ケネディー家の家訓

 

 

 

 

 "Don't expect life to be fair!"「ライフイズノットフェアー」

(人生に公平であることを期待するな)

ケネディー家の家訓

 

ケネディ家は、アメリカ合衆国における著名な政治家や実業家を輩出しているアイルランド系の名門一族である。王室のないアメリカにおいて、ケネディ家は「ロイヤル・ファミリー」にも例えられることがある

 

ケネディ家の祖にあたるのは、アイルランドの農民パトリック・ケネディ(1823年 - 1858年)である。アイルランドにおけるカトリック教徒への迫害や飢饉を背景として、1849年にパトリックは家族とともにアメリカ合衆国ボストンに移民として渡った。その子として生まれたパトリック・J・ケネディ(1858年 - 1929年)は、港湾労働者として身を起こし、やがて事業に成功してマサチューセッツ州下院・上院議員となった。その子のジョセフ・P・ケネディ(1888年 - 1969年)は投資家として資産を築き、証券取引委員会の初代委員長および外交官(駐英大使)として活躍した。

 

ジョセフ・P・ケネディの子(第三世代)に、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ(1917年 - 1963年)、司法長官・合衆国上院議員ロバート・ケネディ(1925年 - 1968年)、上院議員エドワード・ケネディ(1932年 - 2009年)らが輩出した。ジョン・F・ケネディの娘のキャロライン・ケネディは駐日大使を務める。

 

■ケネディー家の呪い

 

ケネディ家に次々と起こる不幸を、ある人々は「呪い」と呼ぶ。一族の数人は普通の死に方をしておらず、そのうち最も有名なのはジョンとロバートで、二人はそれぞれ1963年と1968年に銃で暗殺された。ジョンJrは1999年に妻と義姉と共に飛行機事故で死亡しています 

 

「人生と言うのは公平なものだと期待するな!」という家訓には、アイルランド移民として苦労したケネディー家の人々の悲哀がこめられています。移民として辛酸をなめた初代にはじまり、大統領の父親は20年代末の株の大暴落で膨大な資産を作ったとも言われています。マフィア等も付き合い俗に言う危ない橋も渡って来たともいわれています。

 

中国の古典によれば、人生は「陰と陽」で出来ています。

アメリカのロイヤルファミリーとも称されるケネディー家には、だれよりもまぶしい太陽と、だれよりも悲惨な運命を受け入れてきた歴史があるのかもしれません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(英語: John FitzgeraldKennedy)

生誕:1917年5月29日

死没: 1963年11月22日

 

アメリカ合衆国の政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。1962年にアメリカ合衆国通商代表部を創設。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された

 

 

■ケネディーの就任演説と一人の日本人

 

And so my fellow Americans,Ask not what your country can do foryou. 

Ask what you can do for your country.

 

それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。

国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。

 

あるとき、ジョン・F・ケネディ大統領に記者団が「尊敬している政治家は?」と質問した。 

すると、「Yozan Uesugi」と答えた

 

 「Yozan Uesugi??」その場にいるどの記者も、誰のことか分からず、日本人記者すらも分からなかった。

 

  

のちに、米沢藩の上杉鷹山公のことだとわかりました。このやりとりは、長い間、都市伝説化し真偽のほども分からず否定派が大数を占めるなか、先ごろ駐日大使に就任したケネディの愛娘キャロライン大使は、次のようなメッセージをだしました 

 

「父ジョン・F・ケネディ元大統領が、江戸時代の米沢藩の名君とされる上杉鷹山を尊敬し、「あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい」と述べた就任演説に代表される考え方に影響を与えたっと・・・ 

 

ケネディ大統領が上杉鷹山を尊敬しているだけでなく、あまりに有名な就任演説までも鷹山の影響があったとの告白にただただ驚くばかりです。日本人でも知らない人が多い上杉鷹山ですが、その評価はこれから益々高まることでしょう

 

 ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節です。 

「国があなたに何をしてくれるのでなく、あなたが国に何ができるのか?」 

この気高いメッセージは、鷹山が示した「自助・互助」の精神そのものです。

 

※上杉鷹山とは

江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている

 

上杉謙信が事実上の始祖にあたる上杉家は、関が原の合戦で西軍に味方したため、家康により会津120万石から米沢30万石に減封。さらに跡目争いもあいなり、江戸時代中期には15万石に減らされていました。収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はひっ迫。そこで収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、かつての13万人領民が、鷹山の代には10万人程度に減少していたといわれています。

 

名門上杉家の立て直しのため、鷹山は「自助」の精神をかかげました。米作以外の殖産興業を積極的に進め藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあるなか、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせました

 

やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきます。家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚え自助の精神が隅々までひろがっていったのです。この精神は天明の大飢饉の際に大いに役立ち、東北の諸藩で多くの餓死者をだすなか米沢藩は、備蓄米を放出しまた、藩主自ら、倹約につとめ危機をだっしています。

こうして鷹山の率いる上杉家は、家名をもりたて、江戸時代を代表する名藩としてその名を刻みました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

■ケネディーと執務室のおかれた1個のヤシの実

 

 東京で、安倍晋三首相やキャロライン・ケネディ駐日米国大使も列席して「JFK-その生涯と遺産」展の開会式が開かれた際、そこには金色の着物を着て車椅子に座り、目を潤ませてスピーチに聞き入る女性の姿がありました。

 

旧日本海軍の駆逐艦「天霧(あまぎり)」の艦長だった故・花見弘平氏の妻、和子さんです。 太平洋戦争中の1943年8月、海軍中尉だったジョン・F・ケネディは魚雷艇PT-109の艇長としてソロモン諸島近海を航行中、天霧に衝突される。部下2人を失い、自身も海に投げ出されて、生き残った部下たちとソロモン諸島の島に漂着し救助された。

 

そのような経験をしたにもかかわらず、ケネディは戦後、花見氏と手紙のやりとりを通じて親交を結んだのだ。 開会式のテープカットの後、ケネディ大使は和子さんの手を握り、「大使に就任以来、お会いしたいと願っていました」と感慨深い様子で語りかけていました

 

「昨日の敵は今日の友」という言葉があります。ケネディの自分自身の命を削った花見中尉に対しての寛容さは、選挙むけのポーズと指摘する声もあります。しかし、戦地でしか分からない本当の友情があることを家訓二ストは信じます

 

政治家ジョン・F・ケネディーの原点に、この従軍体験があり、その原点を忘れないために、大統領の執務室には南洋の小島で手に入れた1個ヤシの実を飾っていたそうです

 

 

(参照:ねずさんのひとりごと )

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-970.html

 

 

執務室におかれた1個のヤシの実

ケネディが大統領である間、ずっとホワイトハウス執務室に椰子の実が置かれていました。ケネディは、大東亜戦争に従軍し、中尉として魚雷艇PT-109の艦長をしていた際の思い出の品です。

 

昭和18(1943)年8月2日のことです。

 

ソロモン諸島のニュージョージア島の西を哨戒していたケネディは、日本のの駆逐艦「天霧」と、遭遇し衝突します。

巨大な駆逐艦と、小型の魚雷艇の衝突です。いってみれば大型ダンプと、原チャリがぶつかったようなものです。

 

衝突により魚雷艇は、真っ二つになり、大破炎上し、あっという間に沈没します。

 あまりの大爆発に、アメリカ軍は、ケネディたちPT-109魚雷艇乗組員全員の追悼式を行うほどでした 

 

ところが大統領にまでなる人物というのは、ケネディは、負傷者を命綱で結びつけ、その綱を咥えて全員を励ましながら、ほぼ5時聞かけて約5キロを泳ぎ、近くの小島にたどり着いたのでした

  

島で椰子の実を食べながら5日目、友軍の救助を得るためには、もっと基地に近づかなければならないと、さらに別の島まで泳いで渡ったケネディの前に、ひとりの島の原住民が現れます。

 

そこでケネディは、落ちていた椰子の殻にナイフで、

「11名生存、場所はこの原住民が知っている、ケネディ」と刻んで、原住民に手真似で頼んだのでした

 

原住民は、それを理解したのか、カヌーで去って行きます。

こうしてケネディとその一行は、全員、無事に救助されます。艇が沈んで、7日目のことだったそうです。

 

ケネディは、自分も衝突の瞬間にしたたかに腰を打ちつけ、大怪我を負っていたにも関わらず、部下を見捨てることなく、痛みを抱えながら、部下を島に落ち着け、自身は島から島への渡って、救助を得るための努力をしました。

 

彼の勇敢な行動は、名誉負傷章、海軍メダルおよび海兵隊メダルの受章となります。 

冒頭に書いた、椰子の実は、このときの椰子の実です。

 

その椰子の実は、ケネディが暗殺されるその日まで、ホワイトハウスの彼の執務室に置かれていたそうです。

 

昨日の敵は今日の友

昭和26年秋、下院議員として来日したケネディは、出迎えの国連協会の細野軍治氏に、「私の艇を沈めた駆逐艦長に、ぜひ会いたい」と申し出ます。このとき花見弘平艦長は、大東亜戦争を生き延び、福島県に住んでいました。

 

残念ながら、このときの二人の再会は実現していません。

しかし、その後、二人は、互いに連絡を取り合うようになり、その交誼はケネディが亡くなるその日まで続きます。

 

ケネディは、花見氏に「昨日の敵は今日の友」と語ったそうです。

ケネディにとって、このときの体験は、単に、自分の努力というだけでなく、「天霧」の果敢な決断を知ことによって、自身の負けない心、くじけない心、あきらめない心だけでなく、いざというときの花見艦長の果敢な決断が、彼の政治家としての姿勢を形作ったといわれています。

 

どんな人でも、偉人でも、最初からすごい人というのは、いません。

いろいろな経験や失敗、負け戦、敵の示した決断等を経験して、人は成長していく。

 

「歴史は学ぶためにある」と思っています。

後年、その場にいあわせもしない安全な場所にいる者が、ああでもない、こうでもないと批判するために歴史があるのではないと思う。

 

だから、歴史は評価するためのものではなく、学ぶためのものと思っています。

 

戦争反対とか嫌だとか、そんなものは誰だって思う。軍人さんだって戦争には反対です。

たいせつなことは、嫌だとか反対だとか、まるで経文を唱えるように言い募ることではなく、歴史に虚心に向かい、そこから学び、私たちが未来を築くこと。

 

戦後の教育に、もっとも欠けているのが、この「学ぶ」という姿勢の欠落なのではないでしょうか