中内功と落日のダイエー

 

 

 

 

「ダイエーグループの誓い」 

私たちダイエーグループの従業員は次のように誓います。

 

ひとつ この仕事を通じて、お客さま全てのより豊かな暮らしに奉仕致します 

ひとつ 真心を込めて、よい品をどんどん安く売る事を働き甲斐と致します 

ひとつ 人を愛し、店を愛して、日々美しい努力を続けます”

 

 

中内 功(なかうち いさお)

生誕:1922年〈大正11年〉8月2日 

死没:2005年〈平成17年〉9月19日

 

日本の実業家。ダイエーを創業し、会長・社長・グループCEOを務めるも、その後経営危機に見舞われ、時代の寵児は、一転寂しい余生をすごすこととなった。

 

 戦後の日本におけるスーパーマーケット(GMS)の黎明期から立ち上げに関わり、近年の消費者主体型の流通システムの構築を確立させダイエーを中心とした商業施設の普及拡大、日本の流通革命の旗手として大きく貢献した

 

ダイエーと言えば、創業の地でもあった阪神地区での大震災発生時に、いち早く「ローソンを含め、便乗値上げは絶対しない」と宣言し、震災時の便乗値上げを回避した企業でした。しかし、稼ぎ頭の店舗の多くが被災し、また資金難もあいなって、設備投資も実現できず、この震災がダイエーグループの息の根をとめることとなったのでした

企業の社会的責任が重要視されるなか、震災の対応のなか、ゼロから出発した創業の地で、ふたたびゼロに戻ったことを誰が責めることができるでしょうか? ダイエーを冠する店舗がなくなろうとする今、中内功という一代の英雄が遺した足跡は、ゼロではなく、「流通革命」という形で、多くの消費者の生活を支えています。

 

人間とは、本来弱いものだ。

だが、信念とか使命感で行動するときは、

なぜか果てしなく強くなる。

 by. 中内功氏[ダイエー創業者]

 

 

■原点となった従軍体験 

1943年、1月応召。広島にて訓練の後、幹部生として扱われる仲間を尻目に満州国とソビエトの国境綏南に駐屯、さらに1944年7月、フィリピンの混成五八旅団に所属。ルソン島リンガエン湾の守備に就く。彼の部隊は、玉砕命令が下された直後に、マレーの虎と称された名将・山下奉文によるゲリラ戦の命令が下されたことで辛うじて生き延びる。

 

功が一兵卒として召集された理由は、神戸高商時代の配属将校に嫌われ、「兵適」という最低の評価しか下されなかったからとされている。また、ゲリラ戦では、米軍の基地を襲撃した時、ガソリン発動機でアイスクリームを作っていたことに衝撃を受けたと述べている。]このように彼にとって戦争体験は、1945年8月投降後、マニラの捕虜収容所を経て11月に奇跡的に神戸の生家に生還するまで、後の人生観にも影響を与えた。

 

「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」(中内談)

流通革命と称し、猛烈な販路拡大を実現させた背景には、アメリカへの憧れと、壮絶な従軍体験がありました。

 

■落日のダイエー

株式会社ダイエーは、スーパーマーケットを展開している企業。元は全国チェーンの一大企業であったが、業績不振により、イオンによる株式公開買付けを経て、2015年1月1日より、イオングループの一員(完全子会社)となる。

 

「流通革命」を旗印に、バブル経済の最盛期には売上高3兆円超(95年2月期)、株価が1株3000円台に乗せた。

 

1957年(昭和32年)に兵庫県神戸市で創業。20世紀の日本の流通・小売業界を発展させた代表的な企業としても知られ、ショッピングセンターやゼネラルマーチャンダイズストアを日本で初めて導入した。創業者中内功の生まれ育った阪神地区を中心に商圏を築き、1960年代後半から1970年代にかけて大きく発展し、全国展開を進めた。1980年代には、全国各地の地場スーパーマーケットと提携し傘下に納める形でグループを形成していった。

 

小売業に関しては、創業以来一貫して「価格破壊」をスローガンとする拡張路線を進めてきた。価格破壊とともに質への需要などニーズが多様化すると、「ダイエー」のほかに「トポス」「ビッグ・エー」「Dマート」「グルメシティ」「Kou's」「プランタン」など業態ブランドを拡大化し多様化する消費者ニーズに応えながらも流通革命により価格破壊を志向する「よい品をどんどん安く (GOOD QUALITY BEST PRICE)」「お客様のために (For theCustomers)」の方針で事業が進められてきた

 

小売業以外にもホテル、大学、プロ野球、出版、金融など事業分野の多角化に乗り出し、特に、創業者の故郷である神戸市内と所属球団福岡ダイエーホークスの本拠地に定めた福岡市内で、グループ子会社とともに事業を数多く手がけた。

 

だが、バブル崩壊とともに、失われた20年が始まる1990年代後半から業績悪化が表面化。大規模な出店攻勢をした後の不採算店の閉鎖を行ったこともあり、テナントとして入っていたビルが空き店舗になったままで、同じくテナントとして入っている別の店舗の売り上げが急激に落ちたり、商店街の集客力がなくなったりと、最強のビジネスモデルが、負の連鎖をまねくこととなりました。

 

2013年にはイオンが当社株の公開買付け(TOB)を行い、ダイエーを子会社化することを発表。事実上の筆頭株主であった丸紅は、この買付けに対し、約24%のダイエー株を応募することでイオンと合意。ダイエーも子会社化に同意し、イオンと丸紅の間で資本提携契約を解消、2015年に完全子会社化が成立した。

 

経営不振後は「バブルの負の遺産の象徴」として語られることもあるが、高度経済成長下の時代においては、新しい業態を開発し、流通業界を牽引する役割を果たしていた。また、1975年6月に出版された城山三郎の小説「価格破壊」(角川文庫)のモデルとされている

 

 

 ■なぜダイエーは危機をむかえたのか?

 

人事の矛盾

中内は非常に自己主張の強い人物で、反対意見を持つ人たちを遠ざける傾向があったといわれています。会社という組織で反対意見が出ないのは危険です。イエスマンばかり集まって独裁体制を築いてしまうと「会社が間違った方向に進んでも止められなくなる」という爆弾を抱くことになるのです。 

 

イトーヨーカ堂のオーナー、伊藤雅俊氏もこの時期、副社長の鈴木敏文氏を中心とする業務改革に取り組んでいた。成果が上がると伊藤氏は鈴木氏にバトンタッチし、伊藤氏は経営の第一線から退いた。さらに後継者とみられていた長男も退社し、その後、イトーヨーカ堂を擁するセブン&アイ・ホールディングスは日本最大の流通グループに成長しています。

 

「どうかもう一度、オレを男にしてくれ。みんなでオレを助けてくれ」。中内氏は1983年2月期の連結決算で初めて65億円の赤字に転落することが明らかになったとき、東京・浜松町オフィスの14階会議室に集めた幹部社員の前で、床に頭をこすりつけて号泣した。ここから、河島博・副社長を総指揮官とする「V革作戦」が始まる。ダイエーを手術するため、中内氏は当時日本楽器製造(現ヤマハ)社長だった河島氏をスカウトしてきた。

 

V革ではまず、百貨店事業の撤退に着手した。「過去の『ワンマン中内』を知る人には信じられないだろうが、私はこのとき、計画の立案から実行までのすべてを若手に任せた。 

 

在庫管理を徹底して3年後の86年2月期決算では連結利益を黒字転換させた。V革が成功すると中内氏は第一線に復帰し、ダイエーは元の“中内商店”に戻った。河島氏は、中内氏が再建を引き受けたミシン製造会社リッカーの社長に飛ばされた。

 

そして中内氏がやったことは、長男の潤氏を31歳の若さでダイエー本体の専務に抜擢することだった。「自らの復権と長男・潤を社長にするためのレールづくりに腐心した。これがダイエーが解体される元凶となった」と元役員は証言しています

 

 

ビジネスモデルの崩壊

ダイエーが出店する際にスーパーで必要とする土地以上(基本的に2倍)の面積を買い込む。そして出店する。ダイエーのおかげでにぎやかになるから、土地が値上がりする。

 そうなれば後は簡単。必要ない土地を売却して売却益を得るか、値上がりした土地を担保にして銀行からお金を借りて、また新しい店を作る土地を必要以上に買い込むだけだ。それを延々と繰り返すのがダイエーのビジネスモデルです。

 

 この方法は一時期ジャスコ(イオン)も真似ています。でもイオンは僻地商法と言うちょっと違うシステムだったから助かったのだが、ダイエーは土地値上がり手法に全て賭け、裏目にでます。

 

 肝心のスーパー業は利益が赤字でなければOKと言う程度。売上高利益率の異常な低さなど、問題にはならなかったのである。そしてこれが後々止めを刺すことになりました。バブル崩壊で土地値上がりどころか土地値下がりとなってしまえば、土地担保評価減、新規出店難、低収益率の店舗群だけが残ることになる。3重苦、4重苦といった負の連鎖がとめられなくなり、日本最大の流通グループはあっけなく瓦解することとなったのです。

 

 

銀行にやられた

 二代目の坊ちゃんが、その甘さゆえに銀行などにひっかけられたのが破綻の理由と指摘する声があります。

 そもそも、資産を流動性の高い現金・預貯金でなく、固定性の高い不動産にしていたのが銀行に狙われた理由です。 「再建」と称して、銀行が経営に乗り出してきたら、「高くても安くても悪かろう」になります。彼らは商人ではなく、金貸しですから。利益が全てです。しかも、彼らの目当ては、ダイエーという経営母体でなく、あくまでその資産です。銀行はダイエーをつぶすために入ってき、換金をおえたらサッサと引き上げていきました。残ったのはぺんぺん草もはえない古ぼけた店舗だけでした。

 

 

消費者が冷たい

消費者のために戦ってきたのが中内という男の歴史です。昭和40年代、メーカーによる価格統制は厳しく、安売りは許さないシステムができあがっていました。中内はこれに異をとなえ、有名な松下電器との値引き販売をめぐっての闘いをくりひろげます。結果、中内のかかげる「流通革命」は実現し、マーケットは、メーカーから流通(消費者)が、価格をきめる大転換がおこります。今、国道ぞいに並ぶロードサイド店の多くは、中内の流通革命のおかげで並ぶ店です。また、ダイエーの成功と失敗を教訓に、イオングループは、ダイエーを飲み込む形で年商を増やし続けています。

 

晩年の中内功は、自宅をはじめ全ての財産を奪われ、自らが建てた大学の理事としての収入数十万で生活していたと言われています

借りた金は返すもの・・・ しかし、銀行自体が資金難に陥った場合、政府の援助がはいり、また経営者も退職金をもらって、辞職するぐらいで収まっています。

「流通革命」と称し、社会にイノベーションをおこした中内のあまりに惨めな老後に、社会の厳しさと、またイノベータ―に対する尊敬の念の欠如があるのではないでしょうか?

 

消費者のために戦った中内も、移り気な消費者にまたそっぽをむかれ、ダイエーは倒産、そして廃業においこまれていきました。

中国のコトワザで、「井戸を掘った人を忘れるな」との格言があります。「人の幸せとは、まず、物質的な豊かさを満たすことです」と語った中内の言葉にウソはなく、ダイエーという会社の成長が、人々の生活を幸せにする、そんな蜜月の時代があったのです。

 

われわれ消費者は、大震災が来る度に、「便乗値上げは絶対しない」なんて言ってくれる企業があったことを、そして、中内のおかげで、良い商品をより安く買えることに感謝しなくてはいけません