穴太衆 石積みの極意と家訓

 

 

 

 

 「石の声を聴き、石の行きたいところへ持っていけ」

 (穴太衆 粟田家の家訓)

 

 

 

「穴太積み」と「穴太衆」(あのうしゅう) 

穴太衆積みとは、自然石をそのまま積み上げる「野面積み」を代表する積み方です。 一見粗野に見えますが、強度には比類なきものがあります。戦国時代、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした際、その石垣の堅牢さに驚き、坂本・穴太・滋賀里あたりに住んでいた石工職人たちを集めて安土城を築城したほど。職人たちはそれ以後「穴太衆」と呼ばれ、大阪城や江戸城などの築城も手がけて全国的に知れ渡る存在になりました。

 

穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。

 

現在でも、穴太衆の伝統引き継ぐ粟田家 が、会社組織として存続しており、十三代目から株式会社粟田建設を興し、2005年(平成17年)現在は十五代目が活動を行っている 

 

最新の科学でも、コンクリートで固める従来の工法より、石積みの利点が見直されれおり、新名神高速道路では、自然環境との調和などを狙い穴田積の採用を考えた際、現代建築に適用可能かどうかを試すための実験として穴太衆積とコンクリートブロックによる擁壁を並べて最大荷重250トンをかけて実験した結果、荷重200トン時点でコンクリートブロックの方が先に亀裂が入り、荷重230トンでコンクリート崩壊のおそれがあり実験中止となる結果を示した。

この結果を受けて、工事現場から出土した花崗岩などを再利用した高さ3.5m、長さ260mの石垣が同区間へ採用・新造されている

 

 

何百年もの風雪に堪える穴太衆積みならではの技

戦国時代以降、石垣のある城が一般的となり、穴太衆は織田信長の安土城をはじめ、 豊臣秀吉、徳川家康ら全国の大名から石垣づくりの要請を受けた。彼らが石の組み方を考える際には、石の集積場に行き、たくさんの石の周りを1、2日かけて周りながら、ひとつひとつ違う石の性質を把握し、頭の中に配置を組み上げるとか。「石の心の声」を聞くことができる職能集団である。  穴太衆積の技法は今日まで、口伝で継承されている。秘伝というよりは、文字に表現することが難しいから。穴太衆は石の目利きであり、独特の空間認識能力を備えた職人の集まりなのだ。粟田建設は穴太衆の末裔であり、安土城、彦根城、竹田城跡などの石垣修復を手掛けてきた

 

現在、全国にある8割以上もの城の石垣が、穴太衆たちの手によるものだといわれています。 何百年もの風雪に堪えうる堅牢さの秘密は、積み石の比重のかけ方にあります。石は横長方向に使って上からの荷重を大きな底辺で支え、表面から1/3くらい奥のところに重力がかかるように設計します。 また土の水ぶくれによる崩壊を防ぐため、石垣の奥に小石をつめて排水をよくするなどの工夫もこらしています。穴太衆積みには細かな設計図はありませんが、頭の中で石の配置を思い描きながら組み上げていくのです。 

 

熊本地震と清正の石垣

難攻不落の名城と言われた熊本城が、熊本地震で大きな被害を受けた。石垣が崩れ、二つの櫓(やぐら)が倒壊、天守閣のしゃちほこが崩落……。目を覆う惨状に「修復できるのか?」と不安が募る。そこで、戦国時代より石垣を築き上げてきたプロ集団「穴太衆(あのうしゅう)」の末裔による建設会社、粟田建設(本社・滋賀県大津市)の代表に復旧へ向けての課題を聞いてみた。 

 

 熊本城は西南戦争(1877年)で一部を残して焼失、1889年に起こった熊本地震でも石垣の一部が崩れた。櫓、城門、塀はいずれも重要文化財。中でも倒壊した櫓は、清正が築城した当初から残る建造物である。  粟田社長は、「ニュース映像などを見る限りでは」と前置きしたうえで、「石垣は何度も修復を重ね、ある時期に直した箇所がごっそり崩れ落ちた可能性が高いのでは? 穴太衆が関与していない工事もあるはずです」と指摘した。

言外には「穴太衆の技なら、一部の石が落ちても石垣は崩壊しない」との自負をのぞかせる。  しかし、過去の工事の詳細は分からない。一般的に、昭和20年代から30年代、つまり戦中・戦後の混乱期に行われた修復は、どの都道府県でも資料が残っておらず、経緯は不明。再建・改修を重ねて今日の姿になった名城ほど、技術的には“つぎはぎ”なのである。 「費用も期間も、どれくらいかかるか、想像もつかないレベル」と粟田社長。今後、修復を担う業者は決まっていくことになろうが、「複数の企業が携わり、行政が主導する一大プロジェクトとして修復は行われるでしょう。かなりのお金と日数が、かかるはずです」とのこと。  粟田社長によると、過去に築かれた城のなかには、崩れた石垣を覆うようにして、外側に石垣を積み、上物も大きくした城もあったらしい。しかし、「重要文化財となれば、そうもいかないですからね……」とポツリ。聞けば聞くほど、熊本城復旧の道は険しそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■穴太衆積み石匠 

 

(参照:AYAHA GROUP) 

http://www.ayaha.co.jp/spe-b55.htm

 

 粟田純司さんを訪ねて

  今回は、石垣を積む独特の方法として長い歴史を持つ「穴太衆積み」の石匠・粟田純司さんに、職人として未来に馳せる想いを聞いてきました。

   

傲慢だった考えが謙虚に 穴太衆積みが人生観を変えた 

  私の家は代々、穴太衆積みの技術を継承してきた家系で、 13代目の父は人間国宝として活躍しました。私も中学や高校時代には家の仕事を時々手伝ったものです。

しかし家業を継ぐことには迷いがあり、とりあえず大学で土木工学を学ぶことにしました。

卒業後は県庁に就職し、10年ほど勤めてから継ごうと考えていたら、 父から「この仕事は一人前になるまでに最低10年はかかる。 10年後から始めたらもう頭が固くなって仕事を覚えられない。今からやりなさい!」 と一喝されまして。最初は渋々とこの道へ入ったというのがいきさつです。

 修行を始めた当初は、大学で学んだ近代土木の知識を活かしたい私と、昔ながらの職人気質の父とで、よく口論もしました。粟田家には家訓として「石の声を聴き、石の行きたいところへ持っていけ」という言葉があるのですが、未熟な私には意味がわかりませんでした。

ところが11年目の頃、安土城跡の修復工事をしていたときに、 どうしても目に留まる石があり、それを持ってきて据えたらぴたりと入ったのです。そのとき、コトンという音が確かに聞こえました。石がOKを出してくれたのだと思いましたね。 それまで私はメジャーで石のサイズを測り、ノミで削りながら収めるというやり方をしていましたが、石の声を聴いてからはメジャーを一切持たなくなりました。そして仕事以外の場でも、まず相手の意見を聞くという謙虚さを持つようになったのです。

  

穴太衆積みの技術を国内外へと広く発信

  かつて全国にいた穴太衆たちは衰退し、穴太衆積みの技術を受け継ぐのは私たちだけになりました。 今では城など文化財の修復が仕事の大半ですが、それだけでは先細りしていくため、現代建築のなかにも穴太衆積みを活かす取組みに力を入れています。例えば、滋賀県立大学のキャンパス内の庭、大津市にある「ピアザ淡海」の玄関、新名神高速道路の護岸壁などに穴太衆積みの石垣が採用されました。新名神高速道路工事の際には、穴太衆積みとコンクリートブロックを比較する強度計算を行ったのですが、なんとコンクリートの1.5倍~2倍の強度があることがわかり、関係者たちを驚かせました。 また数年前からはアメリカやドイツなど海外で石を扱う彫刻家や庭師を対象としたワークショップの開催、アート作品として展示する試みを始めています。今後、若い職人たちに穴太衆積みを継承していくために、さらに活動の場を広げていけたら面白いですね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■著者 幡谷哲太郎(はたやてつたろう)氏 経歴

茨城県水戸市生まれ。日本青年会議所「徳溢れる心醸成会議」に所属中に家訓づくりを始める。

家訓づくりを広める活動を「家訓ニスト」と命名し、全国160カ所以上、7,000人の受講者に対し、家訓づくりのセミナーを開催。セミナー後に、「家訓を作り、家族での唱和を実践した」という家庭の100%が、「家族に変化があった」と回答するなど、大きな変化を与えている。

セミナー開催数、受講者数、WEBアクセス数、いずれも日本一の実績(協会調べ)を誇り、自他ともに認める家訓づくりのスペシャリスト。現在は、明るい豊かな社会の実現のため、家訓ニスト協会(仮)を立ち上げ、ノーベル平和賞受賞をめざし活動を広げている。