美空ひばりの格言

 

 

 

 

 

 

「きょうの我にあすは勝つ

(美空ひばりが好んで使った格言)

 

 

 

美空 ひばり(みそら ひばり)

生誕:1937年(昭和12年)5月29日

死没:1989年(平成元年)6月24日

 

日本の歌手、女優。横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。

 

12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤和枝(かとうかずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長153cm

 

 

■伝説のステージ「東京ドーム」公演

 

1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養、2月中には帰国。同年4月に開催予定の東京ドーム公演に向けて、下見や衣装、当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復する事はなく、体調が思わしくないまま公演本番の日を迎える。

 

1988年4月11日、東京ドームのこけら落しとなる「不死鳥コンサート」を実施。このコンサートのようすは、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われる。「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は森英恵がデザインしたものである。

 

ひばり自身フィナーレの「人生一路」を歌い終えた際、思い通りに歌えなかったのか首を傾げたという。この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せて、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。

 

公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた親友の浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態では無いにも拘らず、沢山のひばりファンに手を振り続けながら全快をアピール。そのゴール地点には息子・和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばり自身にとっては命を削って臨んだ、伝説のステージとなった。

 

東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。

戦後、焼野原となった日本。多くの国民が意気消沈するなか「美空ひばり」という天才少女は、「希望」と「歌声」を届けました。そして、昭和という時代が終わる平成元年(昭和64年)、おなじくひばりも静かに息をひきとります。その生涯そのものが、「昭和」という時代を象徴するものだとその死を悼む声がいまなお鳴り響いています。

 

■もう1つの昭和史

 

昭和という時代を象徴する歌手・美空ひばり。しかし紅白歌合戦の出演はほとんどなされませんでした。理由は黒い交際の疑惑。今でこそ、芸能人と暴力団のかかわりはタブー視されているが、戦後のある時期まで両者は分かち難いほど近い関係だった。昭和の歌姫と全国最大の暴力団組長であった山口組の田岡組長との交流秘話を紹介します。

 

芸能興行とヤクザの関係は、歴史的にも深いものがあります。それどころか興行は、そもそもヤクザの伝統的な稼業でした。山口組にも「山口組興行部」と呼ばれる組織が昔からあり、主に神戸での浪曲興行などを取り仕切っていたそうです。

 

山口組と美空ひばりの結びつきはさらに強くなる出来事がありました。それは大スターという存在ゆえに起きてしまった事故です。昭和32年(1957年)1月13日に美空ひばりは、顔に塩酸をかけられるという事故にあいました。浅草国際劇場での出来事です。塩酸を顔にかけられて、美空ひばりは病院へ緊急搬送されて入院しましたが、塩酸を美空ひばりにかけたのは猛烈なひばりファンの少女でした。

 

 

塩酸をかけられた美空ひばりは、どんなにか怖い思いをしたことでしょう。この事件をきっかけにして、ますますの庇護を山口組三代目の田岡一雄に求めたとしても、致し方のないことかもしれません。「神戸のおじさん」と美空ひばりが慕うのも当時の興行状況を加味すれば、当たり前のことです。

 

この時代に地方巡業する時には、山口組などの暴力団の庇護がなければ地方巡業を行うことはとても難しい状況でした。庇護がない状態で興行をすると、まちがいなく地元の暴力団から嫌がらせを受けます。そして嫌がらせがひどい場合には、公演することすらもできなくなってしまうほど興行には地元の暴力団ががっちりとおさえていました。

 

その当時に、地方巡業に行く時にはかならずとの土地を仕切っている暴力団のところは挨拶にいくのが、興行するうえので慣わしでした。暴力団にとって興行を手がけることは、とても大事な収入源だったからです。もし土地を仕切っている暴力団のところに挨拶に行かなかったとすると、・・・とんでもない辞退になってしまいます。

 

関西を牛耳っていたのは、山口組だったので東京から関西へ巡業へ行く時に山口組へ挨拶に行ったのも、その当時の慣習を思えば当然のことです。美空ひばりが初めて山口組三代目の田岡一雄と出会ったのは、昭和23年(1948年)の暮れのことでした。三代目田岡組長も、美空ひばりの才能にほれ込んでとっても可愛がったようです。そして塩酸を顔にかけられるという事故があれば、ますます「神戸のおじさん」を頼ったとしても仕方ないことだといえるでしょう。

 

美空ひばりは社会情勢が変化していくなかでも山口組との関係をかくさず、また決別もしていません。当然、紅白歌合戦だけでなく多くのテレビに出演できない事態をまねきます。ひばりほどビックネームであれば独立することも、また決別をすることも簡単であったことでしょう、しかしそうしなかったことに、昭和をいきた女王の意志を感じます。

 

反社会勢力といわれる暴力団は世のやっかいものです。しかし、その世界でしか生きられない人もおり、またそういった勢力に助けられてきたという「恩」もあったのではないでしょうか?

死ぬまで「歌」と、そしてステージ上のパフォーマンスに生涯をかけた美空ひばり。その生き様に、誰もが懸命に生きていた「昭和」という時代を感じます。