戦争の時に、サダムフセインが、イラン空域を飛ぶ民間機を容赦なく撃墜すると声明を発表しました。期限の時間が数時間にせまるなか自国民の脱出をはかる諸外国が専用機をとばすなか、日本政府は飛行機をおくれずイラン在住の日本人2百数十人が取り残され、空港はパニック状態となりました。当時、既に日本の航空機はイランに入れず、他国の航空機はその国の人達を脱出させるのが最優先ということで日本人は絶望視されてました。そんな時、民間の商社マンから事情を知ったトルコ政府は、緊急命令を発しジャンボ機を2機派遣して、砲撃が始まる1時間前に、残留する日本人全員を乗せて離陸しました。

 

この奇跡は、100年前に明治天皇がまいたご縁が、100年後に実った瞬間だったのではないでしょうか?天皇様のご遺徳は、時空をこえるものなのかもしれません

 

 

『明治天皇を語る』(ドナルド・キーン・新潮新書)より

 

公式記録として1万ページのテキストが残っている、生涯で詠んだ和歌は10万首もある、日記や手紙はまったくない、存在している写真は2枚しかない、という明治天皇に関するエピソードを、講演的にまとめたものです。おかしな個性として、ドナルド・キーンは以下のような話を挙げています。

 

・刺身が嫌い(海魚は絶対に食べない)

・花見が嫌い

・風呂が嫌い

・蝋燭が好き

・アイスクリームは大好き

・酒が大好き

 

この本の中では、普段垣間見れない、人間としての明治天皇さまのエピソードが語られています。明治天皇はびっくりするほど開明的だと思うとやっぱり保守的なところがあり、勤勉だと思うと何もしなくなったり、なかなかとらえにくい不思議な人でだと、キーン氏はのべています。

 

お酒の席でのエピソードでは、当時、侍従をつとめていた山岡鉄舟との「相撲事件」が有名です。酔っぱらって侍従たちに相撲を執ることを強要した明治天皇さま。維新の英雄・山岡は、これを良しとせず、しかも、勝つわけにも、負けるわけにもいかず、手をあげた明治天皇をひらりとかわし、天皇様は勢い余って、横転されます。周りのものは、謝ることを奨めるものの、山岡は熟慮の末、謹慎し、切腹の準備までして、天皇さまの酒癖の悪さを自戒いただく機会をまったのでした・・・

 

「相撲事件」の詳については、本ブログの山岡鉄舟の投稿をご覧ください^^

 

https://kakunist.jimdo.com/2015/06/08/%E5%81%89%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%AE%B6%E8%A8%93%E9%9B%86-%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F/

 

 

明治天皇さまのケチ伝説

欧米の権力者や、近年でも、独裁国家では、権威を高めるために、巨大な銅像を建てさせることがあります。しかし、明治天皇さまは、個人崇拝を極端に嫌い、銅像や、お札の肖像画、切手の図案まで、ご自分が目立つものを拒否されています。写真も公式なものは2枚しか残っていないというから驚きです。

  

生活が質素だったのも他の国の王室と違う点です。軍服も新調することを許さず、古いのを平気で着つづけ、観艦式に着慣れた陸軍の軍服で行って海軍の軍人を失望させたとの記録が残っています。

 

日清戦争の際には、軍費をねん出するため、自ら節制に励み、重税に苦しむ国民に寄り添う姿勢をみせました。同じとき、戦争の対戦国であった清では、皇帝の母である西太后が軍艦を購入する資金を横流しし、自らの別荘の建築費用にあてたそうです。

 

明治天皇さまの謙虚な姿勢は、明治以降の歴代の天皇さまに引き継がれ、国内外で尊敬を集めているのです。

  

1000年ぶりのお引越し

 

明治天皇は、100名をこえる歴代の天皇さまの中でも劇的な変化のなかで御世をおくられました。源頼朝によって、開かれた武士政権は、足利氏、徳川家と引き継がれるものの、600年ぶりに朝廷に実権が還されることとなります。また、桓武天皇が奈良から京都に都をうつされたのが794年。実に1000年ぶりの本格的な遷都を経験された天皇にもなりました。

 

 

 

それまでの歴代の天皇様は、京都の御所からおいでになることもなく、その生涯のほとんどを御所内ですごされています。また人民との交流はもちろん、直接顔をうかがえる臣下も一握りで、今上天皇さまのように被災地に慰問をされる姿や、また国民にきさくに手を振ってくださる姿などと比べると、隔世の感があります。

 

明治元年、明治天皇は京都から東京に行幸にでます。この行程は23日間かけて約3000人が移動したと伝わっています。そして明治5年には日本発の鉄道が敷設。同23年には愛知県で陸海軍の合同演習が行われ、天皇は東海道本線に乗って移動されたことが記事になっています。わずか20年の間に、23日が半日に、移動の手段は徒歩(御輿)から鉄道に、明治という時代の革新性を感じるエピソードです。

 

西洋化がすすみ、国民の生活も激変するなか、皇室もまた新しい姿を国民に示してくださいました。いまにつづく開かれた皇族の姿をおつくりになられたのが明治天皇さまであり、また新しい時代の波にとまどう国民に対し、精神的な支柱となりつづけたのもまた明治天皇さまだったのです。

 

日本において、歴代の天皇さまは、直接政治にかかわることなく、「権威」をもって国を治めてきた歴史があります。明治の新政府は、天皇中心の国づくりを進めますが、天皇ご自身の意見やビジョンが反映されてという記録はありません。神世の昔から、天皇さまは国民の象徴(シンボル)として君臨されてきたというのが日本の歴史なのです。

 

東京は日本の首都ではない!?

桓武天皇の平安遷都以来、1000年ぶりにお引越しをされた明治天皇さま。しかし、公の記録によると、これは、行幸(ちょっとした旅)とされたもので、詔(みことのり)による東京遷都が、宣言されたことはありません。また現代の日本の法律にも、「首都」の定義はなく、東京は、日本の首都・・・と定義するものはないそうです。

 

歴代の天皇さまのお住まいとなった京都御所は、いまも宮内庁の管理におかれています。京都に住む方々は、天皇さまは、ちょっと東に旅に出られただけっと、いまも天皇さまの御帰宅を待っています。信じるか、信じないかはあなた次第・・・ですが、悠久の御皇室の歴史を考えれば、明治維新150年の歴史は、1泊2日の家族旅行ぐらいの感覚なのかもしれません(*_*)

 

 

 

教科書では教えてくれない奇跡の歴史 

 

 

人間そのものが商品だった「奴隷貿易」

「奴隷貿易」で用いられた船は小さな帆船で、信じられないほど多くの奴隷を積み込みこみ港をでます。商品となった奴隷たちは売り買いをされ、奴隷を買い取った白人経営者のもとで一切の人権や自由のない生活が、何世代も続くこととなったのです。そしてこの奴隷貿易は日本にも持ち込まれることとなります。15世紀の戦国時代のキリシタン大名は、日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだといわれています。豊臣秀吉は、そうした現状を憂いて『伴天連追放令』を発令します。当時の日本は戦国時代であり、西欧諸国といえども、百戦錬磨の武士たちとは戦いにはならず、奴隷貿易も一旦は廃止されます。しかし19世紀再び、奴隷化の脅威が、日本にもやって来ました。それが江戸時代末期のペリー来航です。産業革命を成功させ、さらに武力を磨いた欧米諸国は、日本に開国(奴隷化)を迫ったのです。

 

最後のターゲット

植民地を拡大させ世界の覇権争いを繰り広げる列強諸国にとって、日本は極東に残された最後の標的でした。地理的には他国を牽制する要所であり、日本を開国に導き、支配することが各国共通の狙いでした。しかし、そこには西洋人が容易に攻略できない不思議な国・・・日本がありました。

 

19世紀の中期には江戸は100万人都市となっています。この規模は、同時代のパリ、ロンドンよりも多く世界一の規模でした。また経済面でも、1730年には大阪の堂島米会所で世界で初めての先物取引が開始しています。これは1819年のシカゴの取引所(現在の穀物先物取引の世界的中心)の設立より100年以上も前の画期的なものです。日本は、江戸時代中期には独自の資本主義社会を構築し、幕末には世界有数の規模に発達させていました。

 

ペリーの遺した予言

ペリーは日本をつぶさに観察し、その遠征航海の公式報告書を編纂しています。そこにはこんな記述がみられます。

「機構製品および一般実用製品において、日本人はたいした手技を示す。彼らが粗末な道具しか使ってなく、機械を使うことに疎いことを考慮すると、彼らの手作業の技能の熟達度は驚くほどである。日本人の手職人は世界のどの国の手職人に劣らず熟達しており、国民の発明力が自由に発揮されるようになったら、最も進んだ工業国に日本が追いつく日はそう遠くないだろう。

 

ペリーが指摘したとおり、明治維新以降、日本は急速に近代化に成功します。そして、日露戦争では大国ロシアに勝利。大東亜戦争前には、世界5位の工業国になります。焼きの原となった終戦後にも、経済力、技術力を武器に世界有数の経済大国となりました。世界で唯一無二の国。それが日本という奇跡の国です。

 

  

日露戦争と世界を変えた「分水嶺」

 

極東にある小さな島国日本が世界を変えた事実を皆様はご存知でしょうか?世界史史上でも転換点となったのが、「日露戦争」における日本の勝利です。この勝利は、「白人国家 VS 有色人種」での最初の勝利になりました。のちに、この勝利が呼び水となり西欧列強の植民地時代は終わりをつげることになります。日本の勝利は、「分水嶺」(大河の一滴)です。「分水嶺」とは、山の頂で雨水が異なる水系に分かれる場所のことをさし、転じて、物事の方向性が決まる分かれ目のたとえです。「日露戦争」の勝利は、人種差別を終わらせる「分水嶺」になったのです。

 

日露戦争とは、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日の間に日本とロシア帝国との間で朝鮮半島と、満洲南部。日本海を主戦場として発生した戦争です。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しています。

 

数百年にわたる植民地支配に浸食されていたアジア・アフリカ諸国では、「どう転んだ所で、欧米列強にはかなわない」と無気力状態に陥っていました。そこへ、最近までチョンマゲを結っていた極東の小さな島国が、欧米列強の一大国・ロシアに勝利したと言うビッグニュースが飛び込みます。

 

このニュースによって、日本はアジア・アフリカ諸国の「希望の星」になったと同時に、それまで欧米列強には敵わないと諦めていたアジア・アフリカ諸国に「独立」と言う希望を抱かせたのです。この希望は多くの人々に強烈なインパクトを残しています。ロシア帝国の支配に悩んでいたフィンランドでは、連合艦隊をひきいた東郷平八郎を祈念し「トーゴー・ビール」が発売されるほどでした。

 

 

明治天皇のリーダーシップ

 

明治天皇は孝明天皇の第2子として1852年11月3日にお生まれになりました。幼少の頃は、模様のついた振袖をおめしになり、髪は稚児髷、白粉までつけ、まるでお姫様のようだったといいます。また、いたずらっ子で勝気であり、女宮たちを困らせたともいいます。

 

そんな明治天皇も1867年、孝明天皇の急死により、16歳という若さで天皇の位を受け継ぐことになります。1867年といえば大政奉還の行われた年。翌年には、王政復古の大号令が出され新政府が樹立。日本が近代国家へのスタート切ったといえる年でした。近代天皇国家が確立する中、天皇に求められるようになったのはリーダーシップとカリスマ性です。

 

1889年に発布された大日本帝国憲法では、「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」「天皇は神聖であって侵してはならない」「陸海軍は天皇に直属する」など強大な権利を持つことが定められます。

 

しかしながら、それが己の意思を貫き通せるような絶対的権力であるというのとはちょっと違ったようです。1894年には、日本と清との間に戦争が始まります。当初、明治天皇は、この戦争に消極的であったといわれています。しかし、己の意思に反し戦争は始まってしまいます。

 

不本意ながら始まってしまった戦争。しかし、明治天皇は開戦後、広島の大本営に赴き政務に励みました。そこでの明治天皇は兵士たちと苦難を共にする為、暖炉もつかわず、蚊帳を吊るすことも禁じ、殺風景な部屋で執務を続けていたといいます。また、1904年の日露戦争でも、明治天皇は戦争を回避すべきだと考えていたようです。

 

よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらん」 

これは、明治天皇の御製ですが、意味は「四方の海にある国々はみんな兄弟姉妹と思う世に なんで波風を騒ぎ立てるようなかとするのだろう」といったところです。この御製からも、明治天皇が日露戦争に反対だったことがわかります

 

ドナルド・キーン氏の「明治天皇」によれば、[天皇は軍服を好んでおめしになり、陸軍演習の統監が好きだったのとは裏腹に、心底、戦争嫌いであったことは事実である。]と語っています。たしかに、教科書などの明治天皇の写真では軍服姿をよく目にします。また、戊辰戦争、日清、日露戦争などから明治天皇というと戦争のイメージが強いのですが、実際の天皇は、戦争嫌いでした。日清戦争の時も日露戦争の時も決して積極的な戦争開始論者でなく、日本が勝っても喜びを見せていないことです。御歌会始めの題も戦勝にかかわるようなものは拒否し、御製では勝利ではなく戦死者に対する気持ちを歌われています。

 

とはいえ、日清戦争、日露戦争ともに日本は勝利をおさめ、世界の強国と肩を並べんばかりになっていきます。その明治天皇を祭神とする神社、明治神宮は1920年建てられ、明治天皇の誕生日である11月3日は現在「文化の日」となりました。

 

コロンブス以来の大事件

1492年、コロンブスによって発見されたアメリカ大陸は、ヨーロッパ諸国に未曾有の富をもたらした一方、世界の人口の3/4を占める有色人種にとって暗黒の時代の始まりとなりました。以降、わずか10か国あまりの白人国家が、世界の殆どを支配する時代が続きます。そんな不幸な時代のおわりをつげたのが、「日露戦争」における日本の勝利です。欧米の研究者の間では、この日本の勝利は、コロンブス以来の大事件だったとの認識があるそうです。

 

 

日本の家訓 教育勅語

 

日本には、創業100年をこす老舗企業が5万社。200年を超す会社も3000社あるといわれ、2位のドイツ800社を大きく上回る老舗大国です。そして、そのうち8割の会社に、家訓があると言われています。古くから続くということは、それだけ社会に必要にされてきたということです。それは、商いを通じ、社会に貢献してきた証拠ではないでしょうか?家訓二ストは、これを【徳】と表現します。また、日本は、世界一古い国でもあります。これは、神代までさかのぼれば2600年前。実在が証明された古代の天皇の御世にさかのぼってもいずれも世界一の歴史を誇ります。それは、【徳】に溢れた奉りごとをしてきた証明です。

 

では、日本という国を考えた時、国の「家訓」とは何にあたるのか?家訓二ストは、これを『教育勅語』だと提言します。『教育勅語』というと、ある種アンタッチャブルなイメージを持たれてしまっていますが、皆様はちゃんと読んだことがありますか?まずは、右も左も関係なく、まっさらな気持ちで教育勅語をお読みください

 

(※本文は漢文のため、ここでは、明治神宮のHPで紹介されている意訳を紹介させていただきます

 

「教育勅語」意訳(口語文)

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

 

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

 

そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

 

 

【教育勅語】を見なす時代へ

教育勅語の現代語訳をお読みになって、ごくごく当たり前のことが、書いてある・・・皆様もそう感じるのではないでしょうか?

 

しかし一般に、「教育勅語」というと、軍国主義だと、右だと、なんだのとネガティブなイメージがまとわりつきます。このおどろおどろしい雰囲気は、どこからくるものでしょうか?口語訳を読んでいただいた皆様、どこに戦争しろ!とか、ひいては侵略しろ!なんて書いてありますか?そこには、軍国主義につながるものも、海外への恫喝もない博愛に満ちあふれた精神が、並んでいます。

 

このギャップには、大東亜戦争末期に、軍官僚による独裁政治のなか、勅語をゆがんだ形で運用してしまった悲しい歴史の背景があります。そしてそこからもう70年近く経って、そろそろ枷(かせ)を外してもいい時期であるとも提案します。

 

昔は良かった・・・とノスタルジーに浸る気持ちはありませんが、戦後の教育改革の中で、「心」の教育がおろそかになった部分は否定できません。いきすぎた個人主義や、親の乱れ、コミュニティーの崩壊など問題は山積みしています

 

明治期に、明治天皇が憂いた以上に、今、求められる教育の質の向上は一刻の猶予もありません。 日本という国の「家訓」を考えたとき、やはりそこには「教育勅語」があるべきです。家訓二ストは、家訓の唱和とひとしく、日本のあるべき姿を示した教育勅語をお子さんと声にだして読んでいただくことを推奨します。

 

世界にはたくさんの民族がいて、それぞれの信じる歴史や神様をお持ちです。誰が正しいとか、どこが偉いということを敷き詰めていくと、最期は戦争になってしまいます。しかし人間には知恵があります。自分の考えと違う人がいたとしたら、丸め込むのでなく、「自分たちと違う考えを持つ人がいる」と考えることが大事なことではないしょうか?

 

愛国精神や、「教育勅語」、国歌斉唱など、なんでそれが悪いこととされているのでしょう?極々当たり前のことを言えない空気、そんな空気の方が軍国主義より怖い気がします。

 

この提言で、炎上するかもしれませんが、自分なりの意見を声に出して言うことが何よりも大事なことだと信じています。いいものはいい。そして、明治天皇様の大御心に、一点の曇りはない。11月3日は、国民の祝日であり、今は文化の日として親しまれています。しかし本来、この祝日は、明治天皇さまのご生誕を記念して制定された祝日です。っていうか、シンプルに「明治の日」でいいのではないでしょうか?「教育勅語」はもちろん、明治天皇さまのお人柄や、業績も改めて評価される、そんな時代がくることを待つばかりです。

 

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書籍名: 世界一簡単な「幸せを招く家訓」のつくり方

著者 : 幡谷哲太郎

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出版社: セルバ出版

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