幻の大財閥 鈴木商店の栄光と落日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神戸製鋼、帝人、双日、IHI、太陽鉱工、サッポロビール、日本製粉……錚々たる企業の母胎となった巨大商社が、90年ほど前の日本に存在しました。それが神戸に拠点を置く鈴木商店です。

 

最盛期といわれる大正8~9(1919~20)年には、鈴木商店は従業員三千名、年間取引高は十六億円に及び、かつて三井物産が記録していた最高額十二億六千万円を越え、ついに日本一の年商となり。日本はもとより、世界でも指折りの大商社となりました。往時の日本の国家予算は13万円ほど、現代の貨幣価値に換算すると数十兆円という規模にあたります。

 

 

 ■スエズ運河を航行する船舶の10隻に1隻は日本の鈴木に属す

 

 (参照:鈴木商店記念館HP) 

http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/history/

  

 

幻の総合商社・鈴木商店」は大正6(1917)年、売上は当時のGNP1割に匹敵し、日本一の総合商社でした。大番頭の金子直吉は、「三井、三菱を圧倒し、しからざるも彼らと並んで天下を三分するこれ鈴木商店の理想とすることなり」と発しています。

  

鈴木商店は、明治7(1874)年に洋糖業を生業に開業しています。当時神戸は開港間もない頃であり、金子直吉は、外国人居留地にて海外の商品・技術にいち早く触れる一方、外国商館の高圧的な態度に屈辱と日本の地位の低さを痛感したと言われています 

 

大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発すると戦時需要に乗り、鋼材、銑鉄、船舶、小麦などを一斉に買い出動。さらに船舶の大量発注と同時に造船用鋼材の販売、世界各地で買いつけた貨物を船ごと売り渡す「一船売り」の離れ業で莫大な利益を得ました。

しかし絶頂期にあって、人々のやっかみを買うなか、米騒動を発端とする鈴木商店焼打ち事件がおこり、躍進をつづけた商いに暗い影をもたらしていきます 

 

■国家予算を上回る年商を誇った商社の破たん

大正7(1918)11月、鈴木商店焼打ち事件から3か月、第一次世界大戦が終結すると一時的に好景気が到来するも一転して長期不況に陥ります

 

 鈴木の関係会社の業績が大きく落ち込み、鈴木本体の財務状況に深刻な影響をもたらす。局面打開を図った傘下の日本製粉と日清製粉との合併が不調に終わり、鈴木の資金繰りは決定的なダメージを受けます。

 

 鈴木商店と表裏一体の関係にあった台湾銀行も遂に鈴木の窮状を支え切れず、台銀の融資打ち切りにより鈴木破綻が決定的となりました

  

鈴木商店破たん後、高畑誠一ら鈴木商店の若手は日商(後の日商岩井、双日)を設立します。鈴木商店は台湾銀行の管理の下に整理され、一部は財閥系、その他の会社に譲渡され、神戸製鋼所、帝人、旭石油(後の昭和シェル石油)などの企業は旧・鈴木商店社員らの尽力により自主再建を果たしていくのでした。

 

 鈴木商店社員らは戦後、大屋晋三(帝人社長/商工・大蔵・運輸大臣)、北村徳太郎(播磨造船社長/運輸・大蔵大臣)、永井幸太郎(日商社長/貿易庁長官)らが政界で活躍。宮沢喜一元首相も「鈴木商店ほど人材を輩出した会社はない」とコメントしたほど。昭和35年には鈴木商店の親睦組織「辰巳会」が結成された。鈴木商店の魂は現在にまで続いています。

 

 鈴木商店破綻という歴史的な出来事の前年・昭和元(1926)年、よねは、フランス政府よりレジオン・ド・ヌール勲章を贈られた。鈴木商店が仏・レール・リキッド社に莫大な特許料を払い、クロード式窒素工業を軌道に乗せた功績が評価されたものである。

 

鈴木商店最後の日に・・・

鈴木商店の命運を左右する金子直吉の必死の巻き返しも叶わず、ついに運命の日・昭和2(1927)42日を迎えた。かねてから覚悟していた店主よねは、鈴木商店破綻が決まった時、泰然自若として顔色ひとつ変えなかったという。

 

ことここに至ってもお家さん・よねの金子に対する信頼は揺らぐことなく、「たとえ店はこんなになっても金子が生きていりゃ千人力じゃ」と柳田に洩らしたと伝えられている。

 

よねは、須磨の本宅から塩屋に移り、閑居の日々を送る中、明治初年に廃寺となっていた神戸の臨済宗「祥龍寺」再興の協力要請を受けた。柳田、金子に相談した結果、よね等の喜捨により昭和2(1927)年祥龍寺の再建が実現し、爾来、同寺と鈴木商店ならびに鈴木ゆかりの人々との密接な関係は今日までも続いている。

 

お家再興に異常なほどの執念を燃やす金子とは対照的に、よねの晩年は穏やかで謡曲、短歌、連珠碁など変わらぬ日常を過ごしたが、昭和13(1938)56日、86歳の生涯を閉じた。よねの葬儀に際し、金子は“店員総代”として弔辞を読み上げ師父のごとく、慈母のごとく敬愛する店主に対する哀惜を述べた。 

 

金子は、「鈴木を潰したのはわしや、このままでは死にきれない」と残りの人生を鈴木商店再興に捧げ、正に鈴木商店とは一心同体の生涯であった。後年、金子には正六位勲四等が授与された

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鈴木よねという人は、当時のアメリカのフォーブス誌の世界長者番付で男性部門の第一位がロックフェラーで、女性部門のトップを飾った人です。大正時代に、三井、三菱をしのぐ大商社、大財閥の鈴木商店のオーナーです

 

 

鈴木よね

生年 嘉永5(1852)年8月

没年 昭和13(1938)年5月  享年85歳。

 

姫路の塗師(仏壇の漆塗り)の三女として生まれる。よねは、父のすすめで嫁ぐもののまもなく離婚。その後26歳の時、神戸の砂糖商鈴木岩治郎と再婚しています。

 

金子直吉が鈴木商店に入店したのは、よねが嫁いでから9年後の明治19(1886)年、直吉21歳、よね35歳(満33歳)の時であった。主人岩治郎は、気性激しく度々、直吉を叱責したばかりか仕事も貸し金の取立てばかりで単調であったため、金子は病気を口実に郷里土佐に舞い戻ってしまった。

 

よねは、直吉の商才を見抜いており、再三呼び戻しの手紙を送って直吉の再出発を促したことから、直吉の主家に対する永い信頼関係が始まる。先代岩治郎は、洋糖引取商として独立し神戸八大貿易商の一つに数えられるまでに発展したが、独立後20年ほどの明治27(1894)年急逝してしまう。 

 

未亡人となったよねに、周囲からは、廃業を勧められるも自らが主人となって事業を継続する道を選び、金子直吉をはじめ番頭に全面的に信頼し、新たな船出に乗り出すことになった。

  

 鈴木商店の経営には、一切口出しせず、金子に経営すべてを委ねた店主よねは、一方で臨済宗祥龍寺の再興に力を尽くすほか、神戸女子商業の設立を支援するなど地元神戸に少なからず貢献したことが知られている。作家玉岡かおるの「お家さん」には、よねの波乱に満ちた人生が描かれている。

 

 

 

 

 

 

生産ほど尊いものはない」

 

 

 

金子直吉 (かねこなおきち)

生誕:慶応2(1866)年6月

没年:昭和19(1944)年2月 享年77歳

 

旧鈴木商店代表者。土佐(高知見)生まれ。明治維新の混乱で家業が破たん。以後丁稚奉公をしながら商いの基礎をまなぶ。明治19年鈴木商店に入店。初代店主没後、未亡人よねの推挙で大番頭となり、三井、三菱と並ぶ巨大企業グループへと発展させた。昭和2年の昭和金融恐慌で台湾銀行とともに破綻。主家の再起を期すが、不偶のままで77歳の生涯を閉じた。神戸製鋼所、帝人、旧日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等は元々鈴木商店の関連会社であり全て金子直吉が種を蒔いた事業である。

 

 

■財界のナポレオン

 日本は明治維新で国を開いたものの、ずっと貧乏だった。  

 鈴木商店の総帥・金子直吉は、決断力と実行力から「財界のナポレオン」と呼ばれ、資源のない日本を交易立国として羽ばたかせる原動力となりました。「生産ほど尊いものはない」が口癖で、ありとあらゆる産業を興しています。

 

 

「初夢や 太閤 秀吉 奈翁(ナポレオン)」。(白鼠 金子の俳号)

 

史上最大の起業家であった金子だが、昭和金融恐慌のただなかで鈴木商店は倒産してしまう。その一事をもって教科書的な歴史観は金子直吉を単なる「成金」のように扱っています。

金子直吉と鈴木商店は、常に世界経済と直に向き合っていました。その興亡を丹念に追うと、政治や経済が何によって動かされているかが見えてくる。金子直吉の人生にホコリをかぶせておくのはもったいない。金子の世界を相手にした「大欲」と「美学」は、内側へ内側へと萎縮しつつある21世紀の日本に強烈な刺激を与えるだろう。  鈴木商店は倒れたけれど、破産はしなかった。世紀を超えて大輪の花を咲かせている。  

 

鈴木商店の倒産の原因

 

 金子直吉いわく 

「(1918年7月にドイツが劣勢であることを後藤新平から聞かされて)退却しようと思って、私の方針を店のものに告げたところが、意外なことには彼等は私の思い通りにならぬ。少なくとも鈴木の社員は私のいうことは何でも聞いてくれるだろうと今の今まで思っていた私にはこのことは全く意外であった。今から考えて見ると鈴木はもうその時に完全に統制力を失っていたのである。

 

 大戦前、多くの学校出の秀才を集めたが、ロンドン、ニューヨークで世界財界の大立物に接触し、また彼等と角逐して、しかも一歩も負けをとらないというのだから、スッカリ自信がついてしまったのだ。 だから私のいうことなども、あまり聞いてくれなくなった。(中略)またこれも今から考えて見ると、日本の社会全般を通じて、青年達の思想―主従とか上下の関係などの思想―がそのころから大いに変わって来たこともあって力があったと思う、とにかくかくのごとく統制力の欠乏ということが、後年鈴木没落の第一の原因をなしたものと思っている」

 

鈴木商店の倒産の原因は金子直吉の、時期を見ない積極的な拡大方針ではなかったんでしょうか? 

 

 

 

昭和4(1929)年に刊行された「財界人物我観」の中で福沢桃介(福沢諭吉の女婿で明治・大正期の実業家)は、土佐出身の我が国経済界を代表する二人の人物を紹介している。一人は岩崎弥太郎であり、もう一人は金子直吉であるとし、三菱の創始者である岩崎よりも直吉を高く評価し、金子の事業は優れた人間性、スケールの大きさから他の追随を許さぬほど国益志向に徹し、我が国の基礎産業に先鞭をつけたという。そして、“我が国におけるナポレオンに比すべき英雄”(財界のナポレオン)と讃えた。また、渋沢栄一は「金子は正規の学問こそないが、道理を知るにはよほど明らかで、事業家としては天才的だ」と評している。その他、昭和421967)年に開催された神戸開港百年祭の時に当時の原口市長から顕彰状の一節では以下のように称えられた。「あなたは神戸に一大総合商社を育て上げ、今日の港都繁栄はあなたの功績によるところまことに顕著なものがあります」 

 

「無欲恬淡」直吉の人柄を表すこれ以上の表現は見当たらない。公私にわたり無欲で、直吉の念頭にあるのは「事業」のみ、私利私欲は微塵もない。終生借家住まいで、一文の私財も残さず、昭和2(1927)年、鈴木商店破綻により台湾銀行による鈴木整理にあたって、直吉のあまりに質素な生活ぶりに台湾銀行関係者は驚きと深い畏敬の念を抱いたといわれている。

 

 

また、直吉は多くの人材を育てた。北村徳太郎(鈴木商店佐世保支店長、大蔵大臣)は「金子直吉は大教育者であった。人間形成の土台をよく見て、あいつはこういう風に仕向けろというわけです。えらい教育者であった。」

  

直吉は事業にのめり込むことで妻の顔を忘れてしまうというエピソードがあるが、休日には狩猟と釣り、俳句を愛した。俳句は妻の徳の影響でもあるが、自ら俳号を「白鼠」(白鼠は主家に献身的な家僕を意味する)と称し、その時代や当時の鈴木商店の状況、自身の心境から多くの俳句を詠んでいる。代表的なものとして、「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」や先祖の武将元宅へ向けた絶唱「天正の矢叫びを啼け時鳥(ホトトギス)」など多くある

 

 

財務体質の脆弱さと戦線縮小の遅れが命取りに 

明治末期、後藤新平を介して始まった台湾銀行との二人三脚で頂点に駆け上った鈴木商店は、パートナー・台銀の絶縁宣言によりあえなく昭和の荒海に沈んだ。

 

「生産こそ最も尊い行為」という金子直吉の経営哲学から自前の機関銀行を持ちませんでした。

他財閥のように金融機関を自前で持たず、また政界への献金や工作にも無頓着で、破綻を早めた一因にもなっています

 

専ら台湾銀行の融資に依存したこと、さらに株式公開による資金調達の道も自ら閉ざしてしまった財務体質の脆弱さが鈴木のアキレス腱でした。金子直吉には鈴木家のために尽くすという信念が強くあり、稼いだ利益を資金しか拠出しない他株主に分配するという近代的な考え方を受け入れることができませんでした。 

 

戦争終結の気配から敏感な嗅覚の金子は退却指示を発するも若手社員の反対にあい、事業縮小の時機を逸してしまった。金子の不安は的中し、景気は一転して落ち込む中、業績悪化により台銀からの借入れは拡大の悪循環に陥ってしまう。後年、金子は統制力を失ったことが取り返しのつかない事態になったと悔やんだ。

 

  

事業は鉱山で金を掘るようなもの

 

事業は、鉱山で金を掘るようなものである。どこまでも堀り続けねばならない。そうすれば金が出なくても、最後には温泉ぐらいは出てくるであろう」(金子のことば)

 

旺盛な事業欲で、多くの事業を起こした鈴木商店でしたが、その最後はあっけないものでした

しかし金子がのこした事業所の多くは、オーナーをかえながらも、昭和恐慌、大東亜戦争の混乱をのりきり今も、生産をつづけ、日本に富みをもたらしています。 

現代にも通じるものづくり大国、日本。その礎は、「生産ほど尊いものはない」と指揮をふるった金子直吉の情熱と、幻の大商社「鈴木商店」に端をはっしているのは間違いありません 

 

 

 

 

 

  

 「Small, slow but steady」

(ちっぽけで、歩みも遅くとも堅実に行こう)

 

 高畑の創業した「日商」(現・日商岩井→双日)の社是

 

 

高畑誠一 

生年 明治20(1887)年

没年 昭和53(1978)年

 

愛媛県喜多郡内子町出身。生家は内子町ではかなり古い家系で、高畑誠一で14代目になる。呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て神戸商業大学

(旧制)神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業。神戸高商在学中は三井物産入社を志望していたが、尊敬する水島銕也校長の推薦ということで明治42(1909)年3月鈴木商店に入社。明治45(1912)年、当時は世界の政治経済の中心であったロンドン支店勤務となる。

 

■チャーチルに「皇帝を商人にしたような男」と恐れられた男 

大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発すると、鈴木商店の番頭金子直吉の指示で投機的な買付を指揮する。また本国を介さない三国間貿易を日本人として初めて手がけ、鈴木商店のビジネス拡大に大きく貢献した。さらに大戦中には、連合国を相手に大活躍し、連合国向け食糧注文を受け、船もろとも売り渡す「一船売り」の離れ業をやってのけ、「高畑は、カイゼルを商売人にしたような人間だ」と評判になった。合成アンモニア製造特許を取得してクロード窒素工業(現・下関三井化学)の設立、ケニアのマガディソーダの販売権を獲得太陽曹達(現・太陽鉱工)の設立に繋げた。

 

昭和2(1927)年に鈴木商店の経営が破綻すると、昭和3(1928)年、高畑は永井幸太郎とともに、鈴木商店の子会社だった日本商業を日商と改め再出発を図り、「Small, slow but steady」(ちっぽけで、歩みも遅くとも堅実に行こう)を社是に同社を総合商社に育て上げる。

 

昭和20(1945)年には日商の代表取締役会長に就任した(~1963年)。昭和32(1957)年には日本火災海上保険(現・日本興亜損害保険)の社長に就任している。

 

■双日とは? 

社名は、母体がニチメン(日綿實業)、日商岩井という、ともに「日」を頭文字とする商社2社であったことに由来する(詳細は沿革を参照)。三菱東京UFJ銀行(旧三和銀行→旧UFJ銀行)を主力取引銀行とするため、三和グループに属する。但し、前身企業の日商岩井は三和グループの企業が加盟する三水会・みどり会と第一勧銀グループに重複加盟していた。現在、大輪会にも所属していて、りそな銀行とも親密である。

 

かつては十大商社(三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松、安宅産業)の一角を占めた。

ロゴマークは、双日の双の漢字を模している。大手商社の中でも非資源事業に注力している点が特徴的で、過去10年間で6,500億円以上の投資の結果、現在収益の74%を占める

 

売上高:4兆0146億円(2011年3月期)  連結

社員数:16,456名  (2011年3月期

 

■鈴木商店の破たんの理由を語る

 

高畑による鈴木商店倒産を語った文章がのこっています。

その内容は、破たんの原因としてただ一人、金子の失敗をついたものです。

 

高畑は合理的な経営者で鳴らした。おそらくその目を通して、反面教師である“金子経営”を分析したかったのではないでしょうか?

金子自身は、倒産の原因の1つとして「若い者がいうことを聞かぬ」と、暗に高畑を批判しています。

Small, slow but steady」(ちっぽけで、歩みも遅くとも堅実に行こう)とは、 高畑の創業した「日商」の社是です。高畑は破たんの原因を冷静に分析し自らの肝に銘じて日商を大会社に育てあげたのではないでしょうか?

 

高畑による破たんの分析

一、金子がその大積極策が図に当り、休戦により大失敗したのは何人の罪に帰し得るか。

自ら好んで招いたもので、部下を責めるのは無理である。自分は天下唯一の指揮者で、部下はほとんどデクの棒で、それが自分の命令通り動かなくなったので失敗したとは99%ウソである。

一、莫大な借金の利子を融通手形でやりくりしていたが、それが損を加重し借金を増大させた大半の理由ではないか。

一、 金子は強気一点張りで、戦争終結にあたって時機を失した。

例を船舶にとっても、ロンドンから終戦の近いことを警告して注意しているのに、売り逃げのチャンスが度々あったのを、金子、松方の強気から失してしまった。この始末が国際汽船の設立となって損を重ねたので、大欲は無欲に似たりと評したが、後の祭りであった。

一、 金子はいかなる事業でも見捨てることは絶対しない人、トコトンまで育て上げんとする人である。

赤字でもこれを育て上げて儲かるようにすることに興味を持ち、見切りしない一種のクセがあったと思われる。

 

小生はロンドンにいて金子に注意した最初の人であったが、不幸にも金子が聞き入れないのか、聞くことが出来ない状態にあったのかは不明である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  ■著者 幡谷哲太郎(はたやてつたろう)

経歴 茨城県水戸市生まれ。日本青年会議所「徳溢れる心醸成会議」に所属中に家訓づくりを始める。 家訓づくりを広める活動を「家訓ニスト」と命名し、全国160カ所以上、7,000人の受講者に対し、家訓づくりのセミナーを開催。セミナー後に、「家訓を作り、家族での唱和を実践した」という家庭の100%が、「家族に変化があった」と回答するなど、大きな変化を与えている。 セミナー開催数、受講者数、WEBアクセス数、いずれも日本一の実績(協会調べ)を誇り、自他ともに認める家訓づくりのスペシャリスト。現在は、明るい豊かな社会の実現のため、家訓ニスト協会(仮)を立ち上げ、ノーベル平和賞受賞をめざし活動を広げている。