近江商人 西川産業

 

 

 

 

 「先義後利栄・好富施其徳」

 (西川家の家訓)

  人として行うべき正しい道を第一とし、利益追求を後回しにすることが商売繁盛となり、得られた富に見合った人間形成を行えと説いています。

 

 

創業は1566年。西川家はもともと西川甚五郎商店と称した近江商人の代表的家系で、俗に「近江八幡の御三家」といわれる名門商家だった。

 

八幡山城(近江八幡城)を築城した豊臣秀次によって楽市・楽座の政策が発表された翌1587年、西川仁右衛門(初代)が近江商人発祥の地である八幡(現在の近江八幡市)に店を開き、蚊帳を製造・販売を開始し、のちに畳表の製造・販売にも力を入れた。徳川家康が江戸幕府を開き、商業発展の基点となる日本橋(現在の東京都中央区)付近に有力な商人を誘致したさい近江商人より4家が選ばれ、1615年、日本橋のたもとに出店した(現在の日本橋西川)。1789年には「三ツ割銀制度」を導入。売り上げから運転資金、原材料費、火災等の為の蓄え金を除いた残りを従業員に分配する現代の賞与のような制度。当時としては類を見ない画期的なシステムであった。また1920年には早くも給与制を導入。こういった常に時代を先駆ける社風は歴史を重ねた現在も持ち続けている。

  

売上高:364億3,400万円(2014年1月期)

従業員数:982名

 

 

初代西川仁右衛門は1566(永禄9)年、19歳のとき近江国蒲生郡南津田村で商売をはじめた。この年をもって、西川産業では「創業の年」と定めている。

 

世にいう「近江商人」の営業形態は、はじめは行商であった。近江から各地に運んで売りさばいた麻布、呉服、綿織物、蚊帳などの「持ち下り(もちくだり)商品」と、売りさばいたお金で仕入れた生糸、紅花、塩干物などの「登せ(のぼせ)商品」の往復取引でもうけていた。初代仁右衛門も近江商人らしく、4人の息子を連れて生活必需品を売りさばいていたようだ。

 

創業から20年ほどたった1587(天正15)年、近江商人発祥の地である近江八幡町に店を設けた。店の名を山形屋、屋号をと定め、ますます商売の販路を拡張していったという。

 

はじめは、能登国(石川県)鹿磯の地へ、さまざまな物産の行商をして歩いたが、この折に、奈良蚊帳を北陸方面に販売したと伝えられる。これが「蚊帳の西川」の基になるのである。

 

 

1585(天正13)年、仁右衛門は近江国八幡町に移住した。八幡開町の際である。豊臣秀吉の甥秀次が、四国平定の功により近江八幡山に封ぜられた。秀次はただちに同山に八幡山城築城にとりかかるとともに、城下を区画して安土城下の人々を移住させて町を作った。仁右衛門は大工組と称して工務監督をつとめ、さらに同地堀川移出入調査役に任ぜられている。

 

 この近江八幡町に出店したという点が、その後の西川繁栄の礎となった。豊臣秀次によって、開店直前の1586(天正14)年に「楽市楽座」が発表された。制約の多かった武家社会において、営業の自由を保障した制度は商人にとって大変重要であった。時期を逃さず移住、新規開店に着手した初代仁右衛門の先見性には驚くばかりである。その後、畳表(近江表)も販売アイテムに加え、美濃、尾張、遠江にまで販路を拡大した。 徳川家康が幕府を開き、人が集まり消費の中心地となりつつあった江戸。初代仁右衛門のカンはここでも冴えた。大阪ではなく江戸の中心地日本橋に蚊帳と畳表を専門に扱う支店を店(つまみだな)として出店した。豊臣氏が「大阪夏の陣」で滅び、名実ともに徳川の世となり、元号が慶長から元和に改まってすぐのことであった

 

 

 西川家の家訓は「先義後利栄・好富施其徳」。 人として行うべき正しい道を第一とし、利益追求を後回しにすることが商売繁盛となり、得られた富に見合った人間形成を行えと説いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ 近江商人とは

 

(参照:水郷と古き商家のたたずまい|一般社団法人近江八幡観光物産協会 

http://www.omi8.com/annai/goroku.htm

 

近江商人とは近江で商いを行う商人ではなく、近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、個別には「高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれ、それぞれ特定の地域から発祥し、活躍した場所や取り扱う商品にも様々な違いがあるのも特徴です。

 

近江商人のまちは、あきないのこころを、いまも誇りにしている

 楽市楽座の自由商業主義のもと、活発に活動を続けた八幡商人たちは、秀次没後まもなく天領となった近江八幡の町から、天秤棒を肩に全国に活動を広げます。

北は北海道から南ははるか安南(ベトナム)やシャム(タイ)まで進出し、当時まだ発展途上であった江戸にもいち早く店を出しました。

明治以降、社会が大きく変転する中で日本経済の近代化にも八幡商人をはじめとする近江商人たちが大きく貢献しました。

彼らは、買い手よし、売り手よし、世間よし、という三方よしの理念を商売の姥本基本とし、自ら利益のみを追求することなく、社会事業に大きく寄与しました。

その勤勉で潔癖な倫理観には、改めて深く考えさせられるものがあります。

八幡商人たちが残した財産は、形にのこるものばかりでなく、むしろ、その精神に大きく価値があるといえます。 

 

   

■近江商人語録

 

商人の本務

 商人に必要なのは才覚と算用と言われます。しかし、近江商人は巧妙な計算や企てを良しとせず、世の中の過不足を補い、需要と供給を調整することを本務としています。

伊藤忠兵衛(湖東商人 現:伊藤忠商事・丸紅)は「利真於勤」(りはつとむるにおいてしんなり)を座右の銘としました。

これは、投機商売、不当競争、買占め、売り惜しみなどによる荒稼ぎや山師商売や政治権力との結託による暴利ではなく、本来の商活動に励むというのが「勤」の意味であり、その預託として得られるのが利益としています。

 

 

三方よし

「売り手よし、買い手よし、世間よし」を表します。売り手と買い手の双方だけの合意ではなく、社会的に正当な商いや行商先での経済的貢献を求めています。古くから、企業の社会的責任を果たしてきた近江商人を象徴する言葉です。

 

 

陰徳善事

 陰徳とは、売名行為の類ではなく、人知れず人の為になるような行為を言います。近江商人が行ったものには、神社仏閣への寄進、橋の架け替え工事や常夜灯の整備、学校建設への寄付、等々、数多くあります。塚本定次・正次兄弟(五個荘商人 現:ツカモト)は、大規模な植林工事を行うなどして治水・治山の父ともよばれ、偉大な商人として勝海舟は「氷川清話」に記しています。

 

 

理念・商法

 江戸時代の身分制度の中では、生産を行わない商人は低い階層におかれ、一部学者からは幕藩体制の基本である自給自足の体制を破壊する者と批判も受けていました。

しかし、近江商人は「儲ければよい」という考え方ではなく、社会的に認められる正当な利益を求め、地場産業の育成も心掛けました。このことが、他藩から出入り禁止や締め出しを受けることなく、商いを続けられたのです。

多くの近江商人は商品流通の操作によって生まれる差益に依存したり、投機的な取引に手を出すことはつまらない商人のすること述べています。そして、商品が品薄になっても余分な利益を求めることをせず、また天候が悪くても通常と変わらず店を開けるなど、常にお客の便宜を考えた商いに徹していました。自分の店や商品が人々に役に立ち、喜ばれ、社会に有益であるようにと心掛けることで、世の中に商人の存在意義と価値が認められたのです。

このような事は、家訓・家法・家憲・家則等の形として代々受け継がれており、明治維新、終戦、等々の苦難を乗り越えてきた近江商人の企業の強さは、これらの経営理念の継承にあるのではないでしょうか。

 

 

武士は敬して遠ざけよ

 地域経済を左右するほどの実力者となると、大名との付き合いも多くなります。しかし、近江商人は権力に依存して利益を得ることを潔しとはしませんでした。

 

 

質素倹約

 近江商人は、財の豊かさに見合う、人格・教養・礼儀作法・人間形成を強く求め、奢ることは即ち身を滅ぼすことに繋がると子孫へ戒めています。八幡商人の中にも、市田清兵衛は「互いに申し合わせ質素守るべく候事」、中村久兵衛は「諸親類別家に至るまで、身分不相応なる普請を致し、又は人並みにすぐれ美麗なる衣服を着用致し候者あらば、相互に申し合わせ差留め申すべき事」「別家の内、家業を粗略に致し、酒宴、遊芸を好み、身持ち溺堕なる者これあり候は同じ、早速意見を加え、もし用いざるにおいては出入り差留申すべき事」と記しています。

 

 

しまつしてきばる

 きばるは働く、しまつは節約の意味ですが、食べるものを食べず、着るものも着ずに無我夢中に働くという意味ではありません。

中井源左衛門(日野商人)は「金持ちになるのは決して運ではなく、酒宴、遊興、贅沢をせず、ひたすら長生きと始末することを心掛けて商いに励むことが、五万・十万両の金を溜める唯一の方法であり、貪欲な投機的商いは先祖の加護や自然の道理に見放され、結果的に成功には結びつかない。しかし、始末することとケチとは全く別のもので、ケチでは金持ちになれない。社会のために大枚をはたくときははたくが、無駄な金は使わず、世のため人のために生きる金を使い、飲むときは飲み、遊ぶときは遊ぶが、節度を持つことが必要で、金持ちになるためには、常に始末の心を忘れず、奢りの心を戒めなければならない」と記しました。小野善助(高島商人)は、「人はどこで生活するにせよ、思いやりの気持ちがなければ暮らしがたいものであると考え、常に相手の身に良かれと心がけ、自分の奢りのためには一銭も使わず、無限にある水といえども無駄にしないほどに始末をし、贅沢と自惚れにおちいることを警戒し、精勤と始末に徹して、北陸や東海地方を行商して、ついに奥州盛岡に開店することができた」と述べています。

 

 

お助け普請

 近江商人は地場産業の育成や地域の活性化があってこそ商いが行えました。よって、お互い様という観念や地域への貢献を疎かにすることはありませんでした。凶作や不況がある時には、進んで自宅や神社仏閣への改築等の造作を行っていました。今で言う公共事業的なものを率先して実施しています。

 

 

押込隠居

 先祖の苦労の賜物により今日の繁栄があるのであって、主人としてはわずか30年ほどの間、奉公する身と思い、家業を守り商いの繁栄に勤めるようにと伝えています。店の運営も、店と個人(主人)は別々のもので主人の私有財産ではないと考えられていたため、独断で物事の決定は行われず、今で言う取締役会で開かれていました。

よって、不的確な人物なら主人の座を追放したり相続権の剥奪等の事例もあります。

 

 

諸国産物回し

 陸路や海路を通じて、上方から江戸に運ばれた商品を「下し荷」、上方や近江に運ばれた地方の物産を「登せ荷」として、双方で商いを行いました。行商で成功するとその地域に出店し、新たな商売のため、大量輸送や荷物の保管場所の基地としても利用され、各地に出店している店同士で商品の回転を行い、効率の良い運営に努めました。

 

 

薄利多売

 一度で大きな利益を得るような商いは良しとせず、長期的な商いを行うことを求めています。そのため、日々の努力と始末が欠かせませんでした。

 

 

博打・投機的商法の禁止

 この類の文言は実に多くの商人家訓等の形で残しています。八幡商人の中でも「博打、諸勝負事堅く禁止のこと」(原田四郎左衛門)、「御法度第一、並びに、博打の事」(岡田彌三右衛門)、「博打、諸勝負事の儀は申すに及ばず、大酒、色情の儀、堅く相慎み互いに行儀正しく出精致さるべく候」(市田清兵衛)等と、子孫への戒めとしています。

 

 

勤勉・実直

 小林吟右衛門(湖東商人 現チョーギン)は、「小商人であっても、世の中の一員としての自覚を持ち、不義理や迷惑をかけないように、絶えず周囲や世間の人達のことを思いやりながら、懸命に働けば、立派に一人前の商人として認められ、やがて相当の資産を築くことが出来る」と記しています。

最初から欲にかられて大商人になってやろうと意気込むことより、常に人の立場や周囲世間への配慮を怠らず、社会の役に立つという信念をもって、ひたすら働くことが立派な商人への近道だったといえます。 

外村与左衛門(五個荘商人 現:外与)でも、「顧客の望むときに売り惜しみせずに売り渡し、安値で販売したことを悔やむぐらいの商売ならば顧客との末永い取引が出来る」と述べています。

 

 

商人倫理と販売戦略

 近江商人は江戸中期頃にはすでに複式簿記を確立させ、経営状況を把握していました。また、行商では、遠い他国まで出かけることで、儲けたいという欲が自ずと出ますが、そうした欲望を抑えるため神仏への信心をもつことを進めるなど、卓越した経営感覚と倫理感を持ち合わせていました。

そのような基礎の元に、人と同じ事をしていてはお客様の気持ちを掴めないと様々なアイデアを出しています。

亀屋左京の6代目は福助人形のモデルにもなったという大きな人形を店頭に設置。また、「江州柏原 息吹山のふもと 亀屋左京のきりもぐさ」と売り子や芸者、遊女に歌わせたり、浄瑠璃も作るなど、現在のマスコット商品やCMソングでのPRを図りました。

和中散(薬)を販売していた大角家(栗東市)は、常時旅人へ無料の湯茶の接待や4mもある製薬機械を実際に動かして店頭で実演するなどの工夫を凝らし、街道を行く人々の評判となりました

 

 

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コメント: 1
  • #1

    西村 禎造 (日曜日, 05 8月 2018 11:00)

    武士は敬して遠ざけよ、という家訓の根源に、「商人は権限には関与するな」の意味もあると思いますが、「近江商人のもとは武士であった」人も多いといわれていますが、この意味でのことが入っていませんか